ブルックナー/交響曲 第9番
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:若杉 弘
録音:2007年12月13日 東京オペラシティコンサートホール(ライヴ)
ブルックナーの9番は、私にとっては、それまでの交響曲と違って、なにかしら聴く前に構えを要求しているように思える曲です。それはたぶん、第3楽章の後半に頻発する不協和音の生み出す独特の世界に原因があるのだと思いますが、鑑賞を重ねる度に、次第にその「心のハードル」は低くなっていくのも感じています。
今回聴いた若杉さんの振る9番は、どの音も実に自然で作為が無いと言うか、一聴「とても地味」な感じでした。オーケストラの威力にものを言わせるようなことは注意深く避けているようですし、「ここぞ」と言うように連綿と歌って聞かせる場面もありません。
私は、若杉さんの創る音楽にはずっと疎遠でした。嫌いだったのではなく、じっくりと聴く機会を持たず、こちらから積極的に音源を集めたりもしませんでした。氏が亡くなられて後に、例えばTVでのマーラーの9番(N響)などを見て驚きました。自我を押し殺して作品(作曲者)を前面に立たせようとするスタンス、その気高さ、人に対しては紳士的でありながら自分と作品に対しては怖いくらいの視線を向けている人だ・・・そんな風に感じ、若杉さんはこんな方だったのか!と、驚いたのでした。
このブルックナーもそうでした。冒頭の弦のトレモロの無作為なようで十分に満ち足りた鳴りっぷり。ふっと現れるフレーズのドキリとするほどの実在感。そして、よく鳴っているけども絶妙なゆとり感を持った金管の強奏などなど。
第3楽章17小節目からのフォルテシモでも、轟音に塗りこめられた冒頭主題の面影をどこか思わせるような安定感がありながらも決して弱腰には聞こえず、宇宙に突き出た巨大な排気口から世の中の聖俗、善悪、ありとあらゆるものが吐き出されていくかのような曲趣が見事に描かれています。
そういう「意味深さ」は、終結前の、例の不協和音によるクライマックスでも感じられ、まるで神の怒りのようにグロテスクに変貌した冒頭主題の繰り返しと持続低音と木管の不協和音の混交が、これほどうるさくなく、しかも大きな調和を表してるみたいに聴こえたのは初めてでした。
まあ、そういう「妄想」みたいなものは、聴き手のコンディションや精神状態と連動して起こるものですから、このディスクを聴けばいつでも誰でも、そう感じられるものではないことは言うまでもありませんが・・・。
昨日(27日)の昼過ぎには、私はそう感じたのです、というお話でありました。
同日、23:26・・・・・一部の字句、表記を修正しました。
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