オヤジのひとり言

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2011年07月17日 | オヤジのひとり言
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1ヶ月にも及ぶ祇園祭りですが・・
ここでちょっと整理しておきますね
日付順です。


祇園祭り豆知識 その①

7月1日 吉符入り
吉符入りとは神事始めで、山鉾の各町内会は収蔵庫を開いて、
今年の祭りに関する様々な打ち合わせを行い、
1ヶ月間の無事を祈る行事です。

2日 くじ取り式
 山鉾巡行の順番は、くじ取り式で決めますが、
先頭の長刀鉾以下、先の祭りの函谷鉾、放下鉾、岩戸山、船鉾、
後の祭りの北観音山、橋弁慶山、しんがりの南観音山の8基の山鉾は、
古例により順番が決まっています。
くじを引かないことから、くじ取らずという。
この式は、江戸期には、六角堂で行われていたが、
今では、京都市役所会議場で行われています。

7月10日 お迎え提灯
お迎えちょうちんは、神輿洗いの神輿を迎えるために、
各氏子町内を提灯を立てて進むもので、
江戸時代中期に始まったもので、
夕刻5時ごろから祇園萬燈会の主催で行われます。

神輿洗い
神輿洗いは、
17日の神幸祭に渡御する3基の神輿のなかで、
中御座の神輿を、松明で先導しながら、
四条大橋まで運ぶもので、
この松明は、神輿の通る道を清めるためのもので、
四条大橋で神職が神輿に鴨川の水を降りかけて清めるものです。
この水に掛かることで無病息災になるといわれています。

7月10日から13日・鉾建て
 ご存知鉾建てでは、釘を一切使わず
「雄蝶」・「雌蝶」・「えびす巻き」などと呼ばれる
伝統の縄締め技法で鉾を組み立てていく。
鉾が建つと引き初めが行われ、これは老若男女が参加できますよ。

山町でも、14日頃から山建てが始まります。

13日 稚児社参
 稚児社参は鉾一番の長刀鉾の稚児が八坂神社に参って、
位をもらう神事で、以降、山鉾巡行まで身を慎み、
巡行時には長刀鉾の正面に乗り、注連縄を切る神事を行う。

15日 斎竹建て(いみたけだて)
 15日の早朝に四条麩屋町角に、斎竹(いみたけ)=葉っぱの付いた青竹を建てる。
これは山鉾巡行の際、長刀鉾の稚児が太刀で、
この斎竹に張られた注連縄を切ることで巡行がスタートします。

 16日 宵山
山鉾巡行の前夜で、各山鉾には灯りが灯り、
祇園囃子が流れる中、鉾や山に乗ることができます。
またこの日だけのお守りや縁起物なども売られている。
室町通りや新町通りでは、献灯の高張提灯を建て、
幔幕を張った家々では、代々に伝わる屏風などを見せるため、
屏風祭りとも言われ、祇園祭りのまた違った楽しみが味わえます。

 夕方から夜にかけて各山鉾では駒形提灯を点け、
囃子方は祇園囃子を奏でる。

また翌日の山鉾巡行の好天を祈願して、日和神楽が八坂神社へ向かいます。

17日 山鉾巡行
 午前9時、四条烏丸に勢ぞろいした山鉾は
「エンヤラヤァ~」の掛け声を合図に動き出す。
四条堺町でくじ改め、麩屋町では注連縄切りが行われる。
四条通りでの巡行は、お渡りと言ってゆっくりとしたお囃子で進み、
四条寺町のお旅所で八坂神社を拝礼後は戻り囃子といい、テンポが速くなる。
また四条河原町と河原町御池などの辻では、方向転換する辻回しず行われます。
御池通りを西進した山鉾は新町通り辺りで解散し、それぞれの町へ帰っていきます。


●・●・▲・▲・●・▲▲・こんこん チキチン・こんちきちん

2011年07月17日 | オヤジのひとり言
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京は祇園祭りの山鉾巡行・

今年も好天に恵まれ・


台風の影響で風の悪戯もありましたが・・


山鉾の巡行は祇園祭りのハイライトですが・実は?



ここで祇園祭りについておさらいを・チョット・



そもそも祇園祭りは、古くは祇園御霊会と言い、

略して祇園会と呼ばれていた八坂神社の祭礼でした。


7月15日の宵宵山から17日の山鉾巡行までが大きく取り上げられるが、

実は1ヶ月にも及ぶ様々な行事や祭儀をまとめて祇園祭りと呼んでいます。


ご存知のように東京の神田祭、大阪の天神祭りと合わせて日本三大祭の一つとされているとともに、

昭和54年(1979)には、国の重要無形文化財に指定されています。



そもそも・・祭りの起こりは??


平安時代の貞観11年(869)京の都を中心に全国的に疫病が流行した。

これは午頭(ごず)天王の祟りであると言う事で、

祇園社司卜部日良麻呂が勅を奉じて、

6月7日、当時の国の数66ヶ国に因んで鉾66本を立て

14日には都の男児や近隣の農民が神輿を担いで神泉苑に出向き、

疫病退散の神事を行ったことが始まりとされています。


牛頭天王は、わが国の荒ぶる神スサノオノミコトと習合し、

八坂神社の祭神として祀られるようになった。



当初の祇園会は、

疫病の流行の時だけに行われると言う不定期なものでしたが、

天禄元年(970)より、毎年行われるようになりました。

保元・平治の乱や応仁の乱や文明の乱の時などの中断はりましたが・・


つぎに・
山の起源については、

長保元年(999)无骨(むこつ)という田楽法師が

大嘗祭の標山(天王即位の儀式に用いられた飾り)のような山を造って

社頭に奉じたことが始まりと言われている。


また鉾も、元々は手で捧げるようなものから徐々に台に乗せるようになり、

南北朝時代には鉾車が出て、室町時代には現在の形態に近いものになったそうです。


応仁の乱や文明の乱で一時中断した祇園会も

明応5年(1496)ころから再興の気運が芽生え、

明応9年(1500)には京の町衆の力で

先祭りとして26基、後祭り10基の山鉾が巡行して復興を遂げた。とあります。


安土桃山時代から江戸時代にかけての隆盛は、

「洛中洛外図」などで、当時の様子を知ることができるが、

寄町制度という鉾町周辺の町々が、特定の山鉾の寄町となって、

山鉾の経費を援助する制度も整い、明治維新まで続きました。



明治以降は昭和18年(1943)から4年間、第二次世界大戦の影響で、

山鉾の巡行は中止になったが、昭和22年(1947)には復活しました。


その後は巡行のコースも・

先祭り戻りコースを松原通りから御池通りに、

北進コースを寺町通りから河原町通りに変更されて、


昭和41年(1966)から17日の先祭りと24日の後祭りを統一して17日に巡行することになり、

今では32基の山鉾が17日の日に一斉に巡行する今のスタイルになっています。



続きは次回に・・じゃっ・・bye2

祇園祭り大好き・お祭りオタクのオヤジ 



京都御所 と 老中松平定信

2011年07月17日 | オヤジのひとり言
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千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史 その壱百弐


京都御所復元の裏には 老中松平定信

(時代劇にもよく出てきますねぇ~)の功績があります。


内裏の研究者、裏松固禅 を登用し平安京当時の形を復元させた?

室町時代から江戸時代にかけての内裏は、

当時の 寝殿 を 紫寝殿に、

向かい合っている屋を 清涼殿 に見立てたもので、

本来の形式はほとんどの部分で解からなくなっていたようです。

ところが江戸時代天明8年 ( 1788 ) の天明の大火災で 内裏 が焼き尽くされ、

かねてから内裏を昔のように復興したいと考えていたようで

江戸幕府 老中の 松平定信 が再建の総奉行に命じられると、

裏松固禅 を登用することにした。


彼は平安京、大内裏、内裏の研究に没頭していた。

こうして完成したのが『 大内裏図考証 』でした。

松平定信 はその研究結果をもとに内裏を

平安京当時の姿に復元しようとしたのでした。

こうして寛政元年 ( 1789 ) に工事に着手、

翌年には完成を見ている。


ところがその後内裏よりの失火で内裏は またもや全焼してしまう。

翌安政二年、老中阿部正弘 を総奉行として、

先の再建と同じ形式と規模で再建されました。

これが現在の 京都御所のほぼ原形 なのです。

私たちが 京都御所 を見学する時に忘れてはならないのは、

これらの建物があくまで復元建築である、

ということです。


ふだん、

京都御所 の見学には予め宮内庁京都事務所の許可を得る事が必要ですが、

毎年春と秋の二回、

一般参観が行なわれるので、

期間中は許可なく気楽に見学が出来ますよ。

手入の行き届いた建物や庭を眺めながら・・

旧い昔のいにしえ人の麻呂様の気分に浸って

一度見ておくのもオススメです。

眼と耳と心にビタミンが充実した感じで・

とても贅沢な気分になりますよ。



今回はここまで・・   

続きは次回に・・ 

電話かFAXで、メールでお気軽に・・

E-mail Kyoto-ee@gaia.eonet.ne.jp

URL kyoto-estate.com

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