サイレンススズカは父サンデーサイレンス、母ワキア(ミスワキ)の快足馬である。
新馬戦を1.35.2秒のタイムで7馬差の圧勝を演じたが、3歳時(現在の月齢に変えてある)は500万下とプリンシパルSを勝っただけだった。抑えの効かない快速ぶりで、行ったっきりのレースが多かった。
師匠は古馬(4歳)になれば凄い馬になると言っていた。
そして、4歳になって変身した。2月14日のバレンタインS(オープン)、中山記念(GⅡ)、小倉大賞典(GⅢ)、金鯱賞(GⅡ)、宝塚記念(GⅠ)、毎日王冠(GⅡ)と、怒涛の6連勝を駆けあがったのである。
98年天皇賞(秋)のレースの後、毎日王冠を振り返った日記があった。
「あの、サイレンススズカ、エルコンドルパサー、グラスワンダーが会したレースである。
サイレンススズカが1.44.9秒で快勝した。エルコンドルパサー(2着)はNHKマイルから4か月後、グラスワンダー(5着)は朝日杯からの9カ月にわたる休養明けだった。
エルコンドルパサーに最後には2馬身半まで詰め寄られたが、サイレンススズカは1.44.9秒の超レコードで走ってしまった。
じつは、次走の天皇賞(秋)の4コーナーで骨折し殺処分になった原因がここにあるのではないかと思った。
エルコンドルパサーはこの後ジャパンCを制し、その翌年、凱旋門賞を2着惜敗した超A級馬だった。もう一角のグラスワンダーはこの後有馬記念を2勝し、宝塚記念も制するA級馬だったのだ。
サイレンススズカは、このレースであらん限りの能力を出し切ってしまったのではないか?
目に見えない疲労が、彼をむしばんでいたのではないか?」
前半1000mを57.4秒で飛ばしていたサイレンススズカが、4コーナー手前で突然失速した。故障が発生したのである。
快足ゆえというより、常に全力で走らざるを得ない真面目ホースの結末なのかもしれない。
駆け上がるように星になった。
新馬戦を1.35.2秒のタイムで7馬差の圧勝を演じたが、3歳時(現在の月齢に変えてある)は500万下とプリンシパルSを勝っただけだった。抑えの効かない快速ぶりで、行ったっきりのレースが多かった。
師匠は古馬(4歳)になれば凄い馬になると言っていた。
そして、4歳になって変身した。2月14日のバレンタインS(オープン)、中山記念(GⅡ)、小倉大賞典(GⅢ)、金鯱賞(GⅡ)、宝塚記念(GⅠ)、毎日王冠(GⅡ)と、怒涛の6連勝を駆けあがったのである。
98年天皇賞(秋)のレースの後、毎日王冠を振り返った日記があった。
「あの、サイレンススズカ、エルコンドルパサー、グラスワンダーが会したレースである。
サイレンススズカが1.44.9秒で快勝した。エルコンドルパサー(2着)はNHKマイルから4か月後、グラスワンダー(5着)は朝日杯からの9カ月にわたる休養明けだった。
エルコンドルパサーに最後には2馬身半まで詰め寄られたが、サイレンススズカは1.44.9秒の超レコードで走ってしまった。
じつは、次走の天皇賞(秋)の4コーナーで骨折し殺処分になった原因がここにあるのではないかと思った。
エルコンドルパサーはこの後ジャパンCを制し、その翌年、凱旋門賞を2着惜敗した超A級馬だった。もう一角のグラスワンダーはこの後有馬記念を2勝し、宝塚記念も制するA級馬だったのだ。
サイレンススズカは、このレースであらん限りの能力を出し切ってしまったのではないか?
目に見えない疲労が、彼をむしばんでいたのではないか?」
前半1000mを57.4秒で飛ばしていたサイレンススズカが、4コーナー手前で突然失速した。故障が発生したのである。
快足ゆえというより、常に全力で走らざるを得ない真面目ホースの結末なのかもしれない。
駆け上がるように星になった。
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