≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その3≫
(2020年5月6日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
パリを訪れると、ナポレオンにまつわる観光地にあふれていることに気づく。
パリの象徴である凱旋門には、ナポレオンをモデルにした浮き彫りがある。アンヴァリッドにはナポレオンが眠っている。また、ルーヴル美術館もナポレオン美術館と称して、近代的な美術館としてスタートした経緯があった。
また、ナポレオンは文学にも深く影響し、フランスの国民的文豪ヴィクトル・ユゴーは、ロマン派大河小説『レ・ミゼラブル』(Les Misérables, 1862年)の中で、かのワーテルローの戦いについて、一章をもうけている(「第二部コゼット第一章ワーテルロー」)。
そして、「ワーテルローは単なる戦役ではない。それは、世界の変容であった」と記す。
(例えば、ヴィクトル・ユゴー(石川湧訳)『レ・ミゼラブル1』角川文庫、1998年、463頁~541頁。とくに503頁)
また、コゼットに恋したマリユスは、共和派の秘密結社に所属する貧乏な学生であった。そのマリユスは、幼い頃は母方の祖父の影響で王政復古派であったが、17歳の時、ナポレオン1世のもとで働いた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、祖父と対立し、家出していた。
(例えば、ヴィクトル・ユゴー(石川湧訳)『レ・ミゼラブル2』角川文庫、1998年、347頁~401頁。とくに381頁~386頁参照のこと)
ところで、中野京子氏は、「第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』」において、ナポレオンの母に関して言及していた。
『ナポレオンの戴冠式』において、ダヴィッドの創作のひとつとして、ほんとうはここに居なかったナポレオンの母を描いていることを挙げている。画面の正面二階の貴賓席で微笑む姿でダヴィッドは描いている。実際には、ナポレオンの母は息子が皇帝になるのに大反対で、戴冠式には出席しなかったと解釈している。捏造写真の先取りともいえると中野氏は記している(中野、2016年[2017年版])、23頁)。
そして『ナポレオンの戴冠式』の見開きの図解には、「実際には臨席していなかったナポレオンの母が、正面席から我が子の大出世を見守る」と解説している(同上、18頁~19頁)。
また、ジョゼフィーヌに関しては、中野氏も指摘するように、ナポレオンの辞世の言葉は、「フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ」だったといわれる(同上、24頁)。
ところで、安達正勝氏は、『ナポレオンを創った女たち』(集英社、2001年)において、母レティツィア、皇妃ジョゼフィーヌ、ハプスブルク家の姫君マリー・ルイーズといった3人の女性について考えている。
次のような点に留意しつつ、安達氏の著作を今回は、紹介してみたい。
☆その母はナポレオンの運命にいかなる影響を与えたのであろうか。その母はどんな性格で、いかにナポレオンを育てたのか。なぜ、わが子ナポレオンの戴冠式に出席しなかったのか。
☆ナポレオンと結婚したジョゼフィーヌは、どのような生い立ちで、どのような経緯で皇妃になったのか。ジョゼフィーヌと、ナポレオンの母との関係はどうであったのか。ナポレオンと離婚したのはなぜか。ナポレオンにとって、ジョゼフィーヌはいかなる存在であったのか。
☆ジョゼフィーヌとの離婚後、正妻として迎えられた、深窓の姫君マリー・ルイーズは、ナポレオンとの仲はどうであったのか。果たして理想の妻であったのであろうか。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
【アンヴァリッドの写真】(2004年5月筆者撮影)
アンヴァリッドには、ナポレオンの柩が置かれている。
ところで、ナポレオンの名文句として、「わが辞書に不可能という言葉はない」という文句が知られている。
しかし西永氏によれば、原文では、それに相当する言葉はないらしい。その代わり、次の文句があるという。
Ce n’est pas possible, m’écrivez-vous ; cela n’est pas français.
(不可能です、ときみは書いているが、それはフランス語ではない。)
(西永良成『「超」フランス語入門』中公新書、1998年、186頁)
フランス文学者の安達正勝氏は、『ナポレオンを創った女たち』(集英社、2001年)において、「第二部 ナポレオンの運命は女性たちによって大きく左右された」と題して、次の3人の女性について論じている(安達、2001年、95頁~194頁)。
① 偉大なる母、レティツィア
② 勝利の女神、ジョゼフィーヌ
③ ハプスブルク家の姫君、マリー・ルイーズ
いうまでもなく、この女性のうち、①母のレティツィアと②皇妃ジョゼフィーヌの2人の女性は、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』に描かれた女性である。
これら3人の女性について、簡単に紹介しておきたい。
【安達正勝『ナポレオンを創った女たち』(集英社)はこちらから】
安達正勝『ナポレオンを創った女たち 』(集英社新書)
ナポレオンの運命に大きな影響を与えた最初の女性といえば、母親のレティツィアである。ナポレオンは、もともとが完全なお母さんっ子であったようだ。
父親のシャルルは、ナポレオンの少年時代に死亡しており、母親に比べると、影が薄い。社交的な父親が、外で散財するのに対して、母親がそうした費用も捻出して、一家を取り仕切っていた。
ナポレオンの母は、一言でいえば、「気丈な人」である。非常に勇敢で、男まさりの性格であった。例えば、コルシカがフランスに対して独立戦争を起こした時、19歳の母は、ナポレオンをお腹の中に宿した身で馬にまたがって、反乱軍と行動をともにしたそうだ。
容貌、性格とも、ナポレオンは母親似である。ナポレオン自身も、「私の教育の根本を作り上げたのは、母親である」と言っている。
ナポレオンは腕白坊主のガキ大将であったが、母の躾(しつけ)はきびしかった。たとえば、教会のミサに行くふりをして遊びに行ったりしたことが後でばれると「ミサをさぼったことよりも、そういう嘘やごまかしがよくない」と言って、ひっぱたいた。
ナポレオンが砲兵士官になったのも、母親の影響によるものだった。ナポレオンは最初は海軍に行きたいと思っていたが、母親は陸軍に行くようにすすめた。フランスは伝統的に陸軍の国であり、海軍のほうはイギリスに太刀打ちできないままであった。
ナポレオンがどんどん偉くなってゆくのは、母親だから嬉しくはあったけれども、怖くもあった。息子が皇帝になっていいのか、という気もしてきた。
安達氏は、そうした思いを抱いていたことが、戴冠式の欠席にもつながったとみている。ただ、ナポレオンが弟のリュシアンと仲違いし、母レティツィアがそれに、心を痛めていたという事情もあったとも、断っている。
ダヴィッドはナポレオンの依頼に応じて、戴冠式の絵に、レティツィアの姿も描きとめてはいるのだが。
(鈴木杜幾子氏は、ナポレオンの母皇太后はジョゼフィーヌを嫌っていたために、彼女が皇妃になることに反対で、戴冠式の参列を拒んだと解釈している。鈴木、1991年、215頁)
ナポレオンが晩年、セント・ヘレナ島で残した言葉には、「母は私の幼少時代からきびしい愛情をそそいで、偉大なことしか考えないように気を配ってくれた」とある。
(安達、2001年、97頁~104頁)
ナポレオンの運命にいちばん大きな影響を与えた女性といえば、何といっても、ジョゼフィーヌであり、ナポレオンを一人前の男にしたのも彼女であると、安達氏はみている。
ナポレオンとジョゼフィーヌの交際が始まるのは、ナポレオンが1795年10月に、ヴァンデミエールの王党派蜂起を鎮圧し、社交界でもやっと一目置かれるようになって、まもなくの頃である。
ジョゼフィーヌは社交界の花形として通っていたが、ナポレオンより6つ年上、32歳の未亡人で、2人の子供がいた。
ジョゼフィーヌは、カリブ海のマルチニック島の農園主の娘に生まれで、身分は一応貴族だった。ジョゼフィーヌもナポレオンも、島の生まれで、下級貴族の出身であり、生まれた環境はよく似ている。マルチニック島とコルシカ島という2つの島はほとんど地球の反対側同士に位置しているのだから、この2つの島で生まれた人間が出会ったこと自体に何かしら運命的なものである。
ましてや、ジョゼフィーヌが生まれる9日前まではマルチニック島はイギリスに一時的に占領されていた。ナポレオンがイタリア人になる可能性大であったのと同じように、ジョゼフィーヌはイギリス人になる可能性も十分にあった。
フランス本国の人々からみれば異邦人といっていい、この2人の人間がフランスの皇帝と皇后になったというのも、不思議な話である。
(2人の生い立ちを知って、ダヴィッドの絵を見ると、感慨もひとしおである!)
さて、ジョゼフィーヌは、16歳の時、ボアルネ子爵との結婚のため、フランスにやってくる。ボアルネ子爵は開明派貴族としてフランス革命に参加したが、恐怖政治期に反革命の濡れ衣を着せられ、処刑される。
ジョゼフィーヌ自身も投獄されたが、テルミドールのクーデターのおかげで、からくも命拾いした。
ヴェンデミエールの王党派の反乱が鎮圧された後、武装解除の命令が出され、武器が回収された。その時、ジョゼフィーヌの息子のウージェーヌが、回収された父親の形見の剣を返してもらえないかとボナパルト国内軍副司令官に頼みに行った。このことが、ナポレオンとジョゼフィーヌが知り合うきっかけになった。
ナポレオンはジョゼフィーヌの優雅さに打たれ、彼女の魅力の虜になった。
まだ青臭く、「センチメンタルな文学青年」の面があったボナパルト将軍は、この「恋多き女」ジョゼフィーヌに幻惑されたようだ。
ジョゼフィーヌに宛てた手紙は有頂天にみちているが、ジョゼフィーヌを「君」と呼ぶべきか、「あなた」と呼ぶべきか、まだ定まっていないようだ(フランス語の二人称には、親しい間柄で使われる「君」に相当する tuと、「あなた」に相当する丁寧な vousがある)。
その後、ボナパルト将軍に求婚されて、彼女は困惑した。前夫はダンスの名手として知られる好男子であったのに対して、ボナパルトは「やせた小男」にすぎない上に、財産があるわけでもなかった。だから、たいして気をそそられる結婚ではなかったが、自分の年齢や生活のため、ナポレオンの力強い情熱に押されて、ジョゼフィーヌは結婚に同意することにした。
1796年3月に区役所で結婚式を挙げた(ジョゼフィーヌは年齢を4歳少なく申告し、ボナパルトは1歳半多く申告し、2人とも28歳とした)。
ボナパルトはイタリア方面軍の最高司令官に任命されていたため、結婚式の2日後にはイタリアへと旅立った。
ボナパルトの運が急に昇り調子になるのは、ここからである。
(「ナポレオン・ボナパルト」とフランス風に改めるのも、この頃からである。それまでは「ナポリーネ・ブオナパルテ」とイタリア式に名乗りつづけてきた)
イタリアからももたらされる勝利の報にパリは沸き返り、将軍を勝利へと取り立てているのは、夫人への愛と信じられ、ジョゼフィーヌは「勝利の聖母」と呼ばれたそうだ。そして、「ボナパルト将軍」のナポレオンはヨーロッパに轟き渡った。
ボナパルトが統治者として基盤を固めていく上でも、ジョゼフィーヌの働きは大きかった。
ボナパルトは上流社交界の人脈とかはあまり知らなかったが、ジョゼフィーヌはかなり広い人脈を持っていた。そしてもともと頭のいい女性で、人を動かす技術に関して、才能があった。
1799年11月のブリュメール(霜月)のクーデターでボナパルトは政権を掌握するが、この時もジョゼフィーヌは大きな助けになった。
もとは浮気な妻だったジョゼフィーヌだが、『ナポレオン法典』によって近代社会において、あるべき理想の女性像が打ち出された頃には、「内助の功著しい妻」として、全フランス女性の模範ともなった。
皇后としても、人あたりのいい女性だったから、ジョゼフィーヌは人気があった。
(ただし、ジョゼフィーヌはナポレオンの家族とは非常に折り合いが悪かった。中でもナポレオンの妹のポリーヌとカロリーヌの2人は、なんとかしてジョゼフィーヌを追い出そうとした)
世襲の皇帝となったナポレオンにとって、ジョゼフィーヌとの間に子供が生まれないことは大きな悩みだった。コルシカ島の貧乏貴族の倅から、フランス皇帝になり、さらにはヨーロッパの覇者にまでなったナポレオンにとって、世継ぎがないのは大きな問題であった。
苦渋の末、1809年11月30日、ナポレオンはジョゼフィーヌに離婚を通告した。2週間後の12月15日、チュイルリー宮殿で離婚式が行なわれた。
(ジョゼフィーヌも離婚によって大打撃を受けるが、離婚の最大の被害者となるのが、ナポレオン自身であったと安達氏はみている)
(安達、2001年、130頁~164頁)
【補足 ジョゼフィーヌ】
なお、ジョゼフィーヌという女性の愛の生涯を主題にした書物として、J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』(中公文庫、1987年)という著作がある。
書名の通り、西インド諸島マルティニック島の一小貴族の娘として生まれ、ナポレオン・ボナパルトと結婚し、皇后の地位にまで登りつめた一女性の数奇な生涯を、とくに愛の遍歴に焦点をあてて浮き彫りにしている。
例えば、ナポレオンがジョゼフィーヌに宛てて書いた手紙がかなり収められており、伝説化されたナポレオンの英姿とは異なる生の姿が垣間見られる。
【J・ジャンセン『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫はこちらから】
ナポレオンとジョゼフィーヌ (中公文庫)
ナポレオンは1810年4月、オーストリア皇帝フランツ1世の長女マリー・ルイーズを新しい妻に迎える。このハプスブルク家の皇女は、あの悲劇の王妃マリー・アントワネットからは甥の娘にあたり、この時、18歳だった。
(ナポレオンは40歳をすぎており、ジョゼフィーヌと出会った頃は「やせた小男」で、肩にかかるほどに髪を長くしていたが、でっぷりと太り、額がかなり禿げ上がってきていた)
マリー・ルイーズは、ハプスブルク家の深窓の姫君として育てられた。フランツ1世は宰相メッテルニヒを通じて娘の気持ちを一応は打診はしたが、娘として父親の意向に逆らえるはずもなかった。一方、ナポレオンは、一介の革命兵士上がりの自分が、ヨーロッパ緒王家の中でも、もっとも古い伝統を誇る王家の姫君を妻に迎えることができ、感激し、下手に出ていたようだ。
ジョゼフィーヌが、ナポレオンの心の動きの一つひとつを読みとり、ナポレオンがより快適に暮らせるように細かく気を配る妻であったのに対し、マリー・ルイーズは逆にナポレオンに気をつかわせる妻であった。こうして、ナポレオンの生活のペースは徐々に崩れてゆく。そして人あたりのよかったジョゼフィーヌと違って、態度が高慢なマリー・ルイーズに反感を感じる人も多かった。
ジョゼフィーヌが政治の面でも私生活においても非常に有能な伴侶であったのに対し、マリー・ルイーズは足手まといなだけのお嬢様だったと安達氏は評している。
さて、結婚の翌年1811年3月には待望の男の子も生まれた。ハプスブルク家の血も引く、この王子「ローマ王」に帝位を譲ることによって、「ナポレオン王朝」の基盤は盤石なものとなるはずだったが、実際には、ナポレオンの運勢は下り坂に向かっていた。その勢いは、1810年前後から衰えをみせ始めてはいたのだが、その流れを決定的にしたのが、1812年のロシア遠征の大失敗だった。
ヨーロッパ連合軍との戦いに敗れたナポレオンは、1814年4月、退位を宣言し、エルバ島へ配流された。
ジョゼフィーヌは、ナポレオンがエルバ島に流されて、まもなく肺炎をこじらせてマルメゾンで死亡する。「ボナパルト、、、エルバ島、、、ローマ王、、、」が彼女の最後の言葉であった。
(ジョゼフィーヌはローマ王に一度だけ会っている。ローマ王は前夫ナポレオンの生きがいで、達者に育ってくれなければ、2人が不幸な別れをした意味もなくなってしまうと思ったからであろうか。このように想像する作家もいる。ローマ王、ナポレオン2世は、肺炎のため惜しくも1832年に21歳で夭折してしまうのだが)
爲峰、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死に臨んで最後に口にする女性の名前は、「ジョゼフィーヌ」であり、本当に愛していた女性、心の奥底で求めつづけていた女性はジョゼフィーヌだったのである。
(安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年、165頁~194頁、218頁~219頁)
【安達正勝『ナポレオンを創った女たち』(集英社)はこちらから】
安達正勝『ナポレオンを創った女たち 』(集英社新書)
【西永良成『「超」フランス語入門』(中公新書)はこちらから】
西永良成『「超」フランス語入門―その美しさと愉しみ』 (中公新書)
(2020年5月6日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
【はじめに】
パリを訪れると、ナポレオンにまつわる観光地にあふれていることに気づく。
パリの象徴である凱旋門には、ナポレオンをモデルにした浮き彫りがある。アンヴァリッドにはナポレオンが眠っている。また、ルーヴル美術館もナポレオン美術館と称して、近代的な美術館としてスタートした経緯があった。
また、ナポレオンは文学にも深く影響し、フランスの国民的文豪ヴィクトル・ユゴーは、ロマン派大河小説『レ・ミゼラブル』(Les Misérables, 1862年)の中で、かのワーテルローの戦いについて、一章をもうけている(「第二部コゼット第一章ワーテルロー」)。
そして、「ワーテルローは単なる戦役ではない。それは、世界の変容であった」と記す。
(例えば、ヴィクトル・ユゴー(石川湧訳)『レ・ミゼラブル1』角川文庫、1998年、463頁~541頁。とくに503頁)
また、コゼットに恋したマリユスは、共和派の秘密結社に所属する貧乏な学生であった。そのマリユスは、幼い頃は母方の祖父の影響で王政復古派であったが、17歳の時、ナポレオン1世のもとで働いた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、祖父と対立し、家出していた。
(例えば、ヴィクトル・ユゴー(石川湧訳)『レ・ミゼラブル2』角川文庫、1998年、347頁~401頁。とくに381頁~386頁参照のこと)
ところで、中野京子氏は、「第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』」において、ナポレオンの母に関して言及していた。
『ナポレオンの戴冠式』において、ダヴィッドの創作のひとつとして、ほんとうはここに居なかったナポレオンの母を描いていることを挙げている。画面の正面二階の貴賓席で微笑む姿でダヴィッドは描いている。実際には、ナポレオンの母は息子が皇帝になるのに大反対で、戴冠式には出席しなかったと解釈している。捏造写真の先取りともいえると中野氏は記している(中野、2016年[2017年版])、23頁)。
そして『ナポレオンの戴冠式』の見開きの図解には、「実際には臨席していなかったナポレオンの母が、正面席から我が子の大出世を見守る」と解説している(同上、18頁~19頁)。
また、ジョゼフィーヌに関しては、中野氏も指摘するように、ナポレオンの辞世の言葉は、「フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ」だったといわれる(同上、24頁)。
ところで、安達正勝氏は、『ナポレオンを創った女たち』(集英社、2001年)において、母レティツィア、皇妃ジョゼフィーヌ、ハプスブルク家の姫君マリー・ルイーズといった3人の女性について考えている。
次のような点に留意しつつ、安達氏の著作を今回は、紹介してみたい。
☆その母はナポレオンの運命にいかなる影響を与えたのであろうか。その母はどんな性格で、いかにナポレオンを育てたのか。なぜ、わが子ナポレオンの戴冠式に出席しなかったのか。
☆ナポレオンと結婚したジョゼフィーヌは、どのような生い立ちで、どのような経緯で皇妃になったのか。ジョゼフィーヌと、ナポレオンの母との関係はどうであったのか。ナポレオンと離婚したのはなぜか。ナポレオンにとって、ジョゼフィーヌはいかなる存在であったのか。
☆ジョゼフィーヌとの離婚後、正妻として迎えられた、深窓の姫君マリー・ルイーズは、ナポレオンとの仲はどうであったのか。果たして理想の妻であったのであろうか。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ナポレオンにとっての運命の女性たち
・偉大なる母、レティツィア
・勝利の女神、ジョゼフィーヌ
・ハプスブルク家の姫君、マリー・ルイーズ
【読後の感想とコメント】
【アンヴァリッドの写真】(2004年5月筆者撮影)
アンヴァリッドには、ナポレオンの柩が置かれている。
ところで、ナポレオンの名文句として、「わが辞書に不可能という言葉はない」という文句が知られている。
しかし西永氏によれば、原文では、それに相当する言葉はないらしい。その代わり、次の文句があるという。
Ce n’est pas possible, m’écrivez-vous ; cela n’est pas français.
(不可能です、ときみは書いているが、それはフランス語ではない。)
(西永良成『「超」フランス語入門』中公新書、1998年、186頁)
ナポレオンにとっての運命の女性たち
フランス文学者の安達正勝氏は、『ナポレオンを創った女たち』(集英社、2001年)において、「第二部 ナポレオンの運命は女性たちによって大きく左右された」と題して、次の3人の女性について論じている(安達、2001年、95頁~194頁)。
① 偉大なる母、レティツィア
② 勝利の女神、ジョゼフィーヌ
③ ハプスブルク家の姫君、マリー・ルイーズ
いうまでもなく、この女性のうち、①母のレティツィアと②皇妃ジョゼフィーヌの2人の女性は、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』に描かれた女性である。
これら3人の女性について、簡単に紹介しておきたい。
【安達正勝『ナポレオンを創った女たち』(集英社)はこちらから】
安達正勝『ナポレオンを創った女たち 』(集英社新書)
偉大なる母、レティツィア
ナポレオンの運命に大きな影響を与えた最初の女性といえば、母親のレティツィアである。ナポレオンは、もともとが完全なお母さんっ子であったようだ。
父親のシャルルは、ナポレオンの少年時代に死亡しており、母親に比べると、影が薄い。社交的な父親が、外で散財するのに対して、母親がそうした費用も捻出して、一家を取り仕切っていた。
ナポレオンの母は、一言でいえば、「気丈な人」である。非常に勇敢で、男まさりの性格であった。例えば、コルシカがフランスに対して独立戦争を起こした時、19歳の母は、ナポレオンをお腹の中に宿した身で馬にまたがって、反乱軍と行動をともにしたそうだ。
容貌、性格とも、ナポレオンは母親似である。ナポレオン自身も、「私の教育の根本を作り上げたのは、母親である」と言っている。
ナポレオンは腕白坊主のガキ大将であったが、母の躾(しつけ)はきびしかった。たとえば、教会のミサに行くふりをして遊びに行ったりしたことが後でばれると「ミサをさぼったことよりも、そういう嘘やごまかしがよくない」と言って、ひっぱたいた。
ナポレオンが砲兵士官になったのも、母親の影響によるものだった。ナポレオンは最初は海軍に行きたいと思っていたが、母親は陸軍に行くようにすすめた。フランスは伝統的に陸軍の国であり、海軍のほうはイギリスに太刀打ちできないままであった。
ナポレオンがどんどん偉くなってゆくのは、母親だから嬉しくはあったけれども、怖くもあった。息子が皇帝になっていいのか、という気もしてきた。
安達氏は、そうした思いを抱いていたことが、戴冠式の欠席にもつながったとみている。ただ、ナポレオンが弟のリュシアンと仲違いし、母レティツィアがそれに、心を痛めていたという事情もあったとも、断っている。
ダヴィッドはナポレオンの依頼に応じて、戴冠式の絵に、レティツィアの姿も描きとめてはいるのだが。
(鈴木杜幾子氏は、ナポレオンの母皇太后はジョゼフィーヌを嫌っていたために、彼女が皇妃になることに反対で、戴冠式の参列を拒んだと解釈している。鈴木、1991年、215頁)
ナポレオンが晩年、セント・ヘレナ島で残した言葉には、「母は私の幼少時代からきびしい愛情をそそいで、偉大なことしか考えないように気を配ってくれた」とある。
(安達、2001年、97頁~104頁)
勝利の女神、ジョゼフィーヌ
ナポレオンの運命にいちばん大きな影響を与えた女性といえば、何といっても、ジョゼフィーヌであり、ナポレオンを一人前の男にしたのも彼女であると、安達氏はみている。
ナポレオンとジョゼフィーヌの交際が始まるのは、ナポレオンが1795年10月に、ヴァンデミエールの王党派蜂起を鎮圧し、社交界でもやっと一目置かれるようになって、まもなくの頃である。
ジョゼフィーヌは社交界の花形として通っていたが、ナポレオンより6つ年上、32歳の未亡人で、2人の子供がいた。
ジョゼフィーヌは、カリブ海のマルチニック島の農園主の娘に生まれで、身分は一応貴族だった。ジョゼフィーヌもナポレオンも、島の生まれで、下級貴族の出身であり、生まれた環境はよく似ている。マルチニック島とコルシカ島という2つの島はほとんど地球の反対側同士に位置しているのだから、この2つの島で生まれた人間が出会ったこと自体に何かしら運命的なものである。
ましてや、ジョゼフィーヌが生まれる9日前まではマルチニック島はイギリスに一時的に占領されていた。ナポレオンがイタリア人になる可能性大であったのと同じように、ジョゼフィーヌはイギリス人になる可能性も十分にあった。
フランス本国の人々からみれば異邦人といっていい、この2人の人間がフランスの皇帝と皇后になったというのも、不思議な話である。
(2人の生い立ちを知って、ダヴィッドの絵を見ると、感慨もひとしおである!)
さて、ジョゼフィーヌは、16歳の時、ボアルネ子爵との結婚のため、フランスにやってくる。ボアルネ子爵は開明派貴族としてフランス革命に参加したが、恐怖政治期に反革命の濡れ衣を着せられ、処刑される。
ジョゼフィーヌ自身も投獄されたが、テルミドールのクーデターのおかげで、からくも命拾いした。
ヴェンデミエールの王党派の反乱が鎮圧された後、武装解除の命令が出され、武器が回収された。その時、ジョゼフィーヌの息子のウージェーヌが、回収された父親の形見の剣を返してもらえないかとボナパルト国内軍副司令官に頼みに行った。このことが、ナポレオンとジョゼフィーヌが知り合うきっかけになった。
ナポレオンはジョゼフィーヌの優雅さに打たれ、彼女の魅力の虜になった。
まだ青臭く、「センチメンタルな文学青年」の面があったボナパルト将軍は、この「恋多き女」ジョゼフィーヌに幻惑されたようだ。
ジョゼフィーヌに宛てた手紙は有頂天にみちているが、ジョゼフィーヌを「君」と呼ぶべきか、「あなた」と呼ぶべきか、まだ定まっていないようだ(フランス語の二人称には、親しい間柄で使われる「君」に相当する tuと、「あなた」に相当する丁寧な vousがある)。
その後、ボナパルト将軍に求婚されて、彼女は困惑した。前夫はダンスの名手として知られる好男子であったのに対して、ボナパルトは「やせた小男」にすぎない上に、財産があるわけでもなかった。だから、たいして気をそそられる結婚ではなかったが、自分の年齢や生活のため、ナポレオンの力強い情熱に押されて、ジョゼフィーヌは結婚に同意することにした。
1796年3月に区役所で結婚式を挙げた(ジョゼフィーヌは年齢を4歳少なく申告し、ボナパルトは1歳半多く申告し、2人とも28歳とした)。
ボナパルトはイタリア方面軍の最高司令官に任命されていたため、結婚式の2日後にはイタリアへと旅立った。
ボナパルトの運が急に昇り調子になるのは、ここからである。
(「ナポレオン・ボナパルト」とフランス風に改めるのも、この頃からである。それまでは「ナポリーネ・ブオナパルテ」とイタリア式に名乗りつづけてきた)
イタリアからももたらされる勝利の報にパリは沸き返り、将軍を勝利へと取り立てているのは、夫人への愛と信じられ、ジョゼフィーヌは「勝利の聖母」と呼ばれたそうだ。そして、「ボナパルト将軍」のナポレオンはヨーロッパに轟き渡った。
ボナパルトが統治者として基盤を固めていく上でも、ジョゼフィーヌの働きは大きかった。
ボナパルトは上流社交界の人脈とかはあまり知らなかったが、ジョゼフィーヌはかなり広い人脈を持っていた。そしてもともと頭のいい女性で、人を動かす技術に関して、才能があった。
1799年11月のブリュメール(霜月)のクーデターでボナパルトは政権を掌握するが、この時もジョゼフィーヌは大きな助けになった。
もとは浮気な妻だったジョゼフィーヌだが、『ナポレオン法典』によって近代社会において、あるべき理想の女性像が打ち出された頃には、「内助の功著しい妻」として、全フランス女性の模範ともなった。
皇后としても、人あたりのいい女性だったから、ジョゼフィーヌは人気があった。
(ただし、ジョゼフィーヌはナポレオンの家族とは非常に折り合いが悪かった。中でもナポレオンの妹のポリーヌとカロリーヌの2人は、なんとかしてジョゼフィーヌを追い出そうとした)
世襲の皇帝となったナポレオンにとって、ジョゼフィーヌとの間に子供が生まれないことは大きな悩みだった。コルシカ島の貧乏貴族の倅から、フランス皇帝になり、さらにはヨーロッパの覇者にまでなったナポレオンにとって、世継ぎがないのは大きな問題であった。
苦渋の末、1809年11月30日、ナポレオンはジョゼフィーヌに離婚を通告した。2週間後の12月15日、チュイルリー宮殿で離婚式が行なわれた。
(ジョゼフィーヌも離婚によって大打撃を受けるが、離婚の最大の被害者となるのが、ナポレオン自身であったと安達氏はみている)
(安達、2001年、130頁~164頁)
【補足 ジョゼフィーヌ】
なお、ジョゼフィーヌという女性の愛の生涯を主題にした書物として、J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』(中公文庫、1987年)という著作がある。
書名の通り、西インド諸島マルティニック島の一小貴族の娘として生まれ、ナポレオン・ボナパルトと結婚し、皇后の地位にまで登りつめた一女性の数奇な生涯を、とくに愛の遍歴に焦点をあてて浮き彫りにしている。
例えば、ナポレオンがジョゼフィーヌに宛てて書いた手紙がかなり収められており、伝説化されたナポレオンの英姿とは異なる生の姿が垣間見られる。
【J・ジャンセン『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫はこちらから】
ナポレオンとジョゼフィーヌ (中公文庫)
ハプスブルク家の姫君、マリー・ルイーズ
ナポレオンは1810年4月、オーストリア皇帝フランツ1世の長女マリー・ルイーズを新しい妻に迎える。このハプスブルク家の皇女は、あの悲劇の王妃マリー・アントワネットからは甥の娘にあたり、この時、18歳だった。
(ナポレオンは40歳をすぎており、ジョゼフィーヌと出会った頃は「やせた小男」で、肩にかかるほどに髪を長くしていたが、でっぷりと太り、額がかなり禿げ上がってきていた)
マリー・ルイーズは、ハプスブルク家の深窓の姫君として育てられた。フランツ1世は宰相メッテルニヒを通じて娘の気持ちを一応は打診はしたが、娘として父親の意向に逆らえるはずもなかった。一方、ナポレオンは、一介の革命兵士上がりの自分が、ヨーロッパ緒王家の中でも、もっとも古い伝統を誇る王家の姫君を妻に迎えることができ、感激し、下手に出ていたようだ。
ジョゼフィーヌが、ナポレオンの心の動きの一つひとつを読みとり、ナポレオンがより快適に暮らせるように細かく気を配る妻であったのに対し、マリー・ルイーズは逆にナポレオンに気をつかわせる妻であった。こうして、ナポレオンの生活のペースは徐々に崩れてゆく。そして人あたりのよかったジョゼフィーヌと違って、態度が高慢なマリー・ルイーズに反感を感じる人も多かった。
ジョゼフィーヌが政治の面でも私生活においても非常に有能な伴侶であったのに対し、マリー・ルイーズは足手まといなだけのお嬢様だったと安達氏は評している。
さて、結婚の翌年1811年3月には待望の男の子も生まれた。ハプスブルク家の血も引く、この王子「ローマ王」に帝位を譲ることによって、「ナポレオン王朝」の基盤は盤石なものとなるはずだったが、実際には、ナポレオンの運勢は下り坂に向かっていた。その勢いは、1810年前後から衰えをみせ始めてはいたのだが、その流れを決定的にしたのが、1812年のロシア遠征の大失敗だった。
ヨーロッパ連合軍との戦いに敗れたナポレオンは、1814年4月、退位を宣言し、エルバ島へ配流された。
ジョゼフィーヌは、ナポレオンがエルバ島に流されて、まもなく肺炎をこじらせてマルメゾンで死亡する。「ボナパルト、、、エルバ島、、、ローマ王、、、」が彼女の最後の言葉であった。
(ジョゼフィーヌはローマ王に一度だけ会っている。ローマ王は前夫ナポレオンの生きがいで、達者に育ってくれなければ、2人が不幸な別れをした意味もなくなってしまうと思ったからであろうか。このように想像する作家もいる。ローマ王、ナポレオン2世は、肺炎のため惜しくも1832年に21歳で夭折してしまうのだが)
爲峰、ナポレオンがセント・ヘレナ島で死に臨んで最後に口にする女性の名前は、「ジョゼフィーヌ」であり、本当に愛していた女性、心の奥底で求めつづけていた女性はジョゼフィーヌだったのである。
(安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年、165頁~194頁、218頁~219頁)
【安達正勝『ナポレオンを創った女たち』(集英社)はこちらから】
安達正勝『ナポレオンを創った女たち 』(集英社新書)
【西永良成『「超」フランス語入門』(中公新書)はこちらから】
西永良成『「超」フランス語入門―その美しさと愉しみ』 (中公新書)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます