静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

居住地校交流で地元中学の授業を観る

2013年12月09日 23時58分58秒 | 家族(こども・しょうがい・学校・介護他)
 今日は、今年度3度目の「居住地校交流」で、地元の中学校を訪れてきました。
 今年度も地元中学での交流を(ささやかですが)続けています。
 ここでは書きませんでしたが、前回(今年度2回目)は文化祭での合唱発表を聴かせてもらったり作品展示を見せてもらったりしました。
 いつもは、最初に有志の生徒さんが出迎えてくれて、名刺交換をしたりしますが、今日は「学校自由参観」の日ということで、特に生徒さんとの交流はなく、校舎内を自由に行ったり来たりして主に「同級生」の授業の様子を見せてもらったり、同じ教室にしばし留まって、難しい理科や数学の授業を受けてました(正確には「受けた」のではなく、「授業の空気を感じた」と言った方がいいかも?)。
 実は、前回のときに「今年度はこれでおしまい・・・」という意向を聞いていたのですが、私の「何もあらたまったことはしてもらわなくていいので、学校内をブラリとひと回りするだけでもいいから、来させて欲しい」旨を担任の先生を通じて伝えていただき、今日の「交流」が実現しました。「かたち」を整えなくてもいい、立派な「交流」でなくていい、ウチの子が同じ年頃のみんなの目に触れるだけでも、それは意味があると思っているからです。
 小学校の時からずっと交流を続けてきて(他の小学校出身の生徒もいるとは言え)無邪気に相手をしてくれた、かつての「同級生」は、もうどこにもいないかのようでありますが、それでいいのです。
 私たち親から見れば、ほんのちょっと前のように思える小学校最後の交流も、あの子たちには、もう遥か昔の出来事になっていることでしょう。それでもいいのです。それが普通でしょう。
 彼たち彼女たちの頭の中は、もう違うことでいっぱいのはず。あの時の彼たち彼女たちとは別人のようになっています。
 それでいいのです。その心の片隅に、ニコニコと無邪気に笑ういつまでも赤ちゃんみたいな同級生がいたこと、今も同じ町に住んでいて、こうして元気に生活していることがちょっぴりでも残っていてくれたらいい。
 同じ年に生まれた仲間の一人に、こういうヤツもいたんだということを忘れないでいてくれたらうれしい、そう思います。
 それが、私たちの願う「交流をする意味」の最低ラインです。
 それ以上のことは、中学校の方が「交流」をすることに何を見出すか、学校教育の中でどう位置づけるかという姿勢によります。
 私たちが「してください」とお願いすることではない。
 中学校が「してあげる」ことでもない。
 両者が、こうこうこういう理由で「ぜひ交流をしたい」「こんな交流をしたい」という意志がなければ、見かけがどんなに立派な交流をしても単なるイベントに過ぎない。
 生徒ひとりひとりと三男本人に何が育ち息づくのか、それが大事でしょう。
 たとえうまくいかなくても、そういうスタンスで続けられる交流は必ず何かが生まれる。そう思います。
 今日、「普通」の中学の理科や数学の教室に我が子がいる景色が不思議であり新鮮でした。
 三男も、何かいつもと違う空気を感じているようでしたが、その表情は楽しげであり、心地よさを感じていると思われました。
 こっちをチラリと見る生徒、ニコリと微笑みかけてくれる生徒・・・彼らの反応は様々ですが、全くそれでいい。
 また、次回(いつになるか分かりませんが)訪れた時に、彼たち彼女たちが同じように、教室に三男がいることが「当たり前」のように振る舞ってくれたら十分です。
 そのことを保ち続けることを、我が家が交流を続けたい最低ラインと言ったのです。


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