歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その1≫

2020-06-25 17:09:43 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その1≫
(2020年6月26日投稿)
 

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


 前回のブログまで、小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を章別に要約してきたが、今回のブログからは、【読後の感想とコメント】を記してゆきたい。
 小暮満寿雄氏の著作の特徴として、次の3点を指摘しておきたい。
〇画家特有の解説が随所に散見できること
〇ルーヴル美術館のスペイン美術(とくにゴヤ)に注目していること
〇ルーヴル美術館のみならず、パリの三大美術館の他の2つ、オルセー美術館、ポンピドゥー芸術文化センターにも目を向けていること

これらの特徴をさらに発展させる形で、私なりの感想とコメントを考えてみた。その構想内容は、下記に書き出してあるので、ここでは、大まかなの方向性について略述しておきたい。
◇やはり、ルーヴル美術館に主眼が置かれているので、このルーヴルのコレクション(とりわけ絵画)は、どのような形で収集されてきたのか。この点について、ピエール・クォニアム氏の叙述により説明しておきたい。

◇また、ルーヴル美術館の歴史を考えた場合、グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式については、ユベール・ロベールの絵画とともに、小暮氏も言及していた(149頁)。この点についても補足しておきたい。

◇ルーヴル美術館の作品の中で、小暮氏は「近代絵画の父ゴヤ」と題して、歴史的に位置づけて記していた(「第Ⅲ章 スペイン美術のスーパースターたち」112頁~116頁)。従来の私のブログではほとんど言及してこなかったスペインの画家ゴヤについて、高階秀爾氏の著作などに依拠しつつ、解説しておきたい。

◇小暮氏の著作『堪能ルーヴル』の構成として、第Ⅰ章から第Ⅴ章まではルーヴル美術館にあて、「第Ⅵ章 パリの美術館」として、オルセー美術館とポンピドゥー芸術文化センターを取り上げている。この構成の仕方は、私にとって教えられる所が多く、また西洋美術史を考える際に示唆的であった。
そこで私なりに、オルセー美術館について調べ直してみることにした。オルセー美術館の歴史および所蔵作品について、【読後の感想とコメント】その3において、まとめてみた。

◇ルーヴル美術館からオルセー美術館、ポンピドゥー芸術文化センターへと、パリの美術館巡りを小暮氏が説いているのは、近代西洋美術史を考えてみる際に、重要な視座を与えてくれる。そこで、新古典主義からロマン主義、写実主義、印象派、象徴主義へと移っていく西洋美術史の流れを略述することにした。「ルーヴルからオルセーへの西洋美術史」と題して、【読後の感想とコメント】その4において、叙述してみた。参照にしていただきたい。

◇小暮氏は紙幅の都合で、オルセー美術館の作品としては、ゴッホの≪オーヴェールの教会≫の解説にとどまった(237頁~240頁)。そこでオルセー美術館が所蔵する作品の画家、印象派のルノワールや象徴主義の画家モローなどについて、【読後の感想とコメント】その5~7において解説を試みた。





【読後の感想とコメント】の構想は次のようになっている。
【目次】
<その1>
ピエール・クォニアム氏によるルーヴル美術館の絵画コレクション略史
◇フランソワ1世のコレクション/フランソワ1世の後継者/ルイ14世のコレクション/ルイ15世およびルイ16世のコレクション/大革命後の美術館/ナポレオン時代/王政復古時代/七月王政以降/第二帝政期/1869年のラ・カーズ博士の寄贈/第二帝政期の最後の購入/第三共和政期/第一次世界大戦以降/

風景画家ユベール・ロベール
ユベール・ロベールとルーヴル
【補足】ユベール・ロベール
グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式について
ルーヴル美術館の鑑賞の留意点

<その2>
【補足】アングルのヴァイオリン
アングルの≪トルコの浴場≫と、マン・レイの≪アングルのヴァイオリン≫
「近代」の先駆者ゴヤ
ロマン主義時代のゴヤ
フランス語で読むゴヤの解説文
コローの絵にみえる詩情
フランス語で読むコローの解説文
【補足】ドラクロワのショパンの肖像画
【補足】ジョットの≪聖痕をうけるアッシジの聖フランチェスコ≫

<その3>
観光地としてのオルセー美術館
オルセー美術館の主な作品
観光地としてのポンピドゥー芸術文化センター
【補足】木村尚三郎氏によるオルセー美術館の解説
【補足】オルセー美術館 ~宮殿が駅舎に、そしてオルセー美術館に
オルセー美術館の特色――小島英煕氏の著作を通して――
オルセー美術館の解説をフランス語で読む

<その4>
ルーヴルからオルセーへの西洋美術史
<新古典主義からロマン主義へ >
<新古典主義について>
<新古典主義の画家アングル>
<ロマン主義について>
<ロマン主義絵画の先駆者としてのジェリコー>
<ロマン派の代表ドラクロワ>
<ドラクロワとショパン>
<ロマン主義時代の文学と絵画と音楽>
<写実主義について>
<写実主義の画家クールベ>
<「農民画家」としてのミレー>
<象徴主義について>
<象徴主義の画家モロー>

<その5>
<印象派について>
<「印象派の父」マネ>
<「色彩の詩人」モネ>
<ルノワール>
<「近代絵画の父」セザンヌ>
<後期印象派のゴーギャン>
<波瀾の人生を歩んだ「炎の人」ゴッホ>
印象派からの挑戦状
印象派の登場とフランスの社会背景
印象派と日本人
マネの<草上の昼食>の三人のモデル

<その6>
オルセー美術館所蔵のルノワールの絵
ルノワールとアリーヌ
唯一の職人階級出身画家ルノワール
ルノワールとドガのタッチの違い
小林秀雄のルノワール論

<その7>
ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違い
ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』の魅力
ルノワールの3枚のダンスの絵
ルノワールの「舟遊びをする人々の昼食」と映画『アメリ』

<その8>
オルセー美術館にある、マネの『オランピア』とカバネルの『ヴィーナスの誕生』
マネとモネの混同エピソード
マネとモデルのヴィクトリーヌ・ムーラン
ドガと印象派の画家
ドガという画家の特徴
ナヴレ『気球から見たパリ』

<その9>
ゴッホの生涯と苦悩と絵画
オルセー美術館のゴッホ作品
ゴッホの渦巻くタッチ
小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
ドラクロワとゴッホの影響関係――補色とタッチ
ゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫のフランス語の解説文を読む

<その10>
観光地としてのギュスターヴ・モロー美術館
モローとギュスターヴ・モロー美術館
2枚のモローの『出現』
ワイルドの『サロメ』
ワイルドの『サロメ』に影響を与えた文人たち
サロメの踊りをフランス語で読む
ビアズリーの挿絵――孔雀・薔薇・蝶
『サロメ』のラストシーンとビアズリーの挿絵
【補足】モローの『出現』と切られた首





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


ピエール・クォニアム氏によるルーヴル美術館の絵画コレクション略史
◇フランソワ1世のコレクション/フランソワ1世の後継者/ルイ14世のコレクション/ルイ15世およびルイ16世のコレクション/大革命後の美術館/ナポレオン時代/王政復古時代/七月王政以降/第二帝政期/1869年のラ・カーズ博士の寄贈/第二帝政期の最後の購入/第三共和政期/第一次世界大戦以降/

風景画家ユベール・ロベール
ユベール・ロベールとルーヴル
【補足】ユベール・ロベール
グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式について
ルーヴル美術館の鑑賞の留意点






≪主要な参考文献≫


高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年
高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年
Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001.
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
アネッテ・ロビンソン(小池寿子・伊藤已令訳)『絵画の見方 ルーヴル美術館』福武書店、1991年
川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年
Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musée nationaux, 1998.
木村尚三郎『パリ――世界の都市の物語』文春文庫、1998年
地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年
高階秀爾監修『NHKオルセー美術館3 都市「パリ」の自画像』日本放送出版協会、1990年
高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]
朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班『世界 名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社、1989年
小島英煕氏『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』丸善ライブラリー、2001年
星野知子『パリと七つの美術館』集英社新書、2002年
中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年
オスカー・ワイルド(福田恆存訳)『サロメ』岩波文庫、1959年[2009年版]
山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]
Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Book, (Independently published), 2018.
Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003.
イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]



【読後の感想とコメント】


ピエール・クォニアム氏によるルーヴル美術館の絵画コレクション略史


『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』(日本放送出版協会、1986年)は、当時、東京大学教授の高階秀爾氏と、フランス美術館総審議官のピエール・クォニアム(Pierre Quoniam)氏が監修を務め、NHKとTF1(フランステレビ1)との共同制作番組「ルーブル美術館」シリーズに基づいて編集されたものである。

そのピエール・クォニアム氏は、「コレクションの歴史」と題して、ルーヴル美術館の7部門コレクションの発展の推移について略述している。7部門とは、絵画部、素描部、古代ギリシャ・ローマ部、古代エジプト部、古代オリエント部、彫刻部、工芸美術部である。
(※2003年に「イスラム美術部門」が創設され、8部門に分類される)

ここでは、絵画部門についてまとめておきたい。
ルーヴルにこれらの7部門(ママ)のうちで、絵画部は最も大きな規模を誇るだけでなく、最も古いものである。
その中心をなすものは、大革命の最中の1793年8月10日に、ルーヴルが中央美術博物館として開館された折、グランド・ギャラリーにおいて展示された絵画である。その大多数は王室コレクションに源を発する。
(王室コレクションの歴史が、ある意味で、ルーヴル美術館の歴史の発端である)

【フランソワ1世のコレクション】


アンシアン・レジーム(旧体制)下で、国王の「絵画室」(Cabinet des tableaux)と呼ばれていたものが創設されたのは、フランソワ1世が16世紀初期にフォンテーヌブロー城に当時のイタリア絵画を集めたことに遡る。
この中に含まれていたのが、次のような作品である。
〇レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」、「洗礼者ヨハネ」、「岩窟の聖母」
〇フランスに招かれたアンドレア・デル・サルトの「慈愛」
〇ラファエロの「聖家族」、「竜を退治する聖ミカエル」、「ジャンヌ・ダラゴン」
〇ティツィアーノの「フランソワ1世の肖像」

【フランソワ1世の後継者】


16世紀中葉から17世紀中葉にかけての1世紀間、フランソワ1世の後継者たちは、このコレクションをあまり増やすことはなかった。
アンリ4世(在位1589~1610年)や、ルイ13世(在位1610~43年)は、ヨーロッパの大画家たちに作品を注文することはあったが、それは主に宮殿の装飾のためであった。それらのいくつかは、ルーヴルのコレクションに入っている。
たとえば、
〇ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」
1622年から25年にかけてルーベンスが描いた壮大な連作で、アンリ4世妃のマリー・ド・メディシスの生涯を描いたものである。もともとマリーの居城であるリュクサンブール宮殿を飾っていた。

【ルイ14世のコレクション】


ルイ14世(在位1643~1715年)の下で、国王の絵画室は飛躍的に発展し、場所もルーヴル宮に移された。
先王ルイ13世の宰相であったリシュリュー枢機卿は、彼のコレクションを1642年に王に遺贈し、マザラン枢機卿の死(1661年)後、彼が前任者リシュリューに倣って収集した見事なコレクションの一部は王に買い上げられた。
中でも特筆すべきは、次の作品である。
〇ラファエロの「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」
次いで、銀行家エーヴァハルト・ヤーバッハから、次の作品が購入された。
〇ティツィアーノ作といわれる「田園の奏楽」
〇カラヴァッジオの「聖母の死」
〇現在ルーヴルが収蔵しているホルバインの全作品

ルイ14世はその在世中、とくにヴェルサイユ宮殿を飾るために王室画家(ル・ブラン、ミニャール)に作品を描かせる一方、過去のフランスの画家(プッサン、クロード・ロラン、ヴァランタン・ド・ブーローニュ)、イタリアの画家、フランドルの画家(ヴァン・ダイク、ルーベンス)、オランダの画家(レンブラント)などの作品の入手に努めた。
1709~10年に作成された王室絵画室の収蔵品目録の点数は1478点にのぼる。

【ルイ15世およびルイ16世のコレクション】


ルイ15世(在位1715~74年)は熱心な収集家ではなかったので、購入数はずっと減少し、当時のフランスで活躍していた画家の作品に限られた(ブーシェ、ランクレ、シャルダン、ジョゼフ・ヴェルネ、ナティエ)。

ルイ16世(在位1774~92年)の時代になると、当時の芸術創造に刺激を与えるためにルーヴルに美術館を開設しようという考えが生まれる。
その準備として、王室建築物監督官ダンジヴィエ伯爵は、精力的に収蔵品を増やした。
〇フランスの画家(ル・ナン兄弟、ル・シュウール)
〇当代の画家ダヴィッドの「ホラティウス兄弟の誓い」
〇フランドル派のルーベンスの「エレーヌ・フールマンの肖像」
〇オランダ派のレンブラントの「エマオのキリスト」
〇スペイン派のムリーリョの「乞食の少年」

【大革命後の美術館】


そして同時に行なわれたグランド・ギャラリーを美術館に改装するための準備をふまえて、大革命後、国民公会による1793年の美術館開館が可能になった。
王室絵画室からは、当時展示中の537点という大部分の絵画が国有財産として美術館に入った。
〇絵画アカデミーのコレクションからのものとして、ヴァトーの「シテール島の巡礼」
〇国外亡命者からの没収作品として、イザベラ・デステの書斎を飾っていた絵画、グァルディの一連のヴェネツィアの風景画
〇教会財産として押収した作品として、ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」
その後、革命期や帝政期のナポレオンの外征により、ベルギー、オランダ、イタリア、ドイツ、オーストリアなどからもたらされた作品群が加えられる。

【ナポレオン時代】


19世紀のはじめ、館長に任命されたヴィヴァン・ドゥノンは、「ナポレオン美術館」と改称されたこの美術館の威光を高める目的で、多くの作品を購入した。
しかし、1815年に帝政が崩壊すると、ナポレオンを打ち破った対仏同盟諸国は、美術作品の返還を要求し、ルーヴルから2500点の絵画が持ち出された。
流出をまぬがれたのは、100点ばかりであった。その一つが、次の作品である。
〇ルーヴル最大の絵画ヴェロネーゼの「カナの婚礼」

【王政復古時代】


王政復古時代(1815~30年)に、この惨状を回復する努力が行なわれた。
リュクサンブール宮に置かれていた作品が、美術館のコレクションに付加されたり返却されたりした。
〇ヴェルネの「フランスの港」
〇ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」
当時の画家の作品購入として、次の作品がある。
〇ジェリコーの「メデューズ号のいかだ」
〇ダヴィッドの「レカミエ夫人」、「サビーヌの女たち」、「テルモピライのレオニダス」
〇ドラクロワの「ダンテの小舟」、「キオス島の虐殺」

【七月王政以降】


そして、1818年には、リュクサンブール美術館が創設されて、当時活躍中の画家の作品を納めるとともに、国立の大美術館の予備室としての役割を果たすことになった。
しかし、七月王政(1830~48年)の期間中は、寄贈や購入などによる新収蔵品は少なかった。
これは、ルイ・フィリップ王がヴェルサイユの歴史美術館のコレクションの方により興味を抱いていたためと、彼自身のスペイン絵画のコレクションの方に力を注いだためらしい。
(このスペイン絵画のコレクションは、ルーヴルに数年間展示されたが、王の亡命とともに国外に持ち出され、結局1853年にロンドンで競売にかけられた)

【第二帝政期】


ナポレオン3世の第二帝政期には、ルーヴルが拡張整備されて大飛躍を遂げた。絵画部門はこの恩恵を充分に受けた。
高額の購入の中でも最も輝かしいのが、ローマにおいてカンパーナ侯爵の集めた14世紀および15世紀のイタリア絵画コレクションを、1862年に購入したことである。

カンパーナ侯はローマの銀行の頭取であったが、美術品の収集に熱中するあまり公金を流用したため、逮捕され、そのコレクションが売り立てに出された。そこで、ナポレオン3世は、436万400フランという巨額で買い取った。
総数は1万点を超える。そのうちイタリア初期ルネサンスを中心とする絵画の数は300点、しかしその3分の2は各地方美術館に分散され、ルーヴルにはおよそ100点余りが残った。

【1869年のラ・カーズ博士の寄贈】


また、絵画の寄贈の歴史上特筆すべき出来事が、この時期にあった。
それはラ・カーズ博士により1869年の寄贈である。
総点数272点である。その中には次のような作品が含まれていた。
〇レンブラントの「バテシバの水浴」
〇フランス・ハルスの「ジプシー女」
〇ル・ナン兄弟の「農民の食事」
〇ヴァトーの「ピエロ(ジル)」
〇フラゴナールの「水浴の女たち」
〇リベラの「えび足の少年」

【第二帝政期の最後の購入】


1870年、第二帝政下の最後の購入の中で注目すべき作品は、次の作品である。
〇フェルメールの「レースを編む女」
今日、フェルメールの真作は世界に30数点しかないが、その中の1点である。購入価格は当時の金額にして7500フラン。フェルメールの名声が極まった今日では、フェルメールを1点でも持つことは美術館の誇りである。

※ ルーヴルでは、その後、フェルメールの「天文学者」を購入し、貴重なフェルメールの作品を2点所有することとなった。

【第三共和政期】


第二帝政が崩壊(1870年)しても、収蔵品は増加した。第三共和政の時期、1914年までの間には、リュクサンブール美術館から恒常的に絵画が移入されるとともに、そして多くの寄贈が行なわれた。
〇19世紀のフランス絵画の多くが加えられた(ジェリコー、アングル、ドラクロワ、シャセリオー、コロー、ミレー、ルソー、バルビゾン派の画家たち、クールベ、印象派の画家たち)
購入品としては、
〇1882年、ボッティチェリのフレスコ画(いわゆるレンミ荘の壁画)の購入
〇1904年、「アヴィニョンのピエタ」の購入
〇1913年、ファン・デル・ウェイデンの「ブラック家祭壇画」の購入

【第一次世界大戦以降】


第一次世界大戦後は、財政の縮小とアメリカの諸美術館が競争相手として登場したことなどから、収蔵品の増加にブレーキがかかったが、第二次大戦前夜、そしてその後に再び増加するようになる。
ルーヴル友の会の支援や、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、フォンテーヌブロー派の画家たちのようなよく知られていなかった作品を再発見する学芸員の優秀な能力、遺産相続税を美術作品で代納できる法的措置、購入予算の増額などのおかげで、絵画は増加し続けたそうだ。
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、126頁~128頁)

【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】


ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)

風景画家ユベール・ロベール


ユベール・ロベール(1733~1808年)は、18世紀の後半に活躍した風景画家である。
彼はイタリアで11年間を過ごし、古代の建物やとくに廃墟の風景を好んで描いたために、“廃墟のロベール”といわれた。

〇ロベール「コロセウムの内部」(油彩、245×320cm)は、そのひとつである。
古代ローマの巨大な遺跡コロセウムの崩れ落ちた内部を描いて、かつての栄華をしのび、そのはかなさを味わうという趣向の絵画である。遠くにコンスタンティヌスの凱旋門の一部が見える。

当時のヨーロッパでは、古代ギリシャ、ローマへのあこがれが広まっていた。18世紀の半ばには、紀元79年のヴェスヴィオ火山の爆発によって埋もれた古代ローマの都市ポンペイやヘルクラネウムの廃墟を描いた絵が世間にもてはやされたのも、このような風潮によるものである。

フランスに帰国後のロベールは、パリやフランス各地の風景を描き続ける。セーヌ河にかかるノートル・ダム橋の上にあった建物をとりこわす光景を描いた「ノートル・ダム橋上の家の取り壊し」(油彩、73×140cm)も、ロベールの廃墟趣味のひとつである。1786年に家々が取り壊された時の情景を写し出した作品である。

ところで、ロベールは、ルイ16世の絵画コレクションの管理者に任命され、当時、王のコレクションの多くが保管されていたルーヴル宮との深いつながりができる。
革命後、ルーヴルは共和制政府によって美術館として公開されることになる。ロベールはルーヴルの美術館としての展示プランを様々な絵に描いている。
“廃墟のロベール”にふさわしく、遠い未来に廃墟となったルーヴルの風景を描いたものもある。

〇ユベール・ロベール「廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図」(油彩、32.5×40㎝)
ロベールは早くからルイ16世の美術品管理官に任じられ、美術館開発計画にかかわり、革命後、新しい展示計画を発表した。それと同時に、この作品のように、遠い将来におけるルーヴルの廃墟の状態を想像して描き出した。すべてが破壊された後に「ベルヴェデーレのアポロン」だけが静かに立っているのが象徴的である。

〇ユベール・ロベール「ルーヴルのグランド・ギャラリー」(油彩、37×41㎝)
ロベールは、実際のグランド・ギャラリーの状況を描き出したいわば実情報告の作品ものこしている。この作品がその一例である。
1793年、革命政府によって実際にコレクションの一部が展示公開された時の状態を描き出している。
(もっともロベールは、1793年から翌年まで、一時革命の混乱の中で虜われの身になっていたから、彼の釈放後、おそらく1795年頃のギャラリーを示していると考えられている)
この作品の中央の彫像は、ジョヴァンニ・ダ・ボローニャの「メルクリウスの像」であるそうだ。

〇ユベール・ロベール「ルーヴル美術館グランド・ギャラリーの改造計画」(油彩、46×55㎝)
1790年代、ロベールはサロンに何回にもわたってグランド・ギャラリーの改造と作品展示計画案を出品している。
当時のグランド・ギャラリーは、天井は半円筒形穹窿で完全に塞がれており、光は窓から入るだけであった。
それに対して、ロベールは、窓を塞いで天井をガラス張りにし、いわゆるトップ・ライト方式による展示場という、きわめて近代的な構想を提示した。
この考え方は、他のロベールの計画案でも一貫しているそうだ。長い歳月の後、現在ほぼこの基本的考えが実現されている。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、121頁~123頁)

【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】



フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)

ユベール・ロベールとルーヴル


風景画家ユベール・ロベール(1733~1808年)は、フラゴナール(1732~1806)とイタリア留学期に親交し、ともにティヴォリの庭などを描いたことがある。つまり、フラゴナールとまったく同世代に、ロベールは属する。
(このことは二人の生没年が近いことでもわかる)

ロベールの風景も、自然の情緒への共感という点で、先ロマン主義的な傾向をみせるといわれる。ロベールの名は、ルーヴル美術館の最初の館長であったという事実でも忘れることができない。
17世紀の幾何学式庭園にかわって、イギリス風の自然庭園の好まれたこの時期、ロベールはイタリアから帰国後まもなく王の庭園の画家となる。

そしてルーヴル美術館の監視官となるが、1784年である。今日のルーヴルが正式に開館するのは、1793年であるが、すでに大革命前に美術館開催はルイ16世によって勅許され、この時ロベールはルーヴルのグランド・ギャラリーの陳列計画を命じられている。
大革命時に、彼は逮捕されるが、1801年には再びルーヴルの館長となっている。
(中山公男「一八世紀ロココの美術」170頁、高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年所収)

【補足】ユベール・ロベール


ユベール・ロベールは、1766年にアカデミー会員となり、1778年以降は美術館設立委員会のメンバーとして積極的に活動した。
ルーヴル宮殿所蔵の絵画の管理者でもあったロベールは、1779年から1806年までルーヴル宮殿に住んでいた。
ルイ16世の時代に、ロベールはルーヴル宮殿の「大ギャラリー」に美術館を開くための計画を立てた。
ブレスク氏も指摘しているように、「大ギャラリー」にはガラス張りの天井から光をとるための研究が行なわれた。
また、ロベールが1796年に描いた絵画に注意を向けている。
〇ユベール・ロベール「ルーヴル グランド・ギャラリー改造計画」(油彩 45[ママ]×55㎝)
Hubert Robert, Projet d’aménagement de la Grande Galerie du Louvre, en 1796,
Paris, 1796. Huile sur toile, 46×55cm.

この絵では、画面右手下には、ラファエロの有名な聖母子像と、その前で模写する画家の姿が描かれている。そのほか、同じくイタリアの有名画家だったレーニやティツィアーノの作品が見える。
(ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年、74頁、79頁)

【ブレスク『ルーヴル美術館の歴史』(創元社)はこちらから】


ルーヴル美術館の歴史 (「知の再発見」双書)




グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式について


執政政府時代に工事に関わっていた建築家ジャン・アルノー=レイモン(1742~1811)に代わって、1805年からはペルシエ(1764~1838)とフォンテーヌ(1762~1853)がナポレオン美術館(Musée Napoléon)の整備計画と監督にたずさわるようになる。美術館機能の充実を目的とする宮殿の増改築は新しい局面を迎えることになる。

まず、1805年から10年にかけてグランド・ギャラリーの改築が行なわれた。
グランド・ギャラリーの採光を側面の窓から行なう従来の方法に代えて、トップ・ライト方式にする案は、すでに旧体制時代からユベール・ロベールらによって検討されてきた。

ここで、トップ・ライト方式について、歴史的に遡って、少し説明しておく。
そもそも、グランド・ギャラリー展示スペースに使用するための最大の障害は、当時そこに小さな窓が設けられていただけで、採光がきわめて悪かった点である。
建築家ジャック=ジェルマン・スフロ(1713~1780)は、その窓をふさいで、ギャラリー上部に高窓を設ける案を出した。しかし、そのためには、建物内外に大幅に手をつけねばならず、委員会の容れるところとならなかった。

一方、美術品の展示室の天井をガラス張りにして採光を行なう、いわゆるトップ・ライト方式が当時すでに実用化されていた。
1789年にはサロン・カレがこの方式に従って改装された。また、1784年ダンジヴィレール伯爵の推薦によって、ルーヴル宮に計画中の美術館の管理官(Conservateur)になっていたユベール・ロベールが、1796年のサロンに出品したグランド・ギャラリー改装案の油彩画もトップ・ライト方式になっている。
(だが、ダンジヴィレール伯爵の委員会の組織されていた時代には、旧体制は余命10年あまりで、グランド改造計画にも、これ以上の進展はなかった。そして、ダンジヴィレール伯爵は計画の実現を見ることなく、1789年の革命を迎え、1791年には亡命貴族(エミグレ)の列に加わることになる)

しかし、実現するにいたっていなかった。
ナポレオン美術館の時代にも再びこの問題が浮上した。ただ、ドノンが、採光の便と絵画の展示用の壁面の確保のために、トップ・ライトを望んだのに対し、フォンテーヌは建築としての美観上の理由から窓を残すことを主張した。
今回の改造では、最終的に天井の一部分のみがトップ・ライトに変えられ、壁際に規則的に並んだ2本ずつ対をなした円柱が天井のアーチを支える構造が付け加えられた。
グランド・ギャラリー全体のトップ・ライト化が実現したのは、20世紀に入ってからである。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、274頁、319頁~320頁)

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鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』

ルーヴル美術館の鑑賞の留意点


このブログでルーヴル美術館の作品をできるだけ多く紹介してきた。鑑賞する上での留意点を最後に述べておきたい。

パリを旅する人はほとんどルーヴル美術館を訪れるが、ルーヴルを「よかった」とはいっても、そこで「感動を受けた」と述べる人は意外と少ない、と田中英道氏は記す。
その理由は何か?
巨大な建物の中に名作・絶品の類がすべて一緒にならべられて、一時に十の交響楽が奏でられているからという。
例えば、レオナルドの『モナ・リザ』とジョルジョーネの『田園の奏楽』が、ヴェロネーゼの大作『カナの饗宴』と同じ部屋に所狭しと並べられている(田中氏の執筆当時)。
これでは、訪れる人はどの絵の音も落ち着いて聞き入ることはできないというのである。
和して大合奏をする必要もない、これらの作品が隣り合ってお互いの楽の音を殺し合い、一つの作品への感動が次々に相殺されてしまうようだ。作者が全精神・全技量をかけてつくり出した傑作が、百科事典の如く、並べられていては、感動も薄れるのもわかる。

そこで、田中氏は、1960年代の終わりに、ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの作品だけを、ルーヴルに見に行っていた時期があったと回想している。
そのとき、ラ・トゥールの作品のあるグランド・ギャラリーまでほとんど耳をふさぐようにして向かっていったそうだ。他の作品に関心がないからではなく、一人の画家の作品を見るためには、他の音の重なりをなるべく感じないようにするためである。
田中氏のような贅沢な鑑賞は、一般人にはできない。せめて、ルーヴル美術館を訪れる前に、下調べを十分にして、自分は何を見たいのかを決めて、鑑賞することがお勧めである。
その際に、このブログで紹介した本が少しでも役立てば幸いである。
(田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年、152頁)

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美術にみるヨーロッパ精神