静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

2年前の今日は私の入院初日、そして三男と別れての生活がスタートした日です

2016年03月03日 23時18分50秒 | つぶやき(カテゴはっきりしない雑文)
3月4日、午前4時40分頃、一部訂正(太字部分)


 今日、空は真っ青。暖かくて本当に気持ちよい日でした。

 去年の暮れあたりからずっとイマイチだった私の体調ですが、2月はじめに新しい薬を出してもらってから好転、その後に受けた心臓CT検査の結果も特に問題なかったということで、就寝時刻がズルズルと遅くなるなど、ちょっと調子に乗り過ぎたのか、一昨日は久しぶりにダルさと胸の違和感に見舞われました。

「喉元過ぎても熱さを忘れず」

「初心忘るべからず」


ということですな。



 さて、今日、3月3日と言えば、2年前の今日でしたね。
 私の治療が本格的に始まり、BD療法のための入院初日でした。
 午前中に三男リュウをリハビリセンターに「放り込んで」、そのあと慌ただしく自分を病院に「放り込んだ」日でした。
 実は、一週間前に「即入院」と言われたのを待ってもらっての入院でした。

 そのあたりのことは、以前のブログ記事(2014.03.09)に書きました。
 一部再掲載↓

2月25日~27日は入院(再び生検採取あり)。
その間に、三男の学校の先生と連絡をとりあって、今後は三男が週末に帰宅しても私が不在となるため、なんとしてもK学園(病棟付きの特別支援学校)への転校をさせたい旨を伝えました。
妻一人で子ども2人の支援・介助は不可能であり、ヘルパーをフル活用しても絶対に続かないことは明らかでした。
27日、退院を前に主治医先生から病気や今後の治療について詳しく話を聞きました。所謂「完治」と言う言葉は無い病気であること、今後は寛解と発症を繰り返すことなどなど・・・・・いろいろと具体的に聞きました。
そして、とりあえず退院。 
帰りに市役所の福祉課に立ち寄り、家庭の事情から「K学園への転校を急いで欲しい」と訴えてきました。
 
翌28日は突然のことながら職場での最後の日になりました。

子どもの学校の校長(実は古い友人)や先生方、福祉課、児童相談所、その他、多くの人たちのご尽力で、三男のK学園への「措置転校」が電撃的に決まりました。
正確には、ますKリハビリセンターへ「保護」となり、手続き後に「措置入所」「転校」という流れになるとのことでした。
28日(金)の夕方、何も知らない三男が元気にスクールバスで帰ってきました。
最後のバス迎えでした。

金・土・日と家族そろって過ごし、月曜日は身の回りの荷物を持って、午前中に三男をKリハビリセンターへ送っていきました。
急ぎ足で引き継ぎや事務手続きを済ませ、新しい学校との引き継ぎも済ませると、何も知らない三男は昼食を摂りにランチルームへと消えましたが、週末になっても帰宅できないと知った時にどんな反応をするだろうか??
なんてことを考える余裕もなく、急ぎ帰宅した私は午後から入院となりました。

(再掲載、ここまで) 


・・・今、三男はリハビリセンターで居心地よさそうに過ごしていて、本当にありがたいと思っていますが、あのときは「ちゃんと適応してくれるだろうか」「職員さんたちはリュウとうまく付き合ってくれるだろうか」とか、いろいろ心配しました。
 心配してもどうしようもない状況だったのですが、心配しました。
 ですから、持ち込んだ荷物(その中にはリュウにとって絶対必要なラジMDCDプレーヤーとか、誕生日に渡す予定だったプレゼントの絵本もあった。前日にはポータブルタイプのDVDプレーヤーもわざわざ買った。)のほとんどを、あっけなく「(持ち込み禁止なので)持って帰って」と言われた時は、さすがに腹が立って、ちょっといろいろ言ってしまった、というのもつい昨日のように思い出します。
(その後、ラジカセ等の持ち込みは許可されました)

 自分の方は入院とはいえ、週一回のベルケイド注射とレナデックス服用(このときは10錠)だけで、あとは「様子見」なので、特に身体的な負担もなかったのですが、妻や二男へのしわ寄せはハンパなかったです。
 翌4日は主治医から家族・親族への説明ということで、長男と私の弟2人が来てくれました。
 (県外に勤務している長男は休みをとって来てくれた)
 妻もフラフラながら院内の車いすを拝借して(長男に押してもらって)やってきました。
 しかし、話が始まって間もなく、もう限界になり、私の病室へ戻って横になって待っていました。
 当ブログでは、しばらくは入院のことには触れずに、毎日のようにタブレットで記事アップしていました。
 カミングアウトしたのは、先に引用した3月9日です。

・・・そんなことあんなことがあった日から2年が過ぎたわけですが、今、こうやって「それなりの」平穏な日々を送っている自分たちを、あの時は全く想像することは出来ませんでした。
 あのころ、病室でワルキューレを聴き進めていましたが、父娘の別れの場面が、少し前のリュウとの別れを思い起こさせ、なんとも言えない気持ちにさせられました。
 今後も、あの場面を聴くたびに思い出すでしょう。

写真は、職場敷地内で見かけた花たち











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2 コメント

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それでも春 (narkejp)
2016-03-04 06:48:34
春ですね~。当地も、まだときどき雪が降りますが、その日のうちに融けてしまい、圧雪凍結の恐さはなくなりました。思い出したくもないような、辛い、悲しい、いろいろなことがあって、まったくもう! とため息をつくこともありますが、なんとかふだんの生活ができていることに感謝です。とりわけ、春の陽射しのぽかぽか暖かさがありがたいです。御地はもっと暖かいのでしょうね。どうぞご自愛ください。
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ありがとうございます (親父りゅう)
2016-03-05 17:47:52
narkejpさん

こちらは冬と言っても寒さや雪では山形とはくらべものにならず、ほとんど「南国」みたいなものでしょうが、それでも、寒さがこたえる体になってしまっていますので、やはり春の訪れはうれしいものです。

今日は、例によって短時間でしたが三男坊のお相手をして、ちょっとくたびれましたが送迎の道中も窓を開けて走り気持ち良かったです。
仕事も2年目も続いてやれそうで、ほっとしています。
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