日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】本家VS元祖?於岩稲荷

2015-04-04 | 江戸の面影

四谷怪談の主人公・お岩さん。
そのお岩さんをお祀りした四谷の於岩稲荷へ行ってきました。現在の住所でいうと東京都新宿区左門町になるそうです。


事前情報通り、細い道を挟み向かい合って別々の於岩稲荷。右側が四谷於岩稲荷田宮神社。左側が於岩稲荷陽運寺。

さあ、なぜだ?


【四谷於岩稲荷田宮神社】

まず田宮神社。
そもそもお岩さんは実在の人物で、幕府御家人田宮伊右衛門の妻。傾きかけた田宮家の家計をやりくりし、建て直すほどの良妻だったそうです。
その田宮家の屋敷内に祭られていたお稲荷さんが、近隣の人たちに信仰され内々の屋敷神から神社になった…というのが、田宮神社の起源とのことです(田宮神社と正式に改称したのは明治5年)。
明治以降、いったんこの地を離れますが、戦後、再び戻ってきて今に至ります。


住宅地の一角に窮屈そうに建っていました。古めかしい、ひっそりとした感じを受けました。


【於岩稲荷陽運寺】

そして陽運寺。
日蓮宗のお寺で山号は長照寺ですが、冠には山号ではなく「於岩稲荷」。縁結びのお寺として女性に人気のようで、この日も何人もの若い女性がお参りに来て、お守りを買っていました。
毎月「お岩さま開運祈願祭」を行っているそうです。


境内にはお岩さんゆかりの井戸があり、パワースポット的な雰囲気を醸し出しています。こちらも境内は狭いのですが、周囲が住宅地であることを思えば仕方ないのでしょう。


田宮神社は、明治12年に中央区新川に移ったのですが、その後、陽運寺が四谷に建てられ於岩稲荷を名乗ったとか。それを知った田宮神社、昭和27年、再び四谷の地に戻りましたが、新川の田宮神社もそのまま残っているそうです。

そして始まる本家vs元祖の争い(みたいな感じ)。
お互い意識するところは大いにあるようです。

実際に現地を訪れ、双方を比べて感じたのは…
由緒という点では田宮神社に軍配が上がり、アピールという点では陽運寺が勝っている、かな。
いずれにしろ、田宮神社も陽運寺も、あの怪談のおどろおどろしいお岩さんの雰囲気はまったくなく、きちんとお参りすれば、ご利益が授かりそうな、そんなふたつの於岩稲荷でした。





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豪徳寺に来たなら世田谷代官屋敷

2014-12-30 | 江戸の面影

豪徳寺に来た以上、すぐそばの世田谷代官屋敷に行かない手はない。
…なんて偉そうに言いますが、豪徳寺をネットで調べていて、初めてその存在を知った私でした。
ということで、11月15日、豪徳寺のあとに行ってきました。

世田谷代官屋敷は、彦根藩井伊家の世田谷領を差配した大場家の役宅。大場家は世田谷吉良氏の重臣でしたが、小田原北条氏滅亡の際に吉良氏も没落すると、大場信久はこの地で帰農しました。農民になったといっても土地の名士であるわけで、家康の関東入国に際しては検地の代行を命じられています。
世田谷が井伊家所領となった1633年、信久の孫・盛長が代官に任じられ、その後、明治に至るまで大場一族がその職を世襲しました(一時期、他家と2人制だったそうです)。
屋敷は江戸初期からここにあったのでしょうが、普請記録として確認できるのは1737年に7代・盛政が建て替えた時が最初で、明治までに何度か増改築が行われているそうです。

【世田谷代官屋敷・表門】

道路に面して表門。この表門、国の重要文化財に指定されています。この表門の横に駐車場と管理人詰所みたいな建物があります。ここから入りますが入場無料、しっかりしたパンフレットまでもらえます。

【玄関】

表門からは入れないので、主屋の玄関へ行くにはぐるっと建物をまわらなければなりません。ちなみにこの主屋も重要文化財です。

【主屋・西側庭園1】

玄関とは反対側の庭園。様々な木や花が植えられているのですが、多分、これは後年整備されたものだと思います。

【主屋・西側庭園2】

世田谷代官としての主な職務は年貢の徴収や治安維持でしたが、その他、豪徳寺での井伊家の葬儀・法要の差配、井伊家江戸屋敷での必需品の調達なども課せられていたそうです。

【主屋・内部】

玄関からは上がれませんが横の土間には入れます。そこから室内を見渡せます。手前の板の間は名主詰所、その向こうの畳敷きの部屋は代官居間。いちばん奥はその名も「切腹の間」。いつでも腹を切る覚悟で職務に当たるという、大場家代々の覚悟のほどを示しているのだとか。

【白州通用門】

世田谷領の治安維持も職務であった以上、犯罪人捕縛のため道具も常備されていましたし、江戸上屋敷で開かれる裁判の下調べも行われました。犯罪人(今風に言うならこの時点では容疑者?)が通り、お白州へ向かったのがこの門でしょうかね。

【白州跡】

お白州も残っていました。ただし、場所が若干違うとか。でも玉砂利はまさしく当時のものだそうです。

【白州の玉砂利】

ここに正座させられたらけっこう痛そう。一応は平べったい石が敷かれているけど、やっぱり痛いよな…。


敷地内には郷土資料館もあります。こちらも無料。大場家に伝わる古文書や書画など、世田谷近辺の歴史を知るにはとても勉強になります。





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招き猫発祥の寺(かもしれない)・豪徳寺

2014-12-29 | 江戸の面影

12月26日の「はじめの一歩。江戸文化歴史検定3級合格 」でチラッと書きましたが、豪徳寺に行ったんですよ、11月15日に。
ちょっと前ですが書き留めておきます。
発端は江戸文化歴史検定の「豪徳寺に縁のある動物な~に?」という問題。四択で犬、蛙、亀、猫から選択だったのですが、私が選んだのは(全くわからないけど)犬!正解は猫…。
なんでもその猫こそ、元祖・招き猫なのだとか…。
ならば、招き猫伝承の残る豪徳寺へ行ってみよう!ということで。

【豪徳寺山門】

豪徳寺はもともと臨済宗の弘徳院といい、1480年に世田谷を治めていた吉良政忠によって建立されました。戦国時代になってから曹洞宗の寺院となったそうです。江戸時代にこの地を領した井伊直孝が、この寺に猫に招き入れられたことが縁で井伊氏の菩提寺になり、直孝の法号(「久昌院殿豪徳天英大居士」)にちなみ豪徳寺と称することになった云々…だそうです。
井伊直孝は、徳川四天王として有名な井伊直政の子供ですね。直孝は猫に招き入れられたことにより、和尚のありがたい説法を聞けて感激したとか、雨に濡れずに済んだとか、それまで雨宿りしていた木の下を離れた直後にその木に落雷があり、難を逃れたことに感謝したとか…そのあたりが招き猫伝承として伝わっているようです。

【仏殿】

昭和になってから本堂は鉄筋コンクリートによって建て直されたとのこと。こちらの仏殿は1677年に建立され、昔の雰囲気を今に伝えています。

【三重塔】

もっと小さな、こじんまりとしたお寺を想像していた私は、その規模の大きさにビックリ。しかも立派な三重塔まである。これは小田急も各駅停車ではなく急行停車駅に格上げしないと…(?)

【井伊直弼の墓】

奥まった一画に彦根藩主井伊家墓所(国指定史跡)があり、そのさらに奥のほうに幕末の大老・井伊直弼の墓。小学生の頃、直弼の伝記(もちろん小学生向け)を読んでから、あまり悪い印象はないんですよね。でも図書館に井伊直弼の伝記を置いてあった小学校も渋い…と、今さらながらに思う。私の出身地は別に井伊氏と縁もゆかりもないのに。あ、「赤備え」か…。

【招福庵】

そしてこちらが招き猫伝承の核心(?)松福庵(招福庵)。招猫殿とも言われているようで、中にお祀りされているのは招き猫、いや招猫観音という観音様。豪徳寺では招き猫を招猫観音の眷属として「招福猫児(まねぎねこ)」と称しているそうです。

【奉納された招き猫】

豪徳寺では招き猫を販売していて、願掛けしてその願いが叶うと奉納するようです。絵馬みたいなものですね。ちなみに小判は抱えていないです。すごく素朴な招き猫です。

【リアル招き猫(?)】

お寺から出てすぐ、参道に出現した猫。のんびりと日向ぼっこでもしていたのかな。ここで猫に出会えるなんて、なんか縁起がいいぞ…と、思ってしまいます。

【世田谷城跡】

位置的に豪徳寺は、戦国時代の吉良氏の本拠・世田谷城の城内にあたるようです。すぐ近くに世田谷城址公園があるのでその位置関係もよくわかると思います。城の遺構は素人にはほとんどわかりません。若干、土塁が残っているとかいないとか…。まぁ、住宅街のど真ん中ですからね、仕方ない。


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江戸魚市場めぐり(4)-芝雑魚場-

2014-12-07 | 江戸の面影


江戸魚市場めぐり、最後は日本橋を離れて芝の雑魚場。上の地図(1857年)で沙濱と記されている辺り。
もともと竹柴、それが柴となり、さらに芝という地名になったそうです。江戸時代には芝浜とも称されました。ここに雑魚場と呼ばれた魚市場が置かれ、芝浦近海で獲れた魚(芝肴)の商いが行われていました。
現在のJR田町駅の東北、駅から歩いて5分くらいのところ。実はこの辺り、数年前までの勤務地。転勤となって以来、久々に訪れたのでした。懐かしい~。

【芝雑魚場跡1】

オフィスビルや高層マンション、そしてJRの高架に挟まれた細長い地が公園(本芝公園)となっています。ここがかつての雑魚場跡。港区によって案内板が建てられています。
この地で水揚げされる魚は芝浦で獲れる魚という意味で芝肴と呼ばれ、美味・新鮮との評価を得ていました。小魚や魚貝類が中心だったようです。中でも芝海老は珍味とされたとか。現在では芝浦で芝海老はほとんど獲れないそうです。
公園の向こう側の高架がJR。江戸時代で言うとちょうど海岸辺り、やや海側に入ったところを現在の線路が走っているようです。

【芝雑魚場跡2】

本芝公園も昭和40年代あたりまでは海岸だったそうです。漁が行われなくなり海水が滞留していたため、埋め立てて公園としたとのこと。それ以前には料亭や芸妓屋などもあったそうで花柳街として賑わいを見せていたのだとか。
私が芝に勤務していた頃には、もちろん海岸線などありませんでしたが、この公園の道沿いはいかにも裏道という感じで、昭和を髣髴とさせる民家や食堂が並んでいたような記憶があります。公園ももっと寂れた雰囲気でした。そうか、あの昭和レトロな雰囲気は花柳街の残り香みたいなものだったのかな。
それが高層マンションとなり小奇麗な公園となったのは、ここ10年くらいのことだったかと。

この付近で江戸の魚市場だった名残りは見出せません。公園に案内板が設置されているので、ここで昔を偲ぶしかなさそうです。海岸線も当然のごとく今では本芝公園から見ることはできませんが、JRの高架下へ続く細道が微妙に下り坂になっているのは、かつての海岸線の名残なのかな?(上の写真「芝雑魚場跡1」に写っている右側の道路です)

【御穂鹿嶋神社1】

雑魚場跡に面して御穂鹿嶋神社があります。上の江戸時代の地図、鹿嶋明神が記されている位置と同じ場所。寛永年間に小さな祠が浜辺に漂着し、その由来を調べてみたら、何と常陸の鹿島神宮から流れ着いたとのこと。そのままこの地へお祀りしました。まさにここが海岸線だったことの生き証人(いや、生き神様かな?)。
現在は本芝の産土神・御穂神社を併せてお祀りしています。

【御穂鹿嶋神社2】

境内には別に小さな社があり、そこに住吉社も。航海の神様をお祀りしていることからも、かつてこの地の人々が海と密接に結びついていたことが察せられます。

【鹿島神社(江戸名所図会)】

海に張り出す形で鹿嶋神社があります。その右側が雑魚場ということになるのでしょうか。


そんなところで、私の江戸魚市場めぐりはひとまず終了。電車で簡単にまわれる範囲です。
記録に残らないような、それこそ日々の生活に密着した小さな魚市場的な場所もまだあったのかもしれません。
そういった庶民に密着した場所をまためぐってみたいものです。
いつか青物市場もめぐってみよう…。




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江戸魚市場めぐり(3)-新肴場-

2014-12-06 | 江戸の面影


江戸魚市場めぐり、続いては新肴場。
そもそも新肴場って何だ?という疑問からはじまった魚市場めぐり。その原点です。

新肴場が成立したのは1670年代のこと。
既に日本橋に魚河岸が出来て活況を呈していました。その魚河岸に、距離が遠く鮮度が落ちることを理由に安く魚を買いたたかれていた武州や相模の漁民。彼らが魚河岸のやり方に対して異議を唱えたのがきっかけ。
勘定奉行に陳情し、そこから裁定は評定所に持ち込まれるなどした結果、彼らは日本橋とは別に、楓川沿いの本材木町に魚市場を開く許可を勝ち取りました。日本橋の発展ぶりを見た本材木町の家主たちの後押し(新しい魚市場の誘致や資金援助)も大きかったようです。
こうして開かれた魚市場を「新肴場」、略して「新場」と称しました。新肴場の者たちは日本橋の魚河岸を「古場」と呼んで対抗意識を持ったとか。

それでは現在の新肴場の様子はどうかというと…。

【新肴場1】

かつて新肴場だった本材木町の通りは、現在、「江戸・もみじ通り」の名称となっています。やはり四日市と同様にオフィスビルが立ち並ぶビジネス街となっていました。

【新肴場2】

日曜日ということで人通りもほとんどなく閑散としています。東京のど真ん中でも休日ともなれば、ちょっと路地に入るだけで、ここが本当に東京か?といった静けさ。なんだか不思議な感じです。

【新肴場3】

そんなかつての新肴場で、魚市場だったころの面影をさがしてみましたが、やはりここも皆無。居酒屋の看板にその名を見出すくらいです。居酒屋だって軒を連ねているというわけではなく、やはりここは今やオフィス街に飲み込まれてしまったようです。
ちなみにこの居酒屋さん、看板通り魚が売りでなかなかの評価のようです(グル●ビによる)。私は残念ながらまだ未体験。オフィス街らしく土日はお休みです。

【新場橋】

ただ、新肴場を略した新場という名称は残っていました。
まずは楓川に架かる新場橋。この橋は関東大震災後に架け替えられたそうで、江戸時代にはもう少し北寄りだったとか。

【新場橋の橋柱】


【中央区立新場橋区民館】

新場橋を渡り、すぐ左手に折れて歩くと、かつての楓川沿いに新場橋区民館があります。上の江戸時代の地図だと「坂モト丁」あたりです。区民館の名は橋からとられた名称ですが、ここにもかつての新肴場が地名として記憶をとどめていました。

【旧楓川跡-新場橋より-】

新肴場に魚を運び込む船で賑わったであろう楓川。現在はどうなっているかというと…

はい、この通り。

埋め立てられて高速道路になっています。
川が埋め立てられたのは1960年代。戦後の復興を大急ぎで進めていた時代。江戸を偲ぶには少々残念ですが、当時としては最善・最良の策だったのだと思います。日本橋の上の高速道路も…。


ということで、新肴場も日本橋の魚河岸や四日市と同様に、かつての魚市場としての名残は見当たりませんでした。それでも橋や区民館にその名が残っていたことで、多少なりとも江戸の賑わいに想いを馳せることができるのが救いでしょうか。


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