静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

三重バッハ合唱団の「マタイ受難曲」を聴きました

2013年06月07日 22時15分22秒 | コンサート
 2日(日)に行ったコンサートの感想文です。もう、書いていて何がなんだか分かんなくなってしまいましたが、修正せずにとりあえず出しちゃいます。




第24回三重バッハ合唱団演奏会

バッハ:マタイ受難曲(全曲)



エヴァンゲリスト/テノール:清水徹太郎

イエス:羽根功二 

ソプラノ:佐波真奈己

アルト :小林まゆみ

バ ス :三原 剛


チェンバロ:北住 淳

オルガン:姫野真紀

児童合唱:三重大学教育学部附属中学校音楽部



オーケストラ:大阪チェンバーオーケストラ


合唱:三重バッハ合唱団




指揮:本山秀毅


 


2013年6月2日(日)pm.2:00開場/pm.2:30開演  

於:三重県文化会館 大ホール





 今年も「三重バッハ」の真摯で温かい響きを聴きに行くことができました。
 今年は「マタイ」。
 マタイ受難曲は、私には特別な音楽です。
「好きな曲」という言い方は、ちょっと違う。
 もちろん「嫌い」ではないけども「好き」という言い方はそぐわない・・・。日頃、聴く頻度もそんなに高くない。全曲通し聴きだったら、1年に1回あるかないか、そのくらいの頻度でしょう。
 しかし、しかし・・・自分には「なくてはならない楽曲」のひとつです。

 そして、バッハの受難曲やカンタータ、オラトリオなどは、もちろんプロの演奏もいいのですが、アマチュアによる一回に全てを賭けるような演奏で聴く意味も大きいと感じています。
 もちろん、ある程度の技術的な問題をクリアしていれば、ですが。
 当然、三重バッハ合唱団は(私的には)問題なしです。

 ステージ上は中央のオルガンを境に合唱もオーケストラも2群に分けられ、左右対称に配されておりました。
 オルガンの後方は第1部でのみ出番がある児童合唱(中学生の合唱部)が位置し、第2部以降は、時折、合唱ソリスト(ユダ、ペトロなど)が立つスペースとなりました。


 本山先生の音楽づくりは、お師匠さんのリリング譲りとも言える、派手な表情付けを注意深く退けた実直でストレートなもの。
 速い目テンポを基調としたその演奏は、決して声高ではありませんが音楽自体が持つ劇性や厳しさ優しさは十二分に発露され、要所要所で私は圧倒されました。

 第1部では最初と最後の大きな合唱が以前から「ツボ」ですが、もう一曲、第8曲(以前の番号では第12曲)「嘆きなさい、愛しい心よ、血を吐くほどに」には、いつもながら「やられて」しまいます。
 この日もそうでした。
 銀貨30枚でイエスを売ることにしたユダが描かれたあとに始まる、文字通り「血を吐くような」弦の響き。
 マタイを初めて(ちゃんと全曲通して)聴いた1974年のリリング来日公演のテレビ放送でも、ここは衝撃的でしたが、その半年後に買ったリヒター盤での、この曲の強烈さには本当にぶっとびました。
 ごまかし隠しているおのれの弱さ、罪深さがまっすぐに突き刺さってくる鋭い剣によってえぐり返され晒される恐ろしさ。いやいや、リヒター盤の衝撃は、何もこの部分だけではなかったのですが・・・。
 でも、あれ以来、マタイを冒頭から聴いてきて、この曲になるたびに、あの恐ろしいまでの衝撃がよみがえります。客席で思わず背筋が伸びて、そして涙があふれそうになりました。

 捕えられたイエスを見捨てて弟子たちが皆逃げ去った後に始まる「おお人よ、汝の罪に泣け」(第1部最終合唱)も、いつ聴いても心が震える大きな音楽です。流れる涙を模した管のうごめきに乗って、「O Mensch,bewein・・・・」と始まると、もういけません。
 本当に、なんと劇的で効果的な楽曲なのでしょか、マタイ受難曲は。

 聴きどころ、ツボいっぱいの第2部は、もう、いちいち書いてられない。
 ペテロの否認からアルトのアリア(昔からの私たちの通称「47番」)へと連なるあたりは、全曲通して聴いてこその悔悟の深みです。
 そして、イエスを売ったことを後悔し金を返してイエスを取り戻そうとしたユダに対して、イエスを返さないばかりか金だけは受け取った祭司長や長老たち。第42曲の一見(一聴)温和そうな曲調には、哀れなユダに寄り添いつつも冷酷で無慈悲な権力者たちへのバッハの怒りが透かし見えるようです。
「バラバを!」の、ぞっとする響き。それに続く「十字架につけろ」の醜い高まり、あのどす黒い怨念もまた、自分の内にあるもの。直視したくない醜い「本性」がまるで鏡で見せつけられるように続きます。
 たった2小節半の奇跡の合唱「まことにこの人は神の子であった」を境に、曲は静的な佇まいとなり、ここでは描かれない復活の場面のほのかな予感も感じさせつつ、悲しみの独白と弔いの「事実」が淡々と語られ、そして、最後の最後の合唱曲がやってきます。
 この合唱曲は不思議な曲です。
 最初に聴いたのはカール・リヒターのサンプラー盤でした。そのレコードにはマタイからはこの曲だけが入っていました。
 その次に聴いたのはメンゲルベルクの抜粋盤。そして合唱コンクールのライヴ盤で、住友金属だったか、どこかの社会人合唱団の演奏でも聴きました。
 しかし、先に書いたリリングの全曲演奏で聴いた時に、その良さが初めてわかった気がしたものです。
 いや、終曲に限らず、マタイ受難曲は、何曲か取り出して「つまみ聴き」するのと全曲通して聴くのとでは、印象が全く違ってくるのです。
 今回のように実演でずっと聴いてきて、やっと辿り着いた終曲。そこで見える景色は独特でした。
 ハ短調ながらも、さほとの悲劇性を感じさせることもなく、どこかしなやかに弾けるようでもあり、私には特定の感情を超越した特異な世界のように思える曲です。
 本山先生の設定したテンポが、そういう側面を、今まで(ディスクで)聞いてきた諸演奏よりもさらにはっきりと印象付けていました。
 ちょっと平たく言えば「本音」と「建て前」、理性と欲望が同居している「真実」の人間ドラマであるこの大曲の最後を受けるにふさわしい、やはり天才の筆になる曲なのだと思います。
「汝の罪に泣き」つつ悔悟の気持ちで終曲を迎える人もいれば、新たな出発の曲と聴く人もいることでしょう。
 様々な感情を包含しつつ最後の最後にギラリと光る繋留音が、聴き手への何かの警告のようにさえ思えました。

 独唱陣、チームワーク素晴らしく、安心して聴けました。
 特に、エヴァンゲリストの清水さん、すばらしかったなぁ・・・。
 オブリガート楽器の健闘ぶりはどの曲も素晴らしかったです。
 合唱は、いつものことながら温かく懸命な歌いぶりが胸を打ちました。
 あくまでも「バッハが主役」の演奏会でした。そのことが素晴らしい。

 いろいろと細かいことを言う人もいるでしょう。
 でも、私には、本当にありがたい、すばらしいバッハでした。

 チケットを送って下さったMさん、本当にありがとう。


 追伸:近ごろ、「奥の院」(防音鑑賞部屋)では、武満徹作品を聴くことが多くなっている私ですが、ものの本によると、武満さんは「新たに作曲を開始するときは、必ずマタイの終曲合唱を聴いてからだった」とありました。そのことの真偽と意味は、まだ分かりません・・・。








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