
昨日、職場の図書コーナーで、ちょっと久しぶりに出会った本。
ずっと前に、どこかで読んだ時は、たいして心動かず「ふぅ~ん」って感じだったが、昨日、読み返してみると、これはなかなかの本だと思った。
アバドの
たのしい音楽会
クラウディオ・アバド 文
パオロ・カルドニ 絵
石井 勇/末松多壽子 訳
評論社
本は、アバドの遠い幼少時の記憶から始まる。
彼にとって、音楽は、家族同様に、物心つくかつかないかの頃から「当たり前」に身近にあった。
幼少のころ、子ども部屋のドア越しにパパとママのヴァイオリンの対話に耳をすませた記憶。
78回転のレコードから、とうして、こんな機械の中に入って音が出せるのかと考えたこと。
スカラ座の天上桟敷から見下ろして聴いたドビュッシーの「夜想曲」の「祭り」の魔法のような思い出。
家族6人で「マタイ受難曲」を演奏したこと。
などなど・・・楽しく夢のようなエピソードの数々。
絵本の後半は、オーケストラの楽器や楽曲の形態、指揮者の仕事について書かれているが、そこここにアバドのポリシーが見え隠れしている。
「あとがき」とは明記されていないが、最後のページの一部に、こんなことが書いてあった。
よく息子や、その友達など、いろいろなひとたちから、“音楽はどのように聴くのがいいのか”と、聞かれます。そのたびに、ちょっとまごついてしまうのです。なぜなら、私にとって、音楽に耳を傾けるのは、まったく自然な、当たり前のことなので、ことばで説明しようとしても、難しいからです。
ひとは、それぞれ、なにかちがったもの、そのひとだけが感じることを、音楽のなかにみつけるのだと思います。それはたぶん、そのひと自身の経験のひとかけら、あるいは感動の一部なのでしょう。
私たちは、自分の想像力や、空想の力を働かせて音楽を聴くのだと思います。楽譜を読むのも同じ作業だといえましょう。(引用ここまで)
この本を読んで、かつてのアバドのように、音楽の深い深い、そして究めても究めても高みが続く、その魅力的な世界へと誘われる子が、きっと、どこかにいるだろう。
その稀な出会いを待つかのように、この古ぼけた本は図書コーナーの一角で目立つことなく立てられていた。
ずっと前に、どこかで読んだ時は、たいして心動かず「ふぅ~ん」って感じだったが、昨日、読み返してみると、これはなかなかの本だと思った。
アバドの
たのしい音楽会
クラウディオ・アバド 文
パオロ・カルドニ 絵
石井 勇/末松多壽子 訳
評論社
本は、アバドの遠い幼少時の記憶から始まる。
彼にとって、音楽は、家族同様に、物心つくかつかないかの頃から「当たり前」に身近にあった。
幼少のころ、子ども部屋のドア越しにパパとママのヴァイオリンの対話に耳をすませた記憶。
78回転のレコードから、とうして、こんな機械の中に入って音が出せるのかと考えたこと。
スカラ座の天上桟敷から見下ろして聴いたドビュッシーの「夜想曲」の「祭り」の魔法のような思い出。
家族6人で「マタイ受難曲」を演奏したこと。
などなど・・・楽しく夢のようなエピソードの数々。
絵本の後半は、オーケストラの楽器や楽曲の形態、指揮者の仕事について書かれているが、そこここにアバドのポリシーが見え隠れしている。
「あとがき」とは明記されていないが、最後のページの一部に、こんなことが書いてあった。
よく息子や、その友達など、いろいろなひとたちから、“音楽はどのように聴くのがいいのか”と、聞かれます。そのたびに、ちょっとまごついてしまうのです。なぜなら、私にとって、音楽に耳を傾けるのは、まったく自然な、当たり前のことなので、ことばで説明しようとしても、難しいからです。
ひとは、それぞれ、なにかちがったもの、そのひとだけが感じることを、音楽のなかにみつけるのだと思います。それはたぶん、そのひと自身の経験のひとかけら、あるいは感動の一部なのでしょう。
私たちは、自分の想像力や、空想の力を働かせて音楽を聴くのだと思います。楽譜を読むのも同じ作業だといえましょう。(引用ここまで)
この本を読んで、かつてのアバドのように、音楽の深い深い、そして究めても究めても高みが続く、その魅力的な世界へと誘われる子が、きっと、どこかにいるだろう。
その稀な出会いを待つかのように、この古ぼけた本は図書コーナーの一角で目立つことなく立てられていた。
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