この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

近頃の若者は!?

2009-12-31 09:33:47 | つれづれ記
先日、市川海老蔵と小林真央の結納のニュースを流していた。最近結納の儀式がさかんになっているという話題になって、ホテルでも結納セットが人気で、とりわけ若者たちの方がこうした儀式に熱心だというのだ。
そういえば、わたしの友人の息子や娘が最近結婚したが、どっちも結納から挙式、披露宴とひと通り行っている。

昔の沖縄の結婚披露宴は三百人から五百人を呼ぶ盛大なものだった。その分簡素で、仕出し弁当にペプシコーラ、バヤリースオレンジ、ビール、泡盛の一合瓶が一本ずつ置かれているだけである。お祝儀は本土と比べてかなり小額であり、多くの人に来てもらうことによって費用が賄えられる。広く薄くという、貧しい沖縄ならではの相互扶助の考え方だったのだろう。
若かったわたしは、ほとんど顔も知らない人に祝ってもらいたくないと反対したが、父や母の意向を排除できず、二百人規模の結婚披露宴になってしまった。本当は自分に近しい友人五十人ぐらいのパーティーにしたかったのだ。

われわれの青春期は卒業式にしてもお仕着せの儀式はご免とばかりにぶち壊してきた。高校の卒業式でもありきたりの答辞はまかりならんと前日の集会で決まり、答辞をするSの家に七、八人で泊まり込んで、徹夜で切り貼りの答辞を作成したことがあった。一応それでみんな満足していた。
成人式もアホなやつが出席するもんだと思っていたし、まして新しくスーツをあつらえて参加することなど想像もできなかった。

ところが近頃は儀式に対する考え方はすっかり変わってしまったらしい。むしろ結婚披露宴ではいろいろな演出をして楽しんでいるようだし、卒業式でも壇上でのおふざけはあるが、流れを壊すことはないようだ。
このような姿勢は生き方でも同じようである。

わたしの青春時代は、いい学校に行っていい大学に進み、いい仕事に就くというのが親の抱く人生設計だった。われわれはそれに反撥し、自らの道を模索した。うまく行った者もいたが、たいがいは失敗し田舎に戻って行った。
わたしも教育熱心な母に反撥してことごとく逆らった。母の発想はステレオタイプそのものだと疑わなかったのだ。医者になったら幸せかというとそんなことはない。お金の心配はないかもしれないが、人生の幸不幸の因子はそれ以外にいっぱいある。戦後の厳しい環境の中で生き抜いた彼らには、食べるためにはお金が一番という教訓を得たのだろう。時代は変わってもその価値観を押し付けてくる。

そんな経験があったから娘や息子に、ああしろこうしろとうるさく言わないように努めた。むしろ、ことごとく介入するつれ合いと衝突していた。仏壇を持たないでもいい。自由に飛び立て、アメリカでもオーストラリアでも行ってそこに住みついてもいいぞと言ってきた。
それがいけないらしい。何でもしていいと言われたら何もできなくなるものだと言う。こうして欲しいと言われることによって自分の意志との衝突のなかで弁証法的解決がつくのかもしれない。

わたしの息子もほかの若者たちと同じように何をして行ったらいいか分からないらしい。飢えや生命の危険から遠く離れて何でもできる状況がかえって何にもできなくしてしまうのだ。
この問題は隔世遺伝のように繰り返していくように見えるが、パラサイト・シングルのように、娘(息子)が家に住みついていく現象だったり、引きこもりやうつ病の広がりなどは不可逆的に進行していくように思う。
表面的には従順で規則正しく素直な若者たちだが、じつは生きる意欲に乏しいことを証明しているのである。これからの課題は「金」ではない。「如何に生くべきか」という実存的な問題に正面から取り組んでいくことではないか。若者たちはそれに直面しているのである。

近頃の若者も可哀相だと思う。大人たちは間違ったことを言わなくなったかわりに、正しいことも言わなくなってしまったのだから。
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