昨日、大阪フィル定期を聴いてきました。
一昨年の「ミサ」以来18か月ぶりの大阪遠征でした。
体調万全ではありませんでしたが、バーンスタイン作品とあれば可能な限り聴きに行かずにいられません。
1曲目は「キャンディード」序曲。
開始と同時に瞬時に惹きこまれました。
ティンパニの打音は、ただデカいだけではなく、音の閉まり具合といい絶妙なリズム感といい、すこぶる心地良かったです。
そして例のメロディでの、いままでのディスクや本番では聴いたことがない美しい歌わせ方に陶然。
作曲者指揮の演奏をしのぐ魅惑の演奏。
抑揚や強弱の変化が少しも厭味でなく淡く美しくて、連れ去られて(?)しまいました。
ダイナミックな部分との対比が生で聴くと本当にすばらしかったです。
スラットキン氏は、お辞儀のあと袖に引っ込むことなく指揮台に留まり、そのまま2曲目 「田舎道を下って」(コープランド)へ。
ピアノ学習者のためのピアノ小品を作曲者自身がユース・オーケストラのために編曲したものとのこと。
曲名そのままに牧歌的で美しい曲でした。
私は「キャンディード」の余韻の中で「途中休憩」モードで聴いておりました。
なお、プログラムによると、「特定の田舎を描写したものでなく、曲題も完成後に思いついた」とのことです。
そして、舞台上では、けっこう大がかりな配置転換が行われ、いよいよ当日最も楽しみにしていた 「チチェスター詩篇」です。
この曲は、バーンスタイン作品の中でも特に一般受けする名曲の部類に入るかと思います。
録音もいくつか出ています。
私が持っているのは、作曲者指揮による演奏では、おなじみの新旧2種と1975年のザルツブルグでロンドン響他を振ったエアチェック録音、DG録音とほぼ同時期にベルリンで演奏した模様を収めたDVD(なぜか国内リリース無し)の計4種、あとは佐渡裕とオールソップの全部で6種です。
この曲には所謂「バーンスタイン節(ぶし)」、バーンスタイン・リズム、バーンスタイン式起承転結構成など、バーンスタイン作品のエッセンスがちょうどよい演奏時間の中に凝縮されています。
そして、途中はいろいろあっても最後は「祈り」を伴って「未来肯定的」な気分に包まれた美しいフィナーレへと終結する、という「いつもの」(?)パターンが踏襲されています。
バーンスタイン作曲の「ミサ」、そのミニ版的な感じもしないでもないですね。
ディスクで聴いても、かなり感銘深い曲ですが、これを生で聴いたらどうなのか?
ワクワクして演奏を待ちました。
そして、結果は・・・期待を大きく上回る、と言うよりも想像をはるかに超えたインパクトであり感動でありました。
とにかく合唱とカウンターテナーの藤木大地氏は圧倒的でした。
もちろん、スラットキン指揮の大フィルも素晴らしかった。時折炸裂する打楽器群は最高にカッコよくてシビれました。
そして、この多種多様な楽器編成の音楽に向かっていく驚くべき全員の一体感!
音色的にも、オケと合唱がこれほどまでに融和していて、しかも各声部が明瞭に聴き取れる演奏って稀ではないでしょうか?
コンサート体験の少ない私が言うのもなんですが、たくさん聴きこんでいらっしゃる方はどう思われたのでしょうね。
第1楽章終結間際の無音からピアニシモそしてフォルテへと移る(たぶんかなり難しいのではないかと思われる)箇所の合唱は鳥肌ものでした。
「鳥肌」って、よく使う言葉ですが実際の生活では、ほとんど立ちませんよ。
そして、さらに鳥肌ものだったのが第2楽章の藤木さん。
TVでは何度か鑑賞しておりましたが、とにかく生のオーラと言いましょうか、存在感がハンパなく、おそらくはご本人もこの曲には期するものがあったのではないかと思いますが、歌い出す前から、もっと言えば、ステージに登場される時の歩み、お辞儀や椅子へ座る仕草など全てに、私は尋常でない氏の気概と言うか気合いを感じたのでした。
それは私の勝手な思い込みだったかも知れませんが、でも、そう感じたのです。
ですから、第2楽章で氏が歌いだされたときは、もうメロメロ。
鳥肌プラス涙腺崩壊でした。
長い音符での美しく安定した声、ボーイ・ソプラノでは成しえない深々としたカウンターテナー特有の、どこか俗世離れした空気が会場内に満ちました。
現世のちまちました約束事や慣習のちっぽけさを思わされました。
合唱は静かな部分、叙情的な部分でいよいよ本領発揮。
けっこう大人数ですが、眼を閉じて聴いていると「室内合唱」と思えるほどの透明感。
時折挟まれる合唱団員の方によるソロも全く安心して聴いていられました。
そして、(バーンスタイン作曲の)「ミサ」の雰囲気を思わせる、やや混沌とした第3楽章の出だしから、やがて合唱の虹のようなユニゾン(だったかな?)が繰り広げられ、圧巻は終結前2分ほどからのア・カペラ以降。
「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。」
アーメン
バーンスタインの願いと祈りが集約された、希望を感じさせるフィナーレですが、ここでの大阪フィルハーモニー合唱団は特にすごかった!
私は聴いていて、この合唱でこそマーラーの「復活」の合唱の入り部分を聴いてみたいなどと思ったりもしました。
第2楽章で藤木氏が会場に放った空気はまだ残っていて、故に2楽章以降、私はずっと涙目でステージを観、耳を傾けていました。
合唱指揮の福島章恭氏と合唱団のご活躍は、ネット上でうかがい知る程度だったのですが、今回実際に耳にして、その充実ぶりに大いに感銘をうけました。
You-tubeにこのコンビによる「水のいのち」(全曲)がアップされています(下に張り付けてあります)。
アマチュア、プロを問わず、これほどに楽譜と言葉のみを大事にした演奏を聴いたことがありません。
多くは、もっと細部に仕掛けがあったり(その程度はまちまちですが)何かしら工夫を凝らしたりという演奏がほとんど(少なくとも私が聴いてきた実演や録音に関しては)ですが、この演奏では指揮者も合唱も驚くほど意識されることなく、ただただ高野喜久雄と高田三郎の世界にだけ対峙できるのです。
そのスタンスは自己主張主体スタイルの対極であり、大変厳しい営みの賜物であることは間違いありません。
こんな合唱団と指揮者ですから、今日のような驚くべき「チチェスター詩篇」が実現したのでしょう。
指揮者のスラットキン氏も、合唱を絶賛していたとのことです。
後半のプログラム(コープランド/交響曲第3番)については、次回で書きます。
● 合唱指揮の福島章恭さんのブログ「福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ」
170910 大阪クラシック 水のいのち
一昨年の「ミサ」以来18か月ぶりの大阪遠征でした。
体調万全ではありませんでしたが、バーンスタイン作品とあれば可能な限り聴きに行かずにいられません。
1曲目は「キャンディード」序曲。
開始と同時に瞬時に惹きこまれました。
ティンパニの打音は、ただデカいだけではなく、音の閉まり具合といい絶妙なリズム感といい、すこぶる心地良かったです。
そして例のメロディでの、いままでのディスクや本番では聴いたことがない美しい歌わせ方に陶然。
作曲者指揮の演奏をしのぐ魅惑の演奏。
抑揚や強弱の変化が少しも厭味でなく淡く美しくて、連れ去られて(?)しまいました。
ダイナミックな部分との対比が生で聴くと本当にすばらしかったです。
スラットキン氏は、お辞儀のあと袖に引っ込むことなく指揮台に留まり、そのまま2曲目 「田舎道を下って」(コープランド)へ。
ピアノ学習者のためのピアノ小品を作曲者自身がユース・オーケストラのために編曲したものとのこと。
曲名そのままに牧歌的で美しい曲でした。
私は「キャンディード」の余韻の中で「途中休憩」モードで聴いておりました。
なお、プログラムによると、「特定の田舎を描写したものでなく、曲題も完成後に思いついた」とのことです。
そして、舞台上では、けっこう大がかりな配置転換が行われ、いよいよ当日最も楽しみにしていた 「チチェスター詩篇」です。
この曲は、バーンスタイン作品の中でも特に一般受けする名曲の部類に入るかと思います。
録音もいくつか出ています。
私が持っているのは、作曲者指揮による演奏では、おなじみの新旧2種と1975年のザルツブルグでロンドン響他を振ったエアチェック録音、DG録音とほぼ同時期にベルリンで演奏した模様を収めたDVD(なぜか国内リリース無し)の計4種、あとは佐渡裕とオールソップの全部で6種です。
この曲には所謂「バーンスタイン節(ぶし)」、バーンスタイン・リズム、バーンスタイン式起承転結構成など、バーンスタイン作品のエッセンスがちょうどよい演奏時間の中に凝縮されています。
そして、途中はいろいろあっても最後は「祈り」を伴って「未来肯定的」な気分に包まれた美しいフィナーレへと終結する、という「いつもの」(?)パターンが踏襲されています。
バーンスタイン作曲の「ミサ」、そのミニ版的な感じもしないでもないですね。
ディスクで聴いても、かなり感銘深い曲ですが、これを生で聴いたらどうなのか?
ワクワクして演奏を待ちました。
そして、結果は・・・期待を大きく上回る、と言うよりも想像をはるかに超えたインパクトであり感動でありました。
とにかく合唱とカウンターテナーの藤木大地氏は圧倒的でした。
もちろん、スラットキン指揮の大フィルも素晴らしかった。時折炸裂する打楽器群は最高にカッコよくてシビれました。
そして、この多種多様な楽器編成の音楽に向かっていく驚くべき全員の一体感!
音色的にも、オケと合唱がこれほどまでに融和していて、しかも各声部が明瞭に聴き取れる演奏って稀ではないでしょうか?
コンサート体験の少ない私が言うのもなんですが、たくさん聴きこんでいらっしゃる方はどう思われたのでしょうね。
第1楽章終結間際の無音からピアニシモそしてフォルテへと移る(たぶんかなり難しいのではないかと思われる)箇所の合唱は鳥肌ものでした。
「鳥肌」って、よく使う言葉ですが実際の生活では、ほとんど立ちませんよ。
そして、さらに鳥肌ものだったのが第2楽章の藤木さん。
TVでは何度か鑑賞しておりましたが、とにかく生のオーラと言いましょうか、存在感がハンパなく、おそらくはご本人もこの曲には期するものがあったのではないかと思いますが、歌い出す前から、もっと言えば、ステージに登場される時の歩み、お辞儀や椅子へ座る仕草など全てに、私は尋常でない氏の気概と言うか気合いを感じたのでした。
それは私の勝手な思い込みだったかも知れませんが、でも、そう感じたのです。
ですから、第2楽章で氏が歌いだされたときは、もうメロメロ。
鳥肌プラス涙腺崩壊でした。
長い音符での美しく安定した声、ボーイ・ソプラノでは成しえない深々としたカウンターテナー特有の、どこか俗世離れした空気が会場内に満ちました。
現世のちまちました約束事や慣習のちっぽけさを思わされました。
合唱は静かな部分、叙情的な部分でいよいよ本領発揮。
けっこう大人数ですが、眼を閉じて聴いていると「室内合唱」と思えるほどの透明感。
時折挟まれる合唱団員の方によるソロも全く安心して聴いていられました。
そして、(バーンスタイン作曲の)「ミサ」の雰囲気を思わせる、やや混沌とした第3楽章の出だしから、やがて合唱の虹のようなユニゾン(だったかな?)が繰り広げられ、圧巻は終結前2分ほどからのア・カペラ以降。
「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。」
アーメン
バーンスタインの願いと祈りが集約された、希望を感じさせるフィナーレですが、ここでの大阪フィルハーモニー合唱団は特にすごかった!
私は聴いていて、この合唱でこそマーラーの「復活」の合唱の入り部分を聴いてみたいなどと思ったりもしました。
第2楽章で藤木氏が会場に放った空気はまだ残っていて、故に2楽章以降、私はずっと涙目でステージを観、耳を傾けていました。
合唱指揮の福島章恭氏と合唱団のご活躍は、ネット上でうかがい知る程度だったのですが、今回実際に耳にして、その充実ぶりに大いに感銘をうけました。
You-tubeにこのコンビによる「水のいのち」(全曲)がアップされています(下に張り付けてあります)。
アマチュア、プロを問わず、これほどに楽譜と言葉のみを大事にした演奏を聴いたことがありません。
多くは、もっと細部に仕掛けがあったり(その程度はまちまちですが)何かしら工夫を凝らしたりという演奏がほとんど(少なくとも私が聴いてきた実演や録音に関しては)ですが、この演奏では指揮者も合唱も驚くほど意識されることなく、ただただ高野喜久雄と高田三郎の世界にだけ対峙できるのです。
そのスタンスは自己主張主体スタイルの対極であり、大変厳しい営みの賜物であることは間違いありません。
こんな合唱団と指揮者ですから、今日のような驚くべき「チチェスター詩篇」が実現したのでしょう。
指揮者のスラットキン氏も、合唱を絶賛していたとのことです。
後半のプログラム(コープランド/交響曲第3番)については、次回で書きます。
● 合唱指揮の福島章恭さんのブログ「福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ」
170910 大阪クラシック 水のいのち
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