《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その12中国12-b》
17中国12 元・明Ⅰの続きの要約を掲載する。
詩書画三絶 島田修二郎
書と画とは中国でも日本でも、とくに中国では、いろいろな点で密接な関係がある。まずこの二つの芸術は墨筆の運用によってできる線でもって形を構成するか、またはそれを根幹として成り立つものである。
詩文が画の中に書き込まれるか、画に接続して書かれるので、書と画とを併せてみ、それが互いに他の興趣を深めるということがある。また一人の作家が書にも画にも優れた手腕をもっていることが多いので、ある芸術人格のもつ異なった面がそれぞれ書と画とに表れるのをみるとか、同じ意思の書画二つの相における違った表れをみることができる。
このように外形上でも内面的にも、書と画とは親縁関係にあるので、この二つの芸術を結合させてみようとする考えが、古くから中国にはあった。書画一致の説というのがそれである。ただ、書と画とは親しい関係があるといっても、別個の芸術形式であるから、それが一致するとしても、限定的な一致であるべきことはいうまでもない。
書画一致を説くのに二つの立場がある。
①その一つは書と画とが同じ源泉から出ているという点をとらえて両者の一致を説くのである。中国の書は中国の漢字を写すことにおいて成り立つのだが、その漢字は象形文字であって、文字の古い形は物の形をかたどっている。古代文字の一種である鳥書はその好い例である。したがって書と画とは共通の源からでているわけで、その意味で書画は一致するものというのである。殷墟の発掘品によって殷代の象形文字が確実に知られるようになった。しかしそれらはかなり抽象化されていたり、文様化されたものである。書画一致説の論者がそれより更に具象的な形の文字をより所として持っていたかどうかわからない。けれども象形文字がどれほど物の形を写していたとしても、それを文字として、つまり抽象的に観念を表す記号としてみることと、具体的な物の形とみることは別な事柄である。
見方によっては逆に、中国の書は文字の形の上から、物の形をかたどることが消え失せるところに成立したともみられる。書と文字との関係はここで簡単には述べられない複雑な問題であるが、両者は互いに他を規定し合うという意味合いがある。
象形文字を理由として書画の一致というのは、要するに起源論であって両者が同じ源から発生したというにすぎないことであり、それで一致というのは筋の通らぬ議論と思われるだろうが、中国的な考え方では同源ということで書と画とを密接に関係づけることが一致の説明とされた。
②書画一致の他の説は、書と画との筆法が共通であることを理由にしての主張である。書の線と画の線とは同じく墨筆の運用によって作られるのだが、書の線には画の線のように物の形を描写する働きはない。
昔の書家は例えば松の高々とそびえる勢や水の走り流れる勢から書の運筆を感得することがあったらしいが、しかしそれは線の力や美しさを見出す機縁になっただけのことで、書の線は抽象的に文字の形を構成するものであって、具象的に物の形を作り上げる画の線とは別な芸術的意味をもっている。しかし筆の運用という技法の面だけをみれば共通するものがある。書画一致の例証として論者があげるものをいうならば、後漢の張芝の一筆書と宋の陸探微の一筆画とは同じ筆法であるという。一筆画は画としては特殊なものだから別とすると、梁の張僧繇の画がある。この時代は人物画が全盛の時だが、これまでは人物の肉身や衣服をもっぱら緊細な変化のない線で描写していたところ、張僧繇は衛夫人の「筆陣図」によって、点曳斫払などという書の筆法を画に導入して線の筆勢に変化を作り、力強い新しい画風を創始したといわれている。これは唐の張彦遠の議論がある(そこから書画一致という結論を引き出したのは少し後の人であろうと島田はみているが、今は張彦遠の説としておくという)。ここで説かれた書画一致は書画の技法の上での一致ということにとまるが、これがまた中国では書と画との深く強い関連の証左として広く容認されていた。
唐末から後になると、中国画の発展は次第に水墨画を中心とするようになり、人物画よりも山水、花鳥などの題材を多く描く方向に進んだので、描線の自由な変化が追求され、線の肥痩、軽重、遅速の変化が多様に、かつ激しいものとなっていた。その結果、筆法上の書画の一致面は拡大されることになった。
例えば、人物画の衣文を写す筆法はふるえ飛動して草書のようだといわれる。あるいは墨竹で竹の幹を写すには篆書の筆意を用い、葉を作るには隷書の筆法を用いる。石を画くには飛白の筆法をとる。このように点曳斫払など書の基本的な筆法だけでなく、いろいろと分化した書法がそれぞれその特色に応じて画法の上に応用される。
とくに文人画特有の梅竹蘭などの墨画では、このような書画の筆法の融通が容易に行われるので、書画一致の説が最もよくあてはまることは事実で、書法に功を積んだ文人は気安くこの類の画に筆を染めることができ、実際かなりの画境に達していることが多い。そうしたことから、この意味での書画一致説はますます強くなり、書法の関紐が画に入るとか、書画は同一関捩子とかいうことが盛んにいわれるようになる。
書法でもって画をかくとして有名な画家の中の変り種は、宋末元初の僧日観である。日観は画では墨葡萄を得意とした。花や果物を墨画にかくことの流行した宋代でも、葡萄の墨画は珍しかったらしく、当時これが評判になった。普通の僧侶の墨戯はとかく蔬筍の気があるとか、濃濁だとして嫌われがちなのに、日観の葡萄が教養人の間に愛賞されたのは一つは日観の人柄言行が高逸だとみれられたのにもよるが、書法でもって葡萄を写すと認められたことにもよると島田は考えている。
日観は草書が工みで、唐の懐素の狂草の筆法を得たといわれ、彼の葡萄の破れ袈裟にたとえられる葉、鉄幹鉄鬚にたとえられる蔓や孫蔓、一々みな草書の筆法によってなると認められている。
以上のように島田は書画一致の説について解説している。書と画とを一般的にみて両者の関連を説明したが、それとは別に具体的な事実の面で、一人の芸術家がこの二つの芸術を兼ね具えるという事実で両者は結びつけられている。古くから書画双絶といわれ、書または画の一筋でなく、その両方に優れていることを意味し、また詩書画三絶といわれ、書と画に詩文が加わって詩書画の三方面に頭抜けて秀でていることを意味した。それが中国の教養人の芸術家の理想的なあり方と考えられてきた。一人の作家が二つ以上の芸術に優れた才能を発揮することは、中国以外の国にもないことではない。しかし中国のように、書画または詩書画の美を兼ね具えることが理想とされ、実際それらを兼ねる作家が多かったのは他に類のないことである。
書画双絶あるいは詩書画三絶が高い水準でそれらを兼ねもつのは少ないことは勿論ながら、中国の芸術の歴史に著しい特色として見出されることについては、上記のような意味の書画一致という事実とその自覚があったことが大きい要因として働いていると島田はみている。
また中国の画が詩的情趣の表現をとくに尊重したことも大いに関係がある。その他に、中国に独特の歴史的な条件があるとみている。一体、詩書画三つの芸術の分野は、中国のあらゆる芸術のうちで、最も価値の高いものであり、文人といわれる教養人が心を打ちこむのにふさわしい値打のあるものと一般に受けとられていた。これが詩書画三絶を支える一つの支柱になっている。もっとも詩書画と並べていうものの、この三者がいつも同等の地位にたって並称されたのではなく、詩が第一で、書がこれに次ぎ、画が最後である。
詩文が書画とは違った言語表象の芸術であることはいうまでもないが、そうした形式の違いをいうよりも、中国では詩文はもっと特別の意義を賦与されていて、いわば芸術以上のものになっていた。
中国の文人の教養は儒学が基本になっているのだが、詩文は儒教の理想を宣明し、実現に向かわせる上の重要な方法とみなされており、儒学の中に含まれているようなものであったから、教養人のたしなむ芸術というよりも、是非とも身につけていなけらばならないはずのものであった。
それに比べると、書画は時代の進むにつれてその地位は向上していったけれども、詩文と同等に取り扱われることはなかった。どうかすると、小技末技と言いくだされ、ひとつの芸とみられた。
書と画とは同じく視覚形象の芸術であり、しかも密接な関係があるが、書の方が上位を占める。画と違って、書は外界に存する物の形を写すのではないから、より直接的な心情の表現であって、その意味から心の画だといわれるほどで、芸術性の認識されるのが早かった。それはまた詩文を書き表すための文字を写すことにおいて、成立するのであるから詩文との関係が深く、おのずと教養人の芸術として早く承認され、詩文に次ぐ地位を占めた。
画は時代の古いほど、物の形を写す技術とみられる傾向が強く、工人の仕事とみなされていた。画の地位が高まるのは、一般的に芸術的な雰囲気が濃厚であった六朝時代からであろうと島田はみている。
歴史の上に現れた画家で文人画家といえそうな人は、後漢の蔡邕が最も古いのだが、晋から後になると、王廙や王羲之・献之父子、王蒙ら書の大家名家で画筆をとる人が続出しており、顧愷之、戴熙ら画の名人と聞えた人がまた詩人と書にも秀でているように詩書画三絶または書画双絶を一身にかねる教養人の芸術家が出現している。それと並行して絵画芸術論も提出されるといった有様で画の地位は急速に高められてくる。
しかし一般の観念ではまだ衆工の技とみる傾向が強く、教養人の芸術として十分認識されてはいないようだ。例えば、唐の張彦遠があり得ないことだとして弁解していることだが、次のような話がある。
唐の宰相であり、第一流の画家でもあった閻立本が太宗の俄かの命令で近習のものから、誤って画師といって呼び寄せられ、園遊の席で即席画をかかせられたのを恥じ、なまじいにこのような芸をもっていたためにこのような恥にあう、子孫のものはこの芸術を習ってはならぬと戒めたという。
この話で察せられるように、唐代でも画は衆工の技のように思われる傾向が払いきれない。
唐の王維の「前身応画師」という詩句は有名なもので、人々は王維の画に対するなみなみならぬ熱情をこの句に感じてもてはやすが、尚書右丞にまでなった王維が、自分の前身を画師といいきったことについての驚嘆もあると島田はみている。
中唐以後になると、詩人文士の画家が増してくる勢いがみえる。そしてそれを理由づけるように、画は決して凡俗の人間にできることではない。昔から画の名人はみな身分の高い人、教養の深い人であるという張彦遠の有名な主張が現われてくる。しかし本当に画それ自体が詩書よりも卑しいのでなく、画く人の教養人品次第で高下がきまるのであるとして、画が教養人の芸術となりきるのは宋代に入ってからのことである。
そうなってこそ、書画双絶または詩書画三絶ということも十分な意義をもつことになり、またそれが文人芸術家の理想ともなるのである。
三絶とか双絶というのは初めは必ずしも一人の作家、一つの作品に集まり具わっていることを指していうのではなかったようだ。2人3人の作品を併せ含めて、あるいは1人の作家の別々の作品に表れたものを綜合して言うことでもあった。古くはむしろ別々の人や作品を引きくるめていう方が多かったという。
一人で詩書画の妙を兼ね具えるのを称せられたのは後漢の蔡邕の三美というのが最も古い。これは霊帝の命によって蔡邕が、赤泉侯五代の将相の像を宮中にかき、その賛を作って自ら書いたことを指している。
それに続いては梁の元帝が孔子像とその賛を作ってかいたのが三絶といわれ、唐の鄭虔が自作の詩篇と書画とを献上して、玄宗から三絶と褒美されたのが三絶の古い例としてよく知られているものである。後世に双絶とか三絶とかいえば、大体一人でそれをかねることであり、一つの作品にまとまったものを指す方が普通になっている。それというのも詩書画三絶が文人芸術家の理想的なあり方とみなされるようになったからである。
芸術の世界での画の地位が高まって、詩書と一つの群に入るまでになるのには、画の様式の発展と絵画観の推移が深い関係がある。
宋になると、画は物の形を写すのが主意ではなく、物の形を借りて人間の性情から発する意思を表現するものであると考えられるようになる。したがって画の価値は作者の教養人品の高下によって定まるとされ、ここで文人画の理論的な基礎も与えられることになった。こうなると、詩と画とは表現方法として言葉によるか物の形を借るかの相違は当然あるけれども、同じく作者の人間的な心情に根ざすことだから、詩画同源ということになる。おのずからまた書とも根源を同じくするわけである。そこで画を無声の詩といい、詩を有声の画ともいうようになる。ここで同源といったのは、先の書画一致説での同源のような起源論の同源とは全然違うことはいうまでもない。芸術の創作活動の過程に対する省察からきたより正しい理解である。詩と書と画とは人間性の深さの中で共通の根底をもつことになったので、当然のなりゆきとして画も詩書と同じく教養人の芸術として立派に認められる根拠を得た。そしてまた双絶あるいは三絶も、それを一人の芸術家がかねることができるという根拠を与えられたことになり、それが文人芸術家の理想的なあり方とみなされるに至るわけである。
このような考え方が成立した頃には教養人階級の中でもとくに学識が高く文藻の豊かな、本当に文人という言葉のよくあてはまる画家が輩出しており、その多くが詩文と書の妙をかねていて、上述の考え方を事実の上に具現したといってもよい。蘇軾・蘇過父子をはじめ、文同、米芾・米友仁父子、李公麟、晁説之・晁補之兄弟らはそういう文人芸術家の有名なものである。
詩文と書を画に結びつけたもう一つの要因は画の題跋の発展にあると島田は考えている。題跋には画の筆者が自ら書くものと、他人の書くものとに分かれる。他人の書く題跋はその画についての印象をつづるか、批評を述べるか、または画の製作にからむ興味ある事柄を物語るとか、いろいろの書き方がある。古人の画に対する題跋ではなお主題の説明をすることもあり、画の歴史の推移を論ずることもある。書と画とを繋ぐ紐帯としては画家自身の跋が最も重要であり、また興味あるものであることはいうまでもないが、画家に親しい人が画の製作と時を隔てないで書いた題跋は、一種の共同製作ともいえる場合もあって、これまた興味深いものがある。
題跋が盛んになりだしたのは唐以来のことである。それ以前、六朝時代には画の趣を詠んだ詩があるにはあったが、まだ微々たる状態であった。画の主題である故事の典拠である詩文、あるいは画かれた人物の伝記や賛が画に書き添えられることは少なくなかったけれども、このような本文は題跋とは違った意味をもち、書と画との内面的なつながりも稀薄なものである。唐から次第に盛んになり始めた題跋は宋に入って急速に流行するようになり、北宋の後半期、とりわけ蘇軾、黄庭堅以後の文人画時代から詩文の一体を形作ることになった。
この時代は文人画家が続々と現れた時で、彼らは自作の画に題跋を書くほかに、師弟、知友の間で、詩と画との応酬が繁く、それらは多くは題跋として画に書かれたと思われるから、自ずと詩文と書画の共同作となったであろう。文同の竹に蘇軾が、蘇軾の枯木竹石に黄庭堅が、李公麟の馬に蘇軾、黄庭堅らが題跋を書いたといわれる。李公麟の五馬図に黄庭堅が跋を書いたものが稀有の作例として近年まで有名であった(15巻挿24)。
この時代には詩書画がいずれも人間の心情にその根源をもつことが自覚されていたので、その自覚が文人芸術家を詩書画の連作に向かわせるようになった。詩を自題として画に添えて書けば、書もそこに参加して詩書画の連作となる。
要は書画と内面的に密接につながっていることにある。王庭筠の幽竹枯槎図の自跋は表面、この図を画く気になった動機をさりげなく手短に述べただけだが、自ら何を画に表そうとしたかを暗示している(16巻図92-94)。
自題跋はだから詩書画のつながりの外部形式であるわけで、題跋の流行は詩書画一連の製作態度が盛んであることを表している。
ちょうど北宋の末から文人画家の間に盛んになった墨梅、墨竹のいわゆる墨戯は詩書画一連の芸術がのびていく舞台を提供した。梅竹蘭などは宋代の教養人からは自然界に現れた自分たちの象徴とみられていたので、それに対する宋人の愛好ぶりは非常なものであって、詩にも画にもあきることなく写された。これらの比較的形の単純で変化の少ないものを形を細く写すことにはこだわらない態度でくり返し画くのに、それを生かすのは一つには筆法であり、一つには詩的な情趣であったから、更にそれを詩によむことへ自ずと進む。なお書の筆法を応用しやすいということもあり、詩書画一体の道を進める恰好の舞台となった。
詩書画三つの芸術が一方で教養人の芸術と認められ、一方ではこれらが同じ根源に根ざす内的関連が本となって、三者一連の製作が欲求されるとなると、詩書画三絶を一人でかね具えることが、文人芸術家の理想的なあり方とされるのも当然のことである。この後、文人の画に詩文の自題がないと文人の画である資格を欠くかのように思われるほどに自題を書くのが普通のことになるもとはここに胚胎している。
元代は南宋の沈滞から立ち上って文人画が復興し、画風の上で復古運動を起こした時であった。その先頭に立ったのが書では元代の第一人といわれ詩人でもある趙孟頫である。彼こそ詩書画三絶ぶりを発揮しそうに思われるのだが、彼の作と伝える画には存外に詩書の美をかね具えたものが稀である。しかし復古運動から一転して近世の南宗画の出発点になった新画風を開いた、いわゆる元の四大家には自題の作が多いといわれる。四大家の筆頭とされるのは黄公望である。とくに書名が高いわけではないけれども、その「芝蘭室銘」の正書はそれを見た董其昌を驚嘆させた。黄公望は書で聞えてもいないのに、この書は六朝人に迫るほどだといわせた。
呉鎮は詩にも書にも工みな人で、書では鞏光を学んだといわれ、流暢な草書で書いた自題は反対に磊落な画風と対照的である。倪瓚は詩名が高く最も自題の詩画の作が多い。呉鎮とは違って、倪瓚の書は画と同様、奇矯な性格を反映した特異な風をもっている。
四大家の後、明初の王紱、徐賁をへて沈周が現れてから、文人の南宗画派は他の諸派を圧倒して画壇の中心勢力となるが、この頃から文人の画には自題がなければならないという形勢になった。
明の画の四大家というのは沈周(図58)、文徴明、唐寅、董其昌をいうが、この四人はみな詩文と書に優れており、沈・唐の二家は得意の画には必ず詩を題したといわれ、文・董は画史の上での地位名声よりも書史上のそれの方が勝るほどである。
董其昌は書の力量の方が高大で、幅が広く、自題の書は画とは別種の趣をみせ、沈・文は書でも大体画と同じ風格を表している。
この四家に比べると、清の画壇の六大家といわれる人々は、王時敏が隷書に名を知られ、惲格が独自の瀟洒な書風で新味を出したほかは書はやや劣り、詩でも惲格、呉歴二人のほかは聞えておらず、詩書画兼美の風も少しく落ちかかる。四王(王時敏、王鑑、王翬、王原祁)の自題は、画に対する見解を述べることが多いのが特色で、これは今までに類をみないことである。
題跋の類は、自題でも他跋でも、画面の中か画に接続した所に書かれる。元代は題画詩の最も盛んな時代で、時にはさして大きくもない掛軸に20人近くもの人が画かれた物と物との合間にまで、隙間もなく書きこんだ例さえあるが、書と画との間には、いわば見えない垣があって、両者は入り雑るものではなかった。
続く明代では、謹細な画風の文徴明の自題などは、画と同様な風格で実に端然と書かれている。ところが清の初めになると、題跋の書き方に著しく自由な風気が生まれてきて、画と題跋の書とが互いに掩い合う傾向が現れる。この種の書き方をする画家は、南宗画の伝統に従わないで、自由に奔放に自分を表現しようとする粗放な画風の持主であり、書においても同様である。
この傾向が最もはげしくなったのは清の高鳳翰や鄭燮であろうという。高鳳翰の題跋には自作の画だけでなく、古人の画に対する題跋でも、空白を乱れた文字の排列で埋めた上、画の石や水の中にまでおどりこんだものがある。鄭燮にも同趣のものがあるが、彼はもっと奇智的で、空白を残しながら文字を画に入りこませる。これは激しい自己の表現を求めて、書と画との奔放な作風だけに止まらないで、その両者を混融させようとする試みであって、題跋の書法の上の著しい変革というべきことであると島田は捉えている(島田、28頁~36頁)。
文房趣味 青木正兒
近世中国では「文房清供(せいきょう)」という言葉で文房の趣味生活を表現している。それは文雅の士の清玩に供せられる一切の施設である。あたかも日本の茶人が数奇屋の施設に意匠を凝らして幽玄の趣を楽しむようなものである。ただいわゆる清供の「清」は日本の茶人好みの「渋味」とは異なり、清楚を旨として雅味が加わるもので、この趣致は宋代以来著しく尊ばれた。
六朝および唐代の文人は、現実生活の甘美を享楽しようと欲する傾向が強く、その趣味は華麗にして、典雅を主眼とした。宋代に至って質樸を貴び、清楚を旨とする風が漸く開け、美を否定して天真の保全を欲する道家的高踏趣味が抬頭してきた。
このような趣味生活の記録として、文房清供に関する専門の著述をなす者が輩出した。唐代は趣味がいまだ醇粋ではなかったらしく、それが醇なるのは宋代に始まり、次第に盛行し、元代には一時下火になったが、明代の中葉より末期にかけて再び隆盛を致し、これに関する著書も多く、清代にその余波を及ぼした。
さて、文房趣味の根本は文房具であり、その中心は筆紙硯墨で、これを文房四宝とか四友という。
宋初、蘇易簡(そいかん)は『文房四譜』を著わして、この種の著述の端を開いた。著者は翰林学士であった時、宮中の秘籍を閲して、筆硯紙墨に関する古来の文献を渉猟し、この書を著わしたが、今日においては文房具研究の宝庫である。
四宝の中で最も欣賞されたのは硯である。他の三宝が消耗品であるのに比べて、硯は不動産的性質を持っているから、珍重された。これに次いで、墨は貯蔵がきくし、古い物が愛玩される。紙も古いのがよいが、筆だけは新しくなくてはならないので骨董的趣味に薄く、最も実用的である。そういう事情を反映して硯と墨とに関する専著がまず宋代において現われた。硯は唐詢の「硯録」、唐積の「歙(きゅう)州硯譜」、米芾の「硯史」、李之彦の「硯譜」などがある。墨は晁貫之(ちょうかんし)の「墨経」、李孝美の「墨譜」などがある。紙と筆とに関しては宋代に著書というほどのものを見ない。
およそ翰墨を事とする者の間に硯を愛玩するが、唐の柳公権は青州の石末を第一とし、絳(こう)州の黒硯之に次ぐと評した。しかし宋の蘇東坡は青州石末を「凡物のみ、珍とするに足る無きもの」(「東坡題跋」五)と誹り、葉夢得も「石末はもと瓦硯、極めて不佳」(「避暑録話」下)といっている。
宋人は最も端渓石と歙(きゅう)州石を貴んだ。端渓は今の広東省高要県にあり、唐の中葉、劉禹錫の詩に「端渓石硯は人間に重んぜらる」といい、李賀の詩に「端州の石工巧みなること神の如し」と詠じてあるから、唐代にすでに知られていた。
歙州は今の安徽省歙県で、その地の龍尾山から硯石が出たもので、唐の開元年間に発見され、五代南唐の李後主にいたり、官を置いて硯を製造させたので有名になった。この時歙州に墨の名工李廷珪が佳品を造り、また後主は良質の紙をつくらせ、澄心堂紙と名づけたので、この硯墨紙三者は天下の冠たるものとして貴ばれたという(「歙硯記」)。
宋代にいたって、仁宗の朝、「硯録」の著者唐詢をはじめとして、欧陽脩、蔡襄、蘇軾など愛硯家として有名であった。そして米芾も硯を愛し、自ら「硯史」を著して、古今天下の硯石の良否を鑑別評論している。これらの文人が後世愛硯の風を開いたものといえる。
次に墨に関して、上古は石墨といって天然の黒い土を用いたが、魏晋の頃から松烟すなわち松の煤烟を原料とし、膠で固めて製造するようになった。そこで松の多い地方が墨の産地となり、唐代においては上党、上谷、絳郡が知られていた。上党と絳郡は今の山西省南部の地で太行山、王屋山をひかえており、上谷は今の河北省易州一円の地で、やはり太行山脈の続きが走っているので、これらの山の松を用いた。
ところで、唐末より五代にかけて墨工の名人が現われるようになった。この頃から、士君子の墨に対する趣味が向上した結果、品質が精選されるようになって、名工も輩出するに至ったのであろう。
まず現われたのは、易水(易州)の祖敏で、後その地に奚鼎(けいだい)・奚超父子があり、唐末に超はその子庭珪と易水より南下して歙州に遷居し、南唐の李主は李氏の姓を賜うたので、世に李超・李庭珪と呼び、この父子の製墨は宋人の最も珍重するところとなった。
同時に易水の張谷もこの地に移り、これより歙州は製墨が盛んとなって、後世遂に徽墨の名をほしいままにする。
こうして士人が墨を愛する趣味も仁宗の朝に至って盛んとなった。蘇東坡は次のように言っている。「近世、人好んで茶と墨とを蓄え、閑暇なれば輒(すなわ)ち二物を出して勝負を較(くら)ぶ」(「東坡志林」十一)。
また「蔡君謨(襄)老病して茶を飲む能わず、則ち烹て之を玩ぶ。呂行甫好んで墨を蔵して書を能くせず、則ち時に磨りて之を小く啜(すす)る」(「東坡題跋」五)という。
蔡襄と並んで書名のあった王洙は墨を愛し、机上や枕辺に之を置いて、常に柔らかい物で拭き磨いて光らせ、時には袖で惜気なく磨いたという(「王氏談録」)。これらは極端な例であるが、士林好尚の傾向を窺うにたるであろう。
紙筆に関する事は青木自身省略して、当時いかなる文房具や文房の備品が玩ばれたか、この点について南宋末期の趙希鵠の「洞天清禄集」がその代表的なものを十門に分けて論じているので、その内容を青木は紹介している。①古琴弁、②古硯弁、③古鐘鼎彝器弁、④怪石弁、⑤研屏弁、⑥筆格弁、⑦水滴弁、⑧古翰墨真蹟弁、⑨古今石刻弁、⑩古画弁がそれである。
この中で文房具は古硯、研屏、筆格、水滴のみであるという。研(硯)屏は硯の向こうに立てる物、筆格は筆をかける物、水滴は小さい水注ぎ、いずれも文房具で色々凝れば文房生活の趣味を助けるであろう。古翰墨真蹟は書の真蹟であり、古今石刻は碑帖の拓本であり、それらと古画との鑑賞は文房生活の趣味を深くするものである。
その他、④の怪石については、庭園もしくは室内に怪石を置いて賞玩することはつとに行われて、唐の李徳裕が平泉別墅(しょ)に怪石を集めたのはその著名な例であるが、盛行し始めたのは宋代以来のことらしく、米芾の怪石に対する熱狂ぶりは特に有名であるが、蘇東坡も石を好んだという(「漁陽公石譜」)。
この書は実に宋代における文房趣味の総論ともいうべきであると青木はみなしている。文房趣味の体系は宋代で骨格ができあがったので、元明二代はそれを整備し、特に明の中期以後これを完成したようだ。明代にはこの趣味を通論した著述が幾つも現われており、それらは宋代の同類の書に比べると量は増し、内容は詳備している。主なものは明初曹昭の原著、王佐増補の「新増格古要論」13巻がある。およそ古銅器、古画、古墨蹟、古碑法帖、古琴、古硯など13門に分類して、古今の器具の真贋優劣などを詳論したもので、宋代の「洞天清禄集」の亜流である。その内容も骨董趣味が一層加わって、むしろ古玩趣味ともいうべきものになってきたそうだ。
なおこの系統に属するものに明の末葉万暦年間、張応文の「清秘蔵」2巻がある。その論述の範囲は「格古要論」よりもやや広いが、同様に鑑賞の論が主となっている。
さてこの類と趣を異にし、主として文房の生活を享楽することを論ずる一派があり、これこそ文房趣味の正統といえると青木はいう。その端を開くものは万暦年間、高濂の「遵生八牋(じゅんせいはっせん)」19巻がある。もっともこの書の大部分は道教の養生法が説かれてあるが、八牋中の「起居安楽牋」2巻、「燕間清賞牋」2巻および「飲饌服食牋」の一部分のみが文房清供の論である。
その「起居安楽牋」は文房生活に必用なる器具や設備を論じたもので、「燕間清賞牋」は文具書画骨董の鑑賞論である。これらの論は前人の説を抜粋したものも少なくないであろうが、範囲は広く論述も詳しく、斯道の名著であると青木はみている。この著を利用して、文房清供の通論を編した専著が、屠隆の著と題する「考槃余事」4巻である。屠隆の名に仮託した疑いがあるが、文房趣味のみを択び取って内容は純粋であり、文房清供論の大観を尽くしていて良書であるという。
最後に万暦間における二大墨譜の事を青木は述べている。明末の姜紹書の「韻石斎筆談」にいう「昭代(明)は硯は唐に及ばず、紙は宋に及ばず、筆にしても宣州の兎毫(唐代に有名)には及ばない。ただ墨の道のみは五代の李庭珪や宋の潘谷にも勝っている」。またいう。「明が興ってより新安が独り墨を以て鳴り、他方は之に勝るものは無い」と。
新安とは今の安徽省休寧、歙県あたりを指すので、五代南唐以来この辺が墨の名産地となったのである。
ところで万暦年間歙県に方于魯・程君房、両人の墨工がおり、互いに名誉を争った。はじめ方于魯は詩を作ったりしていたが、程君房に就いて製墨の法を学んで、これを業とするようになった。彼は知名の文人汪道昆と姻戚関係があったので、汪が彼を推称したために急に有名になった。そこで自家製品の図録6巻を「方氏墨譜」と題して出版し、これは甚だ精刻であった。すると程君房も「程氏墨苑」12巻を刊行して妍を競うたが、これは更に精刻であった。両家の譜は優に版画として鑑賞するに足り、今に伝えて好事家に愛玩されている。
それではその墨の優劣はどうかといえば、明末清初の墨を知る者の評がいうことには、方于魯の墨は型や色沢が勝れているばかりであり、程君房のは品質が佳く、いわゆる墨気有りて香気無きものであって、方于魯と反対であるという。
さて、方程二家の後、万暦、崇禎の間に歙県に方瑞生あり、また製墨佳しと称せられ、二家に傚うて「墨海」10巻を編刊した。これは自家製墨の図のみならず、その第4巻に所蔵所見の明代諸家の墨式図を載せているので参考になる。
墨の愛玩の流行に従い、製墨も漸く磨る墨から眺める墨に進展し、遂に図譜の刊行をさえ見るにいたったと青木は説明している(青木、37頁~40頁)。
別刷附録 趙孟頫 尺牘 与中峯明本
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