「そのとき、マーラーを聴いた」シリーズ、第8は火の玉ヤマカズによる号泣必至名演。
マーラー/ 交響曲 第8番 「一千人の交響曲」
中沢桂(S)、酒井美津子(S)、曽我栄子(S)
木村宏子(A)、長野羊奈子(A)、
板橋勝(T)、平野忠彦(Br)、岡村喬生(B)
合唱:湘南合唱連盟(合唱指揮:福永陽一郎)
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:山田一雄
【録音】1979年2月12日、 藤沢 (ライヴ)
「一千人」を初めて聴いたのは、たぶん、1974年か75年のいつかの日曜日。
当時、住んでいた伊勢の家に、友人Yがクーベリックのレコードを持ってきて「いっしょに聴こう」ということになった。
で、スピーカーの前に高校生の男子二人が鎮座して、クーベリックの2枚組レコードを通して聴いた・・・これが、私の「一千人」初体験だと思う。
その後、75年のバーンスタインのザルツブルク・ライヴ、小澤ベルリン・フィルなどを録って、聴いていた。
しかし、当時はテキストの意味などはあまり調べず、なんとなく聞き流していたという感じ。
だから、第1部のハデハデな音響や終結部の高揚感は楽しんでいたけども、他の部分は「特に、どうってことない・・・・」って捉え方がずうぅっと続いてた。
レコードは所持せず。
2枚組のマーラーのLPなんて、なかなか買う気になれなかったのだな、当時は。
CD時代になって間もなく出たバーンスタインの初期CD(白ケース3枚組シリーズ)で買ったのが最初。
あのシリーズは、9番&大地の歌のセット以外は全部買ったのだけど、今、手元にあるのは7番&8番のセットのみ。
その後は、いろいろと買ってきた。
実演は伊勢管の定期を一度聴いたのみ。
しかし、この伊勢管定期の前後に、「一千人」に急接近。
今は、大いなる魅力を感じており、ディスクであっても聴く度に目頭が熱くなることしばしばである。
第1部は、声も含めて「音」の出るもの全てが使われた巨大なソナタである。
縦横無尽に飛び交う旋律のビームは、一本一本は繊細で羽毛のデリカシーでありながら、全体は狂乱じみた輝かしさに満ちている。
そして、巨大な火の玉に弱き心、罪深い自分の心が吸い込まれていくような第2部。
あの中間部の愛の主題出現からクライマックスまでの、時間が止まったかのようなひととき、そして、慰めと浄化と共感に満ちたクライマックスの偉大さ。
この曲はマーラーの「陽の部分」の極みだと思う。
さて、今回、聴いたのは山田一雄指揮のライヴ盤。
彼の指揮によるこの曲の日本初演ニュース映像はお馴染みなもの。
彼を初めて実際に聴いたのは1975年、津市での京響公演にて。
ベートーヴェンの「第5」で、第2楽章を終えた彼は、眼鏡を外し足元に置いた・・・その後の大暴れは言うまでもない。
我が伊勢管にも一度客演され、驚くべき「本格オーケストラ」の響きを実現された。
奇跡かと思えた。
練習は極めて厳しかったと言う。
アマチュアへの客演でも、音楽への畏怖の念と高みを目指す、その姿勢に変わりはなかった。
このディスクは1979年、都響ほかとの共演。
昨今の国内オケ・ライヴでは考えられないような「田舎臭い」音やミスの続出もあるが、それがなんであろうか。
オルガンは(たぶん)電子オルガンであり、デッドな空間で味気なく余韻なく響く、しかし、それがなんであろうか。
鳴る音は魂そのものと思えるような血しぶき飛び散る激演とはこのこと。
第2部後半から最後にかけての、何かが宿ったような神々しい音楽にメタメタにやられてしまった。
下手だと思えてた合唱も、いつしか、「人の声」の素晴らしさを満帆にたなびかせて降り注ぐ。
そして、終わるのが惜しいかのようなスローテンポの中で、必死に高貴に、音符ひとつひとつが束となって天に昇っていく。
ものすごい音圧。
打楽器の炸裂は全ての罪が許された小心者たちの歓呼のように涙を誘う。
この大きな曲を聴き終えて、も一度、最初から聴きたいと思わせる名演だと思った。
何かとU野こうほう氏とライヴァル視されてた福永氏の合唱指揮手腕もしのばれる・・・・。
HMVサイトへ
以下、伊勢管弦楽団HP「指揮者の部屋」よりコピペ・・・・
Ⅲ マーラーの交響曲第8番の志向する超越性
交響曲第8番は、マーラーの作品の中で最も肯定的な響きの強い曲である。第1部では、賛歌「来たれ、創造主よ」を音楽化し、第2部のファウストの最終場面をそのまま音楽化していることの影響もあるだろう。ゲーテは、霊魂の不滅について以下のように述べている。
「人間は、不死を信じていいのであり、人間は、そうする権利を持っているし、それが、人間の本性にかなっているのであり、宗教の約束するものを期待していいのだよ。(中略)私にとって、われわれの霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことはなく活動して、私の精神が現在の生存の形式ではもはやもちこたえられないときには、自然はかならず私に別の生存の形式を与えてくれる筈だからね。」(山下肇訳)
このゲーテの考え、特に霊魂不滅が活動から生まれるという信念は、ファウストの終末の場面でまさに具体化されており、ファウスト的世界観として、マーラーのみならず後世に対して肯定的にも、否定的にも大きな影響を与えた。
ラ・グランジュは、マーラーには超越性に対する絶対的な感覚があり、特に交響曲第8番には、限界を超えようとする意志、生と死の彼岸、人間の置かれている状況の向こう側を見ようとする意志があると指摘している。マーラーが音楽の中で超越性を表現しようとして、それが肯定的な形で最も見事に表現されているのは、交響曲第8番、ついで第2番「復活」においてであろう。超越性を表現しようとするためには、霊感(「復活」の場合も、指揮者ビューロウの葬儀でクロプシュトックの詩を聞いてから、難渋していた曲が一気に完成に向かったという霊感に満ちた背景があった)だけでなく、作曲上の様々な工夫も必要となってくる。交響曲第8番と第2番の場合、以下の要素が共通していると思われる。
①約80分という長大な流れの中で、一つの方向をめざしていくという音楽的構成の強固さ
②超越性の象徴としての、クライマックスにおけるコラールの使用
③曲の意味やテーマの一貫性
④人の声も含めた多彩で巨大なオーケストレーション、特に天上の音や自然の音を絶妙なオーケストレーションで表現できる能力
⑤超越性への志向性の言葉による反映(ewigやhinanという言葉の印象的、時として強迫的な使用)
超越性を志向した他のマーラーの交響曲(第2番や「大地の歌」などでも永遠がテーマとなっている)と第8番との違いについては、ラ・グランジュが指摘しているように、第8番は、どの曲よりも、限界を越えて自分の信仰や確信を肯定的に表現しており、また普遍的、全世界的であろうとしているために、民衆的な要素や具象的な要素がないことだろう。このマーラーの第8番における信仰の肯定的表現は、後に続くマーラーの3つの交響曲における死の受容の表現のため、また2度の世界大戦が影響したファウスト的世界観への否定的風潮のため、疑義をもって受け止められることがあった。しかし、マーラーが第8番において志向した超越性は、それに共感し、感動できる人間にとって大きな希望となるものである。ラ・グランジュは彼の膨大なマーラーに関する著作集の、50ページに及ぶ交響曲第8番の説明の最後を次の文章で締めくくっている。
「第8番の今日の演奏者は、その努力が報われることを確証されている。自らを高めるために励ましてくれた作曲家、この世のうつろいゆくもの(Vergangliche)や不完全なもの(Unzulangliche)を越えて永遠の価値を賛美することに十分な才を示してくれた作曲家にずっと感謝することになるのである。」
・・・・コピペ、ここまで。
マーラー/ 交響曲 第8番 「一千人の交響曲」
中沢桂(S)、酒井美津子(S)、曽我栄子(S)
木村宏子(A)、長野羊奈子(A)、
板橋勝(T)、平野忠彦(Br)、岡村喬生(B)
合唱:湘南合唱連盟(合唱指揮:福永陽一郎)
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:山田一雄
【録音】1979年2月12日、 藤沢 (ライヴ)
「一千人」を初めて聴いたのは、たぶん、1974年か75年のいつかの日曜日。
当時、住んでいた伊勢の家に、友人Yがクーベリックのレコードを持ってきて「いっしょに聴こう」ということになった。
で、スピーカーの前に高校生の男子二人が鎮座して、クーベリックの2枚組レコードを通して聴いた・・・これが、私の「一千人」初体験だと思う。
その後、75年のバーンスタインのザルツブルク・ライヴ、小澤ベルリン・フィルなどを録って、聴いていた。
しかし、当時はテキストの意味などはあまり調べず、なんとなく聞き流していたという感じ。
だから、第1部のハデハデな音響や終結部の高揚感は楽しんでいたけども、他の部分は「特に、どうってことない・・・・」って捉え方がずうぅっと続いてた。
レコードは所持せず。
2枚組のマーラーのLPなんて、なかなか買う気になれなかったのだな、当時は。
CD時代になって間もなく出たバーンスタインの初期CD(白ケース3枚組シリーズ)で買ったのが最初。
あのシリーズは、9番&大地の歌のセット以外は全部買ったのだけど、今、手元にあるのは7番&8番のセットのみ。
その後は、いろいろと買ってきた。
実演は伊勢管の定期を一度聴いたのみ。
しかし、この伊勢管定期の前後に、「一千人」に急接近。
今は、大いなる魅力を感じており、ディスクであっても聴く度に目頭が熱くなることしばしばである。
第1部は、声も含めて「音」の出るもの全てが使われた巨大なソナタである。
縦横無尽に飛び交う旋律のビームは、一本一本は繊細で羽毛のデリカシーでありながら、全体は狂乱じみた輝かしさに満ちている。
そして、巨大な火の玉に弱き心、罪深い自分の心が吸い込まれていくような第2部。
あの中間部の愛の主題出現からクライマックスまでの、時間が止まったかのようなひととき、そして、慰めと浄化と共感に満ちたクライマックスの偉大さ。
この曲はマーラーの「陽の部分」の極みだと思う。
さて、今回、聴いたのは山田一雄指揮のライヴ盤。
彼の指揮によるこの曲の日本初演ニュース映像はお馴染みなもの。
彼を初めて実際に聴いたのは1975年、津市での京響公演にて。
ベートーヴェンの「第5」で、第2楽章を終えた彼は、眼鏡を外し足元に置いた・・・その後の大暴れは言うまでもない。
我が伊勢管にも一度客演され、驚くべき「本格オーケストラ」の響きを実現された。
奇跡かと思えた。
練習は極めて厳しかったと言う。
アマチュアへの客演でも、音楽への畏怖の念と高みを目指す、その姿勢に変わりはなかった。
このディスクは1979年、都響ほかとの共演。
昨今の国内オケ・ライヴでは考えられないような「田舎臭い」音やミスの続出もあるが、それがなんであろうか。
オルガンは(たぶん)電子オルガンであり、デッドな空間で味気なく余韻なく響く、しかし、それがなんであろうか。
鳴る音は魂そのものと思えるような血しぶき飛び散る激演とはこのこと。
第2部後半から最後にかけての、何かが宿ったような神々しい音楽にメタメタにやられてしまった。
下手だと思えてた合唱も、いつしか、「人の声」の素晴らしさを満帆にたなびかせて降り注ぐ。
そして、終わるのが惜しいかのようなスローテンポの中で、必死に高貴に、音符ひとつひとつが束となって天に昇っていく。
ものすごい音圧。
打楽器の炸裂は全ての罪が許された小心者たちの歓呼のように涙を誘う。
この大きな曲を聴き終えて、も一度、最初から聴きたいと思わせる名演だと思った。
何かとU野こうほう氏とライヴァル視されてた福永氏の合唱指揮手腕もしのばれる・・・・。
HMVサイトへ
以下、伊勢管弦楽団HP「指揮者の部屋」よりコピペ・・・・
Ⅲ マーラーの交響曲第8番の志向する超越性
交響曲第8番は、マーラーの作品の中で最も肯定的な響きの強い曲である。第1部では、賛歌「来たれ、創造主よ」を音楽化し、第2部のファウストの最終場面をそのまま音楽化していることの影響もあるだろう。ゲーテは、霊魂の不滅について以下のように述べている。
「人間は、不死を信じていいのであり、人間は、そうする権利を持っているし、それが、人間の本性にかなっているのであり、宗教の約束するものを期待していいのだよ。(中略)私にとって、われわれの霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことはなく活動して、私の精神が現在の生存の形式ではもはやもちこたえられないときには、自然はかならず私に別の生存の形式を与えてくれる筈だからね。」(山下肇訳)
このゲーテの考え、特に霊魂不滅が活動から生まれるという信念は、ファウストの終末の場面でまさに具体化されており、ファウスト的世界観として、マーラーのみならず後世に対して肯定的にも、否定的にも大きな影響を与えた。
ラ・グランジュは、マーラーには超越性に対する絶対的な感覚があり、特に交響曲第8番には、限界を超えようとする意志、生と死の彼岸、人間の置かれている状況の向こう側を見ようとする意志があると指摘している。マーラーが音楽の中で超越性を表現しようとして、それが肯定的な形で最も見事に表現されているのは、交響曲第8番、ついで第2番「復活」においてであろう。超越性を表現しようとするためには、霊感(「復活」の場合も、指揮者ビューロウの葬儀でクロプシュトックの詩を聞いてから、難渋していた曲が一気に完成に向かったという霊感に満ちた背景があった)だけでなく、作曲上の様々な工夫も必要となってくる。交響曲第8番と第2番の場合、以下の要素が共通していると思われる。
①約80分という長大な流れの中で、一つの方向をめざしていくという音楽的構成の強固さ
②超越性の象徴としての、クライマックスにおけるコラールの使用
③曲の意味やテーマの一貫性
④人の声も含めた多彩で巨大なオーケストレーション、特に天上の音や自然の音を絶妙なオーケストレーションで表現できる能力
⑤超越性への志向性の言葉による反映(ewigやhinanという言葉の印象的、時として強迫的な使用)
超越性を志向した他のマーラーの交響曲(第2番や「大地の歌」などでも永遠がテーマとなっている)と第8番との違いについては、ラ・グランジュが指摘しているように、第8番は、どの曲よりも、限界を越えて自分の信仰や確信を肯定的に表現しており、また普遍的、全世界的であろうとしているために、民衆的な要素や具象的な要素がないことだろう。このマーラーの第8番における信仰の肯定的表現は、後に続くマーラーの3つの交響曲における死の受容の表現のため、また2度の世界大戦が影響したファウスト的世界観への否定的風潮のため、疑義をもって受け止められることがあった。しかし、マーラーが第8番において志向した超越性は、それに共感し、感動できる人間にとって大きな希望となるものである。ラ・グランジュは彼の膨大なマーラーに関する著作集の、50ページに及ぶ交響曲第8番の説明の最後を次の文章で締めくくっている。
「第8番の今日の演奏者は、その努力が報われることを確証されている。自らを高めるために励ましてくれた作曲家、この世のうつろいゆくもの(Vergangliche)や不完全なもの(Unzulangliche)を越えて永遠の価値を賛美することに十分な才を示してくれた作曲家にずっと感謝することになるのである。」
・・・・コピペ、ここまで。
しかも鰻をご馳走してもらったなんて・・・なんとも、まあ、羨ましいお話であります
ヤマカズさん、75年の三重公演の時に友人と楽屋を訪れた私に、「筆がないのがイケねえなぁ・・・」とかおっしゃって、色紙にマジックで毛筆風のサインをして下さいましたよ。
そして、写真を撮らせてもらった時のダンディなポーズに流石(さすが)やなぁって思ったものです。
あのときも、そう言えば、なんかとっても若いモンを大事にしてくれると言うか、面倒見の良さそうな感じでした。もうちょっとねばったら鰻をご馳走になったかも???ですね
以前、「ハーモニー」(合唱誌)か何かで、書の達人でもあるようなことを読んだ記憶がありましたが・・・あのとき、近くに筆があったらなぁって、今ごろ悔やんでも遅いですが、でも、あのサインは私の宝物のひとつですよ。
でも大音響でもほかの曲でもそうなのですが、楽譜を埋め尽くしたブルックナーとは違いとっても整理されているんですよね。危険な甘さのマーラーの旋律が大音響でも決して透明感を失わず鮮烈な芳香を発しながら濁らないのはこれだったんだって思いました。
1楽章の巨大なソナタ、あの雷のような再現部の入りは凄い迫力ですよね。第2部でもスケルツォ楽章に相当する第2部の冒頭の精緻さ、あの夢のような間奏曲から神秘の合唱まではこの世のモノとは思えないくらい陶酔してしまいます。カラヤンがこの曲を残してくれていたらと残念に思ってしまいます。
ヤマカズさんは凄い人でしたね。それはこの演奏を改めて聴いて再認識しましたが、モーツァルトなんかで聴くあのチャーミングな音楽、ベートーヴェンの8番での大交響曲のような表現、私は彼を過小に認識していました。本当に後悔しています。
でも時々見る機会に恵まれた彼のリハーサルはあののたうち回る怪獣のような訳のわからない棒を振りながら「棒を見て!!」とかそうかと思えば次の瞬間「ここは棒を見ないで!!!!」と叫ぶ。棒を見ないでって、いったい。
私も、地元のオケではありましたが、実際に8番を聴いた時に、大柄なこの曲に、意外なほどの精密さ繊細さを聴いて驚いたものです。たくさんのパートは決して醜いダンゴにならず、それぞれの出番にはキラリと光ったり、また同時に明瞭に鳴ったりしていました。
そして、おっしゃるとおり第2部の美しい間奏から終結にかけての時間は、本当にカラヤンのアプローチが似合うかと思いました。
ヤマカズさんはの実演は京響の三重公演と伊勢管への客演の2回だけですが、指揮の見た目とは裏腹に、いろんな音楽に順応される方だったようですね。「見ないで!」の真意は、いろいろ想像はできますが、ても判りません。オケの人に聞いてみたいものですね。
次,どれにしようかなと,りゅうさまの感想を参考に笑
みなさん,絶賛なので,8番はこれがいいですね。でもCDは出てないんですよね?あとは,バーンスタインですか?また教えてくださいませ^^
それから、この盤はタワー・レコードで入手可能です。タワレコの企画シリーズなんですよ。
単発もので入手しやすいのだったら、バーンスタイン(新旧2種あります)、テンシュテット、ノイマン、ショルティ、クーベリックあたりが個人的おススメですが、どれも古いなぁ・・・苦笑。
「山田一雄の世界」と題された数回にわたるシリーズ物の一夜でしたが、その日の会場の熱狂が甦りました。早速、このCDを手に入れて聴いてみようと思います。
なお、このシリーズ別の回の「トゥランガリラ交響曲 」の際には、客席に作曲者のメシアンを始めブーレズ、小澤などの錚々たる顔ぶれをお見掛けしたように記憶しております。
返事遅くなり申し訳ありません。
当ブログではいつものことなので、どうかご了承ください。
古い記事をお読みいただき恐縮です。
学生オーケストラのご経験、羨ましい限りです。
また、当夜の演奏を実際に聴かれたというのも素晴らしいですね。
そうですか、シリーズもののコンサートの一環だったのですね。
私も朝比奈隆氏に関しては「朝比奈隆の軌跡」というシリーズをいくつか聴きました。
ヤマカズさんは、ブログ中に書いた京響と伊勢管への客演の二度だけでした。在京オケとの演奏会など聴きたかったです。