静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

ミサ・ソレムニス(ヨッフム指揮)を聴く

2010年01月15日 16時20分28秒 | ベートーヴェン
 ※今日は阪神淡路大震災から15年目。昨夜は『かみさまのいじわる~神戸 幼き被災者たちの15年~』(NHK総合)を観ていて、いろいろ思ったけど、一番感じたのは、実は人間の成長ってすごいなぁ、素晴らしいなあってことでした。「当たり前やろ」と言われそうですが「生きている」「行き続けている」って本当に素晴らしいです。
 さて、明日は、神奈川で聖響さんがミサ・ソレムニスを振るということで、聴きに行けない私としては、ディスクではありますが、この偉大で稀有な大曲の世界に触れてみたくてたまらなくなりました。


ベートーヴェン/「ミサ・ソレムニス」

アグネス・ギーベル(s)、マルガ・ヘフゲン(a)
エルンスト・ヘフリガー(t)、カール・リッダーブッシュ(b)



合唱:オランダ放送合唱団(合唱指揮:メインゲルト・ベーゲル)

ヘルマン・クレバース(vn)

管弦楽:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団



指揮:オイゲン・ヨッフム



録音:1970年



これはレコードです


「荘厳ミサ曲」の名前を知ったのは中学1年のとき。旺文社文庫で読んだ「ベートーヴェン」(諸井三郎著)の文中にて。あの本は、私がクラシック音楽に傾いていくのを一気に後押ししたような本でした。まだ聴いたこともない「田園」「弦楽四重奏曲作品132」などと共に印象に残る曲のひとつでした。
 初めて聴いたのは、その後間もなくFMにて、バーンスタインのNYP盤。第2曲「グローリア」の開始に、電気に打たれたような衝撃を受けました。その後、同じくFMで放送されたマズア盤を録音。長らく、その演奏を聴いていました。自分でレコードを買ったのは、ずっと後。当時、2枚組のレギュラー盤ってのは、そう簡単には買えませんでしたからね。相次いで発売されたベームやカラヤンの新盤(当時)のハコを横目で見ながらヨダレを流してはお店の床を汚しておりました(ウソ)。私が最初に買ったレコードはトスカニーニ盤(2枚組2500円也)。友人Sはベームの旧盤(廉価盤のヘリオドール)でした。その後、クーベリックのライヴ(二種)や朝比奈隆氏の実演(これは後にレコードになり手元にあります)などを経て世はCD時代に。現在は、バーンスタインはタングルウッドでのライヴを含む3種、カラヤンは4種、他には、ええっと・・・トスカニーニ、バルシャイ、リリング、ギーレン、ショルティ(シカゴ響)、ジュリーニ、テイト、クレンペラー、オーマンディらがCDで、レコードでは、このヨッフムと朝比奈さんがありますな。DVDでクーベリックもありました。まあ、同曲異演が集まってしまう私のベートーヴェン音盤にしては少ない方かも?ガーディナーとショルティ(ベルリン・フィル盤)は手放しました。何故かはいろいろ・・・。未聴で聴きたいのは、アーノンクール、セル(非正規盤)あたりですが、どちらもすぐに入手できますので、そのうちでしょう。

 ベートーヴェンの声楽曲ってのは、第9の終楽章も含めて、彼なりの不器用さみたいなものを感じます。彼の堅牢な構成意識がテキストの存在によってある種の「右往左往」を生み出しているような印象を受けます。この曲も第9ほどではないにしても、そんなところがあり、これは演る(やる)方から見たら難しいんだろうなぁって、素人ながら思います。でも恐ろしいほどの感動を呼び起こす音楽ですね。昨日と今日で全曲を聴きましたが、やっぱりボロボロになってしまいました。
 第1曲のキリエは、テキストの内容から言っても、全曲中最も安定して同じ空気が支配している曲です。冒頭のヘフリガーの、例によってひたむきな歌唱に瞬時に引き込まれてしまいました。「キ~~リィ~エ~~」の「リィ」を念押しするようにしっかり発音しているところに何とも彼らしさが表れているではありませんか。見事です。
「キリエ」が終わると巨大な「グローリア」と「クレド」の2曲が立ちはだかり、私は、長い間、全曲を聴くのがしんどくて、よくバラバラで聴いたりしていました。「グローリア」は巨大な賛歌。マーラーの「一千人」の第1部を聴いているみたいなところもあります。
「クレド」は、信仰発露の感情がイエスの生涯を伴って歌われ、これ1曲がまるでオラトリオみたいなのです。場面転換の見事なこと!受難の場面の後、一瞬の間を置いて「復活」の悦びが歌われますが、冒頭テーマが戻ってくるところは何度聴いてもぐっと来ますね。そして最後はベートーヴェンの真骨頂と言ってもいいのか、声も楽器も区別ないかのような圧倒的なフーガが始まります。最初は静かに、音符を書き進める筆の先から発火しているかのような神々しく狂乱的なフーガです。この巨大な2曲は、たとえいい演奏であっても、録音や音量の具合によって、また、その時の気分によって、耳うるさい音楽となり途中で止めてしまうことも私はあったりするのですが、このヨッフム盤はオケも合唱も、どれだけ音量を上げてもうるさくないのです。「グローリア」冒頭の、あの音響の中で第1ヴァイオリンの速いパッセージが駆け上ってくるのが明確に美しく聴こえてきたり、同じく「グローリア」の終結間際のホルンの強奏の何とも美しいことなど、それらはたぶん、オーケストラの美質にもよるものなのでしょうが、それにしても美しい。
「クレド」が終わると、もう続く2曲を聴く時間は至福の時間。「サンクトゥス」は何と言っても、あの中間部「ベネディクトゥス」ですね。空気が止まったかのような静寂の後に、ヴァイオリン・ソロと2本のフルートが天から舞い降りてきて始まる、あの部分の美しさは言葉になりません。クレバースの、まるで声みたいな表情豊かなソロの何と素晴らしいことか。
 最後の「アニュス・デイ」は少し複雑です。よく言われる「戦いへの警告」は、単に戦争への警鐘というだけでなく、人間の心の中の葛藤についてベートーヴェンが自分の振り返りとして書いたように思えてなりません。その部分が過ぎ去ると、曲は今まで聴いたことのないような無感情の世界の響きに入って行き、そのトンネルを通り過ぎると、音楽はさらに不必要なものをどんどんと捨てながら進んでいきます。何度も繰り返される「我らに平和を与えたまえ」の繰り返しは、「音楽」「歌」から「祈り」そのものに変容したかのようになり、いつしか呟きのようにも聴こえるのです。そして、余計なものをほとんど捨てたオーケストラの軽い響きのうちに、瞬間に空に吸い込まれるように曲を閉じます。
 ああ、素晴らしい音楽ですね。
 長い間「通して聴くのが苦手」だった荘厳ミサ曲ですが、いつの間にやら「何度でも聴きたい曲」になっていました。

なにをボケッとしていたのか大震災の日を勘違いしてた・・・もうダメだな・・・ハズカシイ・・・16日午前1時過ぎに追記



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
聴いてきました (yokochan)
2010-01-17 18:04:09
こんにちは。
これまた懐かし目のジャケットにございます。
親父りゅうさんは、おそらく私の同世代ゆえか、回顧レヴューは、ほぼ同じようなことになりますね(笑)
私も、組物レコードのボックスは、触るだけで買えない小僧でしたので、床を汚すことしきりでしたね(笑)
 ヨッフムとコンセルトヘボウのベートーヴェンは、交響曲も含めて聴いたことがないのですが、よく見れば素晴らしい独唱者ですね。

そして、聖響さん、昨日はあまり小細工を弄せず、なかなかの演奏を披露してくれました。
かなりよかったですよ。
これから何度も演奏して、もっとよくなるのではないでしょうか。
交響曲より、聖響さんには合っているように思いましたが。
返信する
>yokochanさん (親父りゅう)
2010-01-18 01:18:53
>おそらく私の同世代ゆえか、回顧レヴューは、ほぼ同じようなことになりますね


ホンマに、そうですね。でも、私よりちょっとお若いyokochanさんが、ほぼ同じ思い出をお持ちということは、yokochan少年の早熟さを現しておるわけですね(笑)。そう言えば、昔「楽譜のササヤ」などで、時々、ブルックナーのスコアを手に取っている小学生もいたかと思いますが、yokochanさんもそんな感じだったのかも???

ヨッフムのベートーヴェンは、私もロンドン響とのセットやバンベルク響とのライヴ盤は聴いておりますが、世評の高いコンセルトヘボウ盤や、もひとつ前のDG盤は未聴です。聴きたいですね。

聖響さんのミサ・ソレムニス、楽しまれたようで何よりです。どうも、彼が神奈川フィルに行かれてからのレビューをあちこち読ませていただくと、どちら様でも「ピリオド」「ピリオド」とありまして、大阪で何回か彼のベートーヴェン等を聴いた私としましては「?」と思ってたところでもありました。
確かに「ピリオド・アプローチ」ベースでありますが、私が聴いてきた範囲ではむしろ、いろんなディスクで聴く「ピリオド」アプローチ演奏ほど濃くないと感じていましたので。
彼はスタイルよりも曲の有り様そのものへのこだわりが強いかと思います。ですから、その分、「ここはこうや! 」と思ったら人が何と言おうとロックみたいにやりますし、驚くほどオーソドックス(時に「平凡」とも)でもあったりでした。
ベートーヴェンの「第5」は三回聴きましたが、毎回スタイルが全然違ってて驚きました。特に2回目に聴いた演奏(2008年10月18日、大阪センチュリー)は、ピリオド臭がずっと後退して、外面的な効果を思いっきり抑えた、例えば、モントゥーとかケンペと同じ志向性を感じさせるもので意外でした。「運命」で泣かされました。
ひとつ終えると次の挑戦を考えているのかな?と思ったものです。
でも、それは彼のやり方に慣れた金沢や大阪センチュリーだからやれたのかも知れません。「常任」となって、いっぺんはとことんガチガチの彼流ピリオドをやらないと、あのゆとり感は生まれないのかな?とか、全然聴いていない者の妄想ですけど、そう思ったりもしています。
今まで彼に何度も感動をもらった者として、神奈川フィルと、今までの彼からより進化した新しい金聖響の演奏を展開していってくれればと願っています。
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