2022年7月3日、大久保長安研究会主催のイベントに参加しました。町歩きしながら、八王子の成り立ちについて学ぼうというこの企画、講師はブラタモリで大久保長安を熱く語った鈴木泰さん(大久保長安研究会代表)。
朝10時にJR八王子駅に集合。
午前と午後の2部構成です。
午前は実際に町歩きしながら、八王子と大久保長安の関係などを学びます。
午後は「高尾山とんとんむかし語り部の会」の皆さんによる、八王子宿にまつわる昔話のおはなし会と、実際に町を歩いてみての、鈴木さんへの質疑応答。
まずは午前の部です。それでは、いざ!
【1】市守神社
最初に向かったのは、JR八王子駅北口から徒歩10分程度の市守神社。八王子宿の商売繁盛を願って1590(天正18)年に創建された、八王子宿の歩みを見守り続けて来た神社です。
表通りには店を、寺社は裏通りにという八王子宿の町割りの中、甲州街道に面している唯一の寺社ということです。
講師の鈴木さんは「八王子は宿場町というより市場町」と仰っていましたが、この市守神社、まさに面目躍如といったところでしょうか。
ここから西に向かって18町(約2キロ)、甲州街道は真っすぐにのびています。
【2】一里塚跡
八王子宿の東(江戸側)の入口近辺にあった一里塚。街道筋に一里(約4キロ)ごとに塚が造られ、榎をなどを植えて旅人の目印にしました。ここの一里塚は1897(明治30)年の八王子の大火災まで存在していたそうですが、現在は公園となっています。
【3】大義寺
創建は八王子宿が開かれる以前の室町時代。
八王子宿以前、この辺りは原野だったというのは間違えで、こういった寺院とその周辺に集落は存在していただろうと鈴木さん。
大義寺には江戸時代の女流俳人・榎本星布の墓があります。岩波新書の「女性俳人の世界」で、江戸時代最高の女性俳人と評されているとのことです。へぇ~、知らなかった…。
なお、この大義寺の西側の道が、八王子ではいちばん古い川越街道(古川越道)だそうです。
【4】八幡八雲神社
もともとこの地にあった八幡神社に、八王子城の牛頭八王子権現のご神体を相殿として祀ったのが八幡八雲神社。
八王子城の落城時に難を逃れたご神体は、1598(慶長3)年の洪水で浅川へ流出、それを発見した百姓が八幡神社の境内に持ち込んで…と言い伝えられています。
境内には、平安時代にこの近辺に勢力を誇った横山氏の本拠地跡を示す案内もあります。今、横山神社となっていますが、鈴木さん曰く、横山氏の本拠地はもっと南の丘陵地帯で、ここは横山氏滅亡後、鎮魂のために社が建てられたのではないか、と仰っていました。
※写真は以前のもの(2016年正月)です。鈴木さんの話に聞き入ってしまい写真を撮り忘れました…。
【5】八日町交差点
横山宿と八日市宿の境界に位置する八日町の交差点は、かつては札の辻と呼ばれ、高札場がありました。幕府のお触れなどが掲示された場所です。
【6】八日市宿碑
かつての宿場をしのぶ痕跡が少ない中、近年の建立とはいえ八日市宿を示す碑があります。この辺りがちょうど八日市宿の中央地点でしょうか。
【7】禅東院(とうがらし地蔵)
創建は室町時代と伝わる禅東院。江戸時代、この近辺で栽培されていた唐辛子を新宿で売ったところ、大評判になったそうです。それ以来、何かにつけお地蔵さん(写真の左側)に唐辛子をお供えするようになったとのこと。
とうがらし祭りが10月に行われています。
【8】八幡町交差点付近(八日市宿の西端辺り)
この辺り、市が立つ日には大いに賑わったそうです。八王子宿では月に6回、市が立ちました(六斎市)。八日市宿は、その名のとおり「8」のつく日(8日、18日、28日)に、東側の横山宿では4日、14日、24日に、それぞれ市が開かれました。
八日市宿の東端・八日町交差点(札の辻)を南へ行けば、小田原、横浜方面へと繋がり、西端の八幡町交差点を北へ向かうと川越方面と続きます。この間の甲州街道沿いに人を誘い込むような町づくりは、ブラタモリでも鈴木さんが大いに語っていたところです。
【9】傳法院
成田山の分院。もともとは八王子の西方、島の坊宿にありましたが、幕末に現在の地へと移りました。
ここで有名なのは石塀。伊豆の青石と呼ばれる凝灰岩で作られ、寄進者の商店や旅館名が刻まれています。ところどころボロボロに崩れているのは、1945(昭和20)年の空襲の際の火災によるものだそうです。
ということで、ここまでが午前の部、町歩きでした。
昼食後、午後の部となりますが、それはまたあらためて。
【参考資料】
当日配布された「新町一里塚から横山・八日宿を歩く」(大久保長安研究会編)
朝10時にJR八王子駅に集合。
午前と午後の2部構成です。
午前は実際に町歩きしながら、八王子と大久保長安の関係などを学びます。
午後は「高尾山とんとんむかし語り部の会」の皆さんによる、八王子宿にまつわる昔話のおはなし会と、実際に町を歩いてみての、鈴木さんへの質疑応答。
まずは午前の部です。それでは、いざ!
【1】市守神社
最初に向かったのは、JR八王子駅北口から徒歩10分程度の市守神社。八王子宿の商売繁盛を願って1590(天正18)年に創建された、八王子宿の歩みを見守り続けて来た神社です。
表通りには店を、寺社は裏通りにという八王子宿の町割りの中、甲州街道に面している唯一の寺社ということです。
講師の鈴木さんは「八王子は宿場町というより市場町」と仰っていましたが、この市守神社、まさに面目躍如といったところでしょうか。
ここから西に向かって18町(約2キロ)、甲州街道は真っすぐにのびています。
【2】一里塚跡
八王子宿の東(江戸側)の入口近辺にあった一里塚。街道筋に一里(約4キロ)ごとに塚が造られ、榎をなどを植えて旅人の目印にしました。ここの一里塚は1897(明治30)年の八王子の大火災まで存在していたそうですが、現在は公園となっています。
【3】大義寺
創建は八王子宿が開かれる以前の室町時代。
八王子宿以前、この辺りは原野だったというのは間違えで、こういった寺院とその周辺に集落は存在していただろうと鈴木さん。
大義寺には江戸時代の女流俳人・榎本星布の墓があります。岩波新書の「女性俳人の世界」で、江戸時代最高の女性俳人と評されているとのことです。へぇ~、知らなかった…。
なお、この大義寺の西側の道が、八王子ではいちばん古い川越街道(古川越道)だそうです。
【4】八幡八雲神社
もともとこの地にあった八幡神社に、八王子城の牛頭八王子権現のご神体を相殿として祀ったのが八幡八雲神社。
八王子城の落城時に難を逃れたご神体は、1598(慶長3)年の洪水で浅川へ流出、それを発見した百姓が八幡神社の境内に持ち込んで…と言い伝えられています。
境内には、平安時代にこの近辺に勢力を誇った横山氏の本拠地跡を示す案内もあります。今、横山神社となっていますが、鈴木さん曰く、横山氏の本拠地はもっと南の丘陵地帯で、ここは横山氏滅亡後、鎮魂のために社が建てられたのではないか、と仰っていました。
※写真は以前のもの(2016年正月)です。鈴木さんの話に聞き入ってしまい写真を撮り忘れました…。
【5】八日町交差点
横山宿と八日市宿の境界に位置する八日町の交差点は、かつては札の辻と呼ばれ、高札場がありました。幕府のお触れなどが掲示された場所です。
【6】八日市宿碑
かつての宿場をしのぶ痕跡が少ない中、近年の建立とはいえ八日市宿を示す碑があります。この辺りがちょうど八日市宿の中央地点でしょうか。
【7】禅東院(とうがらし地蔵)
創建は室町時代と伝わる禅東院。江戸時代、この近辺で栽培されていた唐辛子を新宿で売ったところ、大評判になったそうです。それ以来、何かにつけお地蔵さん(写真の左側)に唐辛子をお供えするようになったとのこと。
とうがらし祭りが10月に行われています。
【8】八幡町交差点付近(八日市宿の西端辺り)
この辺り、市が立つ日には大いに賑わったそうです。八王子宿では月に6回、市が立ちました(六斎市)。八日市宿は、その名のとおり「8」のつく日(8日、18日、28日)に、東側の横山宿では4日、14日、24日に、それぞれ市が開かれました。
八日市宿の東端・八日町交差点(札の辻)を南へ行けば、小田原、横浜方面へと繋がり、西端の八幡町交差点を北へ向かうと川越方面と続きます。この間の甲州街道沿いに人を誘い込むような町づくりは、ブラタモリでも鈴木さんが大いに語っていたところです。
【9】傳法院
成田山の分院。もともとは八王子の西方、島の坊宿にありましたが、幕末に現在の地へと移りました。
ここで有名なのは石塀。伊豆の青石と呼ばれる凝灰岩で作られ、寄進者の商店や旅館名が刻まれています。ところどころボロボロに崩れているのは、1945(昭和20)年の空襲の際の火災によるものだそうです。
ということで、ここまでが午前の部、町歩きでした。
昼食後、午後の部となりますが、それはまたあらためて。
【参考資料】
当日配布された「新町一里塚から横山・八日宿を歩く」(大久保長安研究会編)