競馬を始めてから最初に好きになった馬はまるで初恋のようである。いつまでも忘れられない。
昭和49(1974)年12月15日のことである。あまりに古い話で恐縮だが、初めてカブラヤオーと出会った。
競馬のブログのどこかで有馬記念の日と勘違いして書いたことがあるが、ネットで調べたら12月15日のことで、これは有馬記念の日ではない。おそらくクモハタ記念がメインレースの日だったと思う。
師匠と初めて東京競馬場に行った日から3週間後、今度は初めて中山競馬場へ乗り込んだ。
西船橋駅で降りてタクシーに乗り込む。乗り合いタクシーでひとり500円だったと思う。
東京競馬場の場合と違ってゴール前近くの1階スタンドで立ち見だった。レースが終わるとそのままコンコースを抜けたらパドックに出る。パドックを見て戻りながら途中の馬券売り場で馬券を買ってスタンドへ戻るというローテーション。
7レースあたりではなかったかと思う。パドックは馬主専用の後ろあたりから背伸びしながら見ていた。すると黒鹿毛の大きなお尻が見え、コーナーを回って向こうスタンド前を歩く好馬体の馬に見とれた。
「あの馬いいね!あの馬買おう」と思わず師匠に囁いたら彼も戦績を見ていたのだろう。すぐ同意した。
その馬がカブラヤオーだったのである。
新馬戦(ダート1200m)をどん尻から大外強襲のハナ差2着に敗れ、次戦の新馬戦(芝1200m)は3馬身の1着を経て、ここひいらぎ賞(芝1600m)に臨んできていたのである。
師匠に「7枠のハザマヒカリとの3―7は買った方がいいよ」というアドバイスを受けた。
レースはその言葉通りカブラヤオーが圧勝して、2着に6馬身離されてハザマヒカリがきた。連勝複式9,070円を特券(千円)でバッチリ取った。わたしも圧勝。当時単勝を買うことを知らなかったのは後々悔やんだものである。
次走のジュニアカップ(ダート1600m)は1.37.1秒の好タイムで大差の1着(10馬身以上は大差の表示だった)
そしていよいよ東京4歳ステークス(当時は数えの馬齢表示)で4連勝中の名牝テスコガビーとの対決となった。
カブラヤオーの所属する茂木厩舎の主戦ジョッキーは菅原泰男。そしてテスコガビーの仲住芳厩舎に頼まれて新馬から騎乗していたのも菅原泰男騎手だった。戦前菅原泰男がどの馬に乗るのか話題になったが、菅原は他厩舎の義理を重んじてテスコガビーに乗った。カブラヤオーは新馬からひいらぎ賞まで騎乗していた菅野澄夫になった。
テスコガビーは新馬戦(芝1200m)を7馬身の1着とし、つづく3歳S(芝1400m)1 3/4の1着と勝ち、京成杯3歳S(芝1200m)を1.10.2のレコードで4馬身快勝。京成杯4歳S(芝1600m)2着牡馬イシノマサルにアタマ差ながら快勝して東京4歳Sに駒を進めてきていた。
しかし、わたしはカブラヤオーで迷わなかった。なぜならジュニアCのダート1600メートルのタイム1.37.1秒は、テスコガビーの京成杯4歳Sの芝1600メートルのタイム1.37.5秒を上回っていたからである。
レースはカブラヤオーが逃げ、テスコガビーがその後ろにつける。
直線になってテスコガビーが詰め寄ると、苦しくなったのかカブラヤオーが大きく外にヨレてテスコガビーにぶつかりそうになった。そこから菅野は立て直して叩き合いの末カブラヤオーがクビ差の辛勝で終わった。
その後カブラヤオーは皐月賞をテレビ馬のレイクスプリンターとハナ争いをして前半1000mを58.9秒のハイペース(当時としては驚異的)で走り、相手のレイクスプリンターはレース中に骨折して予後不良の殺処分となっている。にも関わらずカブラヤオーは、202.5秒のレコードタイムで勝ったのである。
さらにダービーでも逃げる。前半1000mはさらに速い58.6秒。競っていたトップジローは4角手前で馬群に沈んでいった。カブラヤオーは直線外にヨレながらも二の脚を繰り出して2着ロングファストを1 1/4馬身差制して2.28.0秒のタイムで勝った。(これもレコードではなかったか?)
単勝配当120円。そんな馬券を買っていたわたしを師匠が笑った。
秋に向けてカブラヤオーは厩舎で過ごしていたが、蹄を切りすぎて蹄葉炎を発症し菊花賞を断念した。菊を摂ったのはコクサイプリンス(父フィダルゴ)はステイヤー血統であった。2着に3/4馬身差でロングファスト。カブラヤオーに何度も後塵を浴びせられていた馬だ。無事だったらきっと3冠に輝いていたはずだ。
翌年復帰して1年ぶりのオープン(ダート1700m)1/2馬身辛勝している。このレースの情報をキャッチしていなかったのでレースは見逃してしまった。
次走の約1ヶ月後のオープン(芝1800m)は師匠と一緒にテレビで観戦した。確かカブラヤオーは1枠①番だったと思う。
スタート直後②番のホクエイワンがヨレてカブラヤオーにぶつかった。カブラヤオーは内ラチに頭をぶつけて最後方のままレースが終わった。後で聞くと脳震盪を起こしたまま走っていたという。可哀そうに・・・。
その後わたしは沖縄に戻ったので彼の雄姿を見ることはできなかったが、短距離S(ダート1200m)とオープン(芝1600m)を2勝してから引退している。
13戦11勝負けた2レースは新馬初戦のハナ差2着と、脳震盪を起こしでビリになったこの2回だけであった。
つい語ってしまうが、やっぱり初恋と同じで、初めて競馬と出会い、初めて好きになった馬はこよなく愛おしい。それがわたしのカブラヤオーである。
一方テスコガビーはどうだったのか。
東京4歳Sの次戦が桜花賞だった。テスコガビーは快足を飛ばして、「先頭はテスコガビー!2着はまだ見えません!」という伝説の実況放送を残している。大差勝ちではあったが、いったい何馬身だったのだろう?
オークストライアルを3着と敗れて、距離の壁か?とマスコミを騒然とさせたがオークスでは8馬身の圧勝を演じている。
連戦の無理がたたったのか故障してやはり1年の休養に入ってしまった。
1970年から1975年まではヴィクトリアCが牝馬3冠目のレースだったようだ。1975年にエリザベス女王が初来日してそれを記念して翌年(1976年)からエリザベス女王杯と名称変更になったそうだ。
その最後の年のヴィクトリアCはヒダロマンとなっている。確か追い込みの鋭い馬だったように思うが、テスコガビーの相手ではなかった。無事だったらこれも3冠は間違いない。
1年後のオープン(ダート1200m)を6着に敗れていったん放牧に出されたが、放牧中に心臓マヒで亡くなったと聞いて驚いた。
10戦8勝。負けたレースは東京4歳Sでカブラヤオーにクビ差の2着になった時と最後のレースとなった1年休養明けの復帰戦の6着だけであった。名牝に間違いない。(追記:オークストライアルも敗れていたから11戦8勝だった)
クラッシックでの主戦ジョキーはどちらも菅原泰男騎手。菅原騎手にとっては盆と正月が一緒にやってきたという表現では足りないくらいだっただろう。一人の騎手が牡・牝の4冠をとったというだけでも凄いことだが、牡牝3冠を騎乗していたとしたらまさに奇跡としか言いようがない大記録だった。本当に惜しかった。
昭和49(1974)年12月15日のことである。あまりに古い話で恐縮だが、初めてカブラヤオーと出会った。
競馬のブログのどこかで有馬記念の日と勘違いして書いたことがあるが、ネットで調べたら12月15日のことで、これは有馬記念の日ではない。おそらくクモハタ記念がメインレースの日だったと思う。
師匠と初めて東京競馬場に行った日から3週間後、今度は初めて中山競馬場へ乗り込んだ。
西船橋駅で降りてタクシーに乗り込む。乗り合いタクシーでひとり500円だったと思う。
東京競馬場の場合と違ってゴール前近くの1階スタンドで立ち見だった。レースが終わるとそのままコンコースを抜けたらパドックに出る。パドックを見て戻りながら途中の馬券売り場で馬券を買ってスタンドへ戻るというローテーション。
7レースあたりではなかったかと思う。パドックは馬主専用の後ろあたりから背伸びしながら見ていた。すると黒鹿毛の大きなお尻が見え、コーナーを回って向こうスタンド前を歩く好馬体の馬に見とれた。
「あの馬いいね!あの馬買おう」と思わず師匠に囁いたら彼も戦績を見ていたのだろう。すぐ同意した。
その馬がカブラヤオーだったのである。
新馬戦(ダート1200m)をどん尻から大外強襲のハナ差2着に敗れ、次戦の新馬戦(芝1200m)は3馬身の1着を経て、ここひいらぎ賞(芝1600m)に臨んできていたのである。
師匠に「7枠のハザマヒカリとの3―7は買った方がいいよ」というアドバイスを受けた。
レースはその言葉通りカブラヤオーが圧勝して、2着に6馬身離されてハザマヒカリがきた。連勝複式9,070円を特券(千円)でバッチリ取った。わたしも圧勝。当時単勝を買うことを知らなかったのは後々悔やんだものである。
次走のジュニアカップ(ダート1600m)は1.37.1秒の好タイムで大差の1着(10馬身以上は大差の表示だった)
そしていよいよ東京4歳ステークス(当時は数えの馬齢表示)で4連勝中の名牝テスコガビーとの対決となった。
カブラヤオーの所属する茂木厩舎の主戦ジョッキーは菅原泰男。そしてテスコガビーの仲住芳厩舎に頼まれて新馬から騎乗していたのも菅原泰男騎手だった。戦前菅原泰男がどの馬に乗るのか話題になったが、菅原は他厩舎の義理を重んじてテスコガビーに乗った。カブラヤオーは新馬からひいらぎ賞まで騎乗していた菅野澄夫になった。
テスコガビーは新馬戦(芝1200m)を7馬身の1着とし、つづく3歳S(芝1400m)1 3/4の1着と勝ち、京成杯3歳S(芝1200m)を1.10.2のレコードで4馬身快勝。京成杯4歳S(芝1600m)2着牡馬イシノマサルにアタマ差ながら快勝して東京4歳Sに駒を進めてきていた。
しかし、わたしはカブラヤオーで迷わなかった。なぜならジュニアCのダート1600メートルのタイム1.37.1秒は、テスコガビーの京成杯4歳Sの芝1600メートルのタイム1.37.5秒を上回っていたからである。
レースはカブラヤオーが逃げ、テスコガビーがその後ろにつける。
直線になってテスコガビーが詰め寄ると、苦しくなったのかカブラヤオーが大きく外にヨレてテスコガビーにぶつかりそうになった。そこから菅野は立て直して叩き合いの末カブラヤオーがクビ差の辛勝で終わった。
その後カブラヤオーは皐月賞をテレビ馬のレイクスプリンターとハナ争いをして前半1000mを58.9秒のハイペース(当時としては驚異的)で走り、相手のレイクスプリンターはレース中に骨折して予後不良の殺処分となっている。にも関わらずカブラヤオーは、202.5秒のレコードタイムで勝ったのである。
さらにダービーでも逃げる。前半1000mはさらに速い58.6秒。競っていたトップジローは4角手前で馬群に沈んでいった。カブラヤオーは直線外にヨレながらも二の脚を繰り出して2着ロングファストを1 1/4馬身差制して2.28.0秒のタイムで勝った。(これもレコードではなかったか?)
単勝配当120円。そんな馬券を買っていたわたしを師匠が笑った。
秋に向けてカブラヤオーは厩舎で過ごしていたが、蹄を切りすぎて蹄葉炎を発症し菊花賞を断念した。菊を摂ったのはコクサイプリンス(父フィダルゴ)はステイヤー血統であった。2着に3/4馬身差でロングファスト。カブラヤオーに何度も後塵を浴びせられていた馬だ。無事だったらきっと3冠に輝いていたはずだ。
翌年復帰して1年ぶりのオープン(ダート1700m)1/2馬身辛勝している。このレースの情報をキャッチしていなかったのでレースは見逃してしまった。
次走の約1ヶ月後のオープン(芝1800m)は師匠と一緒にテレビで観戦した。確かカブラヤオーは1枠①番だったと思う。
スタート直後②番のホクエイワンがヨレてカブラヤオーにぶつかった。カブラヤオーは内ラチに頭をぶつけて最後方のままレースが終わった。後で聞くと脳震盪を起こしたまま走っていたという。可哀そうに・・・。
その後わたしは沖縄に戻ったので彼の雄姿を見ることはできなかったが、短距離S(ダート1200m)とオープン(芝1600m)を2勝してから引退している。
13戦11勝負けた2レースは新馬初戦のハナ差2着と、脳震盪を起こしでビリになったこの2回だけであった。
つい語ってしまうが、やっぱり初恋と同じで、初めて競馬と出会い、初めて好きになった馬はこよなく愛おしい。それがわたしのカブラヤオーである。
一方テスコガビーはどうだったのか。
東京4歳Sの次戦が桜花賞だった。テスコガビーは快足を飛ばして、「先頭はテスコガビー!2着はまだ見えません!」という伝説の実況放送を残している。大差勝ちではあったが、いったい何馬身だったのだろう?
オークストライアルを3着と敗れて、距離の壁か?とマスコミを騒然とさせたがオークスでは8馬身の圧勝を演じている。
連戦の無理がたたったのか故障してやはり1年の休養に入ってしまった。
1970年から1975年まではヴィクトリアCが牝馬3冠目のレースだったようだ。1975年にエリザベス女王が初来日してそれを記念して翌年(1976年)からエリザベス女王杯と名称変更になったそうだ。
その最後の年のヴィクトリアCはヒダロマンとなっている。確か追い込みの鋭い馬だったように思うが、テスコガビーの相手ではなかった。無事だったらこれも3冠は間違いない。
1年後のオープン(ダート1200m)を6着に敗れていったん放牧に出されたが、放牧中に心臓マヒで亡くなったと聞いて驚いた。
10戦8勝。負けたレースは東京4歳Sでカブラヤオーにクビ差の2着になった時と最後のレースとなった1年休養明けの復帰戦の6着だけであった。名牝に間違いない。(追記:オークストライアルも敗れていたから11戦8勝だった)
クラッシックでの主戦ジョキーはどちらも菅原泰男騎手。菅原騎手にとっては盆と正月が一緒にやってきたという表現では足りないくらいだっただろう。一人の騎手が牡・牝の4冠をとったというだけでも凄いことだが、牡牝3冠を騎乗していたとしたらまさに奇跡としか言いようがない大記録だった。本当に惜しかった。
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