1980年4月、初めて貰った給料の使い道は、難病で逝ってしまった友人の御供え代だった。
彼は亡くなる1年か2年前から変調を訴えていた。
医者である彼の父親は、都市部の病院に連れて行ったり、地元の大学病院で再手術をしたりと懸命だった。
最後は地元の市民病院で介護を受けながらの闘病生活となった。
彼が亡くなった後は、彼の御父君と、ほとんど年賀状のやり取りだけのお付き合いが続いていた。
ただ、それだけであったが、お父様はいつも手書きで味のある年賀状を下さり、私たちは、そこに我が家族への暖かい眼差しを感じていた。
今日、そのお父様も去年亡くなられたことを知った。
86歳だった。
あれから28年になろうとしている。
お父様の心中では、友人はいつまでも23歳のままの姿で生き続けていたのであろう。
28年間、そう思えるような年賀状を頂いてきた。
それは、また、私には想像できないほどの哀しみの渦中から、ゆっくりゆっくりと平穏を取り戻していったその記録のようにも思えた。
表面上だけかも知れないが、本当に心の平安に達したような文面になったのは、まだ、ほんの数年前のようだと覚えている。
いまは、天上で久しぶりの親子の再会を喜び、終わりのない幸福を味わっているのだろう。
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彼は亡くなる1年か2年前から変調を訴えていた。
医者である彼の父親は、都市部の病院に連れて行ったり、地元の大学病院で再手術をしたりと懸命だった。
最後は地元の市民病院で介護を受けながらの闘病生活となった。
彼が亡くなった後は、彼の御父君と、ほとんど年賀状のやり取りだけのお付き合いが続いていた。
ただ、それだけであったが、お父様はいつも手書きで味のある年賀状を下さり、私たちは、そこに我が家族への暖かい眼差しを感じていた。
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86歳だった。
あれから28年になろうとしている。
お父様の心中では、友人はいつまでも23歳のままの姿で生き続けていたのであろう。
28年間、そう思えるような年賀状を頂いてきた。
それは、また、私には想像できないほどの哀しみの渦中から、ゆっくりゆっくりと平穏を取り戻していったその記録のようにも思えた。
表面上だけかも知れないが、本当に心の平安に達したような文面になったのは、まだ、ほんの数年前のようだと覚えている。
いまは、天上で久しぶりの親子の再会を喜び、終わりのない幸福を味わっているのだろう。
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