≪中村明の文章観について――その著作『名文』より≫
(2021年5月30日)
今回のブログでは、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)をもとに、中村明の文章観について、述べてみたい。
中村明は、どのような文章を名文と捉えているのだろうか。小林秀雄、志賀直哉、谷崎潤一郎、森鷗外、川端康成の文章について、どのように分析し、いかに評したのかを中心に概観してみたい。
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名文 (ちくま学芸文庫)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の構成は、二部に分れる。
著者自ら「はしがき」にも述べているように、第一部「名文論」では、名文の位置づけ、条件、変遷、本質、作法について論じている。
第二部「名文の構造」では、具体的な文章を取りあげ、表現美の言語的分析をとおして、名文性のありかを探りつつ、文体の特質を構造的に明らかにしようとしている。
いわば、第一部が理論で、第二部が実践である。
中村明の名文論は、現実の文章の言語的性格を突きとめ、それとその表現効果との対応を考える一連の実践作業の分析と総合をとおして成立したものであるようだ。つまり、具体的な名文例の文章分析の成果が名文論となった。この名文論が中村明の文章観である。
「はしがき」を、次の文章で結んでいる。
「この本が、文章表現を志す人びとはもちろん、日本の言語と文学に心を寄せる人びと、そして、人間を愛する多くの人びとにさらに広く読まれるなら、著者として望外のしあわせと言うべきだろう」(10頁)
中村が自信をもって執筆した著作が、『名文』という著作である。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、9頁~10頁)
『源氏物語』といえば、古典中の古典であり、しかも難解な古典の代表となっている。通時的に見ると、名文とされた時期が長かったようだが、悪い文章という意味での悪文と見られた時期もあった。明晰で判りやすいのを名文の第一義とするかぎりでは、『源氏物語』は名文とは縁遠いといえるが、その判りにくさは、古語と古典文法とのせいばかりではなく、表現法の問題が大きくかかわっているという議論がある。もし『源氏物語』の文章に、文を短く切り、主語を補い、会話をカギに入れるという三段の加工を施せば、現代語に訳さなくても、それだけで明晰さと判りやすさが大幅に増すという見方もあるようだ。
ともあれ、明晰で判りやすい文章にするには、まず一つ一つの文を短くすることが効果的である。このことを、司馬遼太郎は「一台の荷車には一個だけ荷物を積め」と表現している。つまり、一つの文には一つの情報だけを盛れと勧めている(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、41頁)。
また、中村明は、夏目漱石の『草枕』(明治39年)を引用して、その文章が言語的に見てどういう性格を持っているかを検討している。
『明暗』に収斂していく重い文章に比べて、『草枕』は、そういう翳がほとんど見えないという。文章の調子は硬い文章体でも軟らかい口話体でもなく、実際の会話ではほとんど起こりえない特殊な話しことば体であるという。『草枕』の文章は、「その調子の高さが少し気になるが、やはり美しい文章である」と評している。
また、文の長さの点では、現代日本の小説文章は文の長さが平均40字といわれるが、それに比べると『草枕』に見える雲雀の声の叙述は、非常に短い文の連鎖である。そして反復構造の文がリズム感を支えているという。
「雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない」という空想が記されているが、作中の「余」はともかくも、作者の漱石が本気で信じていたはずはないが、「この文章の魅力は、なによりも、ひばりが雲にあくがれて死ぬという発想のロマンティシズムをひとつの自然状況の中で形象化した点にある」と中村は考えている(中村、1993年、99頁~106頁)。
また中村は鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)を「堂堂たる文章である」と評している。品格とも格調ともいえ、この文章にはスケールの大きさがあるという。
その一つの理由は、使用する語句や言いまわしに見られる正式性志向のせいであるとみる。また対句的表現を多用し、その形態美を兼ねた硬い力感を張っていると分析している。
そして接続詞は極度に少なく、空車を送る場面の描写には、19個の文からなる文全体の中にわずか2例を数えるのみで、2つとも「そして」で文展開をしている。このことは、その文章が論より感動で成り立っていることと対応していると説く。
そして、空車について、作者の個人的な感情を交えないで書いているために、文章がべたつかず、それが鷗外の文章の冷たさであり、品格なのであると中村は解説している。
また三島由紀夫が『寒山拾得』の「水が来た」という一句に注目してそこに強さと明朗さがあるとして絶賛した点にも言及している(中村、1993年、117頁~124頁)。
文章の判りやすさは、短い文であり簡潔な表現だと考えても、小林秀雄は例外かもしれない。よけいな修飾を加えず、文章を削ることだとしても、中村は小林秀雄がよく削る文章家であることを実感として知っていたようだ。
「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ。しかし、人にはそれぞれのスタイルがある。やはり名文家のひとりである永井龍男は逆に推敲段階では書き足すほうが多いという(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)。
小林秀雄にしても、活字になった文章をあれ以上削ってさらに名文としてのすごみを増すとは思えない。小林秀雄が削りまくった最終原稿と永井龍男が加筆した最終原稿とは、思考と表現とのバランスが同じ段階に達しているのではなかろうかという。つまり、そこに至る過程こそ違え、どちらもその段階でちょうど調和がとれているのではないかとする(中村、1993年、46頁、90頁)。
中村は、実際にも活字になるまでよく削る小林のすごさを実感していたらしく、小林を名文家と信じて疑わない立場で、その小林の文章はよく削られた文章で、もし活字になった文章をあれ以上削ったら、名文としてのすごみが減じることになるのではないかと考えていることがわかる。簡潔な文章がすなわち判りやすい文章だとは必ずしも言えず、また簡潔であれば明晰であるとも限らない。むしろ逆な場合もある。
中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、小林秀雄の文章をどのように捉えているのか。
具体的に抜粋してみよう。
〇「一文一文に過重の意味をこめて人をとまどわせ、結局は心酔させてしまう」個性的な文章(28頁)
〇「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ」(46頁)
〇かつて、永井龍男は、名文の話をしながら、志賀直哉に、小林秀雄、それに梶井基次郎、堀辰雄、そして井上靖の名をあげたと、中村明は述べている(63頁)。
このように、中村明、そして永井龍男は、小林秀雄の文章を名文と捉えていたことがわかる。
但し、中村明は付言している。名文と騒がれる文章ほど、その評価の維持が難しい。強い個性が表層に目だつ小林秀雄の文章も、そのために危険であるとする。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、64頁~65頁)
一方、小林秀雄にとって名文とは何か。かつて小林は、永井荷風『濹東綺譚』、志賀直哉『暗夜行路』、川端康成『雪国』、瀧井孝作『積雪』とあげてきて、さてどれが名文かとなると、「まず勝手にしやがれ」ということになってしまうと述べた。
(小林秀雄「現代文章論」伊藤整編『文章読本』河出書房、1956年所収、中村、1993年、63頁、88頁を参照のこと)
中村明は、中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の第二部「名文の構造――文体に迫る表現美の分析――」において、国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』といった具合に、50人の作家の50作品を分析している。
その中で、28番目に小林秀雄の『ゴッホの手紙』(昭和26-27年)を取り上げている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)
小林の『ゴッホの手紙』の手紙部分は、特殊な調子で書かれているという。
対話調だが、実際にこういう調子でしゃべることは絶対にありえないと思われるほどの人工的な調子で手紙は綴られている。
例えば、
「僕等を幽閉し、監禁し、埋葬さえしようとするものが何であるかを、僕等は、必ずしも言う事が出来ない、併しだ、にも係らずだ、僕等は、はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と。」
この文について、「幽閉し、監禁し、」という連用形の中止法がその例である。
いわゆる連用中止は書きことばである。次の「……ものが何であるかを」をいう「デアル」の調子も同様である。
また、「併しだ、にも係らずだ」などはいかにも対話口調に見えるが、こういう連続は、現実の対話ではあまり起こらない。
その次のいわゆる倒置構文「はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と」など、いかにも作られた対話形式という感じである。
倒置表現そのものは現実の会話でいくらも現れるし、むしろ会話的でさえあるのだが、このようにはっきりと、引用の「と」で文を終止することは日常会話では、ほとんど起こらない。
次に、この小林秀雄という批評家の文章に、特徴的に現れる「ヌ」止めの文について、中村は指摘している。
例えば、「僕はそうは思わぬ」と小林は記す。これは「思わない」として終わる場合と比べ、現在では、書きことば的な調子が認められる。
さらに、「ああ、これは長い事なのか」といった詠嘆的な調子も、実際の発話に現れにくい。
また、「何がこの監禁から人を解放するか」といったいわゆる翻訳調も、会話で使ったら、相当気どった感じになる。実際には避ける。そして「幽閉」とか「訝る」といったような硬いことばを、一般の人が普通の対話では口にしないはずである。
このように、ゴッホの手紙文の言語的な性格を検討してみると、現実には起こりえない対話調であることが判るという。それは、地の文と同じである。どれもまさに小林秀雄の文章である。
こういう独特の文調が、そこで語られる人生論に躍動感を与えているともみられる。
さて、その地の文で、小林は次のように記す。
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない、それは何かしらもっと大変難しい事だ、とゴッホは、吃り吃り言う。これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。ある普遍的なものが、彼を脅迫しているのであって、告白すべきある個性的なものが問題だった事はない。或る恐ろしい巨なものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。だが、これも亦彼独特のやり方という様なものではない。誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである。」
いきなり「理想を抱くとは……」という定義文が現れる。
それは「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」といった否定形式の述語で展開する。定義形式で開かれた文章は、読者を突然その思考世界に誘い入れる効果があるようだ。
そして、すぐ反復否定が現れる。
「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」と一度打ち消したあと、「決してそんな事ではない」と強く念を押す。
強調的に駄目を押す、こういう文展開は、この小林という批評家の多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞である。しかし、小林は恐れずに用いる。そして、ほとんどつねに人はそこで眼を開く。
それは、このような漸層的な否定だけでなく、いろいろな形で現れる。
例えば、『モオツァルト』には、次のような極端な二極的発想が出てくる。
「モオツァルトの音楽に夢中になっていたあの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいる事になる。どちらかである。」
また、『川端康成』には、次のようにある。
「川端康成の小説の冷い理智とか美しい抒情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、『化かされた阿呆』である。川端康成は、小説なぞ一つも書いていない。」
これは、「小説」という用語を世間の慣用からずらして正当に使用することによって、川端文学の性格を暴いた好論であると、中村は評している。
さらに、『当麻』で、世阿弥の美論に言及した際の表現も、人を立ち止まらせる。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
これは、「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものらしい。
類似表現の差を絶対視する、こういう表現も、一種の極言とみられる。
人を驚かす内容にふさわしい形式である。ただ、この小林という批評家がこういう方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されると、中村はみる。つまり、強調すべき点の見定めに、この批評家は天才的な冴えを示すと、評価している。
先の引用部分から、類例を追加しておこう。
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない」
この部分は、反復否定である。
二度目には、「絶えて……ない」という形で強調した漸層的な否定連続をなしている。すぐ前の「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない」の部分とほとんど同一形式と見られる。
つまり、この段落の冒頭から、「……事ではない、決してそんな事ではない」と始まり、「とゴッホは吃り吃り言う」を挟んで、また、「……という様なものではない。その様なものは、……絶えて現れて来ない」と、強調的な否定の連続する展開となっている。
これは、紛らわしい不要物を切り捨てることによって、核心に迫る論法のせいである。それと同時に、その論調の激しさを示していると、中村は解説している。
この小林という批評家の話は、雑談にもある広義の教訓がこもっていて、ずしりと重い。文章もそのとおりである。
例えば、「とゴッホは吃り吃り言う」と挟んでいる。その「吃り吃り言う」にもみごとな現実感がある。
難解なテーマを抱え、気持ちでは判っているはずなのに、いざ口に出して言おうとすると、ただ否定をくり返すだけで、うまく表現しきれないもどかしさと、それは対応する。
その意味で、「何かしらもっと大変難しい事だ」の特に「何かしら」と呼応していると、中村はみる。
漸層的な連続否定のくり返されたその段落は、次に、「AであってBでない。A’なのである」という分析的な記述に展開する。
すなわち、「ある普遍的なものが、彼を脅迫している」というのがAである。「告白すべきある個性的なものが問題だった」というのがBにあたる。
「或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語る」というのが、A’に相当する。
この文展開も「……だった事はない」という強い否定をばねとしている。
全体的にも、次の逆接の接続詞「だが」を介して、「これも亦彼独特のやり方という様なものではない」と、否定的に展開する。
そして、次の文も、表現態度としては、ゴッホを肯定しながら、「誰もそういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」という否定的な表現をとる。
こういう否定のエネルギーが集積し、論はますます先鋭化する。
ただ、鋭くなっても、つねに普遍を志向して一般化することに、中村は注目している。
「ゴッホの個性的着想という様なものではない」といい、「彼独特のやり方という様なものではない」といい、「誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」とかぶせるところに、個性的な問題をも普遍的なものとして一般化して考える、この批評家の志向が見えると、中村は解説している。
そして、「『それは、深い真面目な愛だ』と彼が言うのは、愛の説教に関する失格者としてである」と小林は記す。
この箇所は、人の気づかぬ深層の真理をえぐり、それを逆説風に語ったものかもしれないと、中村は推察している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)
小林秀雄は志賀直哉を尊敬したといわれる。
中村明は、志賀直哉の文章について、次のように述べている。
「近代の名文というと、多くの社会人がまっさきに思い浮かべるのは志賀直哉の文章であろう。それは、小林秀雄が言うように「見たものを見たっていうふうな率直な文章」(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)なのだが、それまでの飾りだらけの文章にいやけのさした人たちの眼にはきわめて新鮮に映ったにちがいない。そして、ついには文章の神様と崇められ、その文章を原稿用紙にそのまま書き写すことが最も有効な文章修業だとまで言われた。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)
そして、志賀とはむしろ対蹠的な文体で知られる谷崎潤一郎でさえ、かつてのベストセラーであるその『文章読本』の中で、『城の崎にて』を例にとって、志賀の文章を絶賛した。
だから、「……静かだった。……淋しかった」という『城の崎にて』の文章が名文の見本として教科書にも採られた。
ただ、あの文章は、実に判りにくいという批判があるようだ。文は判りやすいが、文章は判りにくいというのは事実だろうと、中村も付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)
中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(昭和8-9年)の文章を分析している。
谷崎は『陰翳礼讃』に、次のように記す。
「元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにああ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまで辿りついた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。(後略)」
谷崎のこの文章に対して、森鷗外、志賀直哉、井伏鱒二の文章と比較して、中村明は次のように評している。
「森鷗外の作品に見る知性的な格調というようなものはない。志賀直哉のある種の文章のような緊迫した簡素美があるわけでもない。かといって、井伏鱒二流の円い文体をそこに見ることもできない。それらとは明らかに異質であるが、この文章にやはり私は誘われる。何に誘われるのだろうか。」
この中村の表現は、小林秀雄の文章を思わせるような否定の反復がまず来ているのも面白い。つまり、森鷗外の文章のように、知性的な格調もなく、志賀直哉のそれのように緊迫した簡素美もなく、井伏鱒二流の円い文体もないという。最後に「この文章にやはり私は誘われる」と肯定している。
さて、中村は、谷崎潤一郎の文章が持っている言語的な性格について説明している。
まず、文の長さに着目している。
谷崎潤一郎の文章は一般に文が長い。つまり長文型である。
波多野完治は文体論を研究して、谷崎潤一郎と志賀直哉を対比的に捉え、鮮やかに解析した。それ以来、この事実は広く知られることとなった。
この『陰翳礼讃』も、その点、例外ではない。
先に引用した文章について、その一文あたりの平均字数は、80から90ほどである。
一般に、近代・現代の小説文章の平均文長は40字ほどであるといわれる。だから、この文章は、その2倍かそれ以上の長さだということになる。つまり、平均すれば文が非常に長いという結果になる。
短い文が集まると、極端な場合は痙攣的な文章になるが、長い文が集まった場合は、概してゆったりしたリズムが感じられる。この文章にも、大きなうねりを思わせるところがある。その一因は、この長文を基調とした文章の流れにある。
次に、この文章には、独特な一種の気品が感じられると、中村はみる。
過ぎ去ったものへの郷愁、懐かしいがやや古風な感じがあるそうだ。この点、谷崎流の用語の選定がかかわっている。
例えば、「その名の示す如く」というのは、「その名の示すように」より、改まった感じで、やや古めかしい。「いつしか」も、「いつか」や「いつのまにか」に比べて、やや古風で気どった感じがする。
また、この文章には、和風の語句が多く使われている。谷崎潤一郎が和文調の文章を綴ったことは有名な事実である。この『陰翳礼讃』も例外ではない。
ただ、和語を基調とした文章中に適量の漢語が散らばって、流れてしまいそうな文調を適度にひきしめている。
和文調とはいっても、やはり近代の散文なのである。「ひかり」とせずに「光線」とし、「日ざし」とせずに「陽光」としているのは、その例である。
このような用語法が効いて、文章の品格が保たれているとする。古風な言いまわし、やや硬い漢語は、読者との間に一種の距離感を生み出している。
度を越せばなじみにくい文章になるが、この文章には、そういう感じはない。むしろ親しみやすいという印象さえ受ける。
それはなぜかと、中村は問いかけている。
その用語法から来る距離感を、逆に縮める働きをする表現が見出される点を指摘している。
例えば、「ああ云う窓」という言い方である。一般に、「ああいう」ということばは、聞き手が話し手と同一の対象を思い描くことを期待して話し手の発するものである。つまり、話し手が聞き手を意識して発することばである。
「あのような」とせずに、「ああ云う」という言語形式を選び取ったというだけのことではないらしい。そういう言い方をすること自体から、作者と読者との連帯感、読者と膝を交えて話しているような親密感が生じるという。
そして、なんといっても、この文章の魅力は、通常なにげなく見すごしやすいところに思いを馳せ、ひとつの真実をつかんだ、という点にあると、中村は捉えている。
つまり、新しい発見が言語化され、かなりの説得力を持って伝わってくるというところに、中村は深く惹かれている。
その重要な発見は、明り取りの機能と効果にかかわるものである。床の間の明り取りというのは、「明り」を「取る」というよりも、逆に、取った明りを障子で濾して弱めるほうにその本領がある、と見る。
それによって実現する逆光線が、「寒々とした、わばしい色」をしていると見る。その光は「もはや物を照らし出す力」がないという。
ものを照らし出す力のない光というようなものを、一般には意識しないだろう。しかし、この文章によって、よく判ることになる。
谷崎潤一郎は、『陰翳礼讃』で、次のように記す。
「或は又、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。」
幽明の境に漂う光に、「悠久」に対する一種の怖れを嗅ぎとった。その感覚の深みに、中村は感銘をうけたようだ。薄暗さが恐怖を引き起こすのはあたりまえだが、それを「悠久」に対する怖れと捉えたところに、最も感動的な発見があったとみる。
以上のように、この文章のいわば名文性のありかは、多様である。なかでも、あの薄明に悠久への怖れを見出す思考が最も鮮烈に中村に働きかけたという。それがなかったら、この文章に対する感銘はかなり浅いところでとどまったと付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、174頁~180頁)
かつて修辞学の主要な任務であった名文論は、今でも広義のレトリックを絡めながら、そこに文体論が大きく関与することになる。その意味で、中野重治が書いている話は示唆的であると、中村明はみている。
(中野重治「名文とはどういうものか」創作講座Ⅳ『文章の書き方・味わい方』思潮社、1956年所収)
将棋的な文章と囲碁的な文章とがあるという。
「将棋における敵将に迫る気合は素描法であり、碁の布石は一つの盤を如何に大きく使うかのコンポジションである」という中川一政のことばを引き、そういう中川自身の文章は将棋的であり、中野自らは囲碁的な文章を心がけていると書いている。
将棋的な文章のように、デッサンだけで済ませることはできないということである。
中村明はこれを読んで、いつか永井龍男が、古今亭志ん生は随筆的で、桂文楽は小説的だと書いていた(「世間雑記」)のを思い出したと述べている。
文楽は台本がきっちりできていて登場人物の性格や舞台装置をすっかり飲みこんだ上で噺をするが、志ん生のほうは台本というより、そのときの気分でかってに進行してしまうという。つまり、後者は何を演(や)っても主人公はみんな志ん生になっているそうだ。
(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)
このように、個性を離れて文章について論じたところで始まらず、名文論も同様だと中村は主張している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、67頁)
中村明は名文=透明説という文章観についても解説している。つまり、名文は、それを読んでいるときにそこに文章があるということを忘れている、という見方である。
これは長い間にわたって広く支持された説であったようだ。今では言語=道具観の衰退に伴い、一時ほどの勢力は失われたがまだ生き残っている。
古くは小島政二郎が次のように主張した。
「今現に読んでいる文章の姿が意識から消えて(旨いまずいが気にならぬ)、しかも描かれている対象が生き生き浮かぶ」という。
(小島政二郎「徳田秋声の文章」『日本現代文章講座』<鑑賞編>、厚生閣、1935年所収)
また、川端康成も、この名文=透明説と同じ方向だとする。
川端は、志賀直哉の『城の崎にて』を例に出して、作者から独立しているこういう文章こそ名文だとした。
(川端康成『新文章読本』あかね書房、1950年)
【川端康成の『文章読本』はこちらから】
新文章読本
そして、川端は徳田秋声の『爛』の冒頭を例にとって、それを読んでいく読者はそこに作者の個性を感じないで直ちにその小説世界に引き入れられるとした。
(川端康成『小説の構成』三笠書房、1941年)
この問題に関しては、日本の近代的な文体論を拓いた二人の功績者の間で、論争があったそうだ。すなわち、小林英夫と波多野完治の二人である。
まず、小林英夫は、媒体である言語というものが完全に克服されていて、読者が文章を読んでいるという意識を起こさないのが名文だと述べた。
(小林英夫『文体雑記』三省堂、1942年)
これに対して、波多野は疑いを感じた。
波多野は、逆に、あるひとつの事柄がまさに文章をとおして語られているという意識で読まれることこそ名文の資格だと反論した。
(波多野完治『文章心理学入門』新潮社、1953年)
そこに文学は言語そのものだという意識が明確に顕れてはいないが、少なくとも言語=道具説から半歩踏み出したとは言える。
小林は、波多野の主張を半ば受け入れ、文学作品のようないわゆる芸術文は波多野説、手紙や日記、あるいは報告や広告などのいわゆる実用文は小林説という形で、妥協的に処理した。そのため、本格的な論争には発展しなかった。
この点に、中村明はコメントしている。
言語表現においても、いわゆる実用文と芸術文とは、少なくともその言語的性格は連続的である。とするなら、このような妥協はおかしいという。
つまり、人を動かすのはその文章の運ぶ論理的な情報だけではなく、どこまで意識しようと、人は文章そのものに感動している。
(あるいは、文章をとおしてしか、その感動はやって来ないともいえる)
名文の真価は文章に漂う雰囲気と、そこから生ずる感動の質にあるのだから、文章が透明であるかどうかという条件自体が、どだい二次的な問題にすぎないと、中村はいう。
ただ、名文=透明説は、明晰で判りやすい文章が切望された、あの異常な状況を考えると、生まれるべくして生まれたとも付言している。
そして波多野の反論は、そういった過熱した欲求が収まった後の、文学にとって言語とは何かを問いうる状況の中でおこなわれた、という背景を考えてみれば、これも自然に生まれたと、中村はみている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、59頁~60頁、88頁)
三島は、鷗外の品格ある文章を絶賛した。例えば、森鷗外の『寒山拾得』には、次のような一節がある。
「閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。
水が来た。
僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見詰めた。」
「水が来た」の一句が利いている。
三島は、下手な作家なら、次のようにでも書くとする。
「しばらくたつうちに小女は、赤い胸高の帯を長い長い廊下の遠くからくっきりと目に見せて、小女らしくパタパタと足音をたてながら、目八分に捧げた鉢に汲みたての水をもって歩いてきた。その水は小女の胸元でチラチラとゆれて、庭の緑をキラキラと反射させていたであろう」と。
そこを、ただひと言「水が来た」で済ませたところに、強さと明朗さがあるとして、三島は絶賛した。
なお、村松定孝も、よけいな説明を加えないところに非凡さがあると説く。ふつうなら、「小女が水を鉢を入れて運んできた」とか「静かにおそるおそるこぼれないようにかかえて歩をすすめた」とするところである。
中村明は、鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)の中の「大股に行く」という一句に同じ意味での非凡さがあるとする。「歩いて行く」とか「闊歩する」とかとさえせずに、ただ「行く」の一語にとどめている。
素朴な力強さは、作者の表現態度から出てくるというのである。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、123頁~124頁)
川端の描き出す女性には、どこか超現実的なところがあるといわれる。
この作品『千羽鶴』(昭和24-26年)に登場するどの人物にも、肉感的でありながら、なにかを背負っているような、不思議な不安定さがある。
小説では、脇役ほど現実の姿を呈しやすいとされる。
この作品では、ヒロインたちを対比的に光らせる役を担う茶の師匠栗本ちか子がそれにあたるようだ。(しかし、ある種の非現実性もある)
千羽鶴の風呂敷が過重の意味を持って作品に飛翔する、背景としての稲村の令嬢ゆき子もそうである。太田夫人に至っては、なおさらである。「人間ではない女」「人間以前の女」「人間の最後の女」としての妖気を漂わせている。文子はその娘である。
川端『千羽鶴』の文章の言語的性格について、中村明は考えている。
第一に、漢語が少なく和語が多いという。それが文章の軟らかさに結びついている。
やや硬い感じの漢語としては、「均衡」や「秘術」、「背後」ぐらいである。また、軟らかい印象は、和語が多いというだけでなく、いかにも軟らかさを感じさせる特定のこどばが用いられている。
「いざり寄る」「倒れかかる」「伸び切る」のような和語の複合動詞、「けはい」のような軟質の語がその例であるとする。さらに、「しなやか」「やわらか」という語がくり返され、有効に働いている。
第二に、擬声語・擬態語が目につく。
数が多いというのではなく、あるひとつの動きを描写したクライマックスの部分に、集中的に現れる。例えば、
「文子がぐらっとのしかかって来るけはいで、きゅっと体を固くした菊治は、文子の意外なしなやかさに、あっと声を立てそうだった。」
こういうオノマトペによる伝達は感覚的にしかできないが、そのためにかえって深く伝わる場合があるようだ。
「ぐらっ」とか「きゅっ」とかいう擬態語、「あっ」という擬声語は独創的なものではないが、この描写部分の形象性を高める働きをしていると、中村はみている。
この川端という作家は、まるで閃いては記すように、しきりに行を替えるのが特徴的である。短い一文が切れると、もう行が替わって別の段落に移る。そうすることによって、文間に断絶感が生まれる。『山の音』の信吾が不気味な“山の音”を聞く場面がその典型である。
『千羽鶴』でも、「菊治はとっさに手をうしろへかくした」から「はずみで文子は菊治の膝に左手を突いた」に移行する際に改行している。切れたというよりは切った感じが残っている。意味だけから言えば、「うしろへかくした」と「はずみで」との間は切れないのが普通である。
そこを切るのはほかの要因が働いたためであろうと中村はいう。
形態的に切ることによって、切れるはずのないものが切れてしまう、一種の空隙づくりの効果を狙ったものとする。
だいたい、この作家の文章展開は、対象の側の論理ではなく、素材の側の先後関係でもなく、視点人物の認識機構に合わせておこなわれるようだ。この作家は何人称で書こうと、視点が固定されないのが特徴であるとされる。
『千羽鶴』には、身をかわした文子について、「あり得べからざるしなやかさ」「女の本能の秘術」といった表現がある。つまり、女にこの世のものとは思えない一面を想定し、作家自らも驚こうとしている。少年期から川端作品の基調をなしてきた“驚異への憧憬”が、この作品にも鮮明に表われていると、中村は鑑賞している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、241頁~248頁)
(2021年5月30日)
【はじめに】
今回のブログでは、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)をもとに、中村明の文章観について、述べてみたい。
中村明は、どのような文章を名文と捉えているのだろうか。小林秀雄、志賀直哉、谷崎潤一郎、森鷗外、川端康成の文章について、どのように分析し、いかに評したのかを中心に概観してみたい。
【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】
名文 (ちくま学芸文庫)
中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の目次は次のようになっている。
【目次】
はしがき
一 名文論
1名文の位置づけ
2名文の条件
3移りゆく名文像
4名文とは何か
5名文作法
二 名文の構造
1~50まで国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』など50人の作家の50作品を分析
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・中村明『名文』という本
・中村明による名文の捉え方
・小林秀雄の文章に対する中村明の評価
・小林の『ゴッホの手紙』の中村明による分析
・志賀直哉の文章
・谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 に対する中村明の分析
・将棋的な文章と囲碁的な文章
・名文=透明説について
・鷗外の品格ある文章を絶賛した三島由紀夫
・川端康成『千羽鶴』についての中村明の鑑賞
中村明『名文』という本
中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の構成は、二部に分れる。
著者自ら「はしがき」にも述べているように、第一部「名文論」では、名文の位置づけ、条件、変遷、本質、作法について論じている。
第二部「名文の構造」では、具体的な文章を取りあげ、表現美の言語的分析をとおして、名文性のありかを探りつつ、文体の特質を構造的に明らかにしようとしている。
いわば、第一部が理論で、第二部が実践である。
中村明の名文論は、現実の文章の言語的性格を突きとめ、それとその表現効果との対応を考える一連の実践作業の分析と総合をとおして成立したものであるようだ。つまり、具体的な名文例の文章分析の成果が名文論となった。この名文論が中村明の文章観である。
「はしがき」を、次の文章で結んでいる。
「この本が、文章表現を志す人びとはもちろん、日本の言語と文学に心を寄せる人びと、そして、人間を愛する多くの人びとにさらに広く読まれるなら、著者として望外のしあわせと言うべきだろう」(10頁)
中村が自信をもって執筆した著作が、『名文』という著作である。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、9頁~10頁)
中村明による名文の捉え方
『源氏物語』といえば、古典中の古典であり、しかも難解な古典の代表となっている。通時的に見ると、名文とされた時期が長かったようだが、悪い文章という意味での悪文と見られた時期もあった。明晰で判りやすいのを名文の第一義とするかぎりでは、『源氏物語』は名文とは縁遠いといえるが、その判りにくさは、古語と古典文法とのせいばかりではなく、表現法の問題が大きくかかわっているという議論がある。もし『源氏物語』の文章に、文を短く切り、主語を補い、会話をカギに入れるという三段の加工を施せば、現代語に訳さなくても、それだけで明晰さと判りやすさが大幅に増すという見方もあるようだ。
ともあれ、明晰で判りやすい文章にするには、まず一つ一つの文を短くすることが効果的である。このことを、司馬遼太郎は「一台の荷車には一個だけ荷物を積め」と表現している。つまり、一つの文には一つの情報だけを盛れと勧めている(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、41頁)。
また、中村明は、夏目漱石の『草枕』(明治39年)を引用して、その文章が言語的に見てどういう性格を持っているかを検討している。
『明暗』に収斂していく重い文章に比べて、『草枕』は、そういう翳がほとんど見えないという。文章の調子は硬い文章体でも軟らかい口話体でもなく、実際の会話ではほとんど起こりえない特殊な話しことば体であるという。『草枕』の文章は、「その調子の高さが少し気になるが、やはり美しい文章である」と評している。
また、文の長さの点では、現代日本の小説文章は文の長さが平均40字といわれるが、それに比べると『草枕』に見える雲雀の声の叙述は、非常に短い文の連鎖である。そして反復構造の文がリズム感を支えているという。
「雲雀は屹度雲の中で死ぬに相違ない」という空想が記されているが、作中の「余」はともかくも、作者の漱石が本気で信じていたはずはないが、「この文章の魅力は、なによりも、ひばりが雲にあくがれて死ぬという発想のロマンティシズムをひとつの自然状況の中で形象化した点にある」と中村は考えている(中村、1993年、99頁~106頁)。
また中村は鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)を「堂堂たる文章である」と評している。品格とも格調ともいえ、この文章にはスケールの大きさがあるという。
その一つの理由は、使用する語句や言いまわしに見られる正式性志向のせいであるとみる。また対句的表現を多用し、その形態美を兼ねた硬い力感を張っていると分析している。
そして接続詞は極度に少なく、空車を送る場面の描写には、19個の文からなる文全体の中にわずか2例を数えるのみで、2つとも「そして」で文展開をしている。このことは、その文章が論より感動で成り立っていることと対応していると説く。
そして、空車について、作者の個人的な感情を交えないで書いているために、文章がべたつかず、それが鷗外の文章の冷たさであり、品格なのであると中村は解説している。
また三島由紀夫が『寒山拾得』の「水が来た」という一句に注目してそこに強さと明朗さがあるとして絶賛した点にも言及している(中村、1993年、117頁~124頁)。
文章の判りやすさは、短い文であり簡潔な表現だと考えても、小林秀雄は例外かもしれない。よけいな修飾を加えず、文章を削ることだとしても、中村は小林秀雄がよく削る文章家であることを実感として知っていたようだ。
「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ。しかし、人にはそれぞれのスタイルがある。やはり名文家のひとりである永井龍男は逆に推敲段階では書き足すほうが多いという(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)。
小林秀雄にしても、活字になった文章をあれ以上削ってさらに名文としてのすごみを増すとは思えない。小林秀雄が削りまくった最終原稿と永井龍男が加筆した最終原稿とは、思考と表現とのバランスが同じ段階に達しているのではなかろうかという。つまり、そこに至る過程こそ違え、どちらもその段階でちょうど調和がとれているのではないかとする(中村、1993年、46頁、90頁)。
中村は、実際にも活字になるまでよく削る小林のすごさを実感していたらしく、小林を名文家と信じて疑わない立場で、その小林の文章はよく削られた文章で、もし活字になった文章をあれ以上削ったら、名文としてのすごみが減じることになるのではないかと考えていることがわかる。簡潔な文章がすなわち判りやすい文章だとは必ずしも言えず、また簡潔であれば明晰であるとも限らない。むしろ逆な場合もある。
小林秀雄の文章に対する中村明の評価
中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、小林秀雄の文章をどのように捉えているのか。
具体的に抜粋してみよう。
〇「一文一文に過重の意味をこめて人をとまどわせ、結局は心酔させてしまう」個性的な文章(28頁)
〇「事実、名文家のひとりである小林秀雄は呆れるほどよく削る。インタビューをし、その話が活字になるまでの過程を知っている私には、その削るすごさが実感として痛烈に判るのだ」(46頁)
〇かつて、永井龍男は、名文の話をしながら、志賀直哉に、小林秀雄、それに梶井基次郎、堀辰雄、そして井上靖の名をあげたと、中村明は述べている(63頁)。
このように、中村明、そして永井龍男は、小林秀雄の文章を名文と捉えていたことがわかる。
但し、中村明は付言している。名文と騒がれる文章ほど、その評価の維持が難しい。強い個性が表層に目だつ小林秀雄の文章も、そのために危険であるとする。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、64頁~65頁)
一方、小林秀雄にとって名文とは何か。かつて小林は、永井荷風『濹東綺譚』、志賀直哉『暗夜行路』、川端康成『雪国』、瀧井孝作『積雪』とあげてきて、さてどれが名文かとなると、「まず勝手にしやがれ」ということになってしまうと述べた。
(小林秀雄「現代文章論」伊藤整編『文章読本』河出書房、1956年所収、中村、1993年、63頁、88頁を参照のこと)
小林の『ゴッホの手紙』の中村明による分析
中村明は、中村明『名文』(ちくま学芸文庫)の第二部「名文の構造――文体に迫る表現美の分析――」において、国木田独歩『武蔵野』、夏目漱石『草枕』、正宗白鳥『何処へ』といった具合に、50人の作家の50作品を分析している。
その中で、28番目に小林秀雄の『ゴッホの手紙』(昭和26-27年)を取り上げている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)
小林の『ゴッホの手紙』の手紙部分は、特殊な調子で書かれているという。
対話調だが、実際にこういう調子でしゃべることは絶対にありえないと思われるほどの人工的な調子で手紙は綴られている。
例えば、
「僕等を幽閉し、監禁し、埋葬さえしようとするものが何であるかを、僕等は、必ずしも言う事が出来ない、併しだ、にも係らずだ、僕等は、はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と。」
この文について、「幽閉し、監禁し、」という連用形の中止法がその例である。
いわゆる連用中止は書きことばである。次の「……ものが何であるかを」をいう「デアル」の調子も同様である。
また、「併しだ、にも係らずだ」などはいかにも対話口調に見えるが、こういう連続は、現実の対話ではあまり起こらない。
その次のいわゆる倒置構文「はっきり感じている、何かしら或る柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と」など、いかにも作られた対話形式という感じである。
倒置表現そのものは現実の会話でいくらも現れるし、むしろ会話的でさえあるのだが、このようにはっきりと、引用の「と」で文を終止することは日常会話では、ほとんど起こらない。
次に、この小林秀雄という批評家の文章に、特徴的に現れる「ヌ」止めの文について、中村は指摘している。
例えば、「僕はそうは思わぬ」と小林は記す。これは「思わない」として終わる場合と比べ、現在では、書きことば的な調子が認められる。
さらに、「ああ、これは長い事なのか」といった詠嘆的な調子も、実際の発話に現れにくい。
また、「何がこの監禁から人を解放するか」といったいわゆる翻訳調も、会話で使ったら、相当気どった感じになる。実際には避ける。そして「幽閉」とか「訝る」といったような硬いことばを、一般の人が普通の対話では口にしないはずである。
このように、ゴッホの手紙文の言語的な性格を検討してみると、現実には起こりえない対話調であることが判るという。それは、地の文と同じである。どれもまさに小林秀雄の文章である。
こういう独特の文調が、そこで語られる人生論に躍動感を与えているともみられる。
さて、その地の文で、小林は次のように記す。
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない、それは何かしらもっと大変難しい事だ、とゴッホは、吃り吃り言う。これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。ある普遍的なものが、彼を脅迫しているのであって、告白すべきある個性的なものが問題だった事はない。或る恐ろしい巨なものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。だが、これも亦彼独特のやり方という様なものではない。誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである。」
いきなり「理想を抱くとは……」という定義文が現れる。
それは「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」といった否定形式の述語で展開する。定義形式で開かれた文章は、読者を突然その思考世界に誘い入れる効果があるようだ。
そして、すぐ反復否定が現れる。
「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない」と一度打ち消したあと、「決してそんな事ではない」と強く念を押す。
強調的に駄目を押す、こういう文展開は、この小林という批評家の多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞である。しかし、小林は恐れずに用いる。そして、ほとんどつねに人はそこで眼を開く。
それは、このような漸層的な否定だけでなく、いろいろな形で現れる。
例えば、『モオツァルト』には、次のような極端な二極的発想が出てくる。
「モオツァルトの音楽に夢中になっていたあの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいる事になる。どちらかである。」
また、『川端康成』には、次のようにある。
「川端康成の小説の冷い理智とか美しい抒情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、『化かされた阿呆』である。川端康成は、小説なぞ一つも書いていない。」
これは、「小説」という用語を世間の慣用からずらして正当に使用することによって、川端文学の性格を暴いた好論であると、中村は評している。
さらに、『当麻』で、世阿弥の美論に言及した際の表現も、人を立ち止まらせる。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
これは、「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものらしい。
類似表現の差を絶対視する、こういう表現も、一種の極言とみられる。
人を驚かす内容にふさわしい形式である。ただ、この小林という批評家がこういう方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されると、中村はみる。つまり、強調すべき点の見定めに、この批評家は天才的な冴えを示すと、評価している。
先の引用部分から、類例を追加しておこう。
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない」
この部分は、反復否定である。
二度目には、「絶えて……ない」という形で強調した漸層的な否定連続をなしている。すぐ前の「眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない」の部分とほとんど同一形式と見られる。
つまり、この段落の冒頭から、「……事ではない、決してそんな事ではない」と始まり、「とゴッホは吃り吃り言う」を挟んで、また、「……という様なものではない。その様なものは、……絶えて現れて来ない」と、強調的な否定の連続する展開となっている。
これは、紛らわしい不要物を切り捨てることによって、核心に迫る論法のせいである。それと同時に、その論調の激しさを示していると、中村は解説している。
この小林という批評家の話は、雑談にもある広義の教訓がこもっていて、ずしりと重い。文章もそのとおりである。
例えば、「とゴッホは吃り吃り言う」と挟んでいる。その「吃り吃り言う」にもみごとな現実感がある。
難解なテーマを抱え、気持ちでは判っているはずなのに、いざ口に出して言おうとすると、ただ否定をくり返すだけで、うまく表現しきれないもどかしさと、それは対応する。
その意味で、「何かしらもっと大変難しい事だ」の特に「何かしら」と呼応していると、中村はみる。
漸層的な連続否定のくり返されたその段落は、次に、「AであってBでない。A’なのである」という分析的な記述に展開する。
すなわち、「ある普遍的なものが、彼を脅迫している」というのがAである。「告白すべきある個性的なものが問題だった」というのがBにあたる。
「或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語る」というのが、A’に相当する。
この文展開も「……だった事はない」という強い否定をばねとしている。
全体的にも、次の逆接の接続詞「だが」を介して、「これも亦彼独特のやり方という様なものではない」と、否定的に展開する。
そして、次の文も、表現態度としては、ゴッホを肯定しながら、「誰もそういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」という否定的な表現をとる。
こういう否定のエネルギーが集積し、論はますます先鋭化する。
ただ、鋭くなっても、つねに普遍を志向して一般化することに、中村は注目している。
「ゴッホの個性的着想という様なものではない」といい、「彼独特のやり方という様なものではない」といい、「誰も、そういう具合にしか、美しい真実な告白はなし得ないものなのである」とかぶせるところに、個性的な問題をも普遍的なものとして一般化して考える、この批評家の志向が見えると、中村は解説している。
そして、「『それは、深い真面目な愛だ』と彼が言うのは、愛の説教に関する失格者としてである」と小林は記す。
この箇所は、人の気づかぬ深層の真理をえぐり、それを逆説風に語ったものかもしれないと、中村は推察している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)
志賀直哉の文章
小林秀雄は志賀直哉を尊敬したといわれる。
中村明は、志賀直哉の文章について、次のように述べている。
「近代の名文というと、多くの社会人がまっさきに思い浮かべるのは志賀直哉の文章であろう。それは、小林秀雄が言うように「見たものを見たっていうふうな率直な文章」(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)なのだが、それまでの飾りだらけの文章にいやけのさした人たちの眼にはきわめて新鮮に映ったにちがいない。そして、ついには文章の神様と崇められ、その文章を原稿用紙にそのまま書き写すことが最も有効な文章修業だとまで言われた。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)
そして、志賀とはむしろ対蹠的な文体で知られる谷崎潤一郎でさえ、かつてのベストセラーであるその『文章読本』の中で、『城の崎にて』を例にとって、志賀の文章を絶賛した。
だから、「……静かだった。……淋しかった」という『城の崎にて』の文章が名文の見本として教科書にも採られた。
ただ、あの文章は、実に判りにくいという批判があるようだ。文は判りやすいが、文章は判りにくいというのは事実だろうと、中村も付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、49頁)
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』 に対する中村明の分析
中村明は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)において、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(昭和8-9年)の文章を分析している。
谷崎は『陰翳礼讃』に、次のように記す。
「元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにああ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまで辿りついた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。(後略)」
谷崎のこの文章に対して、森鷗外、志賀直哉、井伏鱒二の文章と比較して、中村明は次のように評している。
「森鷗外の作品に見る知性的な格調というようなものはない。志賀直哉のある種の文章のような緊迫した簡素美があるわけでもない。かといって、井伏鱒二流の円い文体をそこに見ることもできない。それらとは明らかに異質であるが、この文章にやはり私は誘われる。何に誘われるのだろうか。」
この中村の表現は、小林秀雄の文章を思わせるような否定の反復がまず来ているのも面白い。つまり、森鷗外の文章のように、知性的な格調もなく、志賀直哉のそれのように緊迫した簡素美もなく、井伏鱒二流の円い文体もないという。最後に「この文章にやはり私は誘われる」と肯定している。
さて、中村は、谷崎潤一郎の文章が持っている言語的な性格について説明している。
まず、文の長さに着目している。
谷崎潤一郎の文章は一般に文が長い。つまり長文型である。
波多野完治は文体論を研究して、谷崎潤一郎と志賀直哉を対比的に捉え、鮮やかに解析した。それ以来、この事実は広く知られることとなった。
この『陰翳礼讃』も、その点、例外ではない。
先に引用した文章について、その一文あたりの平均字数は、80から90ほどである。
一般に、近代・現代の小説文章の平均文長は40字ほどであるといわれる。だから、この文章は、その2倍かそれ以上の長さだということになる。つまり、平均すれば文が非常に長いという結果になる。
短い文が集まると、極端な場合は痙攣的な文章になるが、長い文が集まった場合は、概してゆったりしたリズムが感じられる。この文章にも、大きなうねりを思わせるところがある。その一因は、この長文を基調とした文章の流れにある。
次に、この文章には、独特な一種の気品が感じられると、中村はみる。
過ぎ去ったものへの郷愁、懐かしいがやや古風な感じがあるそうだ。この点、谷崎流の用語の選定がかかわっている。
例えば、「その名の示す如く」というのは、「その名の示すように」より、改まった感じで、やや古めかしい。「いつしか」も、「いつか」や「いつのまにか」に比べて、やや古風で気どった感じがする。
また、この文章には、和風の語句が多く使われている。谷崎潤一郎が和文調の文章を綴ったことは有名な事実である。この『陰翳礼讃』も例外ではない。
ただ、和語を基調とした文章中に適量の漢語が散らばって、流れてしまいそうな文調を適度にひきしめている。
和文調とはいっても、やはり近代の散文なのである。「ひかり」とせずに「光線」とし、「日ざし」とせずに「陽光」としているのは、その例である。
このような用語法が効いて、文章の品格が保たれているとする。古風な言いまわし、やや硬い漢語は、読者との間に一種の距離感を生み出している。
度を越せばなじみにくい文章になるが、この文章には、そういう感じはない。むしろ親しみやすいという印象さえ受ける。
それはなぜかと、中村は問いかけている。
その用語法から来る距離感を、逆に縮める働きをする表現が見出される点を指摘している。
例えば、「ああ云う窓」という言い方である。一般に、「ああいう」ということばは、聞き手が話し手と同一の対象を思い描くことを期待して話し手の発するものである。つまり、話し手が聞き手を意識して発することばである。
「あのような」とせずに、「ああ云う」という言語形式を選び取ったというだけのことではないらしい。そういう言い方をすること自体から、作者と読者との連帯感、読者と膝を交えて話しているような親密感が生じるという。
そして、なんといっても、この文章の魅力は、通常なにげなく見すごしやすいところに思いを馳せ、ひとつの真実をつかんだ、という点にあると、中村は捉えている。
つまり、新しい発見が言語化され、かなりの説得力を持って伝わってくるというところに、中村は深く惹かれている。
その重要な発見は、明り取りの機能と効果にかかわるものである。床の間の明り取りというのは、「明り」を「取る」というよりも、逆に、取った明りを障子で濾して弱めるほうにその本領がある、と見る。
それによって実現する逆光線が、「寒々とした、わばしい色」をしていると見る。その光は「もはや物を照らし出す力」がないという。
ものを照らし出す力のない光というようなものを、一般には意識しないだろう。しかし、この文章によって、よく判ることになる。
谷崎潤一郎は、『陰翳礼讃』で、次のように記す。
「或は又、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。」
幽明の境に漂う光に、「悠久」に対する一種の怖れを嗅ぎとった。その感覚の深みに、中村は感銘をうけたようだ。薄暗さが恐怖を引き起こすのはあたりまえだが、それを「悠久」に対する怖れと捉えたところに、最も感動的な発見があったとみる。
以上のように、この文章のいわば名文性のありかは、多様である。なかでも、あの薄明に悠久への怖れを見出す思考が最も鮮烈に中村に働きかけたという。それがなかったら、この文章に対する感銘はかなり浅いところでとどまったと付言している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、174頁~180頁)
将棋的な文章と囲碁的な文章
かつて修辞学の主要な任務であった名文論は、今でも広義のレトリックを絡めながら、そこに文体論が大きく関与することになる。その意味で、中野重治が書いている話は示唆的であると、中村明はみている。
(中野重治「名文とはどういうものか」創作講座Ⅳ『文章の書き方・味わい方』思潮社、1956年所収)
将棋的な文章と囲碁的な文章とがあるという。
「将棋における敵将に迫る気合は素描法であり、碁の布石は一つの盤を如何に大きく使うかのコンポジションである」という中川一政のことばを引き、そういう中川自身の文章は将棋的であり、中野自らは囲碁的な文章を心がけていると書いている。
将棋的な文章のように、デッサンだけで済ませることはできないということである。
中村明はこれを読んで、いつか永井龍男が、古今亭志ん生は随筆的で、桂文楽は小説的だと書いていた(「世間雑記」)のを思い出したと述べている。
文楽は台本がきっちりできていて登場人物の性格や舞台装置をすっかり飲みこんだ上で噺をするが、志ん生のほうは台本というより、そのときの気分でかってに進行してしまうという。つまり、後者は何を演(や)っても主人公はみんな志ん生になっているそうだ。
(中村明編『作家の文体』筑摩書房、1977年所収)
このように、個性を離れて文章について論じたところで始まらず、名文論も同様だと中村は主張している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、67頁)
名文=透明説について
中村明は名文=透明説という文章観についても解説している。つまり、名文は、それを読んでいるときにそこに文章があるということを忘れている、という見方である。
これは長い間にわたって広く支持された説であったようだ。今では言語=道具観の衰退に伴い、一時ほどの勢力は失われたがまだ生き残っている。
古くは小島政二郎が次のように主張した。
「今現に読んでいる文章の姿が意識から消えて(旨いまずいが気にならぬ)、しかも描かれている対象が生き生き浮かぶ」という。
(小島政二郎「徳田秋声の文章」『日本現代文章講座』<鑑賞編>、厚生閣、1935年所収)
また、川端康成も、この名文=透明説と同じ方向だとする。
川端は、志賀直哉の『城の崎にて』を例に出して、作者から独立しているこういう文章こそ名文だとした。
(川端康成『新文章読本』あかね書房、1950年)
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新文章読本
そして、川端は徳田秋声の『爛』の冒頭を例にとって、それを読んでいく読者はそこに作者の個性を感じないで直ちにその小説世界に引き入れられるとした。
(川端康成『小説の構成』三笠書房、1941年)
この問題に関しては、日本の近代的な文体論を拓いた二人の功績者の間で、論争があったそうだ。すなわち、小林英夫と波多野完治の二人である。
まず、小林英夫は、媒体である言語というものが完全に克服されていて、読者が文章を読んでいるという意識を起こさないのが名文だと述べた。
(小林英夫『文体雑記』三省堂、1942年)
これに対して、波多野は疑いを感じた。
波多野は、逆に、あるひとつの事柄がまさに文章をとおして語られているという意識で読まれることこそ名文の資格だと反論した。
(波多野完治『文章心理学入門』新潮社、1953年)
そこに文学は言語そのものだという意識が明確に顕れてはいないが、少なくとも言語=道具説から半歩踏み出したとは言える。
小林は、波多野の主張を半ば受け入れ、文学作品のようないわゆる芸術文は波多野説、手紙や日記、あるいは報告や広告などのいわゆる実用文は小林説という形で、妥協的に処理した。そのため、本格的な論争には発展しなかった。
この点に、中村明はコメントしている。
言語表現においても、いわゆる実用文と芸術文とは、少なくともその言語的性格は連続的である。とするなら、このような妥協はおかしいという。
つまり、人を動かすのはその文章の運ぶ論理的な情報だけではなく、どこまで意識しようと、人は文章そのものに感動している。
(あるいは、文章をとおしてしか、その感動はやって来ないともいえる)
名文の真価は文章に漂う雰囲気と、そこから生ずる感動の質にあるのだから、文章が透明であるかどうかという条件自体が、どだい二次的な問題にすぎないと、中村はいう。
ただ、名文=透明説は、明晰で判りやすい文章が切望された、あの異常な状況を考えると、生まれるべくして生まれたとも付言している。
そして波多野の反論は、そういった過熱した欲求が収まった後の、文学にとって言語とは何かを問いうる状況の中でおこなわれた、という背景を考えてみれば、これも自然に生まれたと、中村はみている。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、59頁~60頁、88頁)
鷗外の品格ある文章を絶賛した三島由紀夫
三島は、鷗外の品格ある文章を絶賛した。例えば、森鷗外の『寒山拾得』には、次のような一節がある。
「閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。
水が来た。
僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見詰めた。」
「水が来た」の一句が利いている。
三島は、下手な作家なら、次のようにでも書くとする。
「しばらくたつうちに小女は、赤い胸高の帯を長い長い廊下の遠くからくっきりと目に見せて、小女らしくパタパタと足音をたてながら、目八分に捧げた鉢に汲みたての水をもって歩いてきた。その水は小女の胸元でチラチラとゆれて、庭の緑をキラキラと反射させていたであろう」と。
そこを、ただひと言「水が来た」で済ませたところに、強さと明朗さがあるとして、三島は絶賛した。
なお、村松定孝も、よけいな説明を加えないところに非凡さがあると説く。ふつうなら、「小女が水を鉢を入れて運んできた」とか「静かにおそるおそるこぼれないようにかかえて歩をすすめた」とするところである。
中村明は、鷗外の『空車(むなぐるま)』(大正5年)の中の「大股に行く」という一句に同じ意味での非凡さがあるとする。「歩いて行く」とか「闊歩する」とかとさえせずに、ただ「行く」の一語にとどめている。
素朴な力強さは、作者の表現態度から出てくるというのである。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、123頁~124頁)
川端康成『千羽鶴』についての中村明の鑑賞
川端の描き出す女性には、どこか超現実的なところがあるといわれる。
この作品『千羽鶴』(昭和24-26年)に登場するどの人物にも、肉感的でありながら、なにかを背負っているような、不思議な不安定さがある。
小説では、脇役ほど現実の姿を呈しやすいとされる。
この作品では、ヒロインたちを対比的に光らせる役を担う茶の師匠栗本ちか子がそれにあたるようだ。(しかし、ある種の非現実性もある)
千羽鶴の風呂敷が過重の意味を持って作品に飛翔する、背景としての稲村の令嬢ゆき子もそうである。太田夫人に至っては、なおさらである。「人間ではない女」「人間以前の女」「人間の最後の女」としての妖気を漂わせている。文子はその娘である。
川端『千羽鶴』の文章の言語的性格について、中村明は考えている。
第一に、漢語が少なく和語が多いという。それが文章の軟らかさに結びついている。
やや硬い感じの漢語としては、「均衡」や「秘術」、「背後」ぐらいである。また、軟らかい印象は、和語が多いというだけでなく、いかにも軟らかさを感じさせる特定のこどばが用いられている。
「いざり寄る」「倒れかかる」「伸び切る」のような和語の複合動詞、「けはい」のような軟質の語がその例であるとする。さらに、「しなやか」「やわらか」という語がくり返され、有効に働いている。
第二に、擬声語・擬態語が目につく。
数が多いというのではなく、あるひとつの動きを描写したクライマックスの部分に、集中的に現れる。例えば、
「文子がぐらっとのしかかって来るけはいで、きゅっと体を固くした菊治は、文子の意外なしなやかさに、あっと声を立てそうだった。」
こういうオノマトペによる伝達は感覚的にしかできないが、そのためにかえって深く伝わる場合があるようだ。
「ぐらっ」とか「きゅっ」とかいう擬態語、「あっ」という擬声語は独創的なものではないが、この描写部分の形象性を高める働きをしていると、中村はみている。
この川端という作家は、まるで閃いては記すように、しきりに行を替えるのが特徴的である。短い一文が切れると、もう行が替わって別の段落に移る。そうすることによって、文間に断絶感が生まれる。『山の音』の信吾が不気味な“山の音”を聞く場面がその典型である。
『千羽鶴』でも、「菊治はとっさに手をうしろへかくした」から「はずみで文子は菊治の膝に左手を突いた」に移行する際に改行している。切れたというよりは切った感じが残っている。意味だけから言えば、「うしろへかくした」と「はずみで」との間は切れないのが普通である。
そこを切るのはほかの要因が働いたためであろうと中村はいう。
形態的に切ることによって、切れるはずのないものが切れてしまう、一種の空隙づくりの効果を狙ったものとする。
だいたい、この作家の文章展開は、対象の側の論理ではなく、素材の側の先後関係でもなく、視点人物の認識機構に合わせておこなわれるようだ。この作家は何人称で書こうと、視点が固定されないのが特徴であるとされる。
『千羽鶴』には、身をかわした文子について、「あり得べからざるしなやかさ」「女の本能の秘術」といった表現がある。つまり、女にこの世のものとは思えない一面を想定し、作家自らも驚こうとしている。少年期から川端作品の基調をなしてきた“驚異への憧憬”が、この作品にも鮮明に表われていると、中村は鑑賞している。
(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、241頁~248頁)
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