この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

師匠の競馬

2021-01-28 07:55:00 | たかが競馬、されど競馬
師匠の競馬には天才的な閃きがあった。追悼を込めて想い出を語ろう。
かつて「たかが競馬、されど競馬」というブログを書いていたことがある。やめて削除する前にプリントアウトしたと思うが、見つからない。ネットにカケラも出てこない。夢だったのかな?
ともあれ、そのブログも忍んでカテゴリー名にする。

師匠とふたりで88kkという競馬会社を作っている時のことだ。師匠が沖縄に戻り家業を次兄ともに継ぎ、逆にわたしは仕事を求めて東京に渡ってしばらくたった頃である。
毎週わたしが競馬専門紙「馬」を彼に送る。金・土曜日に彼から電話が入る。枠順を伝える。
昭和53(1978)年頃、当時の沖縄には競馬新聞はおろか、スポーツ新聞すら航空便で午後3時頃書店に並ぶくらいだった。その頃の競馬談義はいつか語ろう。

こんな日が続いていたところ、師匠がいきなり10万円を送ってきた。お互いにお金を出しあって競馬会社をやろうというのである。88KKという名前は、初めて師匠に競馬に誘われて大勝した時のメインレースのダービー卿CTの8-8の馬券である。31,760円の配当は当時重賞で最高配当額だった。これもいつか語ろう。
しかし、当時のわたしに資金の余裕はなく結局彼の元手でスタートすることになった。
土曜日の晩彼が電話をかけてきて検討会である。ほとんど彼のアイデアでわたしに異議がなければ決まった。ほとんど異議のありようはなかった。最初のレースは中山記念だった。どこかで書いたことはあると思うが、この時の顛末も語りたい。

さて、第41回オークスだから、昭和55(1980)年のことである。
「ケイキロクを買いたい」と彼が言った。出走することすら頭になかったわたしは吃驚したが、彼の強い思いに反対しなかった。外れたとしてもほとんど彼のお金だ。
競馬新聞やら資料はもうずいぶん昔に処分してしまったので詳しくは語れないが、ネットで見ると京都4歳(当時)牝馬特別3着で駒を進めてきたようである。主戦の田原成貴が騎乗停止、以前に乗っていた武邦彦はケイシャープという同馬主の有力馬に決まっていたので、まったくのテン乗りの岡部幸雄に決まったらしい。
当日は土砂降りの不良馬場になったことは憶えている。貸衣装の配達の途中、車を止めてラジオ中継を聞いていた。
すると馬群の中から猛然とケイキロクが来るではないか!アナウンサーの連呼はまるで目に見えるようだった。残念ながら連勝は外していたが、単勝配当2,200円を5万円勝っていたから110万円の配当である。
父ラディガはダート馬をよく配した。その血統が田んぼのような馬場で生きたのかもしれないが、師匠がケイキロクを選んだ理由はよくわかっていない。
<つづく>

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