昨日、出勤したあと、三男「りゅう」は瞬間発作を起こしたようだったけど、その後はすぐに復調したので、日中一時支援に出したとのこと。このごろ、やたらとゲラゲラ笑ったりしたてテンション高かったからなぁ。
今日は、土曜日のお約束、二男とカラオケに行った。いつもお決まりの部屋をあらかじめ電話で確保しておく。もう、お店の人とも馴染みになってて、電話で「○○ですが・・・」と言うと「○号室でしたね」と返ってくる。一人1時間三百円でドリンク・フリー付きだけど、ホットコーヒーは、毎度、おばちゃんが部屋まで届けてくれる。ありがたいことだ。
正月早々に一度行って、今日は新年になって2回目だった。前回、機械が新しくなってて、今までDAMに入ってなかった「ぱわわぷたいそう」も入ってて二男も喜んでいた。ここのカラオケは、サービスもいいし、ヘッドフォンが使える部屋があるから、とてもいいのだが、唯一「ぱわわぷたいそう」がないことだけがマイナス点だった。たがら、とうしても「ぱわわぷ・・」を聞きたい時は、JOYの部屋を頼むか他店に行くしかなかった。どちらにしてもヘッドフォンは使えない。
だから、先週からこの部屋で「ぱわわぷたいそう」が聞けることになって、本当にうれしかったのだ。
ところが・・・・・である!
今日、いつもの部屋に入って、さっそく選曲しようとしたら、なんと「ぱわわぷ」がない。それどころか、いつも聞いている「子どもの歌」の大半が出てこない。「1」から「3」まで、ちゃんと揃っていた「はたらくくるま」も「1」しか入っていない。あっ「夢のなか」もない。なんてことだ。「おかあさんといっしょ」関連の歌もたくさんあったのが32曲だけに減っている。
がっかりだった。
ヘッドフォンを付けて、大人しく座って画面を見ていた「けん」に、「残念やなぁ、『ぱわわぷ』ないんやて・・・」と言った。「ない」と言う言葉は、彼は理解する。とたんに「けん」の表情が変わり、涙目になって、やがて涙はあふれて頬を流れ出した。私はハンカチでぬぐってやった。
あんまり歌われない曲は、こうやって姿を消していくのか。こういうところでも「少数派」はワリを食っているんだなぁ、と、その時は思った。あぁ・・また「けん」の居場所がひとつ無くなってしまうのか、とも思った。なんか悔しい感じさえした。そして、その思いを携帯を使ってツイッターで呟いた。
会計の時に「曲、減ったんですね」と言ったら、フロントの人は怪訝そうな顔をして「そんなことはない筈です。もしかしたらリモコンの方の不具合かも」というような意味のことを言われた。なるほど、そうかも知れない。
「歌われない曲は消されていく」と勝手に思い込み、「少数派」を大事にしない商業主義に反感を持って即座に放ったツィートは私の早とちり、勇み足だったかも知れない。帰宅後、すぐに削除した。
ツィッターは、呟きが直ちに放たれ、あちこちに届くその良さと言うか利便性で爆発的に広がっているのだと思うし、自分もその「良さ」と「面白さ」で続けている。しかし、今日の私のように、いっときの感情で、よく確かめもしないで何処か(誰か)に対して批判めいたことを呟いたりすると、何処かの誰かに不快な思いを抱かせてしまったり、誤った情報を広めてしまうことになってしまう。気をつけないといけない。
何かを感じたり心が動いたりすると、人はそれを何らかの形で表現したくなるものだが、手元にツイッターなどの便利ツールがあると、その中身を吟味し整理する暇もなく、すぐに発信してしまい易いのだろうか。便利なものを操るには、それ相応のスタンスと言うか自己管理と言うか、自己コントロールの感性が必要だな。自戒をこめて、そう思う。立ち止まり、思い返して発信したいと思う。そういう意味では、その日の出来事や感じたことを、ブログなどで、ある程度の時間が経過した後に振り返って綴るというスタイルは、それはそれでいい。
以下はついでの話だけど・・・・
演奏の好き嫌いについてネット上で自分の感受したことを書き連ねるのはいいが、時々、自分の気に入らない演奏をけなすだけでなく、それを支持する人たちまでをもけなしているような論調の文に出くわすが、あれは困ったもんだな。「こんな演奏は、音楽のわからん奴が聴くもんだ」とか「こんな演奏を誉めるなんて人の気が知れない」とか・・・・。気持ちは分からないでもないが、書き手の狭さ貧しさだけが浮き彫りになってくるようで読んでいて辛い。
今日は、土曜日のお約束、二男とカラオケに行った。いつもお決まりの部屋をあらかじめ電話で確保しておく。もう、お店の人とも馴染みになってて、電話で「○○ですが・・・」と言うと「○号室でしたね」と返ってくる。一人1時間三百円でドリンク・フリー付きだけど、ホットコーヒーは、毎度、おばちゃんが部屋まで届けてくれる。ありがたいことだ。
正月早々に一度行って、今日は新年になって2回目だった。前回、機械が新しくなってて、今までDAMに入ってなかった「ぱわわぷたいそう」も入ってて二男も喜んでいた。ここのカラオケは、サービスもいいし、ヘッドフォンが使える部屋があるから、とてもいいのだが、唯一「ぱわわぷたいそう」がないことだけがマイナス点だった。たがら、とうしても「ぱわわぷ・・」を聞きたい時は、JOYの部屋を頼むか他店に行くしかなかった。どちらにしてもヘッドフォンは使えない。
だから、先週からこの部屋で「ぱわわぷたいそう」が聞けることになって、本当にうれしかったのだ。
ところが・・・・・である!
今日、いつもの部屋に入って、さっそく選曲しようとしたら、なんと「ぱわわぷ」がない。それどころか、いつも聞いている「子どもの歌」の大半が出てこない。「1」から「3」まで、ちゃんと揃っていた「はたらくくるま」も「1」しか入っていない。あっ「夢のなか」もない。なんてことだ。「おかあさんといっしょ」関連の歌もたくさんあったのが32曲だけに減っている。
がっかりだった。
ヘッドフォンを付けて、大人しく座って画面を見ていた「けん」に、「残念やなぁ、『ぱわわぷ』ないんやて・・・」と言った。「ない」と言う言葉は、彼は理解する。とたんに「けん」の表情が変わり、涙目になって、やがて涙はあふれて頬を流れ出した。私はハンカチでぬぐってやった。
あんまり歌われない曲は、こうやって姿を消していくのか。こういうところでも「少数派」はワリを食っているんだなぁ、と、その時は思った。あぁ・・また「けん」の居場所がひとつ無くなってしまうのか、とも思った。なんか悔しい感じさえした。そして、その思いを携帯を使ってツイッターで呟いた。
会計の時に「曲、減ったんですね」と言ったら、フロントの人は怪訝そうな顔をして「そんなことはない筈です。もしかしたらリモコンの方の不具合かも」というような意味のことを言われた。なるほど、そうかも知れない。
「歌われない曲は消されていく」と勝手に思い込み、「少数派」を大事にしない商業主義に反感を持って即座に放ったツィートは私の早とちり、勇み足だったかも知れない。帰宅後、すぐに削除した。
ツィッターは、呟きが直ちに放たれ、あちこちに届くその良さと言うか利便性で爆発的に広がっているのだと思うし、自分もその「良さ」と「面白さ」で続けている。しかし、今日の私のように、いっときの感情で、よく確かめもしないで何処か(誰か)に対して批判めいたことを呟いたりすると、何処かの誰かに不快な思いを抱かせてしまったり、誤った情報を広めてしまうことになってしまう。気をつけないといけない。
何かを感じたり心が動いたりすると、人はそれを何らかの形で表現したくなるものだが、手元にツイッターなどの便利ツールがあると、その中身を吟味し整理する暇もなく、すぐに発信してしまい易いのだろうか。便利なものを操るには、それ相応のスタンスと言うか自己管理と言うか、自己コントロールの感性が必要だな。自戒をこめて、そう思う。立ち止まり、思い返して発信したいと思う。そういう意味では、その日の出来事や感じたことを、ブログなどで、ある程度の時間が経過した後に振り返って綴るというスタイルは、それはそれでいい。
以下はついでの話だけど・・・・
演奏の好き嫌いについてネット上で自分の感受したことを書き連ねるのはいいが、時々、自分の気に入らない演奏をけなすだけでなく、それを支持する人たちまでをもけなしているような論調の文に出くわすが、あれは困ったもんだな。「こんな演奏は、音楽のわからん奴が聴くもんだ」とか「こんな演奏を誉めるなんて人の気が知れない」とか・・・・。気持ちは分からないでもないが、書き手の狭さ貧しさだけが浮き彫りになってくるようで読んでいて辛い。
自分は音楽が分かるという思い込みでしょうか。
小生、最初聞いたときあまり感心しなかった音盤を、数年後に聞きなおして見直すということが良くありますので、軽々に批判しないことにしております(^^)。逆もまたありますけどね(^^;。
でも、けんくんの大好きな歌が残ってて良かったです。
悲しみが心にダイレクトに響きました
少数派の曲も一人でも需要がある限りはずっと残っていてほしいものです
私も最近やたらとツイートしていますが、自分の発した一言で影響を受けてしまう人がいるかも知れないということ、心に留めておこうと思います
ネットの便利なところでもあり、怖いところでもありますね
けんにも、思い通りにならないことがあるってことを理解してもらわらいとね・・・(苦笑)。
新年のご挨拶に伺おうと思ってて訪ねそびれておりました。
特にツイッターは、リアルタイムで伝わるので、感情的になったり思い込みで書き込んだりは要注意ですね。
「そんなものだ」と割り引いて見たり書いたりしてる風潮もあるような気もしていますが、それは違うかと思います。