彷徨う普代村民

普代村の一村民、
彷徨う村からの貧民の呻き声

震災から10年

2021年03月04日 | Weblog

太田名部防潮堤裏の津波記念塔。

 昨日3日は、津波記念の追悼式でした。

そのあと2日目の議会が10時から。本日は3日目でした。

消防団本部員として、毎年3日朝8時の追悼に参加させてもらっている。

明治29年の明治三陸地震、昭和8年の昭和三陸津波で多くの被害者が出た。

1896(明治29)年に発生した明治三陸津波では1000人以上の死者や行方不明者を出している。

1933(昭和8)年の昭和三陸津波では439人の犠牲者を出している。

 2011(平成23年)東日本大震災では、普代水門のお陰で村は被害を免れた。

報道では「犠牲者ゼロだった」と言われる。しかし、7人が亡くなり、1人が行方不明だ。

ずっと、その報道が気になっていた。

他村でなくなったとはいえ、移動中や近隣である。

遺族にしてみれば、村民であり身内であり、場所は問題ではない。

追悼式の石碑前で、東日本大震災の犠牲者と共に追悼してもいいのではないかと感じた。

今日3日目の予算委員会の関連項目で、そのことを提案した。

村長も気になっていたとのことで、遺族にも聞きながら考えてみるとの答弁。

一安心した。

 

 

 

 


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