《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その13中国13》
21中国13 明Ⅱ・清Ⅰ
この篇には明穆宗隆慶元年(1567)から、清仁宗嘉慶25年(1820)に至るまで、254年間の書蹟を収めている。この篇には帖学を主とし、碑学は清Ⅱで取り扱っている。
中国書道史13 神田喜一郎
明王朝の中期から清王朝の中期にいたる間、すなわち16世紀の半ばごろから19世紀の初めごろまでは(およそ270年間)、中国書道史の大勢の上では、いわゆる革新派の勢力の伸びた時代であると神田喜一郎は捉えている。
その時代において、傑出した人物が董其昌(1555-1636、図6-25)である。浙江省松江府華亭県の人である。明末60年間における書壇の第一人者として、すばらしい名声を馳せた。
董其昌が書において宗としたところは、おおよそは晋の王羲之である。ただ、その学び方においては、形似を事とせずに精神を把握することに主眼をおいた。その結果、彼の書風は王羲之というよりも、むしろ宋の米芾に近いものになっていると神田はみている。
同じく、王羲之を学んでも、元の趙孟頫は、どちらかといえば、王羲之の形似をうることに専念したので、董其昌の書と比較すると、対蹠的であると捉えている。董其昌自身も、趙孟頫に対して、いつもあきたらず思っていたらしく、自分でも趙孟頫より以上であると自負していた。また董其昌は禅学の修養を積んだ人で、その書にもおのずから高遠な人格がにじみ出ている。こういうところも、名声を博したゆえんとみている。
董其昌の代表的な名作としては、
行草書巻(図6-9)
董源・瀟湘図巻跋(図10-15)
李益・日詩、李白・月詩(図16-21)
があり、よく王書の韻致を得た神仙のような姿を窺うことができる。
なお、明末の書壇において、董其昌と対峙した大家に邢侗(1551-?)がいる。董其昌が南方の出身であるのに対して、邢侗は山東省臨邑県に生まれた北方人であるというところから、当時、「北邢南董」と呼んでいたという。しかし書風の上からいうと、邢侗は趙孟頫の派に属し、董其昌とは全く傾向を異にしていたと神田は付言している。
その他に、もう一人、董其昌と並び称された大家に米万鍾(生没年不明、図1)がおり、この人も同じく北方人であるところから、「北米南董」といわれた。しかしこの米万鍾の方が董其昌に近い書風を示しているとみられる。こうしてみると、邢侗はいわば旧派であり、董其昌や米万鍾は新派であり、旧派は次第に衰え、新派はそれにひきかえて勃興しつつあったと神田は理解している。
明末から清初にいたる間は、政治的にも社会的にもまた民族的にも、大混乱を来たした時代であった。当時の書壇の大勢は、董其昌を中核としておこされた革新的な書道の傾向におもむきつつあったが、一部の文人たちは珍しい性格を備えた奇怪な書風をつくり出した。その代表的な書人が、張瑞図(図44-49)、王鐸(図32-39)、倪元璐(図40-43)、傅山(図50,51)である。
彼らは形似にとらわれることなく、奔放自在、思うままに筆を走らせて、その書体も好んで連綿草を用いた。その書風は、正統的な書道を奉ずる人たちの目には、奇異なものに映じた。これも、要するに、明清革命という大きな変動の中に生き抜いた精神的、肉体的労苦と逞しさから、そうした書風が生まれたと神田はみている。張瑞図は明末に失脚し、倪元璐は明の滅亡とともに殉死したし、王鐸は明の遺臣でありながら清朝に降った人であり、傅山と冒襄(図58)は清朝になって暗に消極的な抵抗を試みた人であった。その生き方は各々異なっていたが、その過渡期にあたって味わってきた労苦には共通するところがあったと神田は理解している。
概していうと、この時期の文人の書は、特殊な条件のもとに発生したものであり、どことなく異常なところがあり、中国の書の歴史における本流とはいえないところがあると神田の私見を記している。
清王朝の康熙から雍正、乾隆をへて、嘉慶の末年にいたる約150年ほどの間は、明の中頃以来流行した法帖を根拠とする書法、すなわち帖学が盛んに行われた時代である。この帖学という言葉は、道光以後におこった碑学に対して作られたものである。
ただ、帖学といっても、古碑の書を学ばなかったのではなく、漢碑をはじめとして、唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良の書いた碑、それにいわゆる「集王聖教序」の碑などは、もとより盛んに学んだ。
では、なぜこれを帖学といったのか。この点について、神田は次のように説明している。
これらの古碑の書は、その性質から考えて、『淳化閣帖』などに収められている王羲之系統のものと、だいたい同じ趨向のものとして、一つの範疇に属せしめたからである。そして帖学に対して碑学という場合の碑は、主として北魏から隋にいたる南北朝時代の北朝の支配下にあった地方の古碑をさし、これらは王羲之系統の書とは全く様式を異にする。したがって、これらを学ぶものを帖学に対して碑学と称するという。
そこで、帖学という意味は結局、王羲之系統の書ということになるが、この帖学の中には、王羲之の書法に反撥しておこった唐の顔真卿から、宋の蘇軾、黄庭堅、米芾にいたる一連のものも含むものとされる。
これは一見、矛盾しているようにみえるが、顔真卿系統の書というものは、もともと王羲之の書というものを十分意識していて、その上でわざと反撥して書かれたものである。一方、北朝の古碑ははじめから全く王羲之とは無関係に書かれたものである。だから、王羲之系統と顔真卿系統の書は帖学という概念の中に包括されると捉えられる。
ところで、康熙から嘉慶にかけての清王朝の前半期は、中国の書道の歴史において帖学の一時華やかに栄えた時代であった。それにともなって、当時の文人学者の中にも、碑版法帖を学んで書をよくする者が多く現れた。康熙帝のとき「佩文斎書画譜」や乾隆帝のとき「三希堂法帖」が刊行されたことをみても、この時代にいかに帖学が盛行したかがわかる。
明末の書壇において名声を馳せた董其昌は帖学の大家で、康熙帝みずからもその書を好んだ。また康熙帝時代に出た帖学派の人として、沈荃(図61)、王澍(図74、75)を挙げることができる。こうしたいわば帖学派の主流に対して、このような時代の流れを超越した、変り種の作家がいた。金農(図98、99)や鄭燮(図100、101)がそれである。
元王朝から明王朝の中頃にかけて、天下を風靡した保守的な趙孟頫の書風は、明王朝の中頃に至って再び革新的な傾向に転じた。
中国の書道の歴史における螺旋状の発展の原理はここにおいてもその線を描き出した。その革新的な流れの主導者となったのは董其昌であった。その書風は一つの流行型となり、清王朝の中頃にいたるまで持続した。その波動は日本の江戸時代の唐様にまで伝播した。ただ、清初以来、学問の発達とその考証を主とする性格から、文字の資料を金石にまで求めて、新しく発掘された碑が紹介されていくに伴い、碑学へ転向しようとする兆しが現れていた(神田、1頁~11頁)。
董其昌の書論の基礎となったもの 神田喜一郎
明の沈徳符の名著『万暦野獲編』(巻17)に見える董其昌の言葉を神田喜一郎は引用している。
その趣旨といえば、程学および朱子学は、明王朝の建国の初めに国家の官学として権威を保持してきたが、董其昌が生きた時代にはほとんど振るわなくなってしまった。紫柏老人は、朱子の精神も五百年がせいぜいで、今日ではほとんど尽きてしまったと言っていたが、実に物の道理をよく弁えた言葉であるという。
董其昌は平生から紫柏老人の説を習い聞き、それに心服していた。紫柏老人とは高僧達観真可禅師のことである。この『万暦野獲編』の記述は、董其昌の書論や芸術そのものを理解する上で、大きな示唆を与えてくれていると神田はみなす。つまり、董其昌はその当時程朱の学問がほとんど生命を失いつつあった事実を、歴史的必然性の結果として、率直に肯定していたことがわかる。そして、その程朱の学問に真正面から反抗して、新しく勃興した王陽明の学問に対して、その将来を期待していたかもしれない。董其昌は明王朝の官僚として、ほとんど最高の地位にまで昇ったにもかかわらず、こうした思想動向を抱いていた点に神田は注目している。
その上、もう一点に注意を向けている。王陽明の学問は、明の中葉に興ったが、その門流のうち、左翼的な泰州学派から、董其昌と時代を同じくして、李卓吾が出ている。ところが董其昌はこの李卓吾に篤く崇敬していた。
董其昌の文集『画禅室随筆』には、万暦26年(1598)に、董其昌は李卓吾を訪ねたことが記されている。この時、李卓吾は72歳、董其昌は44歳で、かなりの年齢の差があったが、董其昌は李卓吾を崇敬していた。なお、二人が会った4年後の万暦30年(1602)に、李卓吾は「あえて乱道を唱え、世を惑わし、民を誣(あざむ)く」ものとして、官から罪を問われ、獄中で自殺した。
このように述べると、董其昌は一種の過激な思想を抱いた反逆児ででもあったかのように誤解される恐れがあるが、実際はそんな風ではなかったと付言している。つまり思想的には李卓吾に共鳴しても、実際の行動の上には極端なことをなしえなかった。それに当時の士大夫の間には、仏教の研究が盛んに行われており、董其昌も仏教に心を牽かれていた。
董其昌の出た明王朝の万暦時代は「孔子の家法に遵わずして、意(こころ)を禅教に溺る」というのが、一般の風潮であった。これは1602年に、時の礼部給事張問達が李卓吾を弾劾した疏の中の一節である。李卓吾も王陽明の学問をおさめた学者であるが、禅学に心酔して、その身は儒服をつけながら、仏寺に起居するという状態で、その学問は儒仏、いずれとも分けられないものであった。
もっとも、そうした一般の風潮に抗して、旧来の伝統を守り、程朱の学問を奉ずる正統派の学者も少なくなかった。それでこそ、李卓吾も正統派の学者から、激しい非難攻撃を蒙って、ついには悲惨な最期を遂げねばならぬ運命に追い込まれた。しかし特に儒仏を峻別する正統的な程朱の学問に対して、この万暦時代ほど、それに反対する風潮が巻き起こった時代はなかった。そして董其昌もある意味からいえば、そうした時代の産んだ新しい芸術家であったともいいうると神田は捉えている。
董其昌は夙くから禅学に興味をもった。まだ郷里の松江にいた頃、同地に来た達観真可禅師、つまり紫柏老人に会ったといっている。董其昌の芸術を探求するには、仏教、とりわけ禅学に根拠を尋ねる必要があると神田は考えている。最初に引用したように、董其昌が、明王朝の官学である程朱の学問の既に生命を失いつつあることを指摘した紫柏老人の説に賛している事実に注意した。
芸術の場合において、董其昌はこの程朱の学問にあたるものとして、趙子昻の書と画院の画とを考えていたと神田はみている。いずれもアカデミックの典型で、その間に一種のある共通したものが存在する。そして董其昌みずからはそうしたアカデミックの典型の外に立って、清新で自由な独自の芸術を創造しようとしたと神田は捉えている。
ところで董其昌の郷里の先輩にあたる張東海(弼)の詩句に「天真爛漫は是れ吾が師」というのがある。董其昌はこの一句をもって「書法の丹髄なり」といった。つまりこの天真爛漫ということこそ、董其昌が書法の最高の理想としたものであった。これは王陽明の説いた良知、李卓吾の主張した童心にあたるものであると神田は解釈している。
そして島田虔次の著作『中国に於ける近代思惟の挫折』の中から、李卓吾のいう童心に関する説明を引用している。すなわち
「それは決して私的‐人欲的な契機を排除した、単なる思弁の要請としての『原理』といふ抽象性に止まるものではない。それが絶仮純真であるといふのは、人欲の私なくしてただ天理に純であるといふのではなくて、勢、利、財の契機を蔵しつつも、然も未だ『習』によって変容せしめていない状態を指していふのである」といっている。
この童心の意味はそのまま董其昌のいう天真爛漫の解釈に適用してよいと神田はみなす。そして董其昌によると、古来この天真爛漫という理想の境地に到達しているのは、晋の王羲之、王献之のいわゆる二王、それについでは唐の顔真卿、五代の楊凝式であって、宋の蘇東坡、米元章はほぼこれに庶幾(ちか)いということになる。
また、古来書法の名人といわれた唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良、薛稷、それに元の趙子昻などは、いずれも二王を学んだ大家には相違ないが、天真爛漫という理想の境地とは隔たったものであるとした。こういう考えは、画禅室随筆などに見える多くの断片的な記述から帰納することができると神田は述べている。
董其昌が特に自分に対立するものとしたのが、趙子昻であると神田は捉えている。つまり趙子昻は二王の形似を学んだ復古主義者であったが、董其昌からいえば、古来の『習』にとらわれているというのである。これに対して、董其昌は二王の精神をえようとした理想主義者であった。ここに董其昌の書論の特色があるとみている。
そして神田はそれを培ったものは何かという問いに対して、李卓吾を頂点とする泰州学派の学問と、それに密接な親近関係をもっていた明末の三大師などの説いた仏教思想とを挙げている。これらの点は従来注意されてこなかったので、今後もっと深く掘り下げて研究する必要のある根本的な問題であるとしている。
董其昌は画論において、中国の絵画を禅宗の南宗、北宗に譬えて、これを南宗と北宗に分け、唐の王維にはじまるという南宗の画をもって絵画の正統とした。
先述したように、書において、欧陽詢、虞世南、褚遂良、薛稷、さては趙子昻の流れに対立するものとして、顔真卿、楊凝式、それに蘇東坡、米元章の流れを董其昌は考えた。この二つの流れは董其昌では、前者は北宗、後者は南宗となり、書論と画論との間に、相通じた一貫性が認めれるという。
要するに董其昌は、絵画には、アカデミックな典型を墨守する派と、清新自由な、いわゆる天真爛漫を主とする二つの派があって、真の絵画はその後者でなければならないと主張した。これはその精神において書論における主張とも一致するという。そしてその根源を尋ねると、董其昌その人の確乎たるバック・ボーンから発していると神田は理解している(神田、12頁~17頁)。
張瑞図について 中田勇次郎
明末清初の書は、明の中期のものに比べると、きびしい切実なものへ変わってきた。明の中期のものは文人の趣味生活の中から生まれ出たため、一種の遊戯的な美しさに終始した。
しかし、明末清初の書は、政治的社会的変動の影響を受けたため、何か肺腑を貫くような真剣さがあり、見る人の心を感動させずにはおかないものを持っていると中田はみている。このように書が変わってきたのは、明末半世紀ほどの間の書壇の大立物であった董其昌の役割が大きかった。すなわちその革新的な書風とその理論が指導的なものとなっていた。
董其昌につづいて現れた人々は、それぞれの境遇と性格に応じて、明末清初の特異な書風を作り出した。その中で特に異彩を放ったのが、張瑞図と王鐸である。王鐸については、かなり広く知られているので、ここでは伝記などのあまり詳しく知られていない張瑞図を主題として取り上げている。
まず、張瑞図の生卒については、これまで明記したものがなかったが、中田はその文集の記載内容から、1570年に生まれ、70歳まで生存していたとする。そうすると張瑞図は、董其昌よりは16歳ほどの後輩であり、王鐸よりは22歳、倪元璐よりは24歳、傅山よりは27歳、それぞれ年長であったことになる。したがって張瑞図は明末清初の有名な書人たちの中では、董其昌についで比較的早くに生存していた人物であるといえる。
彼の伝記は『明史』巻306閹党伝などに見える。その経歴は万暦35年(1607)の進士で、38歳で、第三席いわゆる探花の及第であった。その後、職歴を重ねて、1626年、57歳のとき礼部侍郎から礼部尚書となった。翌年1627年、宦官魏忠賢が罪に伏して誅されたため、1628年、職を免ぜられ、張瑞図は太保となった。
そして1629年、彼は罪状を議定処分されている。そのときの罪状としては、1626年、魏忠賢が西湖のほとりに生祠を建てたときに、施鳳来が文を撰び、張瑞図が書丹したということが取り上げられている。退官して一平民となってからは直ちに郷里の福建省泉州普江県へ帰った。
ところで後世、張瑞図が悪い人物として批評されるのは、多くはこの宦官魏忠賢に加担したからであるといわれる。
その事蹟が不当なことである点として、次の3点が挙げられる。
(1)魏忠賢が東林党を論難するために作成した三朝要典の編纂の副総裁になっていること
(2)三度上疏して魏忠賢を頌したこと
(3)魏忠賢の生祠の碑文を書丹したこと
これに対して、清の楊守敬が張瑞図の書のすぐれていることを論じ、あわせてその政治上の非難を弁護している。すなわち、第一の三朝要典を編纂するときの副総裁となったのは、三朝要典の原本の中の副総裁の列銜には彼の名が見えないから、このことは事実ではない。彼はむしろ三朝要典を焼き捨てることを上疏している。
第二の、三度上疏して魏忠賢を頌したというのは、彼の文章にそういうものが伝わっているものがなく、また彼の罪状を議定する時にも、荘烈帝の詰問に対して韓熿が罪状はないと答えているのであるから、こういう事実がありえない。
第三の生祠の碑文を書丹したことは、詔旨を奉じて書いたのであって、命令に従ったまでで阿諛したものではないという。
彼がどこまで積極的に魏忠賢を支持していたかということに問題があるが、もし、彼の罪状の主要なものが、魏忠賢の生祠の碑文を書丹したことにあるとすれば、それは彼の平生の書癖のわざわいするところであると見なければならないであろうと中田はいう。
清代になってからは、張瑞図の書は世上ではあまり尊ばれなくなった。また、その書風が特異なものであったため、書の本格的なものをよろこぶ帖学派の大家たちに嫌われた。たとえば「芳堅館題跋」の著者、郭尚先は張瑞図の書を「下劣の阿修羅」とののしった。
ところで、中国において珍重されなかった反面に、日本には比較的早くから、その書が賞美されている。それは、一つには彼が福建の人であるという地理的な関係があったことが指摘されている。福建と日本との交渉は、たとえば福建、福清県出身の隠元禅師の渡来によっても、その関連性があることが認められている。現に、黄檗山にはその当時に将来したと思われる張瑞図の書が伝えられている。また、近衛家熙公の収蔵に張瑞図の幅があるが、これもその黄檗僧と交渉のあったことからみて、同じような経路で日本にもたらされたと想像されている。
そして江戸時代において唐様の書道が流行するにともない、中国の書幅がかなりもたらされ、張瑞図の書も多く含まれていた。大田南畝の『一話一言』(巻2)に、「一橋黄門の藏に二幅對あり、白毫庵瑞圖ありと」といい、また、「松花堂猩々翁の書は張瑞圖を学べりとぞ、雪山ももっぱら瑞圖の筆を擬せしなり」という。
そして『明和書籍目録』には張瑞図の「聞道帖」が載っていて、手本としても通行していた。
そして中田は張瑞図の文集を検討して、その人物の特質を考えている。
張瑞図は本来おだやかな平和な人間であったと中田は観察している。とくに情にあつく、豊かな詩趣を備え、いわば詩人肌の人物であったとみる。その豊かな詩的情操が陶淵明や白楽天を通じてあらわれ、神仙の遊ぶ桃源郷のような境地が現出し、その境地がやがて書となり、画ともなって、彼の芸術が完成されたと中田は理解している。
そして張瑞図の特質として、現世を根底とする平等観を指摘している。彼が君子にも小人にもとらわれない達観した思想をつとに抱いていた。魏忠賢の件で一旦失脚してからは、その達観した思想は豊かな詩情と楽しい自然の生活に彩られ、寂寞と清静の中に安住の地を見出したのであろうという。
次にこのような人間的特質を踏まえた上で、張瑞図の書を観察している。梁巘の「評書帖」によれば、張瑞図ははじめ唐の孫過庭を学び、ついで蘇東坡の草書「酔翁亭記」を習ったという。しかし彼の文集を見ても、全く詩人の詩集であって、その生活面のことを書いても、書のことなどは全く一言も触れていないそうだ。また実際に彼の書を見ても、誰かを師法とした痕跡はほとんど認めがたく、ひたすら独自の姿を呈しているように見えると中田はいう。
そしてその表現はきわめて創造的で、情趣のこまやかさに特色が見出される。この点について、中田は次のように推測している。彼が南方の福建の人であるところから、その土地の気候や風俗習慣と、その土地の人の性格にもとづくところもあるであろうが、また何よりも彼自身の詩人的な性情に因るところが多いものとしている。つまり情動いて作り、情達して止むという彼の詩の作り方と同じように、彼の書にも、細やかに変転する書法と、複雑な幻想のような飛動の姿が自然にあらわれるものとみている。彼は王羲之とか顔真卿とか蘇軾とかいう一定のものに頼らないで、自己の現実性に根をおろして、その天性の性情を美しい詩の世界に融化して、思うままに駆使して、独創的な姿に表現したという。
ここにも彼の一切平等の観念がその背後に働きかけているものと中田は考えている。
そして張瑞図の書を中田は次のように鑑賞している。その行、草には側勢の転折のするどい一種の音楽的な調子をもったものと、おなじ側勢でもきわめて素樸な純真なすがたになっているものとがある。また時には禅僧の墨蹟を見るようなわびしい感じのものもある。こういう抒情的で飛動するものとか、素樸で純真なものとか、宗教的なおちついたものなど、いろいろな書があることは、彼の詩を読んでみても同様に感じられると中田はみている。
最後に、中田は張瑞図の書と、他の書人たちとを比較している。彼は米万鍾(図1)、邢侗(図4)、董其昌(図6-25)の三家と併称されることもあり、早くから書名は出ていたようであるが、董其昌は古い碑帖の臨模に基づいて一家を成したのに比べて、張瑞図は出自からはまったく超脱していた。つまり自我の強い書となり、特にその豊かな詩情が変転自在に表現されるところは、董其昌などの及ばない別の世界を形成していると中田は理解している。
王鐸と比べると、王鐸も古法帖の臨模の基礎づけがはっきりしており、王羲之の草書尺牘の臨書(挿32)、王献之の「鵞群帖」の臨書(図33)、王曇首の「昨服散帖」の臨書(図35)などに見られるように、古法に根底をもっている点では、書道の本流につらなるものであった。傅山(図50、51)も、王鐸と同様で、晋人の草書尺牘の連綿草に道を求めていた。ただ傅山の場合は、そのあらわれかたが奇怪であるのは、けっして古法の基礎を棄ててしまったのではなく、書の学びかたに新しい道を求めて天真に徹したからであるという。
王鐸や傅山から見ると、張瑞図は本格的なものではなく、いわば専門に対する素人の書の行きかたを徹底して、かえってその芸術を完成した。
明末清初において、書のすぐれている点から見るならば、張瑞図と王鐸はもっともよき対照をなしているとみる。このほか、黄道周(図28-31)とか倪元璐(図40-43)は張瑞図と近い傾向をもつが、いずれも張瑞図に及ばないという。
清朝になってからは、自己を中心にして書道の本流から離脱した人も現れるが、張瑞図はそういう意味での先駆的存在であると中田は歴史的に位置づけている(中田、18頁~27頁)。
明清の賞鑒家 外山軍治
中国の法書名画は、歴代の朝廷と賞鑒家と呼ばれる人々の手によって保存されてきた。賞鑒家とは、書画に関するすぐれた鑒識眼をもち、書画を蒐蔵愛玩する人々のことである。書画や古器物の蒐集には、鑒識眼はもちろんのこと、財力、権力を伴わなければならないし、その上にものを蒐めるのに都合のよい何かの機縁に恵まれなければならない。賞鑒家はそのような条件をそなえた幸福な人々でもある。賞鑒家は歴代出ているが、本篇でとり扱う明の万暦から清の乾隆頃までには特に多くの賞鑒家が輩出している。
北宋の黄庭堅の「松風閣詩巻」には、乾隆御璽のほか、南宋の賈似道の悦生、似道、秋壑、長字諸印以下、元、明、清にわたる人々の鑒蔵印がおされており、この詩巻に得も言われぬ古色を与えている。そのうちその数の多いのは、明の項元汴の印であり、その印の数において全く他を圧している。が、項元汴の印の多いのはこの作品だけに限ったことではなく、今日残っている名品といわれるものに、彼の印を見ないものは少ないようだ。その蒐蔵の多さという点でも、おそらく明末の賞鑒家の筆頭にあげるべき人物である。
その項元汴は、今日の浙江省嘉興にあたる秀水(嘉禾)の人である。明の嘉靖4年(1525)に生まれて、万暦18年(1590)に66歳で没した。同じく賞鑒家として知られている王世貞(1526-1590)より1歳年長であり、董其昌(1555-1636)に長ずること30歳である。
項元汴が王世貞、董其昌と異なる点は、王世貞が南京兵部侍郎、董其昌が礼部侍郎という高官に上った人であるのに対し、彼は財力には恵まれていても全くの在野の人であったということである。
董其昌は項元汴のために「墨林項公墓誌銘」(図24、25)を撰しているが、それによると、項家の先祖は、汴(河南省)の人で、宋に扈(したが)って秀の胥山の里に移り甲族となった。父は項銓、彼はその季子である。自ら権勢に遠ざかり、文彭などの名流と文雅の交わりを結んだ。代々富裕で、彼はその家貲をもって法書名画をはじめ古器物の蒐集にあてたという。
項家がどのような事業によって富豪となりえたかは明らかでないが、項元汴の父祖にも士官して高位をえた人はないようであるが、項元汴の蒐集は権力を利して行ったものでないことがわかる。
項元汴の蒐蔵はすばらしいものであったといわれるが、惜しいことに彼は著録を残していない。明末で著録を残していることで注目すべき賞鑒家は張丑と汪珂玉とである。張丑は崑山(江蘇省)の人、また呉郡(江蘇省蘇州)の人ともいう。万暦5年(1577)に生まれ、崇禎16年(1643)に没した。その室を宝米斎というのは、万暦43年(1615)、米芾の「宝章待訪録」の墨蹟を得たことによる。
その祖父は文徴明父子と姻婭の間柄であるという。代々蒐集した書画は夥しいものであったが、その累世蒐蔵した書画を記録して、「清河書画表」をつくり、また目覩した真蹟について、その題跋印記を詳述し、考証を加えて「清河書画舫」(万暦44年[1616])をつくった。しかし張丑の家は中途で家運が傾き、彼の時代には売り尽くしてなくなったらしく、その書画表に載っているもので項元汴の家に入ったものも少なくない。
次に汪珂玉は、徽州(安徽省)の人で、万暦15年(1587)の生まれであるから、張丑より少し年少である。その父の愛荊が項元汴と交好し、凝霞閣を築いて書画を貯え、収蔵の富、一時に甲たり、といわれる。その著「珊瑚網」は崇禎16年(1643)に成ったものといわれ、その叙述は張丑の「清河書画舫」よりも詳密だと評される。
ところで項元汴の子孫たちについては、董其昌の「墨林項氏墓誌銘」に付した清の金蓉鏡の題跋に詳しい。いずれも項元汴の遺志をついだが、特に長子の徳純らが法書名画を蓄えたといわれる。項元汴の蒐蔵品が掠奪にあったことは、清の順治2年(1645)のことで嘉禾にやってきた清兵の千夫長汪六水のために残らず掠めとられてしまったと「韻石斎筆談」は語っている。その後、これらの蒐蔵品がどのような運命を辿ったか、よくわからない。
項元汴がその蒐蔵品に夥しい鑒蔵印をおしたことは、それらの書画の楮尾に購入の際支払った価格を書き記したこととともに非常に不評判である。姜紹書は「韻石斎筆談」に項墨林収蔵の条に、「名蹟を得るごとに印をもってこれに鈐す。纍々として幅に満つ。これまた書画の一厄たり」という。その並はずれて多い鑒蔵印は彼の蒐集欲の非凡なことを示しているもので、そうだからこそ、財力こそあれ、格別に権力をもたない身で、これほどの蒐集を行い得たものであろうと外山は推測している。圧倒的に多い項元汴の蒐蔵印がその作品の価値を裏付けしているようにさえ認められるようになったのは賞鑒家の彼の貫禄を物語るともいう。
さてこれらの明末の賞鑒家につづいて注目しなければならないのは、孫承沢である。明の万暦20年(1592)に生まれ、清の康煕15年(1676)に没した。順天大興(今の北京)の人で、崇禎4年(1631)の進士で、明に仕えて官は刑部都給事中にまでなった。その後清に降り、吏部左侍郎になったが、順治11年(1654)に致仕し、康煕15年(1676)に没するまで20年近く家居した。目睹した晋唐以来の書画を評隲して著わしたのが、「庚子銷夏記」である。庚子の歳すなわち順治17年(1660)、4、5、6月の間に成ったので、「庚子銷夏記」と名づけた。王羲之書褁鮓帖、王献之書地黄帖をはじめとして、唐宋人の真蹟や法帖類が多く載せられている。また王維伏生授経図(挿35、大阪市立美術館)には、北海孫氏珍蔵書画印、北平孫氏といった鑒蔵印があり、孫承沢と同じく明の遺臣で清朝に仕えた馮銓、梁清標らの鑒蔵印もある。
馮銓は、河北順天涿州の人で、明の万暦23年(1595)に生まれ、万暦41年(1613)進士に合格し、天啓5年(1625)に東閣大学士として閣僚となったが、のち清に降り、中和殿大学士となり、康煕11年(1672)に没している。馮銓は「快雪堂帖」を刻したことで知られている。「快雪堂帖」は魏、晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻したものが多いが、それについては第17巻「明代の法帖」(中田勇次郎)において詳述している。
また梁清標は河北正定の人で、明の泰昌元年(1620)に生まれ、清の康煕30年(1691)に没している。孫、馮2人によりは少し後輩である。明の崇禎16年(1643)の進士で、明に仕えて翰林院庶吉士となり、のち清に仕えて保和殿大学士にまで昇進した。金石文字、書画、鼎彝の属を蒐蔵したことで名を知られた。この人も著録を残していない賞鑒家の一人で、この点項元汴と同じである。
孫、馮、梁の三氏は、項、張、汪三家が江南の賞鑒家であるのに対して北方の賞鑒家である。江南三家の蒐蔵品がすぐさまに北方の三氏の蒐蔵に帰したかどうか、よくわからない。著録のある孫承沢の蒐蔵品の中には、「松風閣詩巻」のように項元汴の蒐蔵印がおされているものも入っているが、その他には項元汴の蒐集品は余り入っていないという。
孫承沢、馮銓、梁清標ら明の遺臣の賞鑒家につづいて、康煕から乾隆にかけては多くの人々が現れている。中でも「江邨銷夏録」を著わした高士奇、「式古堂書画彙考」を著わした卞(べん)永誉、「大観録」の著者の呉升らが注目される。その著述の上からみて、すぐれた賞鑒家であろうと外山が考えているのは、呉升である。「大観録」は、康煕51年(1712)に出来上がっているが、「式古堂書画彙考」などに比べて識見が強く出ている。
これらの人々よりは後出で、乾隆期にまたがった人であるが、その出自の点で興味があるのは、「墨縁彙観」を著わした安岐である。その生年については、康煕22年(1683)説があるがはっきりしない。彼が朝鮮出身であるということは、自ら朝鮮人という印を用いている所よりみて明らかである。安岐は北京に出て納蘭太傅(康煕朝の権臣明珠のこと)の家に給事したが、太傅の門に奔走するものが率先して安岐に賄した。彼はこれによって得た財をもって塩商となり、巨富を擁し、そして法書名画の蒐蔵を行ったといわれる。項元汴ほどではないが、今日みられる書画に安岐の印のおされているものを認めることが甚だ多い。「墨縁彙観」は作品の紙墨、印章について詳述考定し、その真贋の鑑別において往々にしてその非凡さを発揮している。またその子孫が生活に困って安岐の蒐蔵を売り払ったが、そのうちの逸品は長洲の沈文愨の手によって内府に進められ、その余りは散らばってしまった。王羲之の「遠宦帖」、懐素の「自叙帖」など、安岐の蒐集品で清室に入った代表的なものである。
清朝において法書名画が内府に集められたのは、康煕時代より乾隆時代にかけてのことといわれる。明の内府に蔵せられた書画もそうであろうが、項元汴の蒐蔵なども明清交替の時期に散落してしまった。それらのものが清朝に入って輩出した賞鑒家の手に集まり、彼らが鑒定を経て次第に清の内府に集められていった。これは書画にも造詣の深い両帝の熱意がそうさせたといえる。
康煕帝が康煕47年(1708)、孫岳頒らに命じて撰せしめた「佩文斎書画譜」には歴代鑒蔵の項を設けており、乾隆帝は乾隆9年(1744)内府に蔵した書画について「秘殿珠林」「石渠宝笈」を勅撰させ、ともに書画鑒賞についても大きな関心を示している。特に乾隆帝は入手した逸品に数多くの鑒蔵印をおし、自ら題識をしるしてその帝王らしい識見を表現している。その印璽は壮大、堂々としていて、民間の賞鑒家項元汴輩の印章の比ではない。中国歴代の朝廷は法書名画の保護に任じてはいるが、殊に清朝にはこのような賞鑒家としての資質をもそなえた帝王が出たために、あのようなすばらしい蒐蔵がなされたと外山は考えている(外山、28頁~32頁)。
21中国13 明Ⅱ・清Ⅰの「書人小伝」に董其昌について、内藤乾吉は興味深いことを記している。
董其昌(1555-1636)は華亭(江蘇省)の人で、1589年に進士となり、翰林院庶吉士となった。董其昌の郷里華亭は、明初の沈度、沈粲をはじめとして、以後張弼、陸深、莫如忠、是龍父子などの書家を出したが、その後に出た董其昌は書の天才、力量において遥かにそれらを凌駕した。古今の書を研究し、名蹟を鑑賞し、優れた識見を有した。項元汴などの当時の蒐蔵家の晋唐墨蹟を見て、真蹟でなければ書の神髄を得られぬことを悟った。目標は魏晋にあったから、晋人の書法に造詣の深い米芾や、天真爛漫の中に晋人の精神を得た顔真卿には深い共感を示した。しかし趙子昻に対しては、王羲之をいくら習ってもその精神を得ていないものとして退けた。
また董其昌は自分の書について、古淡、秀潤、率意の妙においてすぐれ、魏晋とまではいわぬが、唐人には負けないと自信していた。内藤乾吉は瀟洒として垢ぬけのしている点では古今独歩といえるかもしれないと評している。画においても書と同様、識見と手腕を有し、禅理に通じ、詩文書画の論にもそれを応用している。『明史』の文苑伝には、当時善書をもって名あるものに邢侗(けい・とう、1551-?)、米万鍾(べい・ばんしょう、生没年不明)、張瑞図(ちょう・ずいと、1570-1640?)があり、時人は邢張米董とか南董北米などといったが、他の三人は董其昌に及ばざる遠きこと甚だしといっている(内藤乾吉「書人小伝」177頁)。
清の四大書家について
21中国13 明Ⅱ・清Ⅰの「書人小伝」を参照して清の四大書家について紹介しておこう。
清の四大書家とは、
1劉墉(1719-1804)
2梁同書(1723-1815)
3王文治(1730-1802)
4翁方綱(1733-1818)
1劉墉(1719-1804)
東閣大学士劉統勲の長子で、乾隆16年(1751)の進士である。経史百家に通じ、詩文をよくし、題跋にも工みであったが、とりわけ書法にすぐれ、みずからも書をよくするのを自負していた。はじめ、家風を受けて趙孟頫を学んだが、中年以後一家をなしたといわれる。包世臣の見解では、董其昌から入り、蘇軾に移り、70歳以後、北朝の碑版に心を潜めたという。出自はいずれにしても、その書風は一家の特色を示した。
小楷はとくに精絶であり、行草にも長じ、姿は豊かで、気骨をうちに蔵し、静かな情味をたたえた品格の高い独特の書風をなした。晩年にはますますその妙境にいたり、当時においてもその詩草や書札が世に珍重されたと中田勇次郎は解説している(中田、「書人小伝」185頁)。
2梁同書(1723-1815)
父は乾隆朝に文学の臣をもって東閣大学士となった梁詩正(1697-1763)である。梁同書
はその長男に生まれたが、叔父の梁啓心の嗣となった。乾隆17年(1752)、特別の恩恵により殿試に与り進士となった。その後養父の死に遭い、喪が終わって後も病気といって出仕しなかった。梁同書は書を善くし、詩を工みにしたが、鑑賞にも精しく、その名声は天下に聞えた。その書は帖学より入って一家を成したもので、若い時の書は顔真卿、柳公権を法とし、中年には米芾、董其昌を法としたといわれる。同じく帖学派の書人で、その時代をほぼ同じくする劉墉、王文治とならんで、劉、梁、王と称せられ、梁巘(りょう・けん、生没年不明、安徽毫州の人)と南北梁といわれた。書学の造詣も深く、『頻羅庵論書』という著作がある。このように、外山軍治は解説している(外山、「書人小伝」186頁)
3王文治(1730-1802)
乾隆35年(1770)の進士で、三番で合格している。乾隆20年(1755)、琉球国王冊封使として派遣された侍講全魁に随行して琉球に渡った。この時、26歳であったが、琉球人はその書を珍重して家宝としたといわれる。彼が好んで用いている「曾経滄海(曾って滄海を経[わた]る)の四字印は、その若き日の渡海の想い出を託したものである。その書は穏和で風格が高く、董其昌の真髄を得たものといわれるが、いくらか弱いところがあり、女郎の書などという評もあると外山軍治は解説している(外山、「書人小伝」185頁~186頁)。
4翁方綱(1733-1818)
乾隆17年(1752)の進士で、乾隆47年(1782)、四庫全書纂修官となっている。
書法ははじめ顔真卿を学び、ついで欧陽詢、虞世南を学んだ。隷法は史晨と礼器の二碑に学んだ。平生碑帖の摹勒雙鉤につとめ、精密な考証を加えた題跋を記入した。
彼はとくに金石、碑版、法帖に関する広い識見と精密な研究で名があり、すぐれた著述を残している。漢隷には『両漢金石記』、晋帖では『蘇米斎蘭亭考』、唐碑では『蘇斎唐碑選』があり、中でも欧陽詢の「化度寺塔銘」と虞世南の「孔子廟堂碑」にもっとも詳細な研究を行って、『化度寺碑考』、『孔子廟堂碑考』に成果がまとめられていると中田勇次郎は記している(中田、「書人小伝」、186頁~187頁)。
別刷附録 王鐸 遊中條語
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