≪文章の書き方~木下是雄『理科系の作文技術』より≫
(2021年12月31日)
木下是雄(きのした・これお)氏は、1917年生まれで、東京大学理学部物理学科を卒業して、学習院大学教授を務めた学者である。
今回は、次の本をもとに、文章の書き方について考えてみる。
〇木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年
自分は文系の学部であったので、理科系の作文はしたことがないが、文章の書き方の参考文献として、木下是雄氏のこの本を挙げる人は多い。そこで、私も学生時代に買って読んだのだが、やはり教えられるところが多々あった。
例えば、日本語と英語の違いについての考察などは示唆的で文系の人が文章を書く際に留意すべき点を教えてくれる。
例えば、日本人がとかく逆茂木型の文を書きやすい根本原因は、修飾句・修飾節前置型の日本語の文の構造にあると木下氏は考えている。そして逆茂木がむやみにはびこったのは翻訳文化のせいにちがいないと推量している。
多くの欧語では、長い修飾句や修飾節は、関係代名詞を使ったり、分詞形を使ったりして、修飾すべき語の後に書くことになっている。今日の逆茂木横行の誘因は、日本人がそういう組立ての欧文のへたな翻訳(漢文に返り点をつけて読む要領の直訳)に慣らされて鈍感になったことだろうとみている。
今回のブログでは、この本の要点をまとめてみたい。
(以下、便宜上、敬称を省略することを断っておく)
【木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)はこちらから】
理科系の作文技術 (中公新書 624)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ 他人に読んでもらうことを目的として書くものの代表として、詩、小説、戯曲などの文学作品があげられる。それに対して、理科系の仕事の文書としては、調査報告、原著論文、仕様書、使用の手引、研究計画の申請書などがある。その特徴は、読者につたえるべき内容が事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまないことであると記している(木下、1981年、5頁)。
・ 事実や状況について人につたえる知識を情報ということにすると、理科系の仕事の文書は情報と意見だけの伝達を使命とするといってよいとする。木下によれば、理科系の仕事の文書を書くときの心得は次のように要約できるという。
①主題について述べるべき事実と意見を十分に精選すること
②それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述すること(木下、1981年、5頁~6頁)。
・ 理科系の仕事の文書では、主張が先にあって、それを裏づけるために材料を探すなどということはありえない。書く作業は、主要構成材料が手許にそろってから始まるのである(木下、1981年、14頁)。
・ 理科系の仕事の文書の大部分は、必要上やむをえず書くもの、または誰かに書かされるものである。学生のレポートは言うにおよばず、調査報告、出張報告、技術報告、研究計画の申請書などがその例であるとする。
・ こういう類の文書を書くときには、その文書一般の役割を心得ているだけでなく、その文書に与えられた特定の課題を十分に認識してかかる必要がある。つまり、相手は何を書かせたいのか、知りたいのかをとことんまで調べ上げ、考えぬくのが先決問題である(木下、1981年、15頁~16頁)。
・ 理科系の仕事の文書では、しばしば図や表がいちばん大切な役割を演じる。そういう文書では、本文を書きはじめる前に図・表を準備することをすすめる。それによって、なにを書かなければならないかがはっきりする場合が多い(木下、1981年、28頁)。
・ 研究論文にせよ、論説にせよ、あるいは随筆にせよ(この随筆は木下の書物の対象からは逸脱すると自ら断わっている)、木下は、筆をとる前に数十日(時として数年、時として数日)のあいだ主題をあたためるのを常にするという(木下、1981年、25頁)。
・ 本書の対象である理科系の仕事の文書は、がんらい心情的要素をふくまず、政治的考慮とも無縁でもっぱら明快を旨とすべきものである(96頁)と主張し、また、理科系の仕事の文書は、心情的要素を犠牲にしても明快・簡潔を旨とすべきものである(121頁)と主張しているあたり、いかにも理科系のための『文章読本』である。
・ 仕事の文章の文は、短く、短くと心がけて書くべきである。ある人は平均50字が目標だという。本書の1行は26字だから、ほぼ2行。私(木下)も短く短くと心がけてはいるが、とてもその域には達していないという(木下、1981年、118頁)。
・ 書くことは考えること、考えを明確にすることである(木下、1981年、24頁)。
・ 文章の価値をきめるのが第一に内容であるが、内容がすぐれていても、文章がちゃんと書けていなければ(readableでなければ)、他人に読んでもらえない。その意味で文章の死命を制するのは、文章の構成なのであるという。その文章の構成とは、何がどんな順序で書いてあるか、その並べ方が論理の流れに乗っているか、各部分がきちんと連結されているかである。
文のうまさ(語句のえらび方、口調のよさ)などは、理科系の仕事の読者にとっては、二の次、三の次のことに過ぎないといい、“文科系の文章読本”とは異なる(木下、1981年、51頁)。
・ 理科系の仕事の文書は内容と論理で勝負すべきもので、文章は、奇をてらわず読みやすいほどいいという(木下、1981年、135頁)。
ここに理科系の人の気概・気骨および信念が伝わってくる。
・ 大学改革案の検討委員会の報告書を作成する際に、木下は三日二晩で目次をつくり、あと一瀉(いっしゃ)千里に本文を書いて、合計1週間で10章44節の報告書を書き上げた。そのときのやり方はKJ法の技術に負うところが大きかったようだ。KJ法の発案者は川喜多二郎であり、『発想法』(中公新書、1967年)の著作がある。一読をすすめている。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、56頁~57頁)
1966年に発表された理論物理学者のレゲットの「科学英語の書き方についてのノート―日本の物理学者のために」というエッセイを引用して、木下は日本語と英語の論文の構造の相違について考えている。
①日本語では、いくつかのことを書きならべるとき、その内容や相互の連関がパラグラフ全体を読んだあとではじめてわかる(極端な場合には文章ぜんぶを読み終わってはじめてわかる)ような書き方をする。
②英語では、これは許されず、一つ一つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書かなければならない。また英語では、一つの文に書いてあることとその次に書いてあることとの関係が、読めば即座にわかるように書く必要がある。たとえば、論述の主流から外れてわき道にはいるときには、わき道にはいるところでそのことを明示しなければならないという。英語では本筋から離れて遠くまでさまよい出るのはよくないとされ、わき道の話が長くなる場合には、脚注にするほうがいいとする。
レゲットは、日本人と英語国民の文章の構造を樹形図に喩えて説明している。
日本人型の構造の文章を、木下は逆茂木(さかもぎ)型の文章と称している。逆茂木とは、「敵の侵入を防ぐため、とげのある木を伐り倒して枝を外に向けてならべたもの」を指すという。
文章の流れが逆茂木型にならないようにするために、必要なのは、話の筋道(論理)に対する研ぎすまされた感覚である。そういう感覚をみがくためには、他人の文章を読んでいるときでも、少しでも論理の流れに不自然なところがあったら、「おかしいな、なぜか?」と考える習慣をつけるのがいい。もっとも、感覚だけ鋭くても、何度でも書き直して完全を追究する執念がなければものにならないともいう。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、75頁~78頁、88頁)
日本人がとかく逆茂木型の文を書きやすい根本原因は、修飾句・修飾節前置型の日本語の文の構造にあると木下は考えている。そして逆茂木がむやみにはびこったのは翻訳文化のせいにちがいないと推量している。
多くの欧語では、長い修飾句や修飾節は、関係代名詞を使ったり、分詞形を使ったりして、修飾すべき語の後に書くことになっている。今日の逆茂木横行の誘因は、日本人がそういう組立ての欧文のへたな翻訳(漢文に返り点をつけて読む要領の直訳)に慣らされて鈍感になったことだろうとみている。
裏返していえば、読者に逆茂木の抵抗を感じさせないためには、次のような心得が必要であると木下は説く。
①一つの単文(一つの文のなかで主語と述語の関係が一つしかないもの)の中には、二つ以上の長い前置修飾節は書きこまない。そしてできれば複文(修飾節を有し、したがって主語と述語との関係を二つ以上ふくむもの)や、重文(二つ以上の並行する節から成るもの)の中でも、同様である。
②修飾節の中のことばには修飾節をつけない。
③文または節は、なるたけ前とのつながりを浮き立たせるようなことばで書きはじめる。
逆茂木型の文の場合、長すぎる文を分割する、また前置修飾節が修飾していることばを前に出す、といった手法が役に立つとアドバイスしている。そうすれば、逆茂木の枝を刈りはらって再構成でき、前にくらべてずっと読みやすくなる(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、81頁~82頁)。
7章で説こうとしているのは、文章を書く際の次の2つの心得である。
①事実と意見をきちんと書きわける
②仕事の文書では、事実の裏打ちのない意見の記述は避ける
一般に、事実とは、証拠をあげて裏付けすることのできるものである。意見というのは、何事かについてある人が下す判断である。
日頃から、新聞を読み、雑誌を読むたびに、「どこが事実か、どこからが意見か」と読みわける努力をしてほしいという。
事実の記述は真か偽か(正しいか誤りか)のどちらかである。つまり事実の記述は二価(two-valued)である。これに反して意見の記述に対する評価は原則として多価(multi-valued)で、複数の評価が並立する。例えば、「ワシントンは米国の初代の大統領であった」というのは、事実の<正しい>記述だが、「偉大な大統領であった」という意見の記述に対しては、「そのとおり」、「とんでもない」、「的外れ」など人によって評価が異なる。
事実の記述には、それが真実である場合と真実でない場合とがある(そのほかの場合はない
理科系の仕事の文書に関するかぎり、「事実とは何か」の解釈に迷う余地は少ない。しかし、歴史で事実というのは何か、また心理的事実とは何か、となると話はむずかしくなる。民事裁判の法廷では、原告・被告の双方が認めたことは事実とされるという。
一方、意見は幅のひろい概念で、その中には次のようなものが含まれている。
①推論(inference)
ある前提にもとづく推理の結論、または中間的な結論
例としては、「彼は(汗をかいているから)暑いにちがいない」
②判断(judgement)
ものごとのあり方、内容、価値などを見きわめてまとめた考え
例としては、「彼女はすぐれた実験家であった」
③意見(opinion)
上記の意味での推論や判断、あるいは一般に自分なりに考え、あるいは感じて到達した結論の総称
例としては、「リンをふくむ洗剤の使用は禁止すべきである」
そして、事実と意見との関係について、木下は次のように解説している。
その問題に直接に関係のある事実の正確な認識にもとづいて、正しい論理にしたがって導きだされた意見は、根拠のある意見(sound opinion)である。一方、出発点の事実認識に誤りがある場合、または事実の認識は正確でも論理に誤りがある場合には、意見は根拠薄弱なもの(unsound opinion)になる。
但し、意見のすべてが根拠のあるものと根拠薄弱なものとに分類できるわけではないとして、「彼女は美人だ」という意見の例を挙げている。これはどちらの分類にも属さないという(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、102頁~107頁)。
①主張のあるパラグラフ、主張のある文書の結論は、意見である。ただ、意見だけを書いたのでは読者は納得しない。事実の裏打ちがあってはじめて意見に説得力が生まれる。
②事実の記述は、一般的でなく特定的であるほど、また漠然とした記述でなくはっきりしているほど、抽象的でなく具体的であるほど、情報としての価値が高く、また読者に訴える力が強い。
世間の人が表明する意見の大部分は、「夜桜は格別に美しい」とか、主観的な感じ、または直観的な判断によるものである。しかし、理科系の仕事の文書に書きこむ意見は、事実の上に立って論理的にみちびだした意見でなければならないと木下はいう。
その意見を「根拠のある意見」として読者に受け入れさせるためには、意見の基礎となるすべての事実を正確に記述し、それにもとづいてきちんと論理を展開することが必要であると説いている。
ふつう、事実から意見を構成する段階の論理はわりあいに単純なもので、自明な場合も少なくない。そういう場合には、自分の意見の根拠になっている事実だけを具体的に、正確に記述し、あとは読者自身の考察にまかせるのがいちばん強い主張法になる。これは、仕事の文書を書く場合に限った話ではなく、「夜桜は格別に美しい」と言いたい場合にも同様であるとする。つまり「あでやか」、「はんなり」、「夢みるよう」などと主観的・一般的な修飾語をならべるよりも、眼前の(すなわち特定の)夜桜のすがたを客観的・具体的にえがきだし、それだけで打ち切るほうがいいことが多いという。このように、事実によって意見を裏打ちするやり方、事実を一般的でなく特定的・具体的・明確に述べるやり方がよいとする(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、114頁~115頁)。
パラグラフとトピック・センテンスについて、木下是雄は次のように記している。
パラグラフというのは長い文章のなかの一区切り(段落)である。パラグラフは、内容的に連結されたいくつかの文の集まりで、全体として、ある一つのトピック(小主題)についてある一つのこと(考え)を言う(記述する、明言する、主張する)ものである。
パラグラフを歴史的にみると、日本の古文には、パラグラフというものはなかった。欧語の文章も昔はそうだったらしいが、たぶん18世紀ごろまでにパラグラフの概念が確立され、パラグラフごとに改行する記法がおこなわれるようになった。
日本語の文章も、明治以降は欧文の影響を受けて、かたちの上ではパラグラフを立てて書くようになってきている。しかし、かたちといっしょにパラグラフというものの内容も輸入されたかは疑わしいと木下はみている。日本では「だいぶ続けて書いたから、このへんで切るか」というだけの人が多数派ではあるまいか。
一方、欧米のレトリックの授業では、文章論のいちばん大切な要素としてパラグラフの意義、パラグラフの立て方を徹底的に教えるものらしい。文章はどこで切ってパラグラフとすべきか、パラグラフの構成はどんな条件をみたすべきか、といったことを考えて、文章を書く心得としてパラグラフの概念をきちんと取り入れることが必要であると木下は主張している(木下、1981年、60頁~61頁)。
パラグラフには、そこで何ついて何を言おうとするのかを一口に、概論的に述べた文がふくまれるのが通例である。これをトピック・センテンスという。
パラグラフにふくまれる、トピック・センテンス以外のその他の文は、
ⓐトピック・センテンスで要約して述べたことを具体的に、くわしく説明するもの(これを展開部の文という)
ⓑあるいは、そのパラグラフと他のパラグラフとのつながりを示すもの
でなければならない。
一つの区切り(パラグラフ)にふくまれるいくつかの文は、ある条件をみたしていなければならないということを意識している人は少ない。
要するに、トピック・センテンスはパラグラフを支配し、他の文はトピック・センテンスを支援しなければならない。
理科系の仕事の文書を書く初心の執筆者は、各パラグラフに必ずトピック・センテンスを書くように心がけるほうがいい。文章を書きながら絶えず読みかえして、各パラグラフにトピック・センテンスがあるか、展開部の文はトピック・センテンスとちゃんと結びついているかと、点検する習慣をつけることを木下は勧めている。
トピック・センテンスは、パラグラフの最初に書くのがたてまえである(現実の文章はそうなっているとはかぎらない)。
トピック・センテンスは各パラグラフのエッセンスを述べたものだから、それを並べれば、文章ぜんたいの要約にならなければならないと。
木下も、理科系の仕事の文書に関するかぎり、重点先行主義にしたがって、トピック・センテンスを最初に書くことを原則とすべきだと考えているが、しかしこの原則を忠実に守りぬくことはむずかしいともいう。
その理由として、3つ挙げている。
①先行するパラグラフとの<つなぎ>の文をトピック・センテンスより前に書かなければならない場合がある。
②これは仕事の文書にとっては致命的なことではないが、トピック・センテンスを第1文とするパラグラフばかりがつづくと、文章が単調になるきらいがある。
③日本語の文の組立てがこれに向かない。
③は定説ではないが、木下は英文を書く場合にくらべて、日本語でものを書くときにはトピック・センテンスをパラグラフの第1文にもってきにくい場合が多いと考えている。それは次の理由によると木下は指摘している。
ⓐ英語では主語と述語が密接して文頭にくる(したがって文のエッセンスが文頭に書かれる)のが通例であるのに反して、日本語では術語が文末にくる。
ⓑ英語では、修飾句・修飾節が修飾すべき語の後にくるのが通例であるのに反して、日本語では修飾句・修飾節が前置される。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、61頁~66頁、68頁、78頁)
①論文の書き出しの部分には、「その論文では何を問題にするか、どこに目標を置いてどんな方法で研究したか」を示す(少なくとも1~2パラグラフの序論がなければならない)
②本論にはいって、研究の具体的な手段・方法を述べ、それによってどんな結果がえられたかをしるす。
③最後に、その結果を従来の研究結果と比較し検討し、自分はそれについてどう考えるか、何を結論するかを書く。これは、論議または考察(discussion)として独立の節を立てて扱われる重要な部分であるという。著者はここでいったん立場を変えて、自分の研究に残っている問題点を吟味し、その上ではじめて結論をまとめるという(木下、1981年、197頁、202頁~203頁、205頁)。
理科系の仕事の文書で、情報の伝達を目的とする記述・説明文とならんで主役をつとめるのは、論理を展開する文章である。これは、①理論の叙述と②説得を目的とする叙述に大別できるとする。
①理論を述べる文章では、内容(論理の組立て)によって記述の順序がきまってしまうので、文章論としてはほとんど議論の余地がない。
ただし、同じ前提から出発して同じ結論に到達する論理の筋道は必ずしも一つでない。研究者が最初にその結論にたどりついた筋道が最短径路であることはむしろ例外で、多くの場合に、結論に到達してから振り返って道をさがすと、もっとまっすぐな、わかりいい道がみつかる。論文は読者に読んでもらうものだから、自分がたどった紆余曲折した道ではなく、最も簡明な道に沿って書くべきだという。
もう一つ配慮すべきは、理論の基礎にある仮定を浮き立たせて書くことである。経験事実(観察、実験の結果)は多少ともあいまいな、あやふやなもので、誤差のない測定はないので、そのままでは論理になじまない。
理論の出発点となるのは、これを整理し、理想化したモデルである。そのモデルをつくる段階でどれだけのことを仮定したか、また理論を展開する段階でどんな仮定をつけくわえたか、それらの仮定が目立って見えるように、書く順序を考え、書き方を工夫してほしいという。
②説得を目的とする議論の文章の場合には、上述の純粋理論の叙述にはない恣意性がある。それだけ叙述の順序の自由度が増し、順序のえらび方によって説得の効果がちがうことにもなるようだ。
相手により、機に応じて、次のようなものから選択するほかにない。
ⓐ従来の説、あるいは自分と反対の立場に立つ人の説の欠点を指摘してから、自説を主張するか、あるいは、その
逆にまず自分の説を述べ、それにもとづいて他の説を論破するか。
ⓑいくつかの事例をあげて、それによって自分の主張したい結論をみちびくか。その逆に、まず主張を述べてからその例証をあげるか。
ⓒあまり重要でない、そのかわり誰にでも受け入れられる論点からはじめてだんだんに議論を盛り上げ、クライマックスで自分の最も言いたいこと(多少とも読者の抵抗の予期される主張)を鳴りひびかせるか、その逆に最初に自分の主張を強く打ち出して読者に衝撃を与えるか。
要するに、説得型の叙述の順序として
ⓐ従来説・反対説→自説の主張。逆に自説→他説の論破
ⓑ事例→主張。逆に主張→例証
ⓒ論点提示→議論の盛り上げ→クライマックス(自分の主張)。逆に、自分の主張を最初に提示
というのがあるという(木下、1981年、48頁~50頁)。
作家と呼ばれる人たちの座右には、いつも何種類かの辞書が置いてあるらしい。書くことを一生の仕事とする以上、ことばを厳しく吟味し、字を確かめるのは当然の心掛けだろう。
ただ、書くことを本業とは心得ない理科系の人たちにしても、自分の書くものを他人に読んでもらおうとするからには、同じ心掛けが必要であると木下は主張している。他人に見せるものを書くときには必ず机上に辞書をおき、疑問を感じたら即座に辞書をひらく習慣をつけるべきであるという。
この手間を惜しむ、惜しまぬが筆者に対する評価を左右する場合があることを、心の片隅に留めておくといいともアドバイスしている(木下、1981年、154頁)。
物理・応用物理の分野で原著講演(オリジナルな研究の口頭発表)の標準時間が10分である場合、それに対して、400字詰め原稿用紙6枚が目安であるという。
しかし、講演で原稿を「読む」のは禁物である。というのは、原稿を読みあげるのについていくには、聞く者に非常な努力がいるからである。例えば、複文の場合、読めばスラスラとわかっても、聞く段になると抵抗が大きい。つまり眼で読むための文章と耳で聞くための文章とは構成に差がある。また、読むときにはいつでも読みかえしができるが、講演では、一度聞き逃したら聞き手の側ではどうしようもない。ひとに聞いてもらう話には、適度のくりかえしが必要である。
書いた原稿をそのまま読みあげて聴衆をうなずかせるためには、シナリオ・ライターの才能と俳優の訓練がいるので、通りいっぺんの努力ではできないとも付言している。とにかく一生懸命に話しかける努力をしたほうがいいようだ(木下、1981年、214頁~215頁)。
「歯切れのいい」といわれる人の講演は、次の3つの条件をみたしているという。
①事実あるいは論理をきちっと積み上げてあって、話の筋が明確である
②無用のぼかしことばがない。ズバリと事実を述べ、自分の考えを主張する。
例えば、「これらの事実は……が……であることを暗示しているのではなかろうかと思われます」と言わず、
「これらの事実は……が……であることを(暗)示しています」と言う。日本人は話を必要以上にぼかしたがるので、特に注意が必要だという。
③発音が明晰。発音を明確にし、ことばの切り方に気を配って、聞きとりやすくすることにも心すべきである。これにはニュース担当のラジオ(テレビよりラジオ)のアナウンサーの発声法や抑揚が参考になる(木下、1981年、229頁~230頁)。
木下是雄がある国際学会で、40分の招待講演で話をした際、原稿は65ストローク、ダブル・スペース、26行、13枚で、ゆっくりしゃべって、35分の講演だったという。
木下は英語の場合、原著講演や講義のときには、メモ片手のことが多い。一方、総合講演だと原稿を手にして話すという。実際の「英語講演の原稿の例」が引用してある。そこには記号を使って、語尾を下げる場合、切らずにつづける場合、ストレスをおいて特にはっきりとやや間をおいていうべきことばの場合などが示されている(木下、1981年、230頁~233頁)。
(2021年12月31日)
【はじめに】
木下是雄(きのした・これお)氏は、1917年生まれで、東京大学理学部物理学科を卒業して、学習院大学教授を務めた学者である。
今回は、次の本をもとに、文章の書き方について考えてみる。
〇木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年
自分は文系の学部であったので、理科系の作文はしたことがないが、文章の書き方の参考文献として、木下是雄氏のこの本を挙げる人は多い。そこで、私も学生時代に買って読んだのだが、やはり教えられるところが多々あった。
例えば、日本語と英語の違いについての考察などは示唆的で文系の人が文章を書く際に留意すべき点を教えてくれる。
例えば、日本人がとかく逆茂木型の文を書きやすい根本原因は、修飾句・修飾節前置型の日本語の文の構造にあると木下氏は考えている。そして逆茂木がむやみにはびこったのは翻訳文化のせいにちがいないと推量している。
多くの欧語では、長い修飾句や修飾節は、関係代名詞を使ったり、分詞形を使ったりして、修飾すべき語の後に書くことになっている。今日の逆茂木横行の誘因は、日本人がそういう組立ての欧文のへたな翻訳(漢文に返り点をつけて読む要領の直訳)に慣らされて鈍感になったことだろうとみている。
今回のブログでは、この本の要点をまとめてみたい。
(以下、便宜上、敬称を省略することを断っておく)
【木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)はこちらから】
理科系の作文技術 (中公新書 624)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・理科系の仕事の文書
・文の構造と文章の流れ
・逆茂木型の文について
・事実と意見
・事実のもつ説得力
・パラグラフとトピック・センテンス
・原著論文(original scientific papers)の標準的な構成
・論理展開の順序について
・辞書について
・学会講演の要領について
・英語講演の原稿について
理科系の仕事の文書
・ 他人に読んでもらうことを目的として書くものの代表として、詩、小説、戯曲などの文学作品があげられる。それに対して、理科系の仕事の文書としては、調査報告、原著論文、仕様書、使用の手引、研究計画の申請書などがある。その特徴は、読者につたえるべき内容が事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまないことであると記している(木下、1981年、5頁)。
・ 事実や状況について人につたえる知識を情報ということにすると、理科系の仕事の文書は情報と意見だけの伝達を使命とするといってよいとする。木下によれば、理科系の仕事の文書を書くときの心得は次のように要約できるという。
①主題について述べるべき事実と意見を十分に精選すること
②それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述すること(木下、1981年、5頁~6頁)。
・ 理科系の仕事の文書では、主張が先にあって、それを裏づけるために材料を探すなどということはありえない。書く作業は、主要構成材料が手許にそろってから始まるのである(木下、1981年、14頁)。
・ 理科系の仕事の文書の大部分は、必要上やむをえず書くもの、または誰かに書かされるものである。学生のレポートは言うにおよばず、調査報告、出張報告、技術報告、研究計画の申請書などがその例であるとする。
・ こういう類の文書を書くときには、その文書一般の役割を心得ているだけでなく、その文書に与えられた特定の課題を十分に認識してかかる必要がある。つまり、相手は何を書かせたいのか、知りたいのかをとことんまで調べ上げ、考えぬくのが先決問題である(木下、1981年、15頁~16頁)。
・ 理科系の仕事の文書では、しばしば図や表がいちばん大切な役割を演じる。そういう文書では、本文を書きはじめる前に図・表を準備することをすすめる。それによって、なにを書かなければならないかがはっきりする場合が多い(木下、1981年、28頁)。
・ 研究論文にせよ、論説にせよ、あるいは随筆にせよ(この随筆は木下の書物の対象からは逸脱すると自ら断わっている)、木下は、筆をとる前に数十日(時として数年、時として数日)のあいだ主題をあたためるのを常にするという(木下、1981年、25頁)。
・ 本書の対象である理科系の仕事の文書は、がんらい心情的要素をふくまず、政治的考慮とも無縁でもっぱら明快を旨とすべきものである(96頁)と主張し、また、理科系の仕事の文書は、心情的要素を犠牲にしても明快・簡潔を旨とすべきものである(121頁)と主張しているあたり、いかにも理科系のための『文章読本』である。
・ 仕事の文章の文は、短く、短くと心がけて書くべきである。ある人は平均50字が目標だという。本書の1行は26字だから、ほぼ2行。私(木下)も短く短くと心がけてはいるが、とてもその域には達していないという(木下、1981年、118頁)。
・ 書くことは考えること、考えを明確にすることである(木下、1981年、24頁)。
・ 文章の価値をきめるのが第一に内容であるが、内容がすぐれていても、文章がちゃんと書けていなければ(readableでなければ)、他人に読んでもらえない。その意味で文章の死命を制するのは、文章の構成なのであるという。その文章の構成とは、何がどんな順序で書いてあるか、その並べ方が論理の流れに乗っているか、各部分がきちんと連結されているかである。
文のうまさ(語句のえらび方、口調のよさ)などは、理科系の仕事の読者にとっては、二の次、三の次のことに過ぎないといい、“文科系の文章読本”とは異なる(木下、1981年、51頁)。
・ 理科系の仕事の文書は内容と論理で勝負すべきもので、文章は、奇をてらわず読みやすいほどいいという(木下、1981年、135頁)。
ここに理科系の人の気概・気骨および信念が伝わってくる。
・ 大学改革案の検討委員会の報告書を作成する際に、木下は三日二晩で目次をつくり、あと一瀉(いっしゃ)千里に本文を書いて、合計1週間で10章44節の報告書を書き上げた。そのときのやり方はKJ法の技術に負うところが大きかったようだ。KJ法の発案者は川喜多二郎であり、『発想法』(中公新書、1967年)の著作がある。一読をすすめている。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、56頁~57頁)
文の構造と文章の流れ
1966年に発表された理論物理学者のレゲットの「科学英語の書き方についてのノート―日本の物理学者のために」というエッセイを引用して、木下は日本語と英語の論文の構造の相違について考えている。
①日本語では、いくつかのことを書きならべるとき、その内容や相互の連関がパラグラフ全体を読んだあとではじめてわかる(極端な場合には文章ぜんぶを読み終わってはじめてわかる)ような書き方をする。
②英語では、これは許されず、一つ一つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって理解できるように書かなければならない。また英語では、一つの文に書いてあることとその次に書いてあることとの関係が、読めば即座にわかるように書く必要がある。たとえば、論述の主流から外れてわき道にはいるときには、わき道にはいるところでそのことを明示しなければならないという。英語では本筋から離れて遠くまでさまよい出るのはよくないとされ、わき道の話が長くなる場合には、脚注にするほうがいいとする。
レゲットは、日本人と英語国民の文章の構造を樹形図に喩えて説明している。
日本人型の構造の文章を、木下は逆茂木(さかもぎ)型の文章と称している。逆茂木とは、「敵の侵入を防ぐため、とげのある木を伐り倒して枝を外に向けてならべたもの」を指すという。
文章の流れが逆茂木型にならないようにするために、必要なのは、話の筋道(論理)に対する研ぎすまされた感覚である。そういう感覚をみがくためには、他人の文章を読んでいるときでも、少しでも論理の流れに不自然なところがあったら、「おかしいな、なぜか?」と考える習慣をつけるのがいい。もっとも、感覚だけ鋭くても、何度でも書き直して完全を追究する執念がなければものにならないともいう。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、75頁~78頁、88頁)
逆茂木型の文について
日本人がとかく逆茂木型の文を書きやすい根本原因は、修飾句・修飾節前置型の日本語の文の構造にあると木下は考えている。そして逆茂木がむやみにはびこったのは翻訳文化のせいにちがいないと推量している。
多くの欧語では、長い修飾句や修飾節は、関係代名詞を使ったり、分詞形を使ったりして、修飾すべき語の後に書くことになっている。今日の逆茂木横行の誘因は、日本人がそういう組立ての欧文のへたな翻訳(漢文に返り点をつけて読む要領の直訳)に慣らされて鈍感になったことだろうとみている。
裏返していえば、読者に逆茂木の抵抗を感じさせないためには、次のような心得が必要であると木下は説く。
①一つの単文(一つの文のなかで主語と述語の関係が一つしかないもの)の中には、二つ以上の長い前置修飾節は書きこまない。そしてできれば複文(修飾節を有し、したがって主語と述語との関係を二つ以上ふくむもの)や、重文(二つ以上の並行する節から成るもの)の中でも、同様である。
②修飾節の中のことばには修飾節をつけない。
③文または節は、なるたけ前とのつながりを浮き立たせるようなことばで書きはじめる。
逆茂木型の文の場合、長すぎる文を分割する、また前置修飾節が修飾していることばを前に出す、といった手法が役に立つとアドバイスしている。そうすれば、逆茂木の枝を刈りはらって再構成でき、前にくらべてずっと読みやすくなる(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、81頁~82頁)。
事実と意見
7章で説こうとしているのは、文章を書く際の次の2つの心得である。
①事実と意見をきちんと書きわける
②仕事の文書では、事実の裏打ちのない意見の記述は避ける
一般に、事実とは、証拠をあげて裏付けすることのできるものである。意見というのは、何事かについてある人が下す判断である。
日頃から、新聞を読み、雑誌を読むたびに、「どこが事実か、どこからが意見か」と読みわける努力をしてほしいという。
事実の記述は真か偽か(正しいか誤りか)のどちらかである。つまり事実の記述は二価(two-valued)である。これに反して意見の記述に対する評価は原則として多価(multi-valued)で、複数の評価が並立する。例えば、「ワシントンは米国の初代の大統領であった」というのは、事実の<正しい>記述だが、「偉大な大統領であった」という意見の記述に対しては、「そのとおり」、「とんでもない」、「的外れ」など人によって評価が異なる。
事実の記述には、それが真実である場合と真実でない場合とがある(そのほかの場合はない
理科系の仕事の文書に関するかぎり、「事実とは何か」の解釈に迷う余地は少ない。しかし、歴史で事実というのは何か、また心理的事実とは何か、となると話はむずかしくなる。民事裁判の法廷では、原告・被告の双方が認めたことは事実とされるという。
一方、意見は幅のひろい概念で、その中には次のようなものが含まれている。
①推論(inference)
ある前提にもとづく推理の結論、または中間的な結論
例としては、「彼は(汗をかいているから)暑いにちがいない」
②判断(judgement)
ものごとのあり方、内容、価値などを見きわめてまとめた考え
例としては、「彼女はすぐれた実験家であった」
③意見(opinion)
上記の意味での推論や判断、あるいは一般に自分なりに考え、あるいは感じて到達した結論の総称
例としては、「リンをふくむ洗剤の使用は禁止すべきである」
そして、事実と意見との関係について、木下は次のように解説している。
その問題に直接に関係のある事実の正確な認識にもとづいて、正しい論理にしたがって導きだされた意見は、根拠のある意見(sound opinion)である。一方、出発点の事実認識に誤りがある場合、または事実の認識は正確でも論理に誤りがある場合には、意見は根拠薄弱なもの(unsound opinion)になる。
但し、意見のすべてが根拠のあるものと根拠薄弱なものとに分類できるわけではないとして、「彼女は美人だ」という意見の例を挙げている。これはどちらの分類にも属さないという(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、102頁~107頁)。
事実のもつ説得力
①主張のあるパラグラフ、主張のある文書の結論は、意見である。ただ、意見だけを書いたのでは読者は納得しない。事実の裏打ちがあってはじめて意見に説得力が生まれる。
②事実の記述は、一般的でなく特定的であるほど、また漠然とした記述でなくはっきりしているほど、抽象的でなく具体的であるほど、情報としての価値が高く、また読者に訴える力が強い。
世間の人が表明する意見の大部分は、「夜桜は格別に美しい」とか、主観的な感じ、または直観的な判断によるものである。しかし、理科系の仕事の文書に書きこむ意見は、事実の上に立って論理的にみちびだした意見でなければならないと木下はいう。
その意見を「根拠のある意見」として読者に受け入れさせるためには、意見の基礎となるすべての事実を正確に記述し、それにもとづいてきちんと論理を展開することが必要であると説いている。
ふつう、事実から意見を構成する段階の論理はわりあいに単純なもので、自明な場合も少なくない。そういう場合には、自分の意見の根拠になっている事実だけを具体的に、正確に記述し、あとは読者自身の考察にまかせるのがいちばん強い主張法になる。これは、仕事の文書を書く場合に限った話ではなく、「夜桜は格別に美しい」と言いたい場合にも同様であるとする。つまり「あでやか」、「はんなり」、「夢みるよう」などと主観的・一般的な修飾語をならべるよりも、眼前の(すなわち特定の)夜桜のすがたを客観的・具体的にえがきだし、それだけで打ち切るほうがいいことが多いという。このように、事実によって意見を裏打ちするやり方、事実を一般的でなく特定的・具体的・明確に述べるやり方がよいとする(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、114頁~115頁)。
パラグラフとトピック・センテンス
パラグラフとトピック・センテンスについて、木下是雄は次のように記している。
パラグラフというのは長い文章のなかの一区切り(段落)である。パラグラフは、内容的に連結されたいくつかの文の集まりで、全体として、ある一つのトピック(小主題)についてある一つのこと(考え)を言う(記述する、明言する、主張する)ものである。
パラグラフを歴史的にみると、日本の古文には、パラグラフというものはなかった。欧語の文章も昔はそうだったらしいが、たぶん18世紀ごろまでにパラグラフの概念が確立され、パラグラフごとに改行する記法がおこなわれるようになった。
日本語の文章も、明治以降は欧文の影響を受けて、かたちの上ではパラグラフを立てて書くようになってきている。しかし、かたちといっしょにパラグラフというものの内容も輸入されたかは疑わしいと木下はみている。日本では「だいぶ続けて書いたから、このへんで切るか」というだけの人が多数派ではあるまいか。
一方、欧米のレトリックの授業では、文章論のいちばん大切な要素としてパラグラフの意義、パラグラフの立て方を徹底的に教えるものらしい。文章はどこで切ってパラグラフとすべきか、パラグラフの構成はどんな条件をみたすべきか、といったことを考えて、文章を書く心得としてパラグラフの概念をきちんと取り入れることが必要であると木下は主張している(木下、1981年、60頁~61頁)。
パラグラフには、そこで何ついて何を言おうとするのかを一口に、概論的に述べた文がふくまれるのが通例である。これをトピック・センテンスという。
パラグラフにふくまれる、トピック・センテンス以外のその他の文は、
ⓐトピック・センテンスで要約して述べたことを具体的に、くわしく説明するもの(これを展開部の文という)
ⓑあるいは、そのパラグラフと他のパラグラフとのつながりを示すもの
でなければならない。
一つの区切り(パラグラフ)にふくまれるいくつかの文は、ある条件をみたしていなければならないということを意識している人は少ない。
要するに、トピック・センテンスはパラグラフを支配し、他の文はトピック・センテンスを支援しなければならない。
理科系の仕事の文書を書く初心の執筆者は、各パラグラフに必ずトピック・センテンスを書くように心がけるほうがいい。文章を書きながら絶えず読みかえして、各パラグラフにトピック・センテンスがあるか、展開部の文はトピック・センテンスとちゃんと結びついているかと、点検する習慣をつけることを木下は勧めている。
トピック・センテンスは、パラグラフの最初に書くのがたてまえである(現実の文章はそうなっているとはかぎらない)。
トピック・センテンスは各パラグラフのエッセンスを述べたものだから、それを並べれば、文章ぜんたいの要約にならなければならないと。
木下も、理科系の仕事の文書に関するかぎり、重点先行主義にしたがって、トピック・センテンスを最初に書くことを原則とすべきだと考えているが、しかしこの原則を忠実に守りぬくことはむずかしいともいう。
その理由として、3つ挙げている。
①先行するパラグラフとの<つなぎ>の文をトピック・センテンスより前に書かなければならない場合がある。
②これは仕事の文書にとっては致命的なことではないが、トピック・センテンスを第1文とするパラグラフばかりがつづくと、文章が単調になるきらいがある。
③日本語の文の組立てがこれに向かない。
③は定説ではないが、木下は英文を書く場合にくらべて、日本語でものを書くときにはトピック・センテンスをパラグラフの第1文にもってきにくい場合が多いと考えている。それは次の理由によると木下は指摘している。
ⓐ英語では主語と述語が密接して文頭にくる(したがって文のエッセンスが文頭に書かれる)のが通例であるのに反して、日本語では術語が文末にくる。
ⓑ英語では、修飾句・修飾節が修飾すべき語の後にくるのが通例であるのに反して、日本語では修飾句・修飾節が前置される。
(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書、1981年、61頁~66頁、68頁、78頁)
原著論文(original scientific papers)の標準的な構成
①論文の書き出しの部分には、「その論文では何を問題にするか、どこに目標を置いてどんな方法で研究したか」を示す(少なくとも1~2パラグラフの序論がなければならない)
②本論にはいって、研究の具体的な手段・方法を述べ、それによってどんな結果がえられたかをしるす。
③最後に、その結果を従来の研究結果と比較し検討し、自分はそれについてどう考えるか、何を結論するかを書く。これは、論議または考察(discussion)として独立の節を立てて扱われる重要な部分であるという。著者はここでいったん立場を変えて、自分の研究に残っている問題点を吟味し、その上ではじめて結論をまとめるという(木下、1981年、197頁、202頁~203頁、205頁)。
論理展開の順序について
理科系の仕事の文書で、情報の伝達を目的とする記述・説明文とならんで主役をつとめるのは、論理を展開する文章である。これは、①理論の叙述と②説得を目的とする叙述に大別できるとする。
①理論を述べる文章では、内容(論理の組立て)によって記述の順序がきまってしまうので、文章論としてはほとんど議論の余地がない。
ただし、同じ前提から出発して同じ結論に到達する論理の筋道は必ずしも一つでない。研究者が最初にその結論にたどりついた筋道が最短径路であることはむしろ例外で、多くの場合に、結論に到達してから振り返って道をさがすと、もっとまっすぐな、わかりいい道がみつかる。論文は読者に読んでもらうものだから、自分がたどった紆余曲折した道ではなく、最も簡明な道に沿って書くべきだという。
もう一つ配慮すべきは、理論の基礎にある仮定を浮き立たせて書くことである。経験事実(観察、実験の結果)は多少ともあいまいな、あやふやなもので、誤差のない測定はないので、そのままでは論理になじまない。
理論の出発点となるのは、これを整理し、理想化したモデルである。そのモデルをつくる段階でどれだけのことを仮定したか、また理論を展開する段階でどんな仮定をつけくわえたか、それらの仮定が目立って見えるように、書く順序を考え、書き方を工夫してほしいという。
②説得を目的とする議論の文章の場合には、上述の純粋理論の叙述にはない恣意性がある。それだけ叙述の順序の自由度が増し、順序のえらび方によって説得の効果がちがうことにもなるようだ。
相手により、機に応じて、次のようなものから選択するほかにない。
ⓐ従来の説、あるいは自分と反対の立場に立つ人の説の欠点を指摘してから、自説を主張するか、あるいは、その
逆にまず自分の説を述べ、それにもとづいて他の説を論破するか。
ⓑいくつかの事例をあげて、それによって自分の主張したい結論をみちびくか。その逆に、まず主張を述べてからその例証をあげるか。
ⓒあまり重要でない、そのかわり誰にでも受け入れられる論点からはじめてだんだんに議論を盛り上げ、クライマックスで自分の最も言いたいこと(多少とも読者の抵抗の予期される主張)を鳴りひびかせるか、その逆に最初に自分の主張を強く打ち出して読者に衝撃を与えるか。
要するに、説得型の叙述の順序として
ⓐ従来説・反対説→自説の主張。逆に自説→他説の論破
ⓑ事例→主張。逆に主張→例証
ⓒ論点提示→議論の盛り上げ→クライマックス(自分の主張)。逆に、自分の主張を最初に提示
というのがあるという(木下、1981年、48頁~50頁)。
辞書について
作家と呼ばれる人たちの座右には、いつも何種類かの辞書が置いてあるらしい。書くことを一生の仕事とする以上、ことばを厳しく吟味し、字を確かめるのは当然の心掛けだろう。
ただ、書くことを本業とは心得ない理科系の人たちにしても、自分の書くものを他人に読んでもらおうとするからには、同じ心掛けが必要であると木下は主張している。他人に見せるものを書くときには必ず机上に辞書をおき、疑問を感じたら即座に辞書をひらく習慣をつけるべきであるという。
この手間を惜しむ、惜しまぬが筆者に対する評価を左右する場合があることを、心の片隅に留めておくといいともアドバイスしている(木下、1981年、154頁)。
学会講演の要領について
物理・応用物理の分野で原著講演(オリジナルな研究の口頭発表)の標準時間が10分である場合、それに対して、400字詰め原稿用紙6枚が目安であるという。
しかし、講演で原稿を「読む」のは禁物である。というのは、原稿を読みあげるのについていくには、聞く者に非常な努力がいるからである。例えば、複文の場合、読めばスラスラとわかっても、聞く段になると抵抗が大きい。つまり眼で読むための文章と耳で聞くための文章とは構成に差がある。また、読むときにはいつでも読みかえしができるが、講演では、一度聞き逃したら聞き手の側ではどうしようもない。ひとに聞いてもらう話には、適度のくりかえしが必要である。
書いた原稿をそのまま読みあげて聴衆をうなずかせるためには、シナリオ・ライターの才能と俳優の訓練がいるので、通りいっぺんの努力ではできないとも付言している。とにかく一生懸命に話しかける努力をしたほうがいいようだ(木下、1981年、214頁~215頁)。
「歯切れのいい」といわれる人の講演は、次の3つの条件をみたしているという。
①事実あるいは論理をきちっと積み上げてあって、話の筋が明確である
②無用のぼかしことばがない。ズバリと事実を述べ、自分の考えを主張する。
例えば、「これらの事実は……が……であることを暗示しているのではなかろうかと思われます」と言わず、
「これらの事実は……が……であることを(暗)示しています」と言う。日本人は話を必要以上にぼかしたがるので、特に注意が必要だという。
③発音が明晰。発音を明確にし、ことばの切り方に気を配って、聞きとりやすくすることにも心すべきである。これにはニュース担当のラジオ(テレビよりラジオ)のアナウンサーの発声法や抑揚が参考になる(木下、1981年、229頁~230頁)。
英語講演の原稿について
木下是雄がある国際学会で、40分の招待講演で話をした際、原稿は65ストローク、ダブル・スペース、26行、13枚で、ゆっくりしゃべって、35分の講演だったという。
木下は英語の場合、原著講演や講義のときには、メモ片手のことが多い。一方、総合講演だと原稿を手にして話すという。実際の「英語講演の原稿の例」が引用してある。そこには記号を使って、語尾を下げる場合、切らずにつづける場合、ストレスをおいて特にはっきりとやや間をおいていうべきことばの場合などが示されている(木下、1981年、230頁~233頁)。
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