静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

伊勢管弦楽団第38回定期演奏会

2019年05月11日 09時40分24秒 | コンサート
 今年も伊勢管弦楽団の定演を聴くことができた。
 昨年から楽しみにしていたプログラムだった。

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プログラム

バッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番 ト長調BWV1048
(第2楽章「アダージョ」は大久保友加里 編)

(休憩)

マーラー/交響曲第6番 イ短調

管弦楽:伊勢管弦楽団


指揮:大谷正人

2019年5月4日(土・祝)14時開演

三重県文化会館大ホール



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 本プロに先立って、この1年間に亡くなられた3人の団員、団関係者の追悼の意味でモーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスが演奏された(指揮者大谷さん編曲による管弦楽版)。
 3人ともによく知っている方で、そのうちのお二人については葬儀にも参列させてもらっていたが、もうお一人の方の逝去については、この日のプレトークとプログラムに載っていた団長さんの挨拶文で初めて知らされたということで、かなり驚き、そしてショックを受けることになった。
 ここでは詳しく書かないが、その方も少なからず我が家とは関係があり、何かとお世話になっていたからだ。
 そんな驚きと悲しみと動揺が静まらないうちにモーツァルトが始ってしまった。私は演奏にあまり集中できなかった。

 そして、本プロ。
 バッハは、ヴァイオリンが各6人(あるいは7人だったか?・・・よく見えなかったので確証なし)、他パートもそれに準じた縮小人数で、それにチェンバロ(大久保友加里さん)という編成。
 ヴァイオリン、ヴィオラは立奏。
 正直なところを言えば、これはあまり楽しめなかった。
 ピッチ、フレージング、縦の揃いなど、様々なばらつきが耳についた。
 私の知っているディスク等では、短い経過的なカデンツですまされることの多い第2楽章は、今回は大久保さん編曲による「アダージョ」ということで、ここは清楚な響きに耳傾けるひとときでよかった。
 両端楽章の間で、きれいな池の周囲をぐるりとひと回りして戻ってきた、という感じだった。
 両端楽章では(私の席からは)チェンバロは弦の音にほとんどかき消されてあまり聴き取れなかったから、余計に新鮮で美しかった。
 弦の音程の不安定さとの対比もあったからなおさらだった。
 バッハとかモーツァルトとかの難しさを思った。
 たとえば第3楽章。
 速いパッセージが延々と、どこに隠れるところもなく聴き手の前にさらけ出され続ける中で、精度を保ち続ける難しさ、とでも言うのか、うまく言えないがどんどん丸裸にされてしまうような恐ろしさを感じた。
 もっとも私の座席位置も、あまりよくなかったようで、休憩中に場所を移動した。

 マーラーは前から4列目の中央付近で聴くことにした。
 もう少し離れた所の方がよかったかも知れないが、視力のこともあり、あまり離れると団員さんの表情とか分からないし、それに「かぶりつき」はわりと好きなので。
 ということで、たくさん並んだ管楽器や打楽器のほとんどは見えなかった。
 その代わり(?)第1ヴァイオリンの音は、誰がどんな音を出しているか判別できるくらい生々しかった。
 マーラーの6番を実演で聴くのは3度目。
 初めて聴いたのは朝比奈隆指揮大阪フィル(1979年)、2回目がインバル指揮フランクフルト放送響(1989年)。
 この曲については、私は以前から、さほどネガティブな印象を持ったことがない。
「悲劇的」という名称で呼ばれることもあり、また、葬送行進曲を含む短調主体の曲であるが、「悲劇的」というよりは「苦悩や悲劇との闘争」とか「人生の様々な局面と、その移ろい」みたいな感じで聴いてきた。
 ましてや「絶望」とか「諦念」とかは全く感じたことはない。
「苦悩、悲劇」との「闘争」を思わせる場面と、夢みるような、憧れるような場面とが交錯したり平穏で牧歌的な場面も点在したり、という感じだろうか。
 そして、外観は全く違うものの第1楽章はベートーヴェンの「第九」の第1楽章と、終楽章はブルックナーの第5交響曲の終楽章との共通性を(勝手に)感じている。
 今回の演奏でも、印象はやはり同じだった。
 ハンマーの打撃音によってそれまでの何かが破壊されるが、すぐさま立ち上がり再び前進を始める、そんな強靭な生命力を感じさせる音楽。
 そして、3度目の(ハンマー打音はマーラーによって最終的に取り消されたが)「突き落とし」のあと、終結前の金管のコラール的な部分が喩えようもなく切実に胸に迫った。
 この曲を最初からずっと聴いてきて、あそこまで来ると、ちょっと大げさに言えば、前途多難な境遇に居る者に大いなる勇気と覚悟を与えてくれる、そんな音楽として響いていた。
 だから仮に、このあと何度「奈落落ち」が来たとしても平気だと思えるし、ベートーヴェンが言ったような「『運命に翻弄される』のではなく『運命』の鼻先をつかんで引っ張り回すのだ」という、そんな心持ちにさせてくれるのだった。

 多分にピント外れな感受だろうが、今の私は、そんなふうに感じているのだから仕方ない。
 今年も伊勢管弦楽団の定期演奏会を聴けて、本当によかった。
 来年はラフマニノフの交響曲第2番とプーランクの2台のピアノのための協奏曲をやってくれるとのこと。
 今から待ち遠しい。



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