歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-06-12 17:54:33 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年6月12日)
 



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅲ章「スペイン美術のスーパースターたち」を紹介してみたい。
 今回、紹介する第Ⅲ章において、ルーヴル美術館所蔵のスペイン画家の絵画を解説している。
 イタリア絵画やフランス絵画に比べて、スペイン絵画はイメージしにくいのが普通ではないだろうか。
 そこで、小暮氏は、イタリア絵画とスペイン絵画の違い、スペインの地域性と美術の特色などについても説明している。
 例えば、スペインという国は、ピレネー山脈を隔ててフランスに接し、地中海を通じてイタリアやギリシア、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸、大西洋を通じてイギリスやアイルランド、北欧の民族や文化が流入してくる。スペインはヨーロッパの一部ではあるが、それ以外のアフリカ大陸(イスラム圏)、地中海、大西洋と、4つの地理的要素をすべて持った国だという。
 こうした地域性がスペインの文化や美術を生み出したとする。ルネサンス期のイタリアでは星の数ほどのアーチストが生まれたのに対して、スペインでは1世紀に1~2人ほどの割合で、偉大な芸術家が登場したようだ。20世紀のスペインではピカソやダリが有名であるが、17世紀のバロック時代ではヴェラスケス、18世紀末から19世紀初めの近代絵画ではゴヤがいる。
 ヴェラスケスは西洋絵画史上に燦然と輝く巨匠であり、小暮氏は個人的にも最も尊敬する画家のひとりであるそうだ。マドリードのプラド美術館に収蔵され、絵画史上最大の作品とされる≪ラス・メニーナス≫にも言及しているが、ルーヴル美術館にもわずかながら肖像画作品があり、解説している。
 ヴェラスケスの得意技であった肖像画の特徴として、顔かたちを描くだけでなく、モデルの心の中や人格をも表現していることを挙げている。また、その描き方は、絵に近づいて見ると、ただの抽象画のような斑点だったりするが、離れてみるとリアルに見えてくるものであった。この描き方は印象派の先駆けとなった技法であると指摘している。
 また、近代絵画の父として位置づけられるゴヤの肖像画についても、モデルの感情や雰囲気までも絵に描き込んでいるとみている。ヴェラスケスがあくまで、どのモデルからも一歩離れてから、その心の中に入ったのに対して、ゴヤはもっと感情移入をしながらモデルと接していたという。
 スペイン美術を解説する際に、映画『天井桟敷の人々』、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』、堀田善衛の名著『ゴヤ』を引き合いに出して、読者に理解を深めてもらおうとする姿勢にも好感がもてる。
 
 さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇リベラ≪エビ足の少年≫
〇ムリーリョ≪乞食の少年≫
〇ヴェラスケス≪王女マルガリータの肖像≫
〇ヴェラスケス≪王妃マリアーナの肖像≫
〇ゴヤ≪羊頭のある静物≫
〇ゴヤ≪カルピオ女伯爵≫

※なお、スペイン絵画(ベラスケス、ムリーリョ)については、中野京子氏も言及していた。次の私のブログを参照して頂きたい。
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫






小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年

本書の第Ⅲ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅲ スペイン美術のスーパースターたち
 ピカレスクな画家たち
 スペインの巨星ヴェラスケス
 近代絵画の父ゴヤ




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


ピカレスクな画家たち
・スペインの画家は、なぜ「貧しき人々」を描いたか?
・スペイン美術の遍歴
スペインの巨星ヴェラスケス
・官僚画家ヴェラスケス
・心の中をも描いた肖像画
近代絵画の父ゴヤ
・近代絵画はゴヤよりはじまる
・ゴヤの≪カルピオ女伯爵≫




小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅲ章スペイン美術のスーパースターたち




ピカレスクな画家たち


スペインの画家は、なぜ「貧しき人々」を描いたか?


イタリア絵画のあとは、スペイン絵画について解説している。

〇ホセ・デ・リベラ≪エビ足の少年≫(1642年 164×93㎝ 油彩 ルーヴル美術館)
このコントラストのくっきりした立体的な表現は、カラヴァジオからの影響である。17世紀以降のヨーロッパ絵画はカラヴァジオの影響なしには考えられないといわれる。

ホセ・デ・リベラ(1591~1652)はスペインの画家である。
リベラはスペインのヴァレンシアの生まれであるが、若い頃にイタリアに渡り、当時スペインの副王領だったナポリ(飛地領土)に永住した。副王の宮廷画家として活躍し、ヨーロッパ諸国で評価された最初のスペイン人画家ともいわれる。
リベラはローマやナポリでカラヴァジオの作品に触れたことで、そのスタイルを受け継いだ作品を数多く残した。

多くの画家たちがカラヴァジオの呪縛を受ける中、リベラはこの≪エビ足の少年≫にも見られるように、そのスタイルから脱却した。
ナポリの明るく青い空を背景にして、芝居がかったカラヴァジオの人物とは一味違う、少年の屈託ない自然な表情をあらわしている。絵のモデルは、おそらくナポリにいた少年であろう。このエビ足の少年は物乞いだったようで、彼が持っている紙切れには、ラテン語で「お恵みを。おいらに神さまのお慈悲をおくれ」と書いてある。

そして同じタイプの絵として、次の作品がルーヴル美術館にある。
〇ムリーリョ≪乞食の少年≫(1645~1650年 134×110㎝ 油彩 ルーヴル美術館)
こちらの少年は、≪エビ足の少年≫に比べると、もっと困窮している感じがする。
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617~1682)は、17世紀後半のスペイン盛期バロック絵画を代表する画家である。生涯のほとんどをセヴィーリャで過ごした。
聖母などを描いた宗教画が知られるほか、貧しい少年や物乞いの姿を描いた秀作がある。生前からロマン主義時代に至るまで200年以上もの間、名声は頂点に達していたが、20世紀に入ると、画風が甘く感傷的という理由で評価が低下した。ただ、1980年以降、再評価の動きがあるそうだ。

ところで、17世紀のスペインでは、ピカレスク(悪漢)小説というジャンルが流行した。シラミだらけの物乞いや泥棒、詐欺師が、下級貴族と対決し、冒険するといった内容だったそうだ。
(映画『天井桟敷の人々』に「堅気のくせに、なぜヤクザものを描こうとする」というセリフがあるが、人間というのは昔からハミ出しものの話が好きだと小暮氏は付言している。ピカレスク小説を喩えていえば、スペイン版・冒険する「寅さん」という)

ピカレスク小説の影響は絵画にも広がり、ヨーロッパ各地でこうした貧しい人々を描いた絵が流行したようだ。17世紀になって、ナポリやセヴィーリャでは、こうした貧しい少年やピカレスク小説の主人公の絵に金持ちは夢中になる。
(その流れはフランスのラ・トゥールなどに受けつがれていったとされる)
豊かな人々の持っていた「満たされていることに対する贖罪」という意味もあったとも考えられている。
(小暮、2003年、97頁~101頁)

スペイン美術の遍歴


このように、イタリア絵画とスペイン絵画とは、同じラテン系の美術でもずいぶん違う。
ところで、ナポレオンはスペイン遠征の際に「ピレネーを越えると、そこはアフリカ」と言ったが、地政学的に見て、スペインは特殊な地域である。

小暮氏は、スペインの地域性と美術について注目している。
スペインという国はピレネー山脈を隔ててフランスに接し、地中海を通じてイタリアやギリシア、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸、大西洋を通じてイギリスやアイルランド、北欧の民族や文化が流入してくる。
スペインはヨーロッパの一部ではあるが、それ以外のアフリカ大陸(イスラム圏)、地中海、大西洋と、4つの地理的要素をすべて持つ。なおかつ、どの地域からも離れていることが、スペインの美術を生み出したと、小暮氏は理解している。
スペインは、7世紀から700年あまりにわたって、イスラム世界の支配下にあった。ちょうど日本語における漢字のように、スペイン語の10分の1はアラビア語を語源とするそうだが、その一方でイスラムから解放されたあとは、その反発からか、ファナティック(熱狂的)なまでのキリスト教が再興した。

ところで19世紀のロシアの小説家ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で、この時代のスペイン・セヴィーリャを舞台にしたエピソードを書いているそうだ。
それは15世紀のセヴィーリャに復活したキリストが、異端審問にかけられ、火刑に処せられるという、象徴的な宗教劇である。つまり、スペインにおいては、イタリア、フランス、ケルト、アラブなどの文化や人種がクロスオーバーした上に、イスラム文化と激烈なキリスト教が交錯するという、複雑な状況をつくり出した。

また、スペインはどの地域からも遠く、情報は最後にゆっくり入ってくるという傾向があった。そして、一度入った情報は、なかなか変化しないという体質があった。
この点、文化の爛熟したルネサンス期のイタリアのように、常に新鮮な情報が行き来する場所とは大きく異なっていた。
ルネサンス期のイタリアでは数多くのアーチストが生まれたのに対して、スペインでは1世紀に1~2人ほどの割合であった。スペインの複雑な背景を統合できる人間は、なかなか生まれ育たないからかもしれないと小暮氏はみている。
20世紀のスペインが、ピカソやダリといった巨人を輩出したのも偶然ではない。
(小暮、2003年、102頁~104頁)

スペインの巨星ヴェラスケス


官僚画家ヴェラスケス


スペインには1世紀に1~2人の割合で、巨大な芸術家が生まれるといわれる。
ディエゴ・ヴェラスケス(1599~1660)こそは、西洋絵画史上に燦然と輝く巨星である。
(個人的にも小暮氏が最も尊敬する画家のひとりであるという)

絵画史上最大の作品とされる≪ラス・メニーナス(女官たち)≫などヴェラスケスの重要な作品のほとんどは、マドリードのプラド美術館に収蔵されている。ルーヴル美術館にも、わずかながら、ヴェラスケスの作品がある。
マルガリータの肖像は数多く残されており、オーストリア・ハプスブルク家に贈られた、お見合い写真代わりに使われた作品や、≪ラス・メニーナス≫の中にも、その姿は描かれている。ルーヴル美術館にもその肖像画がある。
〇ヴェラスケス≪王女マルガリータの肖像≫(1654年頃 70×58㎝ ルーヴル美術館)
ただ、この王女はドイツ皇帝レオポルト1世に嫁いだあと、22歳の若さで世を去る。

さて、ヴェラスケスは巨匠と呼ばれる芸術家の中ではちょっと変わった存在である。きわめて温厚な性格の持ち主のうえ、役人としても成功した画家である。
ヴェラスケスは、11歳の時、当時の腕きき画家ビエーホに弟子入りしたが、その師匠とはソリが合わず、別の画家パチェーコの門をたたく。パチェーコは、画家としては凡庸だったが、学者肌で無類の好人物であった。ヴェラスケスはパチェーコの娘を嫁にもらう。その後パチェーコはこの娘婿が宮廷内で出世していくのを我が事のように喜んだそうだ。

ヴェラスケスは宮廷画家として順調に出世したあと、画家としてはマイナスになる宮廷内の職務を黙々とこなし、そのことに誇りすら抱いていたようだ。
巨匠の中で例外的に作品が少ないのは、宮廷役人、つまり官僚としての仕事に追われていたからといわれている。
(この点、破滅型の代表ともいうべきカラヴァジオとは、正反対の位置にいた画家というべきである)

当時は芸術家の地位が低かったこともあり、宮中で出世するには別の職務をこなす必要があったのだろうが、それにしても普通のアーチストには官僚の仕事などできないと小暮氏は強調している。
ヴェラスケスは24歳で宮廷画家として召し抱えられた時、「絵筆を持つ貴族」という意識が生まれたといわれる。ちなみに、ヴェラスケスを宮廷画家に任命した際、フェリペ4世は、ヴェラスケス以外の画家に自分の肖像を描かせないと約束したという。
(小暮、2003年、105頁~108頁)

心の中をも描いた肖像画


〇ヴェラスケス≪王妃マリアーナの肖像≫(1652~53年 209×125㎝ 油彩 ルーヴル美術館)

この絵は、ヴェラスケス工房の作品といわれているが、顔や手の描写は、ヴェラスケスの筆によるものである。
誇り高い貴族だったヴェラスケスは、魑魅魍魎はもちろん、天使や悪魔といった空想上のモチーフはほとんど描かなかった。神話の世界のテーマに取り上げても、あくまで現実の空間に置きかえて描いた。

ヴェラスケスの得意技は、やはり肖像画である。顔かたちを描くだけでなく、そのモデルの心の中や人格を、まるで手でつかめるように表現していると小暮氏はみている。
この絵のモデルである王妃マリアーナは、30歳近く年上の伯父フェリペ4世と近親結婚させられた女性である。この時、マリアーナはまだ15歳である。
政略結婚は当時のヨーロッパ王室では当たり前だったが、マリアーナの表情は華美な衣装を着せられて、戸惑っていることが読み取れるという。
ヴェラスケスの絵は近づいて見ると、ただの抽象画のような斑点だったりするが、離れるとリアルな布や宝石の輝きが見えてくるといわれる。
(この描き方は印象派の先駆けとなった技法である)
それ以上に、ヴェラスケスが捉えようとしていたのは、人の心やその場の空気、空間であったのではないかと小暮氏はみている。

それが表現されている作品としては、次の3点の肖像画を取り上げている。
〇ヴェラスケス≪イノケンティウス10世の肖像≫(ローマ)
〇ヴェラスケス≪道化ファン・カラバーサス≫(プラド)
〇ヴェラスケス≪バリョーカスの少年≫(プラド)

≪イノケンティウス10世の肖像≫は、ローマ法王という地位をすり抜けて、猜疑心の強い一人の男が描かれているという。
(疑り深そうなローマ法王にくらべて、マルガリータもマリアーナも何と無垢なことだろうと、小暮氏は感想を記している)
≪道化ファン・カラバーサス≫や≪バリョーカスの少年≫では、知的障害を持った人の心の中へ入り込んでいるそうだ。

人の心やその場の空気など、目に見えにくいものを描くには、細密描写をする必要はなく、描く人間が目に見える画面の向こう側にある何かを感じて、表現することが大切である。それを「イメージ」と呼ぶが、ヴェラスケスの場合、自分のイマジネーションを空想の世界ではなく、現実の世界に向けていたという。
(小暮、2003年、108頁~111頁)

近代絵画の父ゴヤ


近代絵画はゴヤよりはじまる


ヴェラスケスの死後120年あまり後に生まれた、もうひとりのスペイン美術の巨星が、フランシスコ・ゴヤ(1746~1828)である。近代絵画はゴヤからはじまったといわれる。

〇ゴヤ≪羊頭のある静物≫(1808~12年頃 45×62㎝ ルーヴル美術館)
ゴヤの静物画は珍しいものである。20世紀に登場するフランシス・ベーコン(1909~92、アイルランド出身の画家)を感じさせる、荒々しい色彩と筆致による存在感あふれる作品であると小暮氏は評している。

静物画や風景画というのは、肖像画や歴史画と違い、画家の心の中が一番反映されるモチーフである。この≪羊頭のある静物≫は、その意味でゴヤの持つダークサイドが顔をのぞかせた作品であるという。

この小さな静物画ひとつとってみても、見るものの目を惹きつける強烈なインパクトがあるようだ。
それには、ほぼ同時期に描かれた≪巨人≫や≪マドリード1808年5月3日≫、その後1820年頃に描かれた≪黒い絵≫と呼ばれる14点の連作(すべてプラド美術館収蔵)に共通するものが感じられるとする。
人の心の奥底にドロドロと流れる怒りや嫉妬、憎しみや恐怖心といったダークサイドを掴んだ、恐ろしい絵である。

ところで、ゴヤは、82歳まで長生きし、ナポレオンによるスペイン支配や、フェルナンド7世による専制政治といった動乱の時代をくぐり抜いた。そんな晩年近くを代表する≪黒い絵≫のシリーズは、ゴヤが病にかかって聴覚を失ってから描いたものである。
(何の病気かは諸説あるが、堀田善衛による名著『ゴヤ』には、原因は梅毒とする。この名著は全4巻の大作だが、ゴヤという画家の分析と時代背景を余すところなく記していると、一読を薦めている)

マドリード近郊に「聾者[ろうしゃ]の家」と呼ばれる家を購入したゴヤは、食堂と応接室の壁に、この≪黒い絵≫のシリーズを描いた。当時、周囲の人はゴヤが発狂したと思ったそうだ。
未だにこの連作がどういう意図によって描かれたのかは謎に包まれている。
これらの作品は、「芸術は人のためではなく、自分の内面にあるものを吐き出すもの」として制作された、最初の西洋絵画として小暮氏は理解している。
そして、ゴヤの≪羊頭のある静物≫は、佳作ながら、そのようなことを感じさせる重要な作品であろうという。
(小暮、2003年、112頁~115頁)

ゴヤの≪カルピオ女伯爵≫


ヴェラスケス同様、ゴヤの重要な作品はプラド美術館に収められているが、ルーヴル美術館に収蔵されているものは、ほとんどが肖像画である。
ゴヤは生涯に500点近くもの肖像画を残しているが、モデルによって様々な様相を呈している。

例えば、ゴヤの≪カルピオ女伯爵≫(1794~95年頃 181×122㎝ 油彩、ルーヴル美術館)がある。
この絵のモデルとなったカルピオ女伯爵は、本名マリア・リタ・デ・バルネチアといい、わずか38歳の若さで世を去っている。
当時のスペインは女性でも爵位を持つことができたが、あまり充分な教育を受けられないのが普通だった。それに対して、マリアは数多くの戯曲を残し、才女として知られた人であった。

ただ、この肖像が描かれたのは、死ぬ数ヵ月前と言われており、彼女は自分の命がもう長くないことを悟り、ゴヤに肖像画を依頼した。
この絵からは、死を前にしたモデルの孤独感が漂い、それはマリアの知的な雰囲気が相まって痛々しいほどであると小暮氏は評している。
(ゴヤ自身もちょうどこの頃、病で死線をさまよい、耳が聞こえなくなっていたから、その気持ちがよくわかったと推測している)

ヴェラスケスがあくまで、どのモデルからも一歩離れてから、その心の中に入っていったことに比べ、ゴヤはもっと感情移入をしながらモデルと接していったようだ。
(小暮、2003年、115頁~116頁)