無謬性(むびゅうせい)【理論や判断に誤りがないことを前提にすること。】
多田稔さんの11年前の論文(高崎経済大学大学院 地域政策研究科)を見つけました。
『公務員意識改革のブレイクスルー』(要旨)です。
読んでいて、なるほどなるほどとストンと頭に入ってきます。
この内容を前提にすると、これまでブログに書いてきた
疑問が理解できる頭になります。
筆者は、「行政改革により自治体の人事制度や
組織図などは変わったが、多くの職員の考え方や
行動は、旧態依然としており、・・・」
と、職員の「意識改革」がなぜ進まないのかを
テーマとして書いています。
11年前です。普代は人事評価制度を取り入れて
まだ2、3年。
しかもそれまでは「人事評価を取り入れてはどうか」
という質問に対して、拒否に近い否定をしていました。
しかも今、その人事評価がどれだけ機能しているか?
国で決められたから仕方なく消極的に行っている
と、これまでの一般質問の感触から感じます。
それだけ「意識改革」による「組織改革」が遅れています。
10年、いや20年は遅れているのかも知れません。
多田氏は、ヒアリング調査を実施分析した結果、
「組織としての問題」として、タイトルにも書いた、
管理職の価値観として「無謬性」「責任逃れ」
「保守主義」があると言っています。
『日常業務を行う上での座右の銘が「無謬性」であり、
それを実現する判断基準が「保守性」だ。
そして問題が発生した場合に「責任逃れ」が生じる。
これを包括する概念として「大過なく」が上司の持つ
価値観だと言えよう。
そしてこの価値観は、管理職自信の立場を反映したもの、
つまり退職を目前にして「何事も大過なくやりすごしたい」
という気持ちである。
新しい仕事にチャレンジしたり、議員と対立してまで
既得権益団体をばっさり切り捨てるなどの荒治療には
取り組もうとしないだろう。
そして職員は、どのように行動すれば管理職から
高い評価を得られるか、管理職の価値観を推し量り
ながら判断・行動しているので、組織の目標として、
いくら「チャレンジ」「成果」などを掲げても、
実際に職員を評価する管理職の価値観が「大過なく」
であり続けるからこそ、職員の意識改革は起こらず、
従来の思考や行動パターンを続けているのである。』
意識改革の必要性として、
『自治体における課長は組織経営、人材育成マネジメント
などの中心なので、不適格者であると組織へのマイナスの
影響が非常に大きい。』
課長の評価の重要性が高まっているという。
『課長評価の内容が平成14年度以降、年功序列的
要素を考慮しない割合が、約14%から50%近くに
急増しており、評価内容がより現実の能力を反映
するように、評価の質が高まっていると考えられる。』
「チャレンジングな組織文化」のために、年功序列によらない
昇進・降格を実現するための思い切った人事制度を構想
してみてはどうかと提案しています。
わたくしも、かねてからそう思っています。
もったいない若い人材が間違いなくいます。
この若者たちも「組織文化」に侵され、
やがては「感性」を失い、上司の判断に疑問も
持たない、役場ファーストの「人材」に
なっていくのかと思えば悔しささえ感じます。
そうならない内に、抜擢人事で能力を発揮して
もらう。組織にとっては活性化となり、
村民も理解するのではないでしょうか?
こういった「問題」は、村民にはまったく
見えません。
内部ですら「何が問題?」と思っているかも
知れません。
もしかしたら問題と思っているのは、この自分
だけかも知れません。
内部で気付いていたとしても、「誰かがやるだろう」
と、いつかは去っていくものには無関係です。
でも普代にはいるはずなんです。
このような研究がされていること自体、「問題」
としてあることは確かです。
先ほどの人事で考えたばあい、
能力によれば、その親とも会うだろうし、
親戚関係だったりするだろうし、バツの悪い
思いもしたくない。
そんな心理もあるはずです。
やっぱり何事も「大過なく」が一番ですね。
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