日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

江戸魚市場めぐり(2)-四日市-

2014-12-05 | 江戸の面影


江戸魚市場めぐり、2ヶ所目は四日市。日本橋川を挟んでちょど魚河岸の対岸にあたります。そういう意味ではとってもご近所さん。

【四日市(江戸名所図会)】

描かれている橋は江戸橋。この江戸橋と日本橋間の南側一帯を四日市といったそうです。
この辺りは幕府が開かれる前から四日市場村という村落があり、市が立ち、商いが行われていた場所。野菜や乾魚などを売っていたとか。
その流れで、日本橋の北側に魚河岸が出来るまではここが魚市場の役割を果たしていたということなのでしょうね。
明暦の大火後は、ここに広小路(江戸橋広小路)が設けられ、引き続き繁華な地としてにぎわったそうです。

【江戸橋】

現在は昭和通りとなっている江戸橋。交通量もかなりのものです。1927年に架けられた現在の橋は江戸時代とは若干位置が違うようです。
橋は補強工事中。なので、橋の上から日本橋方面の眺めは工事のフェンスに遮られてしまいほぼ視界ゼロ。この写真は日本橋川の南側からなので、左手が日本橋方面となります。

【旧江戸四日市1】

江戸橋を南側に渡ったあたりです。昭和通りとの交差点、正面に見えるのは日本橋郵便局です。

【旧江戸四日市2】

このまま真っ直ぐ行くと中央通り。日本橋の南詰、かつて晒し場や高札場があったところへ出ます。昭和通りと中央通りに挟まれた、どちらかというと裏道的な感じの旧四日市の魚市場。現在の日本橋の賑わいから隔離されたような静けさです。

【旧江戸四日市3】

この辺りはオフィスビルや銀行、証券会社などが多いようです。平日はそこで働くビジネスマンたちでそれなりの人通りはあるのですが、日曜日なので閑散としていました。
なにかかつての魚市場の名残はないものか…とキョロキョロしたり立ち止まったり。残念ながらそれらしきものは何も見当たらない。

【旧江戸四日市4】

数日前にもここを探索にきました。これはその時の写真です。当時の名残を探して何度も同じ場所を行ったり来たりしていたので、銀行の警備員に胡散臭げな目で見られてしまいました。
江戸時代なら、怪しい奴!ひっ捕らえぃ!!ってとこでしょうか…。

【旧江戸四日市5】

日本橋の南詰、現在の中央通りから四日市方面です。このあたりに晒し場がありました。

【活鯛屋敷跡】

魚河岸が出来たころ、大和屋助五郎という人物が江戸橋の南側に屋敷を拝領し、生け簀を作り江戸城に新鮮な鯛を提供していたそうです。当初は鯛だけだったようですが、そのうち鯛以外の魚も。あくまで江戸城に献上するための魚、今で言うなら官公庁御用達みたいな位置づけですね。
江戸橋を南側に渡ってすぐ、現在の日本橋郵便局辺りが活鯛屋敷の跡地のようです。とくに碑や案内板はありませんでした。


当時の魚市場の面影は残念ながらどこにも見当たりませんでした。
日本橋の北側は路地に入ってもそれなりの賑わい、人通りですが、こちらは何かひっそりとした感じ。目を閉じて在りし日の賑わいに浸るしかないようです。


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江戸魚市場めぐり(1)-日本橋魚河岸-

2014-12-02 | 江戸の面影

先日、江島神社で見た新肴場が寄進した石灯籠。「新肴場」って何?ってことで調べてみると、日本橋の魚市場から独立して出来た新しい魚市場とのこと。
え?魚市場って日本橋の魚市場(魚河岸)だけじゃないの?
さらに調べてみると、江戸にはまだ数か所に魚市場(のような場所)があったとか。
ならば行ってみようじゃねぇか!ということで。
まずはお馴染みの日本橋魚河岸から。



【日本橋魚市(江戸名所図会)】

江戸の魚市場の代名詞。というか、ここしか浮かばないほど。当時の絵からもその賑わいのすごさ、凄まじさが伝わってきます。「一日千両の商い」があったといわれるのも納得。
ここ、日本橋に魚河岸が成立したのは1610年頃。はっきりした年代はわからないようですが、まぁ、その近辺。それ以前は日本橋の南側に位置する四日(市)に小規模ながら魚市場に相当する場所があったと思われるそうです。
江戸に幕府が開かれた頃、摂津の漁民・森孫右衛門が徳川家康の招きで一族とともに江戸に移り、将軍家へ献上する魚を獲るための漁業権を得、その献上魚の余りをここで庶民に売った(卸した)のが始まりだとか。
それから関東大震災で壊滅的打撃を受け築地に移転するまでの400年間、魚市場として繁栄を謳歌したのだからすごい。

始祖とされる森孫右衛門をはじめとする森一族、家康に招かれるほどだからただの漁民とは思えない。摂津で相当な力を持っていた海賊(水軍)の出身かもしれないとのこと。江戸に移った当初、漁業の特権を与えられると同時に海上の警備も任せられていたようです。阿波水軍の総帥が森姓だったことからも、摂津近海の水軍の流れかもしれませんね。

【魚河岸跡】

で、現在の日本橋魚河岸跡はこんな感じ。日本橋の上から日本橋川の川岸、かつて魚市場へ押送船で運ばれた魚が荷揚げされた場所を眺めてみました。名残りは何もありません。
魚河岸がなくなった現代でも、東京の真ん中ということで日本橋に人通りは絶えません。それは江戸時代と変わっていませんね。

【日本橋魚市場発祥の地の碑】

日本橋の北側に「日本橋魚市場発祥の地」の碑があります。ここがかつての魚市場であったことを示す唯一のモニュメント。碑の前のスペースが自転車置き場ぽくなっている(もちろん不法駐輪!)のがちょっと残念。

【本船町近辺】

かつて大いに賑わった本船町近辺。ちょうど「江戸名所図会」に描かれたあたりでしょうか。交通量は多いのですが、ここにもかつての魚河岸の面影はまったくなし。何か少しでも残っていないものかと探してみましたところ…。

お!
おお!!
日本橋っぽい看板発見!!!



橋としては日本橋よりも江戸橋に近いポイントにて。いかにも魚河岸の血統を受け継いでいるような感じですが、どうも居酒屋さんらしいです。もちろん新鮮な魚が売りのようですが、江戸前ではなく長崎港から直送の魚…ということでした(ぐる●びによる)。お味はどうかな?実際に食べてないので悪しからず。
この居酒屋さんではまぐろの解体ショーも実演しているようです。



こちらは鰻屋さん。
最近は鰻が獲れないようです。江戸前の鰻、どんな味だったのでしょうか?ちなみにこの鰻屋さんも、江戸時代からこの場所で続いているわけではないようです。


残念ながら魚河岸の喧騒は遠い時の彼方。
今さらこの地に魚市場の復活を…と願っても、居酒屋と鰻屋と寿司屋あたりがせいぜいでしょうか。
町興しに何か企画できないのかな?
魚関係で。
せっかくの魚河岸のネームバリューがもったいない気がするんですよね…。


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「びくにはし雪中」の現在

2014-11-29 | 江戸の面影


歌川広重の「びくにはし雪中」。
江戸初心者の私が、今年初めて受けた江戸文化歴史検定3級の第1問目に登場。へぇ、これ、広重の浮世絵なんだ?びくにはしって何?…そんな感じで。
ということで気になったので、実際に行ってみました。現地現物。現状をこの目で確認。跡形ないのは百も承知。でも何かあるかな?


「びくにはし」は比丘尼橋か。なるほど。
空中を横切るのは高速道路。ちょうど江戸時代の川(京橋川)の上をなぞる様に通っています。この高速道路の西銀座JCT付近、ここが浮世絵に描かれた場所に相当するそうです。絵の右手、外濠にあたる部分はJRの線路。この辺り、東京駅と有楽町駅の中間地点です。
やはり広重が描いた当時を偲ぶものは見当たりませんでした。比丘尼橋も、橋が架かっていた京橋川もその痕跡はありません。
屋台を担いだ人物が歩いている道は現在の外堀通り。車の交通量の多さは言うまでもありません。歩道を行き交う歩行者もそれなりに多く、やはりここは現代の東京のど真ん中なんだなぁ…と実感。
浮世絵から滲み出てくる、どこか物寂しく、森々とした雰囲気は、平日の昼間ということもあり感じられませんでした。もう一度、雪の夜を狙って行ってみようかな?あ、でもきっと電車が止まって帰れないか…。


【天保14(1843)年 懐宝御江戸絵図(人文社)より】

【明治4(1871)年 東京大絵図(人文社)より】

あれ?微妙に比丘尼橋の位置が違う…。広重が描いたのは1858年頃らしい。時期的にはちょうど2枚の地図の中間。細かいことは気にしなくてもいいのかな…?

…でも気になる。どちらが本当の比丘尼橋だ?





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