さて、今回はバッハです。
録音:1959年12月19日
「バーンスタイン」は発売元がコロムビアからCBSソニーに移るまでは「バーンステイン」と表記されていた。私がクラシックを本格的に聴き始めた70年でも、まだ一部にそういう表記が残っていた。
さて、バーンスタイン指揮NYPは60年代半ばごろまでに、けっこうバロック時代の音楽を録音していて、当ブログでも、今までヘンデル「メサイア」、「ヴィヴァルディ「四季」、バッハ「マタイ受難曲」などを採りあげた。
「四季」はともかく、「メサイア」も「マタイ」も、もしかしたらバーンスタイン・ファン以外には見向きもされないような演奏だとも言えるが、この「マニフィカート」も、それらよりはちょっとマシとは言え、今の御時勢にわざわざ「バーンスタイン盤でなければ」という人は、ほとんどいないのではないか?
アルト独唱には、前述の曲同様にカウンターテノールを配してはいるが、所謂「古楽器奏法」とは無縁の、ひとむかしふたむかし前の「オーソドックス」なスタイル。
合唱は今日のアマチュア・レベルと比しても聞き劣りする。例えば、ここぞというところでは、まるで懐かしいワカメ・カセットの如く凄まじいヴィブラート(と言うより音揺れ)が聞けるのだ。
しかし・・・・
音楽への愛、バッハへの敬愛の念に満ちたバーンスタインの思いは、そういう悪条件を越えて、私の胸に響いてくる。
冒頭の落ち着いたテンポには、音符一つひとつをおろそかにしない彼の謙虚な姿勢を感じる。
大好きな第2曲「そして、私の霊は自分の救いである神を喜び称えます」での、ジェニー・トゥーレルの目の覚めるような歌唱はどうだ!
第6(5)曲「その憐れみは世から世へと、主を畏れる人々に及びます」の、祈りの表情に満ちたオーケストラの内向的な響きは、今聴いても十分に感動的。
ニューヨーク・フィルの管楽器奏者たちのソロ(オブリガート)が、魅力的な曲の数々をさらに彩っていく。
終曲の合唱は、最初、さっき書いたような盛大なヴィブラートだが、それは、レニーの想い一杯の指揮に応えたコーラス・メンバーの熱の現われか?
「メサイア」終曲を思わせるような堂々たる歩みの中で、バス・パートの長い音符をクレッシェンドさせるあたりは、若いバーンスタインの、あの渾身の指揮振りが見えるようだ。
そして、「初めにあったように、いまも、いつも・・・」で、冒頭の音楽が舞い戻ってくるバッハのナイスなやり方が、それまで抑制されていたものが一気に噴出すように、しかし、あくまでも謙虚に程ほどに高揚して終わりに向かうのを聴いていて、やっぱりバーンスタインは「音楽の使徒」であることを感じた。
独りよがりなバーンスタイン特集、今回はとりあえず明日でひと段落の予定。
そう言えば、昨日の記事で、バーンスタイン・カテゴリーのちょうど100エントリでした。
録音:1959年12月19日
「バーンスタイン」は発売元がコロムビアからCBSソニーに移るまでは「バーンステイン」と表記されていた。私がクラシックを本格的に聴き始めた70年でも、まだ一部にそういう表記が残っていた。
さて、バーンスタイン指揮NYPは60年代半ばごろまでに、けっこうバロック時代の音楽を録音していて、当ブログでも、今までヘンデル「メサイア」、「ヴィヴァルディ「四季」、バッハ「マタイ受難曲」などを採りあげた。
「四季」はともかく、「メサイア」も「マタイ」も、もしかしたらバーンスタイン・ファン以外には見向きもされないような演奏だとも言えるが、この「マニフィカート」も、それらよりはちょっとマシとは言え、今の御時勢にわざわざ「バーンスタイン盤でなければ」という人は、ほとんどいないのではないか?
アルト独唱には、前述の曲同様にカウンターテノールを配してはいるが、所謂「古楽器奏法」とは無縁の、ひとむかしふたむかし前の「オーソドックス」なスタイル。
合唱は今日のアマチュア・レベルと比しても聞き劣りする。例えば、ここぞというところでは、まるで懐かしいワカメ・カセットの如く凄まじいヴィブラート(と言うより音揺れ)が聞けるのだ。
しかし・・・・
音楽への愛、バッハへの敬愛の念に満ちたバーンスタインの思いは、そういう悪条件を越えて、私の胸に響いてくる。
冒頭の落ち着いたテンポには、音符一つひとつをおろそかにしない彼の謙虚な姿勢を感じる。
大好きな第2曲「そして、私の霊は自分の救いである神を喜び称えます」での、ジェニー・トゥーレルの目の覚めるような歌唱はどうだ!
第6(5)曲「その憐れみは世から世へと、主を畏れる人々に及びます」の、祈りの表情に満ちたオーケストラの内向的な響きは、今聴いても十分に感動的。
ニューヨーク・フィルの管楽器奏者たちのソロ(オブリガート)が、魅力的な曲の数々をさらに彩っていく。
終曲の合唱は、最初、さっき書いたような盛大なヴィブラートだが、それは、レニーの想い一杯の指揮に応えたコーラス・メンバーの熱の現われか?
「メサイア」終曲を思わせるような堂々たる歩みの中で、バス・パートの長い音符をクレッシェンドさせるあたりは、若いバーンスタインの、あの渾身の指揮振りが見えるようだ。
そして、「初めにあったように、いまも、いつも・・・」で、冒頭の音楽が舞い戻ってくるバッハのナイスなやり方が、それまで抑制されていたものが一気に噴出すように、しかし、あくまでも謙虚に程ほどに高揚して終わりに向かうのを聴いていて、やっぱりバーンスタインは「音楽の使徒」であることを感じた。
独りよがりなバーンスタイン特集、今回はとりあえず明日でひと段落の予定。
そう言えば、昨日の記事で、バーンスタイン・カテゴリーのちょうど100エントリでした。
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