歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《「ミロのヴィーナス」考―その4 制作年代にまつわるエピソード》

2019-11-24 14:54:53 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その4 制作年代にまつわるエピソード》

【はじめに】


 前回のブログでは、1964年の図録に依拠して、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案についての見解を紹介してみた。
 さて、今回はやはり1964年の図録を典拠として、「ミロのヴィーナス」に関する予備知識をまとめておきたい(意外と、高階本と中村本には、こうした点に言及されていないので)。
 そして、前回言及できなかった制作年代にまるわるエピソードについても触れておきたい。前回のブログに要約しておいたように、「ミロのヴィーナス」が発見された当時から、ドイツの美術史家フルトヴェングラー説が提示されるまでは、その制作年代は、紀元前5、4世紀古典期の作とみなされ、ヘレニズム期と考えられることはあまりなかった。
 また、発見の翌年1821年、ルイ18世(1755-1824)に「ミロのヴィーナス」が献上された際には、この像はまさしく紀元前5、4世紀古典時代の盛期の作品とみる見解が一般にとられていた。そして、1964年当時、ルーヴル美術館のシャルボノー部長が解説していたように、「人々は長い間、≪ミロのビーナス≫は紀元前4世紀の作品と思い、スコパスの手に帰していた」という状況であった(ハヴロックによれば、ルイ18世には巨匠プラクシテレスのオリジナルとして紹介されたという。ハヴロック、2002年、111頁)。

 こうした中で、2人のフランス人が「ミロのヴィーナス」について、どのように鑑賞していたかについて、今回のブログで紹介しておきたい。その2人とは、フランスの小説家、政治家シャトーブリアン(1768-1848)と、彫刻家ロダン(1840-1917)である。2人とも、「ミロのヴィーナス」の制作年代については誤解していたものの、限りない賛辞を残している。
 さて、今回のブログの執筆項目は、次のようになる。
・「ミロのヴィーナス」という呼称の経緯
・「ミロのヴィーナス」の発見当時の状況
・「ミロのヴィーナス」とヘレニスティック時代
・神話にあらわれたヴィーナスの三つの性格
・シャトーブリアンとロダンの理解
・補論 制作年代に関するケネス・クラークの見解

【「ミロのヴィーナス」という呼称の経緯】


この像は今日、美の女神ヴィーナスをあらわすものとして認められ、エーゲ海のミロ島で発掘されたので、「ミロのヴィーナス」と呼ばれるようになった。この呼称には、次のような経緯がある。

既に発掘された当時から、ヴィーナス像の名が与えられたが、まずこれを現地で見た海軍士官候補生デュモン・デュルヴィル(Dumont d’Urville、1790-1842)が一目して、これは「勝利のヴィーナス」(Venus Victrix)であると鑑定したことに始まる。その後、ルーヴル美術館に移ってから、当時美術アカデミーで活躍していた考古学者カトルメール・ド・カンシー (Quatremère de Quincy、1755-1849)が、既に有名だった「クニドスのヴィーナス」の首と、新発見のこの女神の首を比較して、この像はやはりヴィーナスであると認めて、これによって専門的に裏付けされた形になって来た。そして更にルーヴル美術館の古代部主任のクララック伯(Comte de Clarac、1777-1847)が、カトルメール・ド・カンシーのこの説に賛成するに及んで、「ミロのヴィーナス」の名称は決定的となったようだ
(Quatremère de Quancy, Sur la statue antique de Vénus découverte dans l’Ile de Milo, Paris, 1821. Comte de Clarac, Sur la statue antique de Venus Victrix, avec un dessin de Debay fils, Paris, 1821.)。

「ミロのヴィーナス」が、コンスタンチノープル駐在のフランス大使リヴィエール(Rivière)侯爵の配慮によって、ツーロン港を経てパリに送られ、ルーヴル美術館に入り、ルイ18世に献上されて後、一般に公開されるようになったのは、発掘の翌年1821年であった。公開当初からヴィーナスの評判は高く、ギリシャ美術の専門家、特にフランスの考古学者の間では、この像は紀元前5、4世紀の古典時代の盛期の作品とみる見解が一般にとられていた(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、52頁~53頁、112頁)。

【「ミロのヴィーナス」の発見当時の状況】


1820年4月8日、島の一農夫イヨルゴス(Yorgos)は、劇場の遺跡近くの洞穴(一種の地下墓所)から大理石の彫像を発見した。農夫は、隣人である代理領事ブレスト(Brest)のもとに走り、この報せをもたらした。ブレストは慎重に胸像を運ぶことを命じ、農夫はまぐさ小屋に胸像を納めた。
ブレストは、直ちに発掘品をフランスのものにしようと、精力的な活動を開始している。当時の列強は、それぞれの美術館を強化するために、美術品の購入、争奪に努めていた。特にフランスでは、ナポレオンの失脚後、彼の収集した美術品の多くを還付したため、ルーヴルは所蔵品の充実に懸命であった。ブレストは、4月12日に、スミルナの総領事ダヴィッド(David)にあてて発見を報告するとともに、政府予算での購入を提言し、他方ではイヨルゴスや島の長老と協定を結び、政府から訓令のあるまでは他に売らないこと、先買権がブレストにあることを約束させている。
そして、1821年2月半ば、ようやくパリに到着し、ルーヴル美術館に入り、5月1日、リヴィエール侯爵から、ルイ18世に献上され、国王はこれをフランス国へ贈る。発見後、1年をこえる年月が経っていた。
(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、45頁~50頁)。

【「ミロのヴィーナス」とヘレニスティック時代】


ヘレニスティック時代(紀元前3~1世紀)になると、いっそう数多くのアフロディテが制作された。作家たちは以前のように都市国家のために制作するのではなく、宮廷や個人や富豪たちのために働くようになる。
ギリシャ本来の都市国家が抱いていた理想は過去のものとなって、激動と不安の時代の中に人々は新しい生活原理を求めていた。そして結局、古代世界はローマによって統合されるが、その前にギリシャはその最後の、しかも多方面にわたる可能性を試みた。

アフロディテもあらゆる様相を示すことになる。「メディチ家のアフロディテ」、「カピトリーノのアフロディテ」は「クニドスのアフロディテ」から糸をひく美の女神であるが、そこには紀元前4世紀の宗教的性格は稀薄で、リアリズムがいっそう進められ、享楽の面が強まってくる。
その快楽主義をまのあたり示し出しているのが、「うずくまるアフロディテ」であり、水鏡にうつる自分の美しい後ろ姿に見とれる「アフロディテ・カリピュゴス(美しい尻のアフロディテ)」ということになろう。
アフロディテに関する限り、ヘレニズムは一歩一歩女性的な過度の洗練と末梢的な官能主義に堕していったと一般的にはみなされている。
しかし、ヘレニズムは必ずしもデカダンスに陥った時代ではなく、これまでに見ないオリジナルな、新たな局面を展開した。アフロディテに対する信仰は、ヘレニスティック期に入っていよいよ広まり、礼拝像も多く作られるようになり、多彩な変化を示した。
この時代のアフロディテの像は、多くプラクシテレスの流れを汲み、強い影響をうけたといってよい。「ミロのヴィーナス」もその一つであり、ヘレニスティック時代の特色と古典期の風格とを併せ備えた貴重な芸術作品であることに変わりはない
(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、90頁~91頁。ヘレニズム期のアフロディテ像については、ハヴロックの著作紹介で叙述したい)。

【神話にあらわれたヴィーナスの三つの性格】


アフロディテは、様々な異称を持ち、多くの性格を兼ね備え、崇拝されてきたが、大きく分けて次の三つの性格に分類できるとされる。
第一は、愛と美の女神としてのアフロディテである。ことに女性の美の典型として、古来文学や美術で大きな位置を占める。
しかし本来このアフロディテは、単に外形の美のみの神ではなく、むしろ天地万物の創造者としての「愛」の女神で、オリエントのアスタルテ女神(豊饒と繁殖の女神)の性格を直接に受けついでいると考えられている。それは、多くの子孫を生み育てる「母」なる神であり、寒い冬の後に和やかな花と光をもたらす「春」の女神であり、そして春とともに自然や人間を美しく輝かせる「美」の女神である。後世にアフロディテが「春」の女神や、三美神と同類視されるようになるのは、この性格のためである。
また、ネオ・プラトニズムの説く「愛の論理」も、万物の生命の根源としてのこの女神信仰を、ひとつの認識論にまで高めたものであるようだ。
ローマ時代になってアフロディテがウェヌスと同一のものと考えられるようになった時、とくに女神のこの性格を強調したものを、「ウェヌス・ゲニトリクス」(Venus genitrix、繁殖のウェヌス)と呼んで崇拝した。

アフロディテの第二の性格は、官能的愛、歓楽の女神としてのそれである。「パンデモス」がこれにあたるとされる。もともと「一般民衆の女神」というほどの意味であったが、やがて「清らかな天上の愛」の女神であるウラニアに対して、「地上的、官能的愛」の女神と考えられるようになった。
プラトンは、『饗宴』の中で二種類のアフロディテを区別したことはよく知られている。すなわち、ウラノス(天)を父とする娘であるウラニア(天の娘)と、ゼウスの神とディオネの間の娘、パンデモス(地上的な)女神がそれである。
古典期後半以降のアテナイにおいては、娼婦たちが自分たちの守護神として、「アフロディテ・ヘタイラー」(遊女の女神)を祭ったという。ローマにおいては、4月をこの女神の月として、その月初めの三日三晩を、「ウェヌスの宵祭」が行われた。

第三のアフロディテは、武ばった女神である。しばしば武装をしており、アクロポリスの守護神として、また特に水夫たちの間では航海の安全を守る神として崇拝された。アフロディテが特に水夫たちの危難を救う守護神と考えれたのは、海の泡から生まれたというその誕生伝説に負うところが大きいそうだ。
キュテラ島から直接ギリシャのスパルタに伝えられたアフロディテは、軍神として武装していたと伝えられている。そして、「戦士としてのアフロディテ」は、ギリシャ本土において、聖なる神域を守る女神として成立したようだ。ギリシャにおいて、「ニケフォロス」(勝利をもたらすもの)と呼ばれ、ローマにおいては、「ウェヌス・ウィクトリクス」(Venus Victorix、勝利のウェヌス)と呼ばれた。

一般の伝説によると、アフロディテは軍神アレス(ローマのマルス)を夫としていることになっているが、ホメロスの『オデュッセイア』では、彼女は跛足で醜い鍛冶の神ヘーファイストス(ローマのウルカヌス)の妻で、アレスと密通し、夫のつくった目に見えぬ網に二人とも捕えられて恥をかく。ただ、これも定説であったわけではなく、古代の美術品には、アフロディテとアレスがれっきとした夫婦として描き出されている例も多い。
また恋の女神アフロディテが、羊飼いの美少年アドニスとの恋に悩んだり、アンキセスと恋をして、後のトロイア戦争の勇士アエネーアスを生んだりする物語がある。中でも重要なのは、周知のように、トロイア戦争の直接の原因となった「パリスの審判」の物語であろう。
その発端は、婚礼の宴の時、不和の女神エリスが招待されなかったことを根にもって、黄金のりんごをその饗宴の場に投げ込んだことにあった。
そのりんごには、“いちばん美しい女神へ”と記されてあり、ゼウスの妃ヘラと、軍神アテナと、アフロディテの3人の女神の間で、対立が起こった。ゼウスはこの判定を下しかねて、トロイアの少年パリスにその審判を委ねた。パリスは、富や智力を約束するヘラやアテナの申し出をしりぞけ、世界一の美女を与えるというアフロディテの誘いに応じて、黄金のりんごを与えた。こうしてアフロディテは公けに“いちばん美しい女神”と認められた。
その後、パリスはアフロディテの助けを借りて、ヘレネ(スパルタ王メネラオスの妃で絶世の美女とうたわれた)を誘い出した。しかしこれが原因となって、ギリシャとトロイアの間に10年間にわたる戦争が勃発したとされる。

このような物語が長期間伝えられ、「勝利のウェヌス」がパリスの審判に選ばれた美の女神の伝説と結びついて、「りんごを持つヴィーナス」の姿として美術の上に現われるようになったと考えられている(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、80頁~84頁)。

【シャトーブリアンとロダンの理解】



「ミロのビーナス頌」という題目で、19世紀前半に活躍したフランスの作家で政治家のシャトーブリアン(Chateaubriand、1768-1848)の言葉が引用されている。
 「彼女は新しい称賛者をつくり出すだろう。だが、幸福なる模倣者を生み出すことはないだろう。ラファエルの聖処女たちやラシーヌの詩句と同じく、これよりのち、われわれは、フェイディアスの作になるこのようなビーナスを、再び持つことがないであろう」と。
 シャトーブリアンは「ミロのヴィーナス」をフェイディアスの作と信じていた。この引用文からも明らかなように、19世紀前半において、「ミロのヴィーナス」は紀元前5、4世紀の古典時代の盛期の作品とみていた。

また、「考える人」「地獄の門」「接吻」といった傑作で知られるフランスの彫刻家ロダン(François Auguste René Rodin、1840-1917)は、「ミロのヴィーナス」を次のように賛美している。
「われわれが立てるざわめきを、お前は今も耳にする、不死のビーナスよ。お前の時代の人々を愛してのち、お前はわれわれのものとなった。今や、われわれすべてのもの、世界のものとなった。25世紀というお前の生涯は、ひたすら、不滅なるお前の若さに捧げられたかのごとくである。
おお、ミロのビーナスよ。お前を彫り上げた驚くべき彫刻家は、この高貴にして自然な、生命自体の戦慄を、お前の背筋に貫き通させる術を知っていた。――おお、ビーナス、生命の凱旋門よ、真理の橋わたし、優雅の環よ!」と、その美しさを称えている(朝日新聞社編『ミロのビーナス LA VENUS DE MILO』朝日新聞社、1964年、69頁、73頁)。




《パリのロダン美術館 考える人と地獄の門 2004年5月筆者撮影》

※【パリのロダン美術館】※
 パリ7区、ナポレオンの墓があるアンヴァリッドにほど近い一角にあるロダン美術館。
 ここはロダンがアトリエとして使っていた館で、その死の前年の1916年にすべての作品を国に寄贈、1919年に国立ロダン美術として開館した。
(NHK「世界美術館紀行」取材班『NHK世界美術館紀行①ロダン美術館』日本放送出版協会、2005年、12頁)。


ここで注目したいのは、「25世紀というお前の生涯」と、「ミロのヴィーナス」についてロダンが理解していた点である。
ロダンは、20世紀初頭まで生きた人物であるから、25世紀前と言えば、紀元前5世紀ということになり、ギリシャ古典期に「ミロのヴィーナス」が制作されたと思い込んでいたことになろう。

話は横道にそれるが、シャトーブリアンやロダンはフランス人らしく恋愛で浮名を流している。シャトーブリアンはレカミエ夫人(Madame Récamier、1777-1849)、ロダンはカミーユ・クローデル(Camille Claudel、1864-1943)と。
レカミエ夫人は、16歳で42歳の銀行家レカミエと結婚し、たぐいまれな美貌と豊かな感受性によってナポレオン時代から王政復古期にかけて多くの作家の崇拝を受けた。サロンを開き、シャトーブリアンなどとの恋愛が知られている。また、その美しさはダヴィッドやジェラールによる肖像画で有名である。

カミーユ・クローデルは、19歳の時に、ロダンの弟子となり、次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻ローズがいたため、三角関係となる。その関係は、その後15年にわたって続いていく。精神を病んで、48歳から病院生活を余儀なくされ、不幸な晩年を送ることになる。
近代彫刻の巨匠ロダンとカミーユ・クローデルとの悲恋は、イザベル・アジャーニ主演で映画(1988年)にもなったので、良く知られている。
 
 
 

《パリのロダン美術館 分別盛り 2004年5月筆者撮影》


※【映画情報】※



カミーユ自身も、「分別盛り」(L’Âge mûr、1907年、オルセー美術館及びロダン美術館)を創作した。ロダンとその内縁の妻ローズ、そしてカミーユの関係が投影されているとされる。老いた女性に導かれるように去って行く男性に両膝をついて追いすがる若い女性といった3人の人物が彫られている。ひざまずいた若い女性像には、鬼気迫る迫力があり、それはまさにカミーユの魂の叫びであった。
カミーユ、ロダン、ローズの三角関係と、その内面ドラマを迫真的に造形化したユニークな作品が「分別盛り」であった(湯原かの子『カミーユ・クローデル――極限の愛を生きて』朝日新聞社、1988年、124頁)。

彫刻家とその作品のモデルとの関係は、古今を問わず、常に話題として取り上げられる。古代ギリシャの場合、「ミロのヴィーナス」の系譜上の源流とされる「クニドスのアフロディテ」の作者プラクシテレスとフリュネがそうである。二人の恋愛は歴史的事実なのか、それとも後世の虚構なのか。いつ、どのような形で、この二人は結びつけられたのか。こうした美術史(彫刻史)上の問題を考察しているのが、後に紹介するように、ハヴロックの著作である。

さて、話を元に戻すと、シャトーブリアンにしても、ロダンにしても、当時のフランス知識人たちは、「ミロのヴィーナス」が紀元前5、4世紀に制作されたことを信じて疑わなかったことがわかろう。

補論【制作年代に関するケネス・クラークの見解】


前回のブログで、「ミロのヴィーナス」の制作年代と復元案について詳述した。その際に、一般的にフランス人が「ミロのヴィーナス」の制作年代を紀元前4~5世紀と信じていたのに対して、ドイツ人、とりわけフルトヴェングラーがその制作年代をヘレニズム期(ヘレニスティック時代)まで引き下げたことをみてきた。

イギリスの美術史家ケネス・クラークが、フルトヴェングラーの学説を高く評価した理由も、これで納得できるのではないか。フルトヴェングラーは「ミロのヴィーナス」を紀元前150年から紀元前50年の間の作であるとみていた。その名著『ザ・ヌード』において、ミロのヴィーナスの制作年代について、次のように言及している。

「≪ミロのヴィーナス≫ フルトヴェングラーはこの像の制作年代の貞生を提起した有名な著書において(Furtwängler, Meisterwerke der Griechischen Plastik, 1893, p.601)前150年から前50年の作であると語っていた。さらにいっそう正確な位置づけを求める多くの試論のうち最も説得的であるのはシャルボンノー(ママ)の説で(Charbonneaux in La Revue des Arts I, 1951, p.8)、彼はこれがルーヴル美術館所蔵でイノポス(Inopos)の名で知られている像(これは実際にはミトリダテス大王を理想化した肖像である)と類似することを指摘し、それを根拠に前110年から前88年の間の作としている」
(クラーク、1971年[1980年版]、482頁原註41)。

フルトヴェングラーは、1893年に、この「ミロのヴィーナス」が、紀元前150年から紀元前50年の間の作であるとし、この像の制作年の訂正を提起した。さらに正確な位置づけを求める試論のうちで、最も説得的な説は、シャルボノーの説であるとされる(Charbonneaux in La Revue des Arts I, 1951.)。彼は、「ミロのヴィーナス」がルーヴル美術館蔵でイノポス(Inopos)の名で知られている像(実際には、ミトリダテス大王を理想化した肖像)と類似することを指摘し、それを根拠に紀元前110年から紀元前88年の間の作としている。

ケネス・クラークが、ここで挙げているシャルボノーの典拠は、
Charbonneaux,“La Vénus de Milo et Mithridate le Grand”, La Revue des Arts I, Paris,1951.
のことである(この文献名は、1964年の図録に「ミロのビーナスに関する文献」と題して列挙してある。朝日新聞社編、1964年、113頁)。
このシャルボノーは、1964年の図録の中で言及されていた、ルーヴル美術館古代美術部の代表者シャルボノー部長のことである。前回のブログでその解説文を引用しておいた。先に引用した部分に続いて、次のような解説が記してある。
「像の原形についての、もっとも賛成し得る仮定はといえば、それは右手をもって、腰部の上辺で衣をおさえ、左手を挙げて笏(しゃく)をもっていたと考えるものである。しかし、像の前に立つときは、このような考古学的な問題は一切忘れなければならない。何となれば、腕がないために、古代美術における最も美しい胴体の一つを一層よく嘆賞することが出来るからである」(Jean Charbonneaux : La Vénus de Milo)と述べ、シャルボノーはこのビーナスとミトリダーテス・エウパトールとの類似を強調している」
(朝日新聞社編、1964年、65頁)

つまり、シャルボノーは「ミロのヴィーナス」とミトリダテス大王の肖像とが類似していることを論文として発表していた。
ミトリダテス大王は、ミトリダテス6世エウパトル(紀元前132年~紀元前63年)をさす。小アジアにあったポントス王国の国王(在位:紀元前120年~紀元前63年)であった。小アジア一帯に勢力を広げ、共和政ローマの東方における覇権に挑戦し、3次にわたって戦火を交えた。
ルーヴル美術館には、「アレクサンドロス大王の胸像」(原作は彫刻家リュシッポス)と共に、この「ミトリダテス6世エウパトルの肖像」(紀元前2世紀末にギリシャで制作された原作に基づいて、紀元前1世紀末に作られたものとされている)が展示されている。ヘラクレス像でよく見られる、ライオンの頭をかぶっている。

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