暮れにオーダーしたのが「取り寄せ中」とかで、今日、やっと届きました。
「英雄」は先日、朝比奈さんの演奏を採りあげたばかりですが、今回の4枚の1枚目ということで、さっそく聴いてみました。
ちょっとチェリ賛です。彼が嫌いな人は読まない方がエエかもね。
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」
管弦楽:スウェーデン放送交響楽団
指揮:セルジウ・チェリビダッケ
録音:1970年
チェリビダッケの「英雄」と言えば、最初に聴いた1975年にFMで放送されたシュトゥットガルト放送響との演奏が大変なインパクトでした。
これは、あの演奏に5年ほど先立つスウェーデン放送響とのライヴ。
演奏は、よく似ているところもあり、かなり違う面もあります。
似ている所は、たとえば第2楽章の二重フーガにおける管で始まる方のメロディの受け渡しを楽譜にない(たぶん)ホルンを追加して、明確にさせているところや、全体に木管楽器を雄弁に吹かせているところ。
違うところは、シュトゥットガルトでのライヴ以降によく聴かれる、弱音主体というか強音部分でもかなり音量をコントロールしたような独特の響きはあまり聴かれず、凡千(?)の他演奏と同様な、けっこう「強い所は強い」「メリハリも人並みに」というアプローチが主流となっていることです。
まだ「英雄」しか聴いていないので、あくまでもこの1曲での印象です。
それにしても、チェリ独特の晴朗な響きは、ここでも魅力的ですし、先に書いたように木管がすごく「ものを言っている」ことによって、特に第1楽章などは、どこもかしこも聴いてて緊張が途切れることがない様相です。
そのやり方をさらに推し進めて、強奏時に独特なオルガンのような響きを創り出していたのが後のシュトゥットガルト・ライヴでした。
あっちの方は、アタックの角がさらに丸く磨かれて、初めて聴いた時は、かなり異色な「英雄」だと感じましたが、ピリオドから何から、もういろんな演奏が出尽くしているような今となっては、あの「英雄」も「オーソドックス」とさえ思えてしまいます。単に「聴き慣れた」だけなのかも知れませんがね。
とにかく、このスウェーデン盤は、若いころの(旧来の)スタイルと後のスタイルとが程よく共存していることによって、透明度抜群でありながら頭に血が昇るような爆発力も味わえる素晴らしい演奏でした。
ま、それにしてもあの第2楽章は凄いですね。圧倒されます。
私は音楽(演奏)を評するときによくつかわれる「人工的」という言い方が、いまだにどういうことなのか分かりません。「人工的」「自然」「恣意的」・・・・なんなんでしょうね。ただ聴いてそう感じたっていう意味なのかな?
チェリビダッケの指揮した演奏は、いつも「チェリビダッケらしく」て「とても、その曲らしさ」を大事にしていると、私は感じます。
↓HMVサイト
「英雄」は先日、朝比奈さんの演奏を採りあげたばかりですが、今回の4枚の1枚目ということで、さっそく聴いてみました。
ちょっとチェリ賛です。彼が嫌いな人は読まない方がエエかもね。
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」
管弦楽:スウェーデン放送交響楽団
指揮:セルジウ・チェリビダッケ
録音:1970年
チェリビダッケの「英雄」と言えば、最初に聴いた1975年にFMで放送されたシュトゥットガルト放送響との演奏が大変なインパクトでした。
これは、あの演奏に5年ほど先立つスウェーデン放送響とのライヴ。
演奏は、よく似ているところもあり、かなり違う面もあります。
似ている所は、たとえば第2楽章の二重フーガにおける管で始まる方のメロディの受け渡しを楽譜にない(たぶん)ホルンを追加して、明確にさせているところや、全体に木管楽器を雄弁に吹かせているところ。
違うところは、シュトゥットガルトでのライヴ以降によく聴かれる、弱音主体というか強音部分でもかなり音量をコントロールしたような独特の響きはあまり聴かれず、凡千(?)の他演奏と同様な、けっこう「強い所は強い」「メリハリも人並みに」というアプローチが主流となっていることです。
まだ「英雄」しか聴いていないので、あくまでもこの1曲での印象です。
それにしても、チェリ独特の晴朗な響きは、ここでも魅力的ですし、先に書いたように木管がすごく「ものを言っている」ことによって、特に第1楽章などは、どこもかしこも聴いてて緊張が途切れることがない様相です。
そのやり方をさらに推し進めて、強奏時に独特なオルガンのような響きを創り出していたのが後のシュトゥットガルト・ライヴでした。
あっちの方は、アタックの角がさらに丸く磨かれて、初めて聴いた時は、かなり異色な「英雄」だと感じましたが、ピリオドから何から、もういろんな演奏が出尽くしているような今となっては、あの「英雄」も「オーソドックス」とさえ思えてしまいます。単に「聴き慣れた」だけなのかも知れませんがね。
とにかく、このスウェーデン盤は、若いころの(旧来の)スタイルと後のスタイルとが程よく共存していることによって、透明度抜群でありながら頭に血が昇るような爆発力も味わえる素晴らしい演奏でした。
ま、それにしてもあの第2楽章は凄いですね。圧倒されます。
私は音楽(演奏)を評するときによくつかわれる「人工的」という言い方が、いまだにどういうことなのか分かりません。「人工的」「自然」「恣意的」・・・・なんなんでしょうね。ただ聴いてそう感じたっていう意味なのかな?
チェリビダッケの指揮した演奏は、いつも「チェリビダッケらしく」て「とても、その曲らしさ」を大事にしていると、私は感じます。
↓HMVサイト
書いたのが昨日でしたので・・・。
「人工的」・・・音楽評論家は、「技巧がわざとらしい」という意味を無機的な言葉に言い換えて使うのでしょう。
音楽は、人が作っているものですが、好意的な表現ではないのでしょうね。
指揮者の指示や意図が目立たなくて、奏者の自発性の方が勝っている演奏を「自然」とか言うのかな?よくわかりませんが、どっちにしてもつまらない演奏もありますね。