今日は父の命日だった。亡くなってから8年が過ぎた。8年前と同じ、今にも雨が降りそうで、草木はぐんぐんと伸びている今日だった。
しょうもないけど、ちょっとがんばって続けてきたこの企画もやっと9番まで来た。9番は、ありきたりかも知れないがこの演奏で。
ベートーヴェン/交響曲第9番《合唱》
ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)
ハンナ・シュヴァルツ(アルト)
ルネ・コロ(テノール)
クルト・モル(バス)
合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、
指揮:レナード・バーンスタイン
録音:1979年9月ウィーン(ライヴ)
1979年、ザルツブルグでの「第9」の演奏が、その年の大晦日に放送された。あれには感動した。当時の日記を読むと赤面してしまうような大げさな感動ぶりである。でも、あのときは本当にそう感じたのだ。
そのしばらく後に、彼らの交響曲全集が出て、当然ながら値段は手が届くようなものではなく、あのかっこいい、と言うか、インパクトの強いバーンスタインの顔写真の載った箱は、店頭で何度も何度も眺めるだけであり、代わりに(?)店でかき集めた豪華パンフレットを大事に保存していたものである。
久しぶりに聴いたが、やはり、これはすごい演奏だ。今回、以前よりも、その「凄さ」を実感した。思ってたよりもライヴ感はあったり、オーソドックスと思っていたところが、実はかなり強く意志的に思えたりと、自分の感じ方の変化に驚く。
第1楽章の主題の出現の巨大さ!そして、展開部以降の厳しい表情はどうだろうか。隠していた牙がむき出しになり、音符一つひとつには血油が塗られ炎が点されるかのような「凄惨」とさえ言いたくなるような険しい展開部のやりとり。「それは再現部やろ」というのが普通のパターンだろうが、バーンスタインのは、ここから既に修羅場の第1楽章である。ウィーン・フィルの美しい弦がみるみるうちにささくれ立って豹変していった。第1楽章は、以降、終結まで弛緩無しの鬼演奏が続く。
第2楽章では、トリオが喜びに溢れている。それは無機質な宇宙に挟まれた「束の間の人間的な世界」。ザルツブルグの演奏会では、バーンスタインとティンパニ奏者との間でティンパニの打撃の強さをめぐって火花が散ったらしい(なかにし礼だったかの著書に、そんな場面があったような・・・うろ覚えですが・・・)。うむ、確かにニューヨーク・フィル盤の、あの弾けっぷりには負けている。
第3楽章開始後しばらくの、この張り詰めた空気は独特だ。まるでマーラー5番のアダジェット。抑制された弦は、天上の調べと言うよりは、「祈り」が全面に出ており、寂寥感さえ感じさせる。その雰囲気は第2テーマが現れても、根本的には同じ。だから、例の金管の警告句もダメ押しのように響き、無念のうちに静まっていく。
しかし、だからこそ、終楽章の歓喜の爆発が鮮烈に、本当に切実な喜びとして出現する。バリトン独唱とオケのやりとりはりショスタコ14番みたいな重ったるさだが、ウィーン・フィルの木管群が極上の美音で歓喜の伴奏を続けるうちに暗雲はどんどん掃われていく。
すごいね。カラヤンもよかったけど、やっぱ「バーンスタインの感動」は違うね。まるごとリフレッシュされるね。
1978年、離婚していた奥さんが亡くなり、予定していた来日も中止になった。あとでTV放送された60歳の誕生日記念コンサートではベートーヴェンのトリプル・コンチェルトの第1楽章を指揮したけど、あん時は、彼の顔つきが一変していたのに衝撃を受けた。この「第9」は、それより1年後。本来の活力を日に日に取り戻していたであろう時期の最良の記録だと思う。掘りが深くなった顔だけは元に戻らなかったみたいだが・・・・。
今夜もエンディングのシンバルのクレッシェンドに、それを初めてFMで聴いた時に、どうにかなってしまうかと思われた当時の自分を思い出した。これは、今は廉価盤にもなって「定番」扱いが一般的みたいだが、ホンマは、ちょっと「取り扱い注意」的演奏だと、私は思う。涙や血や、その他いろんなものがいっぱい詰まっててお気楽には聴けない。
しょうもないけど、ちょっとがんばって続けてきたこの企画もやっと9番まで来た。9番は、ありきたりかも知れないがこの演奏で。
ベートーヴェン/交響曲第9番《合唱》
ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)
ハンナ・シュヴァルツ(アルト)
ルネ・コロ(テノール)
クルト・モル(バス)
合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、
指揮:レナード・バーンスタイン
録音:1979年9月ウィーン(ライヴ)
1979年、ザルツブルグでの「第9」の演奏が、その年の大晦日に放送された。あれには感動した。当時の日記を読むと赤面してしまうような大げさな感動ぶりである。でも、あのときは本当にそう感じたのだ。
そのしばらく後に、彼らの交響曲全集が出て、当然ながら値段は手が届くようなものではなく、あのかっこいい、と言うか、インパクトの強いバーンスタインの顔写真の載った箱は、店頭で何度も何度も眺めるだけであり、代わりに(?)店でかき集めた豪華パンフレットを大事に保存していたものである。
久しぶりに聴いたが、やはり、これはすごい演奏だ。今回、以前よりも、その「凄さ」を実感した。思ってたよりもライヴ感はあったり、オーソドックスと思っていたところが、実はかなり強く意志的に思えたりと、自分の感じ方の変化に驚く。
第1楽章の主題の出現の巨大さ!そして、展開部以降の厳しい表情はどうだろうか。隠していた牙がむき出しになり、音符一つひとつには血油が塗られ炎が点されるかのような「凄惨」とさえ言いたくなるような険しい展開部のやりとり。「それは再現部やろ」というのが普通のパターンだろうが、バーンスタインのは、ここから既に修羅場の第1楽章である。ウィーン・フィルの美しい弦がみるみるうちにささくれ立って豹変していった。第1楽章は、以降、終結まで弛緩無しの鬼演奏が続く。
第2楽章では、トリオが喜びに溢れている。それは無機質な宇宙に挟まれた「束の間の人間的な世界」。ザルツブルグの演奏会では、バーンスタインとティンパニ奏者との間でティンパニの打撃の強さをめぐって火花が散ったらしい(なかにし礼だったかの著書に、そんな場面があったような・・・うろ覚えですが・・・)。うむ、確かにニューヨーク・フィル盤の、あの弾けっぷりには負けている。
第3楽章開始後しばらくの、この張り詰めた空気は独特だ。まるでマーラー5番のアダジェット。抑制された弦は、天上の調べと言うよりは、「祈り」が全面に出ており、寂寥感さえ感じさせる。その雰囲気は第2テーマが現れても、根本的には同じ。だから、例の金管の警告句もダメ押しのように響き、無念のうちに静まっていく。
しかし、だからこそ、終楽章の歓喜の爆発が鮮烈に、本当に切実な喜びとして出現する。バリトン独唱とオケのやりとりはりショスタコ14番みたいな重ったるさだが、ウィーン・フィルの木管群が極上の美音で歓喜の伴奏を続けるうちに暗雲はどんどん掃われていく。
すごいね。カラヤンもよかったけど、やっぱ「バーンスタインの感動」は違うね。まるごとリフレッシュされるね。
1978年、離婚していた奥さんが亡くなり、予定していた来日も中止になった。あとでTV放送された60歳の誕生日記念コンサートではベートーヴェンのトリプル・コンチェルトの第1楽章を指揮したけど、あん時は、彼の顔つきが一変していたのに衝撃を受けた。この「第9」は、それより1年後。本来の活力を日に日に取り戻していたであろう時期の最良の記録だと思う。掘りが深くなった顔だけは元に戻らなかったみたいだが・・・・。
今夜もエンディングのシンバルのクレッシェンドに、それを初めてFMで聴いた時に、どうにかなってしまうかと思われた当時の自分を思い出した。これは、今は廉価盤にもなって「定番」扱いが一般的みたいだが、ホンマは、ちょっと「取り扱い注意」的演奏だと、私は思う。涙や血や、その他いろんなものがいっぱい詰まっててお気楽には聴けない。
バーンスタインの第九こそ、かけがえのない1枚です。僕のクラシック音楽人生は、この1枚(というより、1979年大晦日のFM放送!)から始まりました。
青春時代の、いろいろな悩みを抱えている時でした。今思えば、つまらないことを悩んでいたのだと思うのですが、そんな中で聴いたバーンスタインのベートーヴェンには本当に勇気づけられました。
この1枚で、すべてが始まりました。
貴記事も記憶にありました。
あのオンエアを聴いた時の興奮が蘇りましたね。きっとそういう人はたくさんいたことだと思います。
今回、久しぶりに聴いて、全く色褪せない感動でありました。
私もクラシックを聞き始めようとしたきっかけがバーンスタインの放送でした。1971年の元旦朝、NHK-TVでの「運命」でした。万博来日公演のライヴでした。そのときはバーンスタインの名も知らず、どちらかというと曲に惹かれて、夜にレコード店に走りドラティの17センチ盤を買ったのでした。