わたしたちは楽しいことや快感を求めることがあたりまえだと思っている。それらが欠ければ不幸な人生だと疑っていない。ところが、フランクルはそうではないと言う。
「人間は多様な意味において楽しみのために地上に在るのではなく、また快感は人間の生命に意味をあたえることがない。それ故にまた、快感の欠如していることも生命から意味を取り去ることはできない」(V・E・フランクル「死と愛」)
ヴィクトール・E・フランクルとは誰だろう。
ご存知の方も多いかもしれないが、ウィーン生まれのユダヤ人で、アウシュヴィッツ収容所で生き残った心理学者である。若い頃からアドラーとフロイトに学び、その後実存分析という分野を切り開いた人である。生死の境をさまよった収容所での体験を綴ったのが、「夜と霧」であり、続編として「死と愛」が出されている。
もし、読まれてない方がいらっしゃるならぜひ読んでいただきたい。わたしは、彼の一連の著書に救われたし、「夜と霧」「死と愛」「生きる意味を求めて」「それでも人生にイエスと言う」「苦悩の存在論」「意味による癒し」等は、わたしの本棚の最重要書のコーナーを陣取っている。
彼を知って、人間を、人生を、単純な面だけから理解することがなくなった。幸不幸はそれほど単純なものではないと気づかせてくれたのである。
「現実においては生命における快・不快は直接にはそれほど重要ではない」(VEフランクル「死と愛」)
正確には彼の本を辿って欲しいが、快感は志向して得られるものではない。志向された快感は快感とはならない。たとえば睡眠も同じようなもので、眠ろう、眠ろうと努力しても眠れるものではなく、かえって睡眠は遠のいてしまうもの。快感も志向すればするほど快感から遠ざかってしまう。幸せも同じことである。幸せは結果として訪れるものであって、幸せを志向してもけっして幸せにはならない。「青い鳥」の教えと同じことである。
さらにフランクルは厳しいことを言う。
「人生はそれが困難になればなる程それだけ意味に充ちている」(V・E・フランクル「死と愛」)
恵まれて順調に行く人生より、むしろ苦難に満ちた人生に意味が満ちているというのだ。先の「人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか」で触れたが、順風満帆な平穏無事の一週間より、七転八倒し、苦難に満ちた一週間の方がより生きたという実感に溢れていると。フランクルは苦難に満ち、死んでしまいそうになるほど苦労した人生こそが、いまわのきわに深く手ごたえを感じると言っているのだ。わかったと言い切る自信はないが、間違いないと思う。そうでないとあまりに不公平であるからだ。そういうどんでん返しがなければ、「神」を許せる気になれない。
「成功とか効果とかに全く無関係になされる深い体験がある。外的な失敗にもかかわらず内的に充たされることがある」(V・E・フランクル「死と愛」)
「苦悩に充ちているということは人間にとっては充ち足りてないということではない。反対に人間は苦悩の中に成熟し、苦悩において成長するものであり、成功が彼に与えたであろうものよりも多くのものを苦悩は人間に与えたのである」(V・E・フランクル「死と愛」)
われわれはこの世界で総理大臣になることや、大金持ちになることが人生の成功者であるとは言えないのだ。巨億の富を持つことが成功ではないのだ。
甲子園でエラーした球児にも、深い喜びや熱い思い出は残るし、酒飲みの亭主に翻弄され、やくざになった子どもに苦労させられ続けた悲惨な80年の人生でも、あの世に旅立つときにありがとうございましたと感謝できるのである。自分のことは後にして、何ひとつおいしいものを食べてこなかったかもしれないけれど、喜ぶ子どもの顔に癒され、人の役に立つことに喜びを感じることができたのである。
「成果がなかったということは意味がなかったということを意味しない」(V・E・フランクル「死と愛」)
優勝することや、何らかの栄誉がなければつまらない人生ということにはならないのである。作家を目指し貧窮にまみれた人生でも、なんら賞をもらわなくとも、もし支えてくれる妻がいて、父の創った童話を喜ぶ子らがいれば、彼らが最高の読者であり、こうでなくては不幸だという前提を取っ払ってしまえば、幸せが足元にあることに気がつくのだ。
「自らの生命を犠牲にすることが生命に意義を与えるばかりでなく、生命は失敗においてすら充たされうる」(V・E・フランクル「死と愛」)
軽々に「きけわだつみの声」を例に上げてはいけないだろうが、たとえ間違った作戦だったとしても、特攻隊として身をささげた若者たちが母国や家族のために犠牲になった行為はけっして汚されることはない。責められるべきは、無能ゆえにそのような作戦を立て、若者たちを死地に逝かせながら、自らはのうのうと戦後も生き残っているお偉いさんたちであり、靖国を美化し、自らは安全な場所にいて、これからも若者を犠牲にしようと考える恥知らずの政治家たちである。
二十歳に満たない人生において何も成し遂げておらず、結婚もせず、恋愛すらも知らないでも、自らの生命を犠牲にして死んでいくことによって意義が与えられるというのだ。
むろんフランクルは人生において三つの価値があると言っている。まず、何かを成し遂げる、創り上げる創造価値。そしていろいろな経験、体験によって得られる体験価値。学業で何かを成したり、結婚して家庭を築いたり、恋をしたりする価値を否定しているわけではない。それらの価値と同じぐらい大事な態度価値というものがあると言うのだ。
態度的価値とは、第一の価値や第二の価値が行使できなくなったときでも、つまり筋萎縮症等の病気で何もできなくなっていくとき、また、癌になって生きることを限られたときのように、「自分の可能性が制約されているということがどうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか、その事実にどう適応し、その事実に対してどうふるまうか、その運命を自分に課せられた『十字架』としてどう引き受けるかに、生きる意味を見出すことができるのです」(V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」)
逃れられない運命にもその事実を受容することによって深い意味を見出すことができるというのだ。筋萎縮症の人がたったひとつ動かすことができる顔面の筋肉を使って、お世話をしてくれる母親や友人たちに笑顔で感謝を表すことで自分に意味を見出すことができる。人間はあきらめて自暴自棄になることもできるが、動かしようのない自らの運命のすべてを受容して、感謝の中に生きることを選ぶこともできるのだ。
「人生の困難は―たとえそれがどれほど大きかろうとも、大きければ大きいほど―われわれの現存在の課題性を増大させ、またそのことによって人生の意味を一層大きなものにする」(V・E・フランクル「意味への意志」)
「苦悩はまずひとつの業績たりうる。しかし苦悩―つまり正しい毅然たる苦悩―は実行することだけでなく、成長することをも意味している。わたしが苦悩をみずからに引き受け、みずからのうちに受け容れるとともに、わたしは成長し、道徳的エネルギーの強化を経験する」つまり「苦悩しているひとは、もはや運命を外面的に形づくることはできないが、苦悩はまさに運命を内的に克服するように苦悩する人を整える」
「苦悩は、ただ実行し、成長し、成熟することだけでなく、より豊かになることを意味している」(「苦悩の存在論」V・E・フランクル)
「(わたしたちがこれまでに知ったように、苦悩を引き受けることが必要である。苦悩を引き受け、受け容れることができるには、まずわたしたちは苦悩を志向しなければならない)志向された苦悩だけが苦悩でなくなる。ここに快感に対応するものが認められる。快感が志向されると、ただちに快感は快感でなくなる。快感を大事に思うひとにとっては、快感は消滅してしまう。快感は結果でしかありえない。意図ではない。結果されるのであって、意図されるのではない」(「苦悩の存在論」V・E・フランクル)
わたしの蛇足は要らないだろう。
「人間は多様な意味において楽しみのために地上に在るのではなく、また快感は人間の生命に意味をあたえることがない。それ故にまた、快感の欠如していることも生命から意味を取り去ることはできない」(V・E・フランクル「死と愛」)
ヴィクトール・E・フランクルとは誰だろう。
ご存知の方も多いかもしれないが、ウィーン生まれのユダヤ人で、アウシュヴィッツ収容所で生き残った心理学者である。若い頃からアドラーとフロイトに学び、その後実存分析という分野を切り開いた人である。生死の境をさまよった収容所での体験を綴ったのが、「夜と霧」であり、続編として「死と愛」が出されている。
もし、読まれてない方がいらっしゃるならぜひ読んでいただきたい。わたしは、彼の一連の著書に救われたし、「夜と霧」「死と愛」「生きる意味を求めて」「それでも人生にイエスと言う」「苦悩の存在論」「意味による癒し」等は、わたしの本棚の最重要書のコーナーを陣取っている。
彼を知って、人間を、人生を、単純な面だけから理解することがなくなった。幸不幸はそれほど単純なものではないと気づかせてくれたのである。
「現実においては生命における快・不快は直接にはそれほど重要ではない」(VEフランクル「死と愛」)
正確には彼の本を辿って欲しいが、快感は志向して得られるものではない。志向された快感は快感とはならない。たとえば睡眠も同じようなもので、眠ろう、眠ろうと努力しても眠れるものではなく、かえって睡眠は遠のいてしまうもの。快感も志向すればするほど快感から遠ざかってしまう。幸せも同じことである。幸せは結果として訪れるものであって、幸せを志向してもけっして幸せにはならない。「青い鳥」の教えと同じことである。
さらにフランクルは厳しいことを言う。
「人生はそれが困難になればなる程それだけ意味に充ちている」(V・E・フランクル「死と愛」)
恵まれて順調に行く人生より、むしろ苦難に満ちた人生に意味が満ちているというのだ。先の「人はなぜ生まれ、そして死んでいくのか」で触れたが、順風満帆な平穏無事の一週間より、七転八倒し、苦難に満ちた一週間の方がより生きたという実感に溢れていると。フランクルは苦難に満ち、死んでしまいそうになるほど苦労した人生こそが、いまわのきわに深く手ごたえを感じると言っているのだ。わかったと言い切る自信はないが、間違いないと思う。そうでないとあまりに不公平であるからだ。そういうどんでん返しがなければ、「神」を許せる気になれない。
「成功とか効果とかに全く無関係になされる深い体験がある。外的な失敗にもかかわらず内的に充たされることがある」(V・E・フランクル「死と愛」)
「苦悩に充ちているということは人間にとっては充ち足りてないということではない。反対に人間は苦悩の中に成熟し、苦悩において成長するものであり、成功が彼に与えたであろうものよりも多くのものを苦悩は人間に与えたのである」(V・E・フランクル「死と愛」)
われわれはこの世界で総理大臣になることや、大金持ちになることが人生の成功者であるとは言えないのだ。巨億の富を持つことが成功ではないのだ。
甲子園でエラーした球児にも、深い喜びや熱い思い出は残るし、酒飲みの亭主に翻弄され、やくざになった子どもに苦労させられ続けた悲惨な80年の人生でも、あの世に旅立つときにありがとうございましたと感謝できるのである。自分のことは後にして、何ひとつおいしいものを食べてこなかったかもしれないけれど、喜ぶ子どもの顔に癒され、人の役に立つことに喜びを感じることができたのである。
「成果がなかったということは意味がなかったということを意味しない」(V・E・フランクル「死と愛」)
優勝することや、何らかの栄誉がなければつまらない人生ということにはならないのである。作家を目指し貧窮にまみれた人生でも、なんら賞をもらわなくとも、もし支えてくれる妻がいて、父の創った童話を喜ぶ子らがいれば、彼らが最高の読者であり、こうでなくては不幸だという前提を取っ払ってしまえば、幸せが足元にあることに気がつくのだ。
「自らの生命を犠牲にすることが生命に意義を与えるばかりでなく、生命は失敗においてすら充たされうる」(V・E・フランクル「死と愛」)
軽々に「きけわだつみの声」を例に上げてはいけないだろうが、たとえ間違った作戦だったとしても、特攻隊として身をささげた若者たちが母国や家族のために犠牲になった行為はけっして汚されることはない。責められるべきは、無能ゆえにそのような作戦を立て、若者たちを死地に逝かせながら、自らはのうのうと戦後も生き残っているお偉いさんたちであり、靖国を美化し、自らは安全な場所にいて、これからも若者を犠牲にしようと考える恥知らずの政治家たちである。
二十歳に満たない人生において何も成し遂げておらず、結婚もせず、恋愛すらも知らないでも、自らの生命を犠牲にして死んでいくことによって意義が与えられるというのだ。
むろんフランクルは人生において三つの価値があると言っている。まず、何かを成し遂げる、創り上げる創造価値。そしていろいろな経験、体験によって得られる体験価値。学業で何かを成したり、結婚して家庭を築いたり、恋をしたりする価値を否定しているわけではない。それらの価値と同じぐらい大事な態度価値というものがあると言うのだ。
態度的価値とは、第一の価値や第二の価値が行使できなくなったときでも、つまり筋萎縮症等の病気で何もできなくなっていくとき、また、癌になって生きることを限られたときのように、「自分の可能性が制約されているということがどうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか、その事実にどう適応し、その事実に対してどうふるまうか、その運命を自分に課せられた『十字架』としてどう引き受けるかに、生きる意味を見出すことができるのです」(V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」)
逃れられない運命にもその事実を受容することによって深い意味を見出すことができるというのだ。筋萎縮症の人がたったひとつ動かすことができる顔面の筋肉を使って、お世話をしてくれる母親や友人たちに笑顔で感謝を表すことで自分に意味を見出すことができる。人間はあきらめて自暴自棄になることもできるが、動かしようのない自らの運命のすべてを受容して、感謝の中に生きることを選ぶこともできるのだ。
「人生の困難は―たとえそれがどれほど大きかろうとも、大きければ大きいほど―われわれの現存在の課題性を増大させ、またそのことによって人生の意味を一層大きなものにする」(V・E・フランクル「意味への意志」)
「苦悩はまずひとつの業績たりうる。しかし苦悩―つまり正しい毅然たる苦悩―は実行することだけでなく、成長することをも意味している。わたしが苦悩をみずからに引き受け、みずからのうちに受け容れるとともに、わたしは成長し、道徳的エネルギーの強化を経験する」つまり「苦悩しているひとは、もはや運命を外面的に形づくることはできないが、苦悩はまさに運命を内的に克服するように苦悩する人を整える」
「苦悩は、ただ実行し、成長し、成熟することだけでなく、より豊かになることを意味している」(「苦悩の存在論」V・E・フランクル)
「(わたしたちがこれまでに知ったように、苦悩を引き受けることが必要である。苦悩を引き受け、受け容れることができるには、まずわたしたちは苦悩を志向しなければならない)志向された苦悩だけが苦悩でなくなる。ここに快感に対応するものが認められる。快感が志向されると、ただちに快感は快感でなくなる。快感を大事に思うひとにとっては、快感は消滅してしまう。快感は結果でしかありえない。意図ではない。結果されるのであって、意図されるのではない」(「苦悩の存在論」V・E・フランクル)
わたしの蛇足は要らないだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます