日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(3)-吉野宿へ到着-

2017-04-22 | 旧甲州街道を往く

【子の入】


かつての間の宿・橋沢で休息することもなく、しばらく歩くとまたまた道はU字にターンします。その地点に「子の入」の標識。「ねのいり」と読むのでしょうか?

【子の入付近の甲州街道】


子の入でターンすると、道は下りながら相模湖方面へと向かいます。

【天奈橋から中央道を見下ろす】


中央道の横断橋・天奈橋。写真は橋の手前での1枚です。

【赤坂の標柱】


天奈橋を渡って中央道を越え、赤坂の標柱。
この標柱付近で道は観福寺を真ん中にして、左右へY字型に分岐します。本来は右手へと小道を進むのが正解でしたが、我々は気づかずにそのまま左側、舗装道路を歩いてしまいました。普段なら気づいていたかもしれないルートミス。下調べの重要さをあらためて思い知らされたのでした。

【桜野の標柱】


そんなわけで、本来の道筋から外れてしまったわけですが、観福寺を回り込むようにして、結果的にすぐ旧道と合流します。その合流地点に建っているのがこの桜野の標識。

【矢部の標柱】


桜野の標識からすぐのところに矢部の標識が建っています。「新編相模国風土記稿」の吉野宿の項に、小字(こあざ)として矢部の地名が挙げられています。


【矢部の標柱付近の甲州街道】


矢部の標柱が建っている場所から、右折して石段を下っていきます。

【椚戸の標柱】


「くぐど」と読むようです。「新編相模国風土記稿」吉野宿の項に小字「椚々戸、久具土」と記録されています。ガイドブックによると、ここら辺りが吉野宿の江戸側のはずれとなるようです。

【石塔群】


右端が蚕影山(こかげさん)の碑、ひとつおいて二十三夜塔、その他。
蚕影山とは、養蚕の神さまを祀る信仰で、茨城県つくば市にある蚕影神社が総本社とのこと。吉野宿近郊も織物が盛んだった地域だったそうです。

さて吉野宿です。
「甲州道中宿村大概帳」によると

本陣…1軒
脇本陣…1軒
問屋場…1ヶ所
旅籠…3軒
宿場内の家数…104軒
宿場内の人口…527人

とのこと。
街道に沿って流れる相模川はこの辺りでは桂川と呼ばれるため、桂の里とも。なんとも風流な言い回しです。相州四ヶ宿のうち、東隣の与瀬宿へは1里、西隣の関野宿へは26町(2.9キロ)。

【高札場】


椚戸から道は下り坂となります。その坂道が国道20号線に合流する場所に、高札場跡の標柱が建っています。

【お地蔵様】


高札場の後には6体のお地蔵様。もともとここに建っていたものなのか、後から移されたものなのか、その由来などはとくに案内されていません。

【高札場付近の甲州街道】


高札場で道は国道20号に合流し右折、西へと向かいます。「新編相模国風土記稿」の吉野宿の頁に「一条の大道東西にわたり」と記されていますが、ここから先のことを言うのでしょう。

【国道20号線に合流】


いよいよ吉野宿のメインストリートへと入ります。

【吉野宿本陣】


吉野十郎右衛門が本陣を勤めました。吉野家は鎌倉時代に奈良の吉野から移り住んだとのこと。吉野宿の地名の起こりは遠く奈良県なわけですか。
現在、本陣跡には「聖蹟」の碑が建っています。明治天皇が明治13(1880)年に行幸された際の行在所でした。

【当時の吉野宿本陣(現地の案内板より)】


天皇の行在所にもなるほどの吉野宿本陣、何と五層の楼閣(明治初期の建築)だったそうです。失礼ながら小さな吉野宿には似合わぬ威容ぶりです。写真はその頃の様子。残念ながら、明治29(1896)年の大火で焼失してしまいました。
それにしても、私たちが思い描く江戸時代の本陣とは、まったくイメージが違いますね。

【吉野宿本陣・土蔵】


本陣跡には土蔵が残っています。明治の大火を生き残った唯一の建物だとか。建築年代は江戸時代にまでさかのぼる可能性があるそうです。


【旅籠藤屋跡(吉野宿ふじや)1】


街道をはさんで本陣の向かい側にある江戸時代の旅籠「藤屋」は、明治29年の大火で焼失、翌年、再建されました。再建後は養蚕農家として利用されたようです。現在は「吉野宿ふじや」としてこの地域で出土した遺物、民具などを展示する郷土資料館的な施設となっています。
建物は相模原市の登録文化財に指定されています。

【旅籠藤屋跡(吉野宿ふじや)2】


入館料は無料、開館時間は10時から16時。月曜日が基本的に休館日のようですが、平日は閉館していることもあるとの情報も。ここを目当てに行くなら、事前に確認した方がよさそうです。
じっくり見たかったのですが、先を急ぐため、ちょっとだけ覗いて失礼しました。吉野宿のジオラマや本陣五層建築の模型はなかなか迫力ありました。

【吉野バス停】


吉野のバス停を通過。
見よ、この空模様!我々が急ぐ理由がおわかりになるでしょう。

【庚申塔】


街道沿いの石碑。ガイドブックによると庚申塔とのことですが、表面が摩耗していて何が書いてあるか読み取れませんでした。

【小猿橋跡】


江戸時代に沢井川に架けられた欄干付の板橋の跡。長さ14間(約25.5m)、幅2間(約3.6m)、川からの高さは5丈8尺(約17.5m)だったそうです。名前の由来は大月の猿橋に似ていたからとのこと。

【小猿橋(新編相模国風土記稿より)】


案内板によると、元禄11(1698)年の橋の架け替え工事は幕府によって行われ、400両(約4800万円、1両=12万円で計算)かかったそうです。
欄干付とはいえ、渡るにはちょっとドキドキしそうな橋です。

【百万遍と二十三夜塔】


小猿橋の案内板とともに百万遍と二十三夜塔が建っています。「百万遍」は念仏を100万回唱えると願いが成就されるとされ、その記念の碑ということのようです。

【吉野橋】


現在は昭和8(1933)年に完成した吉野橋で沢井川を渡ります。

【中華福龍で昼食】


相模湖駅を出発したのが11時。お昼を食べるお店を探しながら歩いてきましたが、ようやくたどり着きました。中華料理店です。
時刻も1時半をまわり、さすがに空腹に耐えかねた我々、冷たい生ビールと中華でお腹を満たしました。餃子も美味しい、焼きそばも美味しい…。

久しぶりの旅に疲れが出てきたころにビールとくれば、もう何となくこの辺までで今日はいいんじゃない?的な雰囲気が流れ出します。とりあえず、最寄りのJR藤野駅までは歩かねばなりません。それでは、いざ…と店を出たら、何と大粒の雨がパラパラと。これを恐れて先を急いでいた我々ですが、ビールでいい気分になっているうちに、ついに雨雲に捕まってしまいました。

傘、雨具…誰も持っていない。
東京では昼には雨は降らないとの天気予報。でもここは神奈川県。

そんなとき救いの手が!
お店の方が車で駅まで送ってくれるというのです。なんて親切な!

江戸時代なら、駕籠に揺られて楽ちん旅といったところでしょうか。車の中でのお話によると、甲州街道を歩いて立ち寄る人も結構いるとか。ほんと、お世話になりました。

【JR藤野駅】


JR藤野駅、時刻は2時半。
この日、我々の歩く旅にはここで終了。歩く旅史上、最短距離、最短時間となりました。ま、久しぶりだったし、みんな日ごろの疲れも溜まっていたので無理せずに…と、それぞれが自己弁護しつつ、反省会開催のため八王子に向かうのでした。
そして、疲れが溜まっているとか言いながら、反省会は延々夜遅くまで盛り上がってしまうことだけは、いつもと変わらないのでした。


さらに、夜遅くに帰宅した直後、39度の発熱が襲いかかることなんて、もちろん夢にも思っていない午後2時半、藤野駅で最後の写真を撮り終えた私なのでした。


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