歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その2≫

2020-05-05 17:01:48 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その2≫
(2020年5月5日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 中野京子氏は、「第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』」において、ナポレオンとダヴィッドの作品について解説していた。
今回のコメントはこの2人について、述べてみたい。
 今回のフランス語の解説文は、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』について読んでみたい。
〇 Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001.
〇その翻訳本 フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』artlys、2001年
 



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ナポレオンのイメージを形作っている2枚の絵
・ダヴィッドについて
・『ナポレオンの戴冠式』
・ナポレオンの戴冠問題と絵画の構図
・ナポレオンとダヴィッド
・フランス語で読む、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』
・不評だった戴冠式の衣装のナポレオン像







【読後の感想とコメント】



ナポレオンのイメージを形作っている2枚の絵


ナポレオンはフランスきっての英雄である。
地中海に浮かぶ小さな島、コルシカ島の貧乏貴族の家に生まれながら、フランス皇帝に登りつめ、さらにはヨーロッパの覇者ともなって、近代を大胆にリードした。

そのナポレオンについてのイメージを形作っている2枚の絵がある。2枚とも、ダヴィッドの作品である。新古典主義の大家で、皇帝付筆頭画家でもあった画家である。
① ダヴィッド「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」
(1801年、260×221㎝、マルメゾン城国立美術館)
② ダヴィッド「ナポレオンの戴冠式」
(1805~1807年、621×979㎝、ルーヴル美術館)

① の絵は、1800年5月に第二次イタリア戦役が開始された際、アルプス山脈を越えてイタリアに攻め込もうとするナポレオンの姿を描いたものである。
ナポレオンは実際には白馬ではなく、騾馬(らば)に乗って雪の残るサン・ベルナール峠を越えたといわれているのだが、ダヴィッドは若き日のナポレオンの勇姿を見事に描いてみせてくれている。
ナポレオンの英雄としてのイメージを決定づける絵である。

ナポレオンは前年11月のクーデターで政権を奪取したばかりで、まだ30歳だった。本当に勇ましい英雄、雄々しい軍人といった感じがよく出ている。
この第二次イタリア戦役におけるマレンゴの大勝利によって、まだ不安定だったナポレオンの政権基盤はかなり安定したものになる。

② の絵は、中野氏も紹介したように、1804年12月2日、パリのノートル・ダム寺院で挙行された豪華絢爛たる戴冠式の様子を描いたものである。
「サン・ベルナール峠越え」から4年半たっている。
5月に皇帝に推挙されていたナポレオンは、この戴冠式によって、名実ともに「皇帝ナポレオン1世」となる。
この絵で、ナポレオンが高く掲げているのは皇后冠であり、前にひざまずいている皇后ジョゼフィーヌに、今まさに冠を授けようとしている。
ナポレオンはいかにも堂々としており、全能の皇帝といったイメージがよく伝わってくると安達正勝氏は評している。
これからちょうど1年後、1805年12月2日のアウステルリッツの戦いで、ロシア皇帝とオーストリア皇帝を降してからは、ナポレオンはヨーロッパの覇者としての相貌を取り始める。

≪注釈≫
「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」のタイトルは、安達氏は「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」とするが、鈴木氏、木村氏ともに、「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」とする。木村氏は、慣習で、皇帝になる前はボナパルト、皇帝になってからは、ナポレオンと呼ぶと断っている。②の絵は、皇帝になる前、1800年の第二次イタリア遠征の際の1枚である。その後、1804年、国民投票の結果、皇帝ナポレオンとして即位し、ここに第一帝政が始まる。

これらの絵から、われわれが抱くナポレオンのイメージ、つまり英雄、天才的な軍人、堂々として威厳にあふれている、偉大な皇帝、ヨーロッパの覇者が伝わってくる。
(安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年、8頁~9頁。鈴木、1991年、182頁~187頁、199頁、234頁。木村、2011年、181頁~182頁)

【安達正勝『ナポレオンを創った女たち』(集英社)はこちらから】


安達正勝『ナポレオンを創った女たち 』(集英社新書)


ダヴィッドについて


ダヴィッドについて、中野氏は次のような紹介記事を載せている。
「ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748~1825)は、フランス新古典派の巨匠。彼自身の運命も、ナポレオン終焉とともに終わっている。ブリュッセルに亡命し、もはや見るべき画業を残していない。死後はフランスでの埋葬を望んだが、認められなかった。熱烈なジャコバン派からナポレオン支持へと変節したこの画家は、ルイ十六世の死刑に一票を投じ、アントワネットがギロチン台へ運ばれる衝撃のスケッチを描いたことでも知られる。しかし間違いない天才だった。本作の力技がそれを証明していよう。」とある。
(中野、2016年[2017年版]、26頁)

ダヴィッドの生涯と画家の特徴について、要点を列挙してみると、次のようになる。
・フランス新古典派の巨匠
・ナポレオンの英雄性への心酔~ジャコバン派からナポレオン支持へと変節
・ブリュッセル亡命後は見るべき画業を残していない
・死後はフランスでの埋葬を認められず
・ルイ16世の死刑に一票を投じ、アントワネットが刑場へ向かう際の、衝撃的スケッチを描いた(後述するように、この投票がダヴィッドの亡命原因の一つとなるようだ)
・本作『ナポレオンの戴冠式』の力技は、ダヴィッドが間違いなく天才だったことを証明していると中野氏は理解している

「新古典派の大御所にして宮廷首席画家」であったダヴィッドは、1805年~1807年と3年もかけて、大作『ナポレオンの戴冠式』を制作した。
完成作を見たナポレオンが、「画面の中へ入ってゆけそうだ」と満足をあらわしたというエピソードについて、中野氏も触れていた。
(中野、2016年[2017年版]、15頁)

『ナポレオンの戴冠式』


1806年に、画家ダヴィッド自身が執筆した計画案にある作品の中で、もっともよく知られているのは、≪聖別式≫、一般に≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫と呼ばれている作品である(紹介した本には『ナポレオンの戴冠式』)。
それは現在ルーヴル美術館の壁を飾っている大作である(6.29m×9.79m)。

この絵は、絵画として傑作というばかりではなく、史上最初の「フランス人の皇帝」の誕生の情景を伝える視覚的記録であるという特権的性格によって、人々の記憶に残っている。

フランス革命は共和制の理想を古代ローマに見い出していたから、ナポレオン・ボナパルトは、まず共和制ローマのコンスル(執政官)の称号を帯びた。1799年、「ブリュメール18日」のクーデタによってボナパルト将軍が執政官の地位につく。のちにナポレオンの地位を世襲化して体制の安定をはかる必要性が生じ、やはり古代ローマ的な響きをもつ皇帝の称号が選ばれた。ついに、1804年12月2日、皇帝となる。
皇帝の聖別や戴冠をめぐる一連の儀式は、パリのノートル=ダム大聖堂で行われた。

ただ、帝国の創設にあたり、直接の原型となったのは帝政ローマではなく、シャルルマーニュ(カール大帝)の築いた西ローマ帝国であった。その理由は、シャルルマーニュがローマ教皇によって帝冠と皇帝の称号を与えられたこと(つまりキリスト教の裏付けをもった古代的大帝国を西ヨーロッパに成立させた人物であったということ)である。
ナポレオンもまた、時の教皇ピウス7世を戴冠式に出席させて、その聖別を受けることが、ヨーロッパないし新帝国内の諸党派のバランス・オブ・パワーを実現するためには不可欠であると考えた。

戴冠式を行うにあたり、ゴシックの大聖堂を式典にふさわしく模様替えする仕事は、建築家フォンテーヌとペルシエにゆだねられた。彼らは、新皇帝のエンブレムの蜜蜂や頭文字Nを刺繍したビロードの垂れ幕で内部を飾った。
(式典に列席したある女性は、大聖堂の内部のみごとな変貌ぶりに驚嘆し、「神でさえ、ここがどこかわからなくなるだろう」と日記に記したそうだ)

ダヴィッドは≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫の絵に、1805年12月21日に本格的に着手し、1808年1月4日に、アトリエに皇帝を迎えて完成した作品を披露している。
その時、ナポレオンは「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」と述べて、いたく満足し、首席画家に会釈して敬意を表したという。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成』筑摩書房、1994年、11頁~12頁)

【鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成』筑摩書房はこちらから】


ナポレオン伝説の形成―フランス19世紀美術のもう一つの顔 (ちくまライブラリー)

ナポレオンの戴冠問題と絵画の構図


ナポレオン自らによる戴冠の問題と絵画の構図については、中野氏も言及していた(22頁)。
この点について、鈴木杜幾子氏の著作『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』(晶文社、1991年)の「第Ⅲ部第二章 皇帝の首席画家」に詳しい。


【ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』の写真】

【ルーヴル美術館のダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』(2004年5月筆者撮影)】

« Quel relief, quelle vérité ! Ce n’est pas de la peinture, on marche dans votre
tableau » ( Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001, p.47.より)
ナポレオンはダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』を見て、このように言ったそうだ。
(「何とすばらしい立体感、そして真に迫った情景! とても絵とは思えない。画面の中に歩いて入れるようだ」)

ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』の当初の構想をよく示しているのは、ルーヴル美術館蔵の鉛筆とペンによる素描≪戴冠式のための遠近法習作≫であるそうだ。
この素描は完成作とほぼ同じ位置から大聖堂内陣を眺めたものである。この素描をみてもわかるように、ダヴィッドの構想が構図に関しては早い時期に固まっていた。
ダヴィッドは1805年4月6日、オペラ座の舞台装置を描く専門の画家トゴッティに戴冠式の絵の背景の遠近法構成を依頼しているので、ルーヴルのこの素描の背景にも彼の手が加わっていると鈴木氏はみている。

この素描は、構図も人物の配置もかなり完成作に近いが、大きな違いも認められる。それはナポレオンと教皇のポーズである。
・ナポレオンが自らの頭上に冠を載せようとしている姿
・教皇が完成作のように片手を挙げて祝福する代わりに、両手を膝に置いたままの姿

先の素描とは別のものも存在している。それは≪戴冠式のための習作≫(1805年、個人蔵)で、ダヴィッドの署名と1805年の年記入りの素描である。
この素描はルーヴルの素描の次の段階の構想を示している。この1805年の素描は、淡彩まで施した完成度の高いものである。そして、この素描でもまだ、ナポレオンが自分が自分に戴冠している姿が描かれている。このことから、ナポレオンのポーズが変更されたのは、ほとんど油彩画制作の直前であったと考えられている。

ナポレオンのポーズの変更の理由は、ダヴィッドの弟子で肖像画家であったフランソワ・ジェラールが忠告したことによると、いわれている(当時ダヴィッドの助手を務めていたジョルジュ・ルーシェの証言がある)。
その忠告の内容は、自らに戴冠する皇帝の姿があまりにドラマティックに誇張したものになっているため、ナポレオンの気にいらないであろうから、むしろ皇帝が自分の頭上から下ろした冠を皇妃の頭に戴せようとしている場面の方がよいであろうというものであった。

たしかに己に戴冠するという行為は、ナポレオンが自分の力で帝位についたという歴史的経緯を表わすものであるとはいえ、大画面を埋める他の人物たちが何の行為もしていない中に、それが描かれるならば、いささか滑稽の感を与えるかもしれないと鈴木氏は述べている。
皇帝が皇妃に戴冠する場面ならば、そこに与える側と受ける側の相互のアクションが生じ、皇帝のひとり芝居の不自然さはなくなるともいう。

そして、ナポレオンのポーズの変更の一因として、当時リュクサンブール宮殿にルーベンスのメディチ・サイクルが展示されていたことも、鈴木氏は指摘している。ルーベンスの連作の中の≪マリー・ド・メディシスの戴冠≫(1623年、ルーヴル美術館)によって、ひざまずいた人物が立った人物に戴冠されるという中世以来の戴冠図の常套的な構図が、ダヴィッドの眼にも、また人々の眼にも慣れたものになっていたであろうとみている。

なお、1805年の素描では、ピウス7世はルーヴル所蔵の素描とは異なって、完成作と同様に、片手を挙げて祝福の身ぶりをしている。
この変更には、ナポレオンの言動が影響したようだ。油彩画に両手を膝に置いた教皇が描かれているのを見て、ナポレオンが「私が教皇が何もしないでいてもよいと思って遠くから呼び寄せたわけではない」と言ったために、祝福の身ぶりへ変更されたそうだ。

これまでは、ルーヴルの素描をはじめ教皇の部分習作など現存するすべての習作が膝の上に手を置いた姿を描いていることからして、1808年の皇帝の命令まで一貫してこのポーズが採用されていたものと考えられていた。
だが、1805年の素描の出現によって祝福の身ぶりも、早い時期から一つの可能性として、画家の念頭にあったことが判明した。
構図的にいえば、教皇の祝福の身ぶりが戴冠の行為に鑑賞者の注意をひきつけるのに役立ち、画面の緊張感を高めているとされる。

さて、『ナポレオンの戴冠式』に関して、ダヴィッドのとった基本的方針は、2つにまとめられる。すなわち、
① 全体の構想における自由さ
② 細部に関する忠実さ

この2つの方針は、歴史的な儀式の絵に必要とされた2つの性格、すなわち形式性と記録性を達成するために不可欠なものであった。
たとえば、新皇帝の聖別の式典を描きながら、肝心の皇帝の聖別の場面や戴冠の場面ではなく、皇妃の戴冠の場面を描くというのは、大胆な選択であった。

ダヴィッドは、伝統的な戴冠の構図と合わせることによって、厳粛で荘重な雰囲気を醸し出すためにこの重大な選択を行なった。
そしてこのほかにも、ダヴィッドは芸術上の理由、時には政治上の理由で現実の儀式の改変を行なっている。
たとえば、完成作においては、構図の中心である皇帝夫妻の姿に鑑賞者の視線を集中するために、画面の手前は大きく空けられている。そして右手の祭壇寄りにルブラン、カンバセレス、ベルティエ、タレイランが描かれているにとどまっている。

その他、人物に関する大きな改変としては、実際の式典には参列していなかったナポレオンの母皇太后が、完成作の画面の中央の奥の観覧席に、満足げな面持ちで座っている。
(皇太后はジョゼフィーヌを嫌っていたために、彼女が皇妃になることに反対で、末弟リュシアンとともにローマにいて参列を拒んだ)

このように、ダヴィッドは全体の構想の点では、芸術上ないし政治上の要請のために事実に密着した記録性は犠牲にした。しかし、各人物の容貌と衣装の細部の再現については、できるかぎりの忠実さをめざしたようだ。たとえば、ダヴィッドは侍従長タレイランに対し、制作の参考にするという理由で皇帝の冠とマントの貸与を願い出ている。

このような慎重なプロセスを経て完成された『ナポレオンの戴冠式』は、全体としての意図が式典の公式記録とナポレオンの称揚であったが、さながら優れた肖像画の集大成の趣を呈している。
多数の人物を、迫真的な個性と表情をもって描き出し、しかも整然たる形式の大画面にまとめるために、画家は工夫をこらしている。
たとえば、画中の人物のプロポーションを背景の空間に対して、相互的に大きくすることによって、画面に緊張感を与えようとしている。

このことは、他の作品と比較してみると明らかであると鈴木氏は説明している。
たとえば、イザベイとペルシエの素描に基づくデフォーの版画≪ナポレオンの塗油の儀式≫(パリ国立図書館版画室)という作品が残っている。
この版画においては、大聖堂の内部の空間と人物は、実際と同じ関係の大きさをもっているとされる。
ここでは、主要人物が、鑑賞者からかなり遠い距離にあり、そして向かい側の鑑賞者の人々を識別できない。また、堂内の空間が本来の広さのまま描かれているため、人物は散らばった感じになっている。
この版画は全体として実際の式典の印象は伝えられるが、絵画の構成としてはいけない。皇帝ナポレオンが期待したような壮大な形式性をそなえた作品にはならない。加えて個々の参列者の容貌や衣装を再現する歴史的証言の価値ももたないことになる。

それに対して、ルーヴルの素描や1805年の素描は、人物のプロポーションを大きくしている。そして人物同士の距離も背景の空間も縮まり、完成作に近づいている。堂内の空間は完成作においてはいっそう縮小されている。
ダヴィッドの絵では背景の三段の観覧席はすきまなく重なって、せいぜい数メートルの高さにおさまっているように見えるが、実物の観覧席は上下にかなりの距離をもっている。
このような空間の縮小と人物の拡大によって、この巨大な寸法の作品は様式的な統一感が与えられ、人物の細密な描写ができたのである。
このような工夫によって、皇帝はこの絵に満足した。

ただ当時、この作品に関する芸術上の批判もあったようである。ギゾー(歴史家で、のちに政治家)は、1808年のサロンについて記した文章の中で、
「私はこの大きな絵全体を、右半分と左半分が並列されていることを残念に思わずに見ることができたためしがない」とその構図に関して感想を記している。
その他にも、この絵の欠点は構図が全体として調和を欠いていると指摘する者もいた。

これらの批判は、この絵が幾何学的遠近法に基づく整然たる空間構成を欠いたことをいっている。
17世紀以来のアカデミックな絵画観によれば、優れた構図は数学的遠近法に基づいて構成された完結した空間の中に、主要人物をピラミッド型ないし求心的に配置することによって得られるとされた。

この≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫には、そのような特徴はみられない。
この絵の構成はむしろ、ゆるやかな速度で視線の流れを導く性格のもので、いわば動的である。古典的な意味での完成した構図の静的性格とは異なる。
ピラミッド型ないし求心的構図のもたらす緊張感は欠けているが、その代わりに鑑賞者の視線はこの絵では動くと鈴木氏は指摘している。つまり、皇帝からその前にひざまずく皇妃へ、彼女の背後のボナパルト家の人々へ、また教皇から周囲の聖職者へ、そして祭壇を経て画面の手前に背を見せて並んでいる政界の重鎮たちの姿へと、ごく自然に導かれるという。

そもそもダヴィッドは若いときから遠近法による空間構成が苦手だったそうだ。すでに1779年、アカデミー当局はダヴィッドに対し遠近法の修得に精を出すように勧告したこともあった。ダヴィッドはこの自分の弱点をよく承知していた。
たとえば、
≪ホラティウス兄弟の誓い≫、≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫においては、比較的単純な空間構成をとっている。
しかも人物を空間の中に自在に配置するというよりは、画面の手前に並置している。これは実質的にはフリーズ構成に近く、空間表現の技術が足りなくても破綻をきたすことがない方法であった。

ただ、ダヴィッドは自分の空間表現の能力の不足を知りながらも、それを決定的な欠点とは考えていなかったようだ。というのは、≪ジュ・ド・ポームの誓い≫や≪ナポレオンの戴冠式≫において、ダヴィッドは遠近法による空間構成を他人に依頼している。そして別にそのことを別に恥じたり隠したりしているようすはない。

ともあれ、ダヴィッドが≪ナポレオンの戴冠式≫に用いている流動的な構図法は、現実の豊かさを描き出すためには必要不可欠なものであった。この作品の一見したところ空間的統一性と緊密な集中性を欠いているように見える構成こそ、実は画面の外の現実と描かれた事件とを柔軟に結びつけ、ナポレオンをして「まるで中に入ってゆけるようだ」と言わしめたものなのであると鈴木氏は解説している。
(鈴木、1991年、211頁~221頁)

ナポレオンとダヴィッド


次に、このナポレオンとダヴィッドとの会話のやりとりについて、説明しておきたい。

ナポレオンは、1808年1月4日、完成した≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫を見にダヴィッドのアトリエを訪れた。
そして、次のように述べて、満足の意を表した。

「何という本当らしさだ! これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ。ここにいるのは私の母だ。よい瞬間を選んで描いたものだ。この絵は式典をよく再現している。教皇はよく似ている。ダヴィッド君、これはすばらしいものだ。私は満足だ。」

皇帝はひとりひとりの人物を見分けて楽しみ、次のように言った。
「よろしい、大変よろしい。ダヴィッド君、君は私の考えていることを見通した。君は私をフランスの騎士として描いた」と。

そして帽子を持ち上げて会釈した。
作品は1808年のサロンで成功をおさめ、ダヴィッドはレジオン・ドヌールのオフィシエ章を与えられた。

ナポレオンは、皇帝という存在に付与していた理念を、ダヴィッドがこの絵に見事に描き出していることに満足の意を表わしたようだ。
その皇帝の理念について、鈴木氏は次のように解釈している。
すなわち、王朝伝統の衣装を思わせるビロードや白貂の毛皮に身を包み、フランス固有の建築様式であるゴシックの大聖堂で帝位に上った。シャルルマーニュやカペー王朝の精神的継承者としての「フランスの騎士」という理念であるという。

ナポレオンがこの絵の理想性、形式性についても不満ではなかったことは、「君は私の考えていることを見通した」という言葉によって推察することができると鈴木氏はみている。
(鈴木、1991年、218頁~219頁)

フランス語で読む、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』


ベイル氏は、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』について、次のように述べている。

Jacques-Louis David, Le Sacre de Napoléon Ier,
1806-1807, huile sur toil, 621×979㎝

« Quel relief, quelle vérité ! Ce n’est pas de la peinture, on marche dans votre
tableau », se serait exclamé Napoléon lorsqu’il aurait vu cette immense toile qui
demanda à David plus de deux ans de travail. Deux cents dignitaires, dont cer-
tains sont parfaitement reconnaissables, assistent ici au moment où Napoléon
s’apprête à poser lui-même la couronne sur la tête de Joséphine. David a même
représenté des absents : la plus fameuse est Madame, mère de l’empereur. Après
avoir exalté dans ses toiles les héros de l’Antiquité, David s’est trouvé un nouveau
héros, contemporain celui-là ; Napoléon.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001, pp.46-47.)

【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】


Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle

≪訳文≫
ジャック・ルイ・ダビッド(ママ)「ナポレオン1世の戴冠式」
1806年~1807年、油彩・カンバス、621×979㎝
「何とすばらしい立体感、そして真に迫った情景! とても絵とは思えない。あなたの絵は本物そっくりだ」と、ナポレオンは発注から2年の歳月を経て完成したダビッド(ママ)のこの巨大な作品を前にして感嘆の声を発したはずである。
この作品には、ナポレオン自らがジョゼフィーヌに冠を授ける儀式に出席した200人の高官が描かれているが、そのうちの何人かははっきりと誰であるかがわかる。もっとも、ダビッドは実際にはその場にいなかった者も描いており、特に有名なのがマダムと呼ばれた皇帝の母である。それまでもっぱら古代のヒーローたちを称えていたダビッドは、同時代人の中に新たなヒーローを見つけた。それがナポレオンである。」
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』artlys、2001年、46頁~47頁)

【コメント】
翻訳では、「あなたの絵は本物そっくりだ」と意訳してあるが、原文は≪on marche dans votre tableau.≫とある。
鈴木杜幾子氏が著作の中で訳しているように(鈴木、1991年、218頁)、「画面の中に歩いて入れるようだ」と訳す方がより適訳であろう。

【語句】
on     [不定代名詞](主語としてのみ用い、動詞は3人称単数)人は(one, a man)
marche <marcher歩く、歩いて行く(walk)の直説法現在
dans   [前置詞]~の中で(in)、~の内側に(within)
tableau  [男性名詞]絵(painting, picture)

その他の【語句】
Ce n’est pas   <êtreである(be)の直説法現在の否定形
se serait exclamé <[代名動詞]s’exclamer(喜び・驚きの)叫び声をあげる(exclaim)の条件法過去
 助動詞êtreの条件法現在serait+過去分詞(代名動詞s’exclamer)=条件法過去
lorsqu’il aurait vu <助動詞avoirの条件法現在serait+過去分詞(voir)=条件法過去
toile [女性名詞]布(cloth)、画布、油絵(canvas, painting)
demanda  <demander頼む、求める、注文する(ask, demand)の直説法単純過去
dignitaire  [男性名詞]高官、お偉方(dignitary)
reconnaissable [形容詞](àで)それと分かる、見分けがつく(recognizable)
assistent <assister [他動詞]助ける(assist)、[自動詞] (àに)居合わせる、目撃する(witness)、出席する(attend, be present at)の直説法現在
au moment où+直説法 (ちょうど)~のとき(when, as)
 <例文>
 Au moment où elle entrait, lui sortait. 
ちょうど彼女が入ろうとしたとき、彼のほうは出てくるところだった。
 (As she was going in, he was coming out.)
Napoléon s’apprête à <代名動詞s’apprêter à+不定法 ~する準備をする(prepare to do)の直説法現在
poser   (ある場所に)置く(put)
<用例>poser un livre sur la table テーブルの上に本を置く(put the book on the table)
la couronne  [女性名詞]王冠(crown)
la tête    [女性名詞]頭(head)
David a même représenté <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(représenter)
直説法複合過去
 représenter 表す、描写する(represent, picture)
absent    [男性名詞、女性名詞]不在者、欠席者(absent person, absentee)
fameux(se)  [形容詞]有名な(famous)
est     <êtreである(be)の直説法現在
l’empereur  [男性名詞]皇帝(emperor)
Après avoir exalté <助動詞avoirの不定形+過去分詞(exalter)不定法過去
 exalter   [他動詞]ほめたたえる、賞揚する(exalt, praise)
héros    [男性名詞]英雄(hero)
antiquité   [女性名詞]古さ(ancientness)、古い時代(ancient times)
 →l’Antiquité 古代[文明](とくにギリシャ・ローマ)(antiquity)
David s’est trouvé <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(代名動詞se trouver) 
直説法複合過去
 se trouver  [代名動詞](物が)ある、見いだされる(lie, be found)、~だと思う(feel)
nouveau    [形容詞]新しい(new)
contemporain  [形容詞]同時代の(contemporary)
[男性名詞、女性名詞]同時代人(contemporary)
celui-là    [指示代名詞]そちら(that one[person])、(celui-ci, celui-làの対比なしに)それ(その人)(that one)

【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle

不評だった戴冠式の衣装のナポレオン像


≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫(1801年、マルメゾン宮国立美術館)と≪書斎のナポレオン≫(1812年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)は、称揚芸術の二つのありかたを示すといわれる。つまり、君主騎馬像という伝統的な図像による称揚と、リアリズムの装いをした称揚である。

≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫は叙事詩的な英雄性を表わすのに対し、≪書斎のナポレオン≫はリアリスティックにその英雄性を表現している。≪書斎のナポレオン≫を見た皇帝ナポレオンは、ダヴィッドに向かって、次のように語った。
「あなたは私を理解した。夜私は臣民たちの幸福に思いをいたし、昼私は臣民たちの栄光のために働いているのだ」と。

このように、武人としてのナポレオンや立法者としてのナポレオンの肖像画は好評だった。しかし、ダヴィッドが首席画家として公式に描いた戴冠式の衣装のナポレオン像は不評だったそうだ。
ダヴィッド作の戴冠式の衣装のナポレオン像の完成作はすべて失われており、現在残っているのは主に次の2点の油彩エスキスであるらしい。
① ダヴィッド≪戴冠の衣装のナポレオン≫習作、1805年、リール美術館
② ダヴィッド≪戴冠の衣装のナポレオン≫習作、1807年、マサチューセッツ州ケンブリッジ、フォッグ美術館

リール美術館の油彩エスキス(1805年の年記入り)は、フランス支配下のジェノヴァの法廷に送るための肖像画のエスキスであった。しかし、完成した作品を見た皇帝は、執事ダリュに向かって、次のように書き送った。
「これは非常に悪い肖像画で、欠点だらけであるから、私はこれを受けとる気はない。また、どこの町にも、特にイタリアにはこれは我が国の画派について悪い印象を与えるであろうから、これを送りたくない」と。

このあと、ダヴィッドは、自発的に②のフォッグ美術館のエスキス(1807年の年記入り)を描いた。しかし、ナポレオンはこれを見ようともしなかったそうだ。
そして、これ以後、首席画家に対して皇帝が肖像画を注文することはないという。

ジェノヴァのための肖像画が、皇帝の気に入らなかった理由については、研究者が様々に推測している。例えば、ドノンの差し金であるとか、同じ時に、ダヴィッドが注文もなしにピウス7世の肖像画を制作して、買い上げを要求したことが皇帝の気にさわったとか、制作が弟子によるものであったからであるとか。

ただ、鈴木氏は、先の執事ダリュ宛てのナポレオンの言葉が示すように、この肖像画そのものが気に入らなかったとみている。
エスキスが描き出したナポレオン像は、美々しい衣装をまとい、法杖などを手にしているが、その表情は弱々しい印象で、存在感が欠けている。完成作がこのエスキスと似たものとしたら、皇帝の不満を買ったのは当然であるという。

この絵が不成功だった原因について、鈴木氏は深く掘り下げ、次の2点を指摘している。
① ナポレオンが本質的に宮廷的儀礼やそれに必要な服装の似つかわしい人物ではなかったこと
② ダヴィッドもそうしたものの描き手にふさわしい画家ではなかったこと

まず①については、戴冠の式典に列席したある人物は、冠が皇帝に似合っていなかったという感想をもらしている。
そもそもナポレオンは人々にとって、軍人としてなり、立法者としてなり、何らかの行動をしていてこそ、意味のある存在であった。ナポレオンは行動することによって支配者となった。

一方、ダヴィッドもまた単に儀礼的な絵は生涯にわたって描いたことがなかった。
ダヴィッドが得意としたのは、つねに何らかの観念的なメッセージを積極的に伝える絵であった。ただ、威風堂々としていさえすればよい戴冠式の衣装のナポレオンは、ダヴィッドの領域ではなかったと鈴木氏は理解している。

むしろ、そうした領域は、弟子ジェラール(1770~1837)に向いた画題であった。そのナポレオン像≪戴冠の衣装のナポレオン≫(1805年、ヴェルサイユ宮国立美術館)はかえって皇帝の公式肖像画としての存在意義を生み、現在にいたるまで歴史書の挿絵とされている。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、234頁~236頁)

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』



最新の画像もっと見る

コメントを投稿