歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その8≫

2021-02-14 11:45:37 | 書道の歴史
ブログ原稿≪書道の歴史概観 その8≫
(2021年2月14日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、宋代の書について解説してみたい。とりわけ、宋の四大家の蔡蘇黄米、すなわち蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾について取り上げる。そして、宋代の朱熹の書についても触れておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・宋の四大家について
・蘇軾の書について
・蘇軾と墨
・蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」
・黄庭堅の書について
・米芾の毒舌について
・宋の四大家の書について
・宋代の朱熹の書について







宋代の書について



宋の四大家について


書家の伏見冲敬(ちゅうけい)は、『書の歴史―中国篇』(二玄社、1960年[2003年版]、146頁)において、宋の四大家について、面白いことを記している。すなわち、「蘇黄米蔡」という宋の四大家の蔡は、どうも本来京であったのではないかというのである。
北宋末の政治家である蔡京(1047-1126)が徽宗をそそのかして勝手なことをしているうちに、とうとう国を亡してしまった所業を憎んで、蔡襄と入れ替わらされたのではないかと伏見は推測している。蔡京も唐人の書から王羲之に遡って、書を学んだようだ。姦臣として嫌われた蔡京の書跡は伝わるものが少ないが、その代表作としての「趙懿簡公碑(ちょういかんこうのひ)」(1092年)には、こまやかな筆意が汲みとられ、「十八学士図跋(
双鉤郭塡本)」(1110年)には、かなり力強い筆が見られると伏見は解説している。
なお、蔡京を入れていたときは、年齢順に蘇黄米蔡といっていたが、蔡襄と入れ替えると、年齢順にすると蔡が一番年上である。それでも口なれたせいか、近年でも昔のままの呼び方で使う人があると西川は付言している。
(伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]、146頁。西川、1964年[1984年版]、16頁)

【伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社はこちらから】

書の歴史 中国篇


蘇軾の書について


宋の太祖趙匡胤(927-976、在位960-976)が、後周の恭帝から皇帝の位をうけついでから100年近くの間は、書法の上からは唐の延長と考えていいと伏見冲敬は考えている。
王安石を登用して新法を実施した宋の第6代の皇帝神宗(1048-1085、在位1067-1085)の熙寧(1068-1077)・元豊(1078-1085)年間にいたって、天才蘇・黄・米の出現によって、宋朝の書法は面目を一新したという。のみならず、殊に蘇・黄の書風は後世への影響の大きいことは、王羲之・顔真卿に匹敵するものがあるとされる。ただし、彼らの書風は、直ちに当時一般に行われたわけではなく、北宋の末期までは、なお伝統的な書法が底流をなしていた。
ところで、宋代の四大家の一人、蘇軾(1036-1101)は幼年の頃から書を好んだが、どんなものを習ったのであろうか。この点について、黄庭堅は次のように捉えている。蘇軾は若いとき「蘭亭序」を学んだので、その書は姿媚なところは徐浩に似、酒を飲んで心に巧拙を忘れたときは、その筆の瘦勁なこと柳公権に似る。中年喜んで顔真卿・楊凝式を学んだので、出来のよいものは李邕に劣らないといっている。この黄庭堅の蘇軾の書に対する評言を、書家の伏見は真相に近いものであろうと評価している。
そして、そうした先人を学んだ跡はすっかり底にひそんで、完成された蘇軾の傑作として「黄州寒食詩巻(こうしゅうかんしょくしかん、かんじきとも)」(1082年)を挙げている(伏見、1960年[2003年版]、140頁)。

蘇軾は、流謫されていた湖北・黄州の地において、元豊5年(1082)の春、寒食を迎えた。寒食というのは、冬至から数えて、105日目に行なう中国の旧習で、この日は火を禁じて煮焚きをしないという。つまり冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたことをさす。その起こりについては、春秋時代の晋の介子推が焼死したのを弔う意味から、との俗説がある。蘇軾の「黄州寒食詩」は、春とはいえ冷雨の降りつづくのに思いを寄せて作った二首の詩で、その詩巻の執筆は、1082年から遠からぬ時期であろうと推測されている。この二首の詩の書き始めの第一行には、王羲之を基盤とする典雅なたたずまいが看取され、行を追うにつれ激しい感情の起伏があらわになり、第二首の後半は、その頂点に達すると堀江はみている。この書の魅力は、この激しい動きに加え、その豊潤な筆触にあるという。蘇軾など北宋の四大家は、初唐の三大家と比べると、主観主義的傾向の強い書風であると評されている。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、144頁~146頁)

【堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版はこちらから】

中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

ところで、蘇軾・黄庭堅、米芾の三人の書を、松井如流は一言でたとえている。蘇軾は情の書、黄庭堅は意の書、また米芾は知の書であるという。書の精妙さは米芾に指を屈し、抒情のゆたかさは蘇軾を推さねばならない。その間に黄庭堅は意気の旺盛なしかも独自のスタイルをもって精神性を強調したのだという。
後代の人たちは、これら三人の影響を大きく受け、ことに禅門の人たちの中には黄庭堅の書が尊重された。
蘇軾の書「黄州寒食詩巻(寒食帖)」に黄庭堅は次のような跋を記している。
「此の書、顔魯公(唐・顔真卿)・楊少師(五代・楊凝式)・李西台(宋・李建中)の筆意を兼ぬ」と。
蘇軾の書の根底には、二王と顔真卿があるが、この帖を書いた頃の蘇軾は47歳の頃で、最も脂の乗った時で、もはや蘇軾の心の中には、二王も顔真卿もなく、自己の性情をいかに正直に表すかにあったといわれている。つまり二王を学びながら二王の法に捉われておらず、顔真卿を学びながら、その筆癖だけを模したという風ではない。
この寒食の詩は、黄州に追いやられた元豊3年から2年経った元豊5年(1082年)の作であり、この帖を書いたのも、詩ができて、すぐに筆をとったものと考えられている。
蘇軾の書は洗練された書ではあるが、癖のある書で、側筆だといわれ、上下からおしつぶされたような構成には非難されていたようである。このことを本人も気にしていたらしく、次のような話が伝わっている。
ある時、蘇軾と黄庭堅がお互いに書を論じ合い、蘇軾は黄庭堅に「貴方の書は清勁でよいが、時あって筆勢が甚だ痩せて、木の梢に蛇がからまっているようだ」といい、黄庭堅は蘇軾に「貴公の書は軽ろ軽ろしく論じられないけれども、まま狭く浅くまるで石におしつぶされた蟇のようだ」とやり返して大笑したが、お互いに、心中では病所(欠陥)を突かれたと思ったということである。
しかし蘇東坡の書は、幾多の病所を超えた気象の高さと精神の清らかさが認められ、この「寒食帖」を見ると、側筆だとか、おしつぶされた蟇のようなところが見えなくなっていると、松井如流は述べている。おそらく、自己の病弊は気がついて、改めて、このような境地に達したのであろうと推測している。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、230頁、236頁~239頁)

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中国書道史随想 (1977年)


蘇軾と墨


蘇軾が墨にこだわった話は有名であるらしい。榊莫山が『莫山書話』(毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)において、この話を紹介している。
蘇軾は、若くして高等文官試験の科挙にパスした英才であった。彼は宋代を革新する政治家になるのが夢だったが、その夢もはかなく消え、政治的な圧迫や左遷で、あげくのはては投獄という不遇に彷徨した。ただ、この不遇が、彼をたぐいまれなる数奇の詩人にした。彼は政治への不信を不朽の名作「黄州寒食詩巻」のなかへ、おりたたむようにしてえがいた。
この詩人は、文房四宝への憧憬も大きかった。彼はロマンをかきたてて、狂人のように墨造りへとはしった。
松脂を焚いて松煙のススで造った墨の色は、青く冴えて美しいそうだ。青墨(せいぼく)とも呼ばれた(水墨画をかく画家になくてはならない墨だったという)。
かつて、宋の詩人・蘇軾は、この松煙のススにこだわった。自分でススとりをするんだと、といって、谷深い松林のはえた山に分け入り、小屋をたてて、松煙をたきつづけて、ススとりをはじめたが、なんと山火事をおこしてしまったほどである。墨というのは、それほど人を夢中にさせるのである。
また、蘇軾は歙(きゅう)州の硯である歙硯(きゅうけん)にも、ぞっこん惚れこんだ。あたかも歙州の硯が少なくなっていた頃で、それを惜しんで詩にうたっている。歙州では、採石の坑道に洪水が流れこんで、手がつけられなくなっていた頃の話である。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)

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新装版 莫山書話

蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」


蘇軾の字(あざな)は東坡である。つまり彼がみずから「東坡居士」と号したのは、湖北省にある黄岡(こうこう)での流刑時代のことであった。彼は朝廷での政争に巻き込まれて、荒れた土地を開墾し畑とし、そこを「東坡」と読んだ。「坡」とは坂道のことで、ここでは岡の意味に使われているという。
この黄岡では豚肉が安く、ほとんどが泥土と同じくらいの値段で買えたようだ。そこで彼は安く手に入る豚肉を買ってきては喜んで食べ、やがて新しい料理を開発した。それが「東坡肉」という豚の角煮であるそうだ。宋の周紫芝(しゅうしし)の書物『竹坡詩話』には、蘇東坡の詩「猪肉を食らうの詩」が引用されている。「黄州の好き猪肉、価(ねだん)の
賤(やす)きこと糞土の如し、富者は喫(た)べることを肯んぜず、貧者は煮るを解せず、火を慢着(とろび)にし、水を少着(すくなめ)にし、火候(ひかげん)足りし時、他(それ)は自ずから美(うま)し」というものである。
これは浙江省杭州で今も名物料理とされる。これが黄岡のあった湖北ではなく杭州の名物とされるのは、蘇東坡がやがて罪を許されて都に帰り、さらに杭州の知県(知事)となった時に、民衆から届けられる豚肉と酒(紹興酒)を使って、この料理をよく作り、民衆にふるまったからであるという。
(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、56頁~58頁)

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漢字の字源 (講談社現代新書)

黄庭堅の書について


黄庭堅の「松風閣詩巻」は書の革命であると石川はいう。「筆蝕」の細分化と連合が見られ、起筆・送筆・終筆の各単位をさらに起筆・送筆・終筆の小単位(3×3=9の小単位)に細分化し、九折化した小単位を「三折法」が統合して、一つの字画を描き出しているとする。そして切れよく小気味よい必然的脈絡(テンポ)が全体を覆っているという。
この点、五木ひろしの歌った歌謡曲「よこはま・たそがれ」というわかりやすい例を持ち出し、説明している。山口洋子が作詞したこの曲は、名詞を突き放すように並べただけといったふうの構成であるが、新鮮な歯切れのよい作詞法である。そこには、従来の流れとうねりと連続の歌謡曲の歌詞にはついぞ聞かれなかった。
黄庭堅の「松風閣詩巻」は喩えれば、実質はともかく、形の上では主語も述語も繋辞も消えたかのような山口洋子の「よこはま・たそがれ」なのだというのである。このような切れ味のよいテンポをもつ行書は従来まったく存在しなかったと称賛している
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、234頁~240頁)。

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中国書史

米芾の毒舌について


李家正文(りのいえ まさふみ)は「米芾の毒舌―欧、褚、公権、張旭、懐素、智永―」というエッセイで、面白いことを述べている。
欧陽詢、褚遂良、柳公権、張旭、懐素、智永は、中国の書道史上に有名な書家である。
ところが、米芾にとってはすべて悪筆の代表であるという。米芾は、『米襄陽集』において、薛郎中の紹彭に寄す」という詩をおさめている。
そこには次のようにある。
「欧は怪 褚は妍自 ら持せず
 猶能く半ばは古人の規を踏む
 公権の醜怪は 悪札の祖にして
 茲従り古法は蕩として遺ること無し
 張顚と柳とは頗る同罪にして 
 俗子を鼓吹して乱離を起こす
 懐素は猲獠(かつりょう) 小(すこ)し事を解するも
 僅かに平淡に趨(はし)れば 盲医の如し
 憐れむ可し 智永は硯空しく白く
 本を去ること一歩 千嗤(し)を呈す
 已ぬる矣 此の生は此が為に困しむ
欧陽詢の書は怪勁であるし、褚遂良の書は妍媚であるが、どちらもしっかりしたところがない。ただ多少は古人の書法に従ったところはあろう。
しかし、これに対して柳公権なんかは、醜怪そのもので、それこそ悪筆の元祖みたいなものである。柳公権があらわれてからというもの、古人の書法は、水に押し流されたように消え去ってしまい、この世に残らないことになった。
そういえば、張旭も柳公権と全く同罪の徒である。かれらは世間の俗人をあおり立てて、正しい書法を乱してしまい、かれらの書が書だというものだと誤らせて、正しい道から離れさせてしまったのである。
また懐素は、一匹狼か西南の土蛮みたいな奴である。まあ、すこしは書のことがわかっていたかもしれないが、それはかれの草書だけのことで、普通の真行書になると、もう駄目で、まるで盲医のように心もとない。
ことに憐れな者は智永である。永欣寺の楼門に籠居して、多くの人々のために書きまくって暮らした。そのために筆はちびていっぱいになり、硯には墨が切れて乾き、正法の書から外れる始末となって、世間の人々から笑いを買うことになった。
どうにもいたしかたのないことである。この人生は、君のために、たれもかれも苦労することである。このように李家正文は解説している。
このように、毒舌極まった米芾は、書家たちから敬仰されている諸家を、そろいもそろってなぎ倒している。
李家正文の米芾評は、「米芾は書画学博士ではあったが、懐古的というか、古代への妄想狂の一人で、唐朝の冠服を着て得意になっていた変人であった」という。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、272頁~277頁)

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書の詩 (1974年)


宋の四大家の書について


宋代を代表する書といえば、蔡蘇黄米の四大家が挙げられるが、蘇・黄は革新書風の完成者として天才をうたわれたのに対し、蔡・米は古法の継承者として盛名を馳せた。
米芾と蘇軾・黄庭堅の書の相違点を、出身階層の相違と結びつけて考える人もいる。
例えば、米芾は官僚地主の出身で、宋初の功臣米信は五世の祖である。一方、蘇軾や黄庭堅は科挙による新興の士大夫階級であり、蘇軾の祖父から五代さかのぼると、もう名も知られず、祖父の蘇序自身、文盲に近いという、いわば成り上がりものであるといわれる。
米家も貴族階級ではないけれども、米芾は幼少より皇親国戚の豪華な邸宅に育ったというから、その生活環境が彼の人となりに影響を与えたと考えられている。
米芾の父の佐は、左武衛将軍、中散大夫、会稽県公という官品を贈られた。また、母の閻(えん)氏はかつて英宗皇后の高氏の乳母であった人で、丹陽県太君を贈られた。米芾が貴族社会で育ったのは、この母の関係からであり、米芾は科挙によらず、高皇后の子神宗が即位すると、旧恩によって秘書省校書郎になることができた。時に米芾は18歳(1068年)であった。
その後、1106年には、書画学博士に除せられ、そして徽宗は特に便殿において賜対し、米芾は、子の友仁をともなって拝閲した。すると、徽宗は自ら筆を揮った書および画扇を賜ったという。
このことは、三者のうちで、蘇軾・黄庭堅と米芾との書が、革新的と保守的という対照的な相異を示していることと関連があるという。
(宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社、1972年、57頁~58頁、63頁)

【宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社はこちらから】

中国書道史〈下巻〉 (1972年)

宋代の朱熹の書について


朱子学を大成した南宋の朱熹(1130~1200)の書「劉子羽神道碑」(1179年)も残っている。朱熹は13歳で父を失い、遺言によって母とともに当時劉子羽(1097~1146)の後援をうけた。劉子羽は北宋の末、靖康の変で殉節した勇将の子で、軍略家として知名の士であった。
こうした因縁の劉子羽の碑であるから、朱熹は文も書も力をこめてなしたようだ。その書体はやや行書風をおびた楷書で、穏健で端正な字体は、学者の書たるにふさわしく品格が高いと評される。この朱熹の書について、平山観月は次のように記している。
「書は唐にあきたらずとして魏晋にさかのぼり、とくに曹操を学んだというが、これはきびしい学問的態度の結果であろう。書風は少し艶態を含みながら、より以上の骨がありシンが通っている。そこにかれの性格のあらわれがみられる。」と。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、289頁~290頁、294頁~295頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)


≪書道の歴史概観 その7≫

2021-02-14 11:26:07 | 書道の歴史
ブログ原稿≪書道の歴史概観 その7≫
(2021年2月14日投稿)





【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 中国史において、唐代と宋代の間は、変革期であるといわれ、「唐宋変革論」などの議論がある。書においても、その特徴は対照的であるとされる。
 今回のブログでは、唐代の書の特徴、唐代から宋代への書の変遷などについて、解説しておきたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・唐代の書の特徴について
・唐代から宋代へ
・中国の書の歴史の見方について
・唐の四大家の楷書について







唐代の書の特徴について


青山杉雨「行書の歴史」(西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]所収)は、唐代における書の特徴として、
①書の造型上の均整が、完成された状態の漢隷の極致にも比肩し得るほど高められたこと、
②運筆上の合理性、すなわち三折の法を完成したこと、
この2点を青山杉雨は指摘している。
とりわけ、三折の法により、起、運、終の筆法が明確に規定されたことは、王羲之を中心とする晋の書と相異なる重要なポイントである。この点は、石川九楊も強調し、壮大な構想のもとに、中国書史を叙述している。
一般に一口に晋唐というのが、書法上より見るとき、この二つの時代の書の内容はへだたりがあると青山はいう。この二者を区分するためにこの三折の問題は重要な手掛りとなる。初唐は楷書の頂点を形成する時代ではあったが、この時点では行書は王羲之によって既に解決されていたのではないかと青山は考えている。楷書に卓抜な手腕をみせた欧陽詢・虞世南・褚遂良の三家でも、行書では、楷書ほどのものを示していない。欧陽詢の「史事帖(しじじょう)」、褚遂良の「哀冊文(あいさくぶん)」、「枯樹賦(こじゅのふ)」、太宗の「温泉銘(おんせんのめい)」、「晋祠銘(しんしのめい)」などでも、行書の頂点としては難がある。むしろ王羲之によって完成された行書の技術に、楷書の三折的要素を加味したにすぎないと青山は捉えている。その点、李邕には、王羲之の法を唐人的に押し進めて、一つの記録を出しているとみてよいとする。
(青山、1971年[1980年版]、116頁)

【西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社はこちらから】

書道講座 第2巻 行書


唐代から宋代へ


唐の太宗期には、王羲之の書が普及したが、唐の中ごろからは、かえって俗書とみなされるほどになった。やがて、宋代になって江南に伝えられた伝統文化が主流をなすようになると、もはや士大夫の間では顧みられなくなってしまう(しかし、元代にいたり、趙子昴がでて王羲之の書の復興をとなえるにおよんで、再び「集字聖教序」(唐の僧懐仁がでて、王羲之の書を集めてつくったもの、碑は西安の孔子廟に現存している)の碑が光彩を発揮することになる)。
(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、14頁~15頁)

【上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館はこちらから】

現代書道全書 第2巻 改訂新版 行書・草書

唐代から宋代への書の特徴は、唐の法則的、形式的な書から、宋の飛動的、個性的な書へといった具合に移っていったものと、捉えられている。換言すれば、唐人が書法や型に束縛されて、生気を失ったのを知って、宋人は唐人の形成した殻を破って、自由に自己を表現しようと考えた。そのために、奔放粗野になり、気品において劣るものの、その意気と努力は壮とすべきであるとされる。そのような革新の巨頭が、蘇東坡(1036-1101)、黄庭堅(こうていけん、1045-1105)、蔡襄(1012-1067)、米芾(1051-1107)のいわゆる宋の四大家である。
北宋の末から禅僧の間に蘇東坡、黄庭堅の書風が流行し、自由奔放な書が多く現れ、日本の鎌倉時代の禅林の間に流行し、やがて茶道と結ばれて、広く愛翫された。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、67頁~69頁)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史


中国の書の歴史の見方について


中国の書の歴史を振り返った際に、「書はすべからく晋唐を宗とすべきだ」とよく言われる。一般に中国の書に対する関心は、晋唐時代が中心であり、宋元代以降は従来あまり顧みられなかった。
ところで絵画の世界と比べてみると、西洋画の関心は歴史的にはルネサンス以降の時代である。中世の宗教的な画に発想の手がかりを求める人はほとんどいないであろう。ところが、書道の場合には、中世とでもいうべき晋唐時代(学説によっては古代という捉え方もある)が、強い影響力をもっていた。書をやっている人は、一般に晋代の王羲之や王献之、あるいは唐初の欧陽詢、虞世南、褚遂良、そして顔真卿といった中世の書家に関心を抱いてきた。晋唐の書を神経質なまでに分析して、とことん習得しようと努めてきた。つまり中国の書の歴史的視野というものは、晋唐に始まり晋唐で終ると見られてきた。そして近世にあたる宋元代以降の書には従来、あまり関心がなかったのが実情であった。
歴史的な書を研究する場合に大切なのは、その時代の資料(史料)であるが、晋唐時代の書の作品は不明瞭な拓本がほとんどである。それに対して、宋元代以降のものは直接肉筆で見ることのできるものである。書法に対する鮮明という点では、拓本の場合のように彫られた上摩滅した解釈のしにくいものよりは、肉筆の方が明白で、筆の動き方などが一目瞭然でよくわかるという利点がある。
今日では晋唐時代の書を異常に高くする偏向した考え方もだいぶ修正され、近世以降の書も、中世の書と同様に重要であると考えられるようになったという。
北宋で書の名家として、蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾という四大家がいる。それぞれに異なった持味の書をつくっているが、蔡襄は廉清、蘇軾は重厚、黄庭堅は俊敏、米芾は繊美と表現される。名人の書がその人格にもつながる質のものであるとみなされている。そこには卒意な運筆が随所にみられ、いわゆる唯美的な表現を極力避けようとしていることが看取できるといわれる。唐代の書家とは違い、技術を至上のものとせず、また他人の模倣を厳しく忌みきらう宋人の誇り高き生活態度を感じとることができるという。
ただ、これらの宋代の四大家は晋唐時代の書の伝統と断絶したところから出たのではなく、宋代は唐代以上に王羲之が尊重された時代であるらしく、四人は四人とも揃って王羲之をよく習ったのみならず、顔真卿をも併せて習っていた。つまり、王法・顔法を一度自分のものとして吸引して、自分の書として再表現される時には、主体的な自己主張の方が表に出て、王法・顔法は技術として形の裏にかくされてしまったのだと青山杉雨は理解している
(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、49頁~51頁、65頁~70頁)

そして宋元代の個性的な書として、禅林墨蹟がある。これは宋元代の禅宗の僧侶(とりわけ禅宗でも臨済宗)が書きのこした書のことである。この墨蹟は、本家の中国では一点も残されていないにもかかわらず、日本には残っているという奇現象がみられる。それのみならず、日本の文化史の中では、墨蹟は異常ともいえるほど、重視されている書である。ここに日本人と中国人の美意識のちがいの一例が見られると青山は捉えている。日本の墨蹟は禅と茶道との関わりが深い。日本に禅宗の渡来とともに飲茶の風習も渡って来たことは周知のことである。最初、それは鎌倉武家の間でたしなまれ、やがて茶道としての体裁をととのえ、室町時代では、上流社会に重要な教養としての地歩を占めた。そして茶席の床の間に、最上の掛物としてこの墨蹟類が扱われるにいたり、その貴重感が一段と高まった。このように日本の文化史で、墨蹟は禅と茶道と密接な関連があったのである。ただ、墨蹟は本来茶道の床の間に掛けることを目的として書かれたものではないし、これを中国から招来した日本の渡航僧もそういう目的で持って帰ったものではない。それらの多くは、自分が修道のため師事した高僧との出会いを大切にする記念として、書いてもらったものであるようだ。
それはあくまで宗教的シンボルとして、篋底深くしまわれて置くべきものだったはずのものであったが、茶席の床の間に掲げられる“ところ”を得て、当初とは別な使命が負わされたということになる。日本人はこの墨蹟に新しい価値を発見した。自己顕示欲のほとんど見られない個性的な書である墨蹟を、掛物として日本人は鑑賞した。そこに日本人の審美眼・美意識があると青山は捉えている。
元代の書の名手として趙子昻(ちょうすごう)が名高いが、この人が尊敬して交わっていた中峰明本(ちゅうほうみんぽん)という高僧も、その書は日本にこそあれ中国には全くないという。しかも趙子昻がこの中峰明本に送った手紙は、今日では日本にも残っているそうだ。不思議である。
その中峰明本の「勧縁疏」(五島美術館蔵)という書は、まるで柳の葉をバラ撒いたような線で書かれた特殊なものである。それは古い書の名品に擬そうとするのではなく、誰に似ているなどとはとてもいいようのない変わった書風である。この現象は、日本人と中国人の美意識のちがいがわかる一例である。その理由として、青山は、中国人の書における合理主義により、書法的にそれほどでもない墨蹟類は、中国の歴史の中で残存しなかったのではないかと推測している
(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、55頁~61頁)

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書の実相―中国書道史話


唐の四大家の楷書について


中国において楷書がもっとも隆盛するのは北魏と唐である。
唐の四大家は、欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿とされる。欧陽詢は清澄な、虞世南は穏健な、また褚遂良は艶麗な、顔真卿は重厚な味わいを有しているといわれる。
こうした個性を越えて、この唐の四大家には、唐代の共通した特徴があると魚住は指摘している。
たとえば、「有」という字を例にとると、
①左払いが短く、しかも払い出すに従って、線が細くなっていること。
②横画が短くなり、それもむしろ右方に長く伸びている。
③「月」部の二つの横画が短く、右側に少し余白がとられていること。
北魏の場合に比べて、唐代の楷書は、字形の重心がかなり左側に位置しているという。
(魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社、1996年、68頁~70頁)

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)

≪書道の歴史概観 その6≫

2021-02-13 19:08:58 | 書道の歴史
ブログ原稿≪書道の歴史概観 その6≫
(2021年2月13日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、顔真卿、則天武后、懐素の書を考えてみたい。あわせて、いわゆる「永字八法」「千字文」について説明しておく。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「永字八法」について
・「千字文」について
・「書法流伝之図」について
・顔真卿について
・向勢と背勢について
・則天武后(623~705)の書について
・懐素の「自叙帖」について








「永字八法」について


中国の唐代に「永字八法」の基本形が生まれたと考えられている。日本がやっと本格的に文字を学習し始めた奈良・平安時代ごろである。
最低限見積もっても2万にも及ぶ文字の複雑な点画を八つの基本単位にまで抽象したという意味で画期的であった。石川九楊も、現在でもなお通用する普遍性には舌を巻くと賞賛している。
「永字八法」は単なる基本点画書法にとどまるものではない。横画を三折法(トン・スー・トン)の横画・勒と、トン・スー二折法の横画・策とに区別している。また、左はらいの画も、三折法の「掠」と二折法の「啄」に区別している。
このように、点、横画、縦画、左はらい、右はらいのすべての画に、三折法と二折法の書法があることをふまえ、それが三折法によって統覚されているという思想をもっていると石川は説いている
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、108頁~114頁)。


【石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書はこちらから】

書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)


「千字文」について


千字文は中国、梁の武帝のとき、周興嗣(521年没)が帝の命をうけて王羲之の字を集めて韻文に排列して作ったものという。千字の異なった文字を集めて、四言二百五十句の韻文としてまとめ上げたものである。「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり、「謂語助者、焉哉呼也」にいたるまで、人間社会、森羅万象について述べたものである。ただ、千字文が文の終わりの方になると意味の流れが悪くなり、「謂語助者、焉哉呼也」(助辞とは焉・哉・呼である)と苦肉の策の句で唐突に終わる。
武帝の命をうけた周興嗣は、一夜にして韻文を作り、その文を上進したが、その苦心の結果、頭髪はすべて真白になったという伝説がある。
「千字文」は漢字による「いろは歌」ともいえる。
中国歴代の書家は、千字文をよく書き、今日書道史に残っているものには、隋代の王羲之7世の孫である智永が「真草千字文」を八百本を書いて浙東の諸寺に納めたという。また、唐代に欧陽詢の「草書千字文」、褚遂良の「楷書千字文」「行書千字文」、懐素の「草書千字文」がある。
日本へは、『古事記』によると、応神天皇16年に百済の王仁(わに)が伝えたという。王羲之の筆跡の模本が天平年間に渡来し、現存する。
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、140頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、28頁~31頁、230頁~239頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、161頁。石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年、12頁~13頁)。

【吉丸竹軒『三体千字文』金園社はこちらから】

吉丸竹軒 三体千字文

【小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂はこちらから】

三體千字文 【新版】

【石川九楊『書と日本人』新潮文庫はこちらから】

書と日本人 (新潮文庫)


「書法流伝之図」について


李家正文は、「書法流伝之図」(元鄭杓作で、『古今図書集成字学典』第85巻)という書家の系譜を紹介している。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、178頁~180頁)

それは、蔡邕(さいよう)からはじまって、やがて王羲之を経て、崔紓(さいしょ)にいたるまでの書家の系譜である。 
この系図の中で、王羲之は次のように位置づけられている。
衛夫人(衛恒之従妹)―王曠―王羲之(曠之子)―王献之(羲之之子)―(省略)―釈智永(羲之九世孫)―虞世南―欧陽詢―褚遂良
また、欧陽詢の次に褚遂良のほかに、もう一人陸柬之(世南之甥)を挙げている。そして、次のような系図になる。
陸柬之(世南之甥)―陸彦遠(柬之之子)―張旭(彦遠之孫)―顔真卿としている。そして、この系図の中に、張旭の門下で顔真卿の兄弟子に李陽冰(りようひょう)という者がいる。李白の従叔にあたる。

【李家正文『書の詩』木耳社はこちらから】

書の詩 (1974年)

顔真卿について


中唐の革新派に張旭(生没年不詳)がいる。彼は伝統の二王の書法の権威を認めることなしに、新しい書をかいた。こうした風潮が起こった理由はどこにあるのかという問題に関して、社会史的にみた場合に、次のように平山観月は解説している。つまり、そもそも王羲之の書を生み出した社会的基盤は中世の貴族社会である。しかし中唐という時代は、貴族が没落してゆく時代で、それとともに、王羲之のような妍美な書風がすたれるのも当然であるというのである。
これは書だけの問題ではなく、文章の問題でもあった。韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。そしてその韓愈は、王羲之の書については姿媚を追う俗書だと罵っている。このように、王羲之の典型を破ろうとする革新の動きが詩文の改革とともに、当時発生しつつあった。その機運の先鋒に立ったのが張旭であり、その彼が玄宗の開元年間の末に没すると、そのあとをうけて大成した人物が顔真卿(709-785)であった。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、206頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)


顔真卿は名門の生まれではあるが、幼時家が貧しかったので、紙筆にとぼしく、黄土で牆(へい)に習字したといわれる。
また家が破れて雨が漏り、その雨痕(あと)の色々な形を見て大いに書法をさとったといわれ、「顔の屋漏痕(おくろうこん)」という。
文に長じ、書に巧みなばかりでなく、一身すべて忠節の権化ともいうべき大人物である。洛陽にのりこんだ安禄山に、義勇軍をあげて立ち向かった。
玄宗から帝位をゆずられた肅宗は、そんな顔真卿を法務大臣に任命して、綱紀の粛清をはかった。「争座位文稿」はそんな時に書かれた56歳の時の書である。それは座位を争って郭僕射に送った文稿である。「祭姪稿」「祭伯稿」とともに顔真卿の三稿として有名である。不用意に書いたといわれる「率意の書」であるために、顔真卿の性情がみられるといわれる。古来、「蘭亭序」とともに行書の二大双璧といわれ、また顔真卿の書として第一位に推されてきたが、「祭姪稿」の方が格調が高いとされる。
ともあれ、「争座位文稿」は「蘭亭序」の媚に対して、率意のうちに醸し出された渾樸の妙趣があるといわれる。顔真卿の楷書を大いにけなした宋代の米芾も、この「争座位文稿」だけは顔書の第一として推称した。
「千福寺多宝塔感応碑」(752年)は、唐の天宝11年(752年)、長安の平福寺に勅建したもので、僧楚金(698-759)の舎利塔碑である。43歳という最もはやい頃の書で、もっぱら欧陽詢・虞世南などの書を学んだと思われる時代のものであるようだ。だから、後半の顔法すなわち風骨遒峻、風稜人を射るごとき趣はいまだみられないといわれる。この多宝塔の拓本は、楷書の手本を適するところから、ひろく書学者の間で愛翫されてきた。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、228頁~229頁、245頁~246頁。鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、63頁~65頁。榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版、62頁~63頁)

「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」は63歳の時の書である。麻姑とは仙人のこと、仙壇とは仙人のいる山のことであり、筆力深遠円熟の作であると評される。しかし、脂ぎっている書であるために、日本人の性情に合わないせいか、あまり日本人には迎えられないという。この点、褚遂良の方は日本的情趣が豊かであるために、受け入れやすい。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、64頁)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史


【榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社はこちらから】

書の歴史―中国と日本 (1970年)


顔真卿は、唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感のつよい剛直の士で、王羲之のような貴族的な書は全く意に満たなかった。顔真卿が求めた書風は、妍美なものに反撥し、男性的な重みと、剛気とにみち溢れた主体的なものの表現であったと平山はみている。革新派の流れをくむ宋の蘇軾は、顔真卿の書に、最上級の讃辞を贈っている。ともあれ、顔真卿の書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立ち、中国書道史上、王羲之と並んで二大宗師と謳われる。
(平山、1965年[1972年版]、206頁~207頁)

中唐の顔真卿の「祭姪稿(さいてつこう)」は、「争座位稿」「祭伯稿」と共に、三稿として有名である。「祭姪稿」は、明快、ズバズバと書きおろし、独特なふくらみのある逞しい線で書かれている。数多く残されている碑文も、碑ごとに書相を異にしていたので、「真卿の一碑一面貌」といわれている。空海は顔真卿没後に入唐したが、空海の名蹟「灌頂記」はこの「祭姪稿」の影響が多いといわれている。
(鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年、121頁)

【鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社はこちらから】

書道入門 (行書編)

顔真卿の個性的な我侭は、書法上に大きく投影していた王羲之を乗り越えて、一格を形成することに成功したと理解されている。この顔真卿あたりから、書は技術的内容から、人間的、精神的内容へと比重が移行しかけ、やがて宋代の書のごとき時代思想の影響を受けた作品が産出されるにいたる。書作上における思想的傾向は、唐代においては顔真卿ばかりでなく、張旭(ちょうきょく)や懐素(かいそ)にも見られる現象だが、宋代に入って蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾の四家が輩出するにいたる(青山、1971年[1980年版]、117頁)。
顔真卿の楷書の姿は「蚕頭燕尾」と言われる。起筆は蚕の頭のように角を失って丸く大きくなり、燕の尾っぽのように、はらいの先が細く長く伸びている。この形は起筆を送筆気味に紙の奥深くへ打ち込み、その反撥する力にのっかりながら終筆へ向かい、終筆で再び紙の奥深くへ抑えこむ筆蝕によって描き出される。
ところで、高村光太郎は「美について」の中で、顔真卿について次のように書いた。「顔真卿はまつたくその書のやうに人生の造型機構に通達した偉人である」と。
石川九楊はこの説に必ずしも同意していない。その石川は、顔真卿の書について、「筆蝕」つまり「書くこと」の姿を字画の外部に露出させることによって、初唐代とは異なった新しい段階(ステージ)に立ったと語っている
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、178頁~179頁)。

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書と文字は面白い (新潮文庫)


向勢と背勢について


書に向勢(向きあう)と背勢(背中合わせになる)という二種の文字結構(構成)法がある。書の歴史も向勢と背勢、そして直勢の織りなすドラマであると石川は捉えている。
「楷法の極則」と呼称される、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、「皇甫誕碑」や「温彦博碑」の背勢を内に含んだ、直勢や背勢によって成立している。起筆を強めることによって生じる直勢や背勢によって楷書の文字の構成美は完成し、頂点を極めたという。この後、顔真卿はあからさまな向勢のなまなましい線によって、表現美へと書の歴史的ステージを押し上げた。
ところで、一般的に、向勢は膨張形と受感され、暖かさ、温(ぬく)み、軟らかさ、鈍さ、安定、解放に馴染むようだ。一方、抑圧に耐える姿を連想するところから、背勢は冷たさ、寒さ、強さ、硬さ、厳しさ、鋭さ、屹立(きつりつ)、閉鎖の雰囲気を醸し出すといわれる(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、109頁~110頁)。

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

則天武后(623~705)の書について


則天武后は、中国史上まれにみる女傑である。并州文水(山西省)の人で、第3代高宗の皇后であった。はじめ太宗の後宮に入って才人に選ばれて、太宗の崩じたとき、剃髪して尼となったが、高宗に望まれて髪をたくわえ、再び後宮に入り、その寵を得て、655年皇后となった。武后33歳の時である。
則天武后の書は太宗の影響をうけて、堂々たるものがあり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも勁いといわれる。
(平山、1965年[1972年版]、254頁~255頁)

高宗が崩じてからは、形式的には実子である中宗・睿宗を立てたが、実権を握り、690年、国号を周と改め、自ら聖神皇帝と号した。その業績については、政治家としてみるべきものがあったとする説と、唐の宗室をほとんど傾けさせたことに対する非難とが相半ばしている。
則天武后は書にも精通しており、「昇仙太子碑(しょうせんたいしひ)」(699年)は今に残っている。この碑は河南省偃師県の東南の緱山(こうざん)の昇仙太子廟にある。昇仙太子というのは、周の霊王の太子晋のことで、王子晋といわれ、仙道をおさめ、白鶴に乗って緱氏山上から昇天したと伝えられている。
則天武后は国号を周と改め、河南の嵩岳(すうがく)に行幸して封禅の礼を行なった。行幸の際、廟の修築を命じ、碑を建立させたのである。
唐の王室は老子をその祖としたのに対して、武氏は周王室の姫姓(きせい)の出であるとして、その宗室の仙人を尊んで、アピールしたのである。
この碑の書は草書で、石刻では最初の例とされ、また女性の書碑として珍しいものとされている。武后の書は太宗の影響をうけ、王羲之の書をよく学んでいる。同じく太宗を学んだ高宗にくらべると、強く豊かであると真田は評している。また、この碑文の中には、武后の時代に作られたいわゆる則天文字(たとえば、○(星)など)が用いられている。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、201頁~204頁)

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中国書道史〈上巻〉 (1967年)


懐素の「自叙帖」について


書は音楽にも親しい表現であるといわれる。哲学者・西田幾多郎は、「書の美」というエッセイの中で、「音楽と書とは絵画や彫刻の如く対象に捕らはれることなく、直にリズムそのものを表現する」と書いた。
書にかぎらず、中国には春秋戦国時代から同質であって長短等しくないさまを参差(しんし)と言い、「参差不斉」なる言葉があって、参差が美を構成する上で不可欠と考えられていた。ちなみに参差とは竹の管を束ねた簫(笛)のことであるという。書は参差、つまり音階の芸術でもあった。書は強弱を基盤とする書字の律動(筆蝕)の上に成立する。
唐代の懐素の「自叙帖」(777年)は劇的性格を秘めた畏るべき書であるといわれる。石川はその筆蝕をひとつの交響曲として理解している。西欧古典(クラシック)音楽のような規模で現れる書は、この懐素の「自叙帖」を嚆矢とすると捉えている。古法=歴史的書法=二折法は、書史上においては懐素の「自叙帖」によって、完膚なきまでに粉砕されたとみる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、205頁、216頁)。

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中国書史



≪書道の歴史概観 その5≫

2021-02-13 18:18:01 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その5≫
(2021年2月13日投稿)
 



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中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、初唐の三大家について解説してみたい。初唐の三大家とは、唐の太宗期において活躍した虞世南、欧陽詢、褚遂良の三人を指す。
 唐太宗期といえば、中国の書道の歴史においても、最も華やかな時代である。その時代を生きた初唐の三大家の書には、どのような特徴がみられるのだろうか。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・初唐の三大家について
・欧陽詢の貧相醜顔について
・欧陽詢の影響
・明朝体という活字と欧陽詢について
・欧陽詢に関連して
・写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について
・結構法と欧陽詢、顔真卿の書
・褚遂良について
・褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)
・褚遂良臨模本について
・初唐の三大家の書について
・楷書について
・初唐の三大家の書と筆について








初唐の三大家について


ここで、初唐の三大家について紹介しておきたい。
虞世南は、会稽余姚(よよう)の名門の出で、幼時、同郡の智永(王羲之七世の孫)に学び、長じて一家をなした。博覧強記で、太宗に仕えて重用された。
「孔子廟堂碑」(626年)は虞世南70歳頃の書である。その書は平正温雅、沈着悠遠、しかもふっくらとした感触的快味があって少しの厭味もなく、品位においては古来唐朝第一といわれている。初唐のものでは最も優れたもので、智永の千字文の楷書の面影もあり、おだやかであると評される。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、54頁~55頁)

欧陽詢は潭州臨湘(湖南省長沙県の南)の人で、その父は陳の広州刺史であったが、謀反をもって誅された。欧陽詢が13歳のときのことである。欧陽詢は年少のために罪をまぬかれ、父の友人江総(519-594)に養育された。彼ははじめ王羲之を学び、のちに北派の書(たとえば晋の敦煌の人である索靖の碑)に心を寄せたと推測されている。つまり、欧陽詢は、ある時、索靖(さくせい)の碑を見てその巧妙さに感じ、そこを立ち去りかねて三日間碑の傍に宿ったというエピソードがある。王羲之を学び北碑の長をとり、一家をなした。70歳頃の書として「皇甫府君碑(こうほふくんひ)」があるが、この書は北魏の余韻もあって、険勁痛快な書とされる。

ところで、欧陽詢については、面白いエピソードがある。欧陽詢は容貌のひどく醜い大男であったようだ。高麗からの使者がその書を求めたとき、唐の高祖は「その書を観たなら、もとより形貌の魁梧を想像できまい」と言ったという話が伝えられている。
また、636年に文徳皇后の葬儀の際、欧陽詢の喪服姿があまりに醜かったので、許敬宗という人物が思わず笑ったため、御史に弾劾され、洪州都督府司馬に左遷されたという(『旧唐書』許敬宗伝による)。
この容貌の醜さと、少年時代の不幸の境遇とは欧陽詢の芸術に影響するところが多かったと真田は想像している。そもそも宋代の蘇軾もすでに、「率更(率更令の欧陽詢のこと)の貌寒寝(貧相で醜いこと)、いまその書を観るに、勁険刻厲(けいけんこくれい、つよくけわしい)、まさにその貌に称(かな)うのみ」とも言っている。
欧陽詢の書に見えるきびしいけわしさと非情とも言える美しさは、彼の人間性に深く根ざしたものと見るべきであろうと真田は述べている。つまり、境遇のけわしさが勁さを求め、容貌の醜さが逆に整った美しさを追求させ、楷書の規範といわれる完成がなされたのではないかというのである。これら二つの要因が新時代の風気とともに大きな素因となったと考えている。
「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」(632年)は、唐の太宗が632年の夏、九成宮(隋の仁寿宮を修理したもの)に避暑に行き、その一隅に甘美な泉を発見したのを記念するために建てた碑である。銘文は侍中の魏徴、書は率更令の欧陽詢である。欧陽詢が数え年76歳のときの書である。これは欧陽詢の代表作であるばかりでなく、楷書の典型の一頂点を示すものである。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、166頁~172頁)

【真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社はこちらから】

中国書道史〈上巻〉 (1967年)

そして、先述したように、欧陽詢の代表作として「九成宮醴泉銘」がある。76歳の書で、勅命によって書かれたこともあり、一種の荘厳の感がある。晩年の円熟の書であるだけに、点画精妙、意欲精密、間然するところがなく、「皇甫府君碑」より上品であると評される。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、55頁~56頁)。

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新説和漢書道史


書家の鈴木史楼も、「端整な姿の楷書と言えば、欧陽詢の絶品として知られる九成宮醴泉銘の右に出るものはない」と絶賛している。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、132頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)

ただし、書家のすべての人が、初唐の三大家の楷書を楷書作品の最高峰と高く評価しているわけではない。たとえば、松井如流は、北魏の鄭道昭、王遠あたりの書は、初唐の三大家の書より高く評価し、親しみを感じていると明言している。偏食もはなはだしいといわれそうだが、今さら自分の宗旨をかえようとは思わないという。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、220頁)

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中国書道史随想 (1977年)

欧陽詢の貧相醜顔について


欧陽詢の伝は、『唐書』巻198、『旧唐書』巻189に見える。また、唐代伝奇によると、欧陽詢の父紇(ごち)が奥地に妻を伴った。ここには木簡を読む老いた白猿がいて、美人の紇の妻をさらったが、やがて猿顔の欧陽詢を生んだという奇怪事を紹介している。そのため貧相醜顔であったということになっているようだ。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、133頁)

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書の詩 (1974年)

欧陽詢の影響


ところで、唐の欧陽詢の書は、日本の書道にどのような影響を与えたのであろうか。
「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」は、大化2年(646)の建碑で、日本に現存する最古の石碑である。現在は宇治川の東畔、常光寺放生院(俗称、橋寺)の境内に保管されている。碑文の内容は、僧の道登の宇治橋架設の功を讃えたものである。全文は24句、96字から成っていたが、現在は6句24字を残すのみとなり、断碑と呼ばれている。
その書風は、一字一字の丈が低い隋風の楷書である。大化2年といえば、中国ではすでに初唐時代に入っており、丈高な楷書が成立していた。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の成ったのは貞観6年(632)である。しかし、日本へはまだ、その新様式の楷書の影響は及んでいないことがわかる。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、38頁~39頁)

【堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版はこちらから】

中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

ところが、伝嵯峨天皇宸筆として「李嶠(りきょう)雑詠断簡」には、その影響が認められる。
伝嵯峨天皇宸筆としての「李嶠雑詠断簡」(陽明文庫蔵)は、唐代の詩人李嶠(644-713)の五言律詩を書写したものである。春名好重によれば、字形は縦長にして、結体は緊密である。点画は雄健峻抜にして、筆力が充実しており、用筆は自在で、運筆に緩急抑揚の変化があり、独特の奇癖偏習があるという。しかし、巧秀にして脱俗超妙であり、格調が高い。
この「李嶠雑詠断簡」の書風は、唐の初めの欧陽詢の書風であるといわれる。欧陽詢の書風は白鳳時代から平安時代の初めまで、王羲之の書風の次に愛好されていた。
(春名好重『古筆百話』淡交社、1984年、136頁~137頁)

【春名好重『古筆百話』淡交社はこちらから】

古筆百話

明朝体という活字と欧陽詢について


一般に、現在の活字には、漢字の字体に宋朝体、教科書体(楷書体)、清朝体、明朝体の四活字がある。
宋朝体は中国宋代の版本にならって模刻したのがはじめである。教科書体は楷書をそのまま活字としたものが戦後整えられた。戦前から用いられた楷書体は、名刺などに使用されている清朝体であった。明朝体は印刷体としてもっとも多く用いられており、新聞など出版物の活字はすべてこの字体を主とする。
明朝体と呼ばれるように、中国明時代に用いられている。ただし、それは活字印刷ではなく、木版本(明版)で、一枚の板全面を字面として彫った「整版」という印刷である。
明朝体活字が近代の洋式活版印刷に用いられるようになったのは、明治初年に本木昌造(もときしょうぞう)などが上海にいた米人ウィリアム・ガンブルを長崎に招いて、その指導によって明朝体の鋳造活字を製作したのがはじまりであるという。
明朝体の源流を探った場合、万暦年間の木版本の字体に辿りつくが、中国書道史の上から類型を求めると、初唐の三大家(欧陽詢、虞世南、褚遂良)の一人の欧陽詢の筆法(欧法)に似た結体であるといわれる。洗練されて整った書体はきびしさがあって、難をいえば、懐の狭い感じがなくもない。しかし古来楷法の極致といわれて、学書者必修とさえ称されている書である。他の二家もやはり楷書の規範であるが、欧法を版下の手本としたのは彫りやすいこともあったであろうと推測されている。このように、明朝体は欧法より出ているとされる。また「ハネ(趯法)」の筆法は、顔真卿の筆法の影響が見られるともいう。
(財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社、1967年[1977年版]、139頁~142頁)

【財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社はこちらから】

書の美―新しい見かた (1967年)

欧陽詢に関連して


書道博物館には、敦煌出土のもので、他に見られない珍しい唐人の細字の練習の肉筆があることを、日展審査員で帝塚山大学教授であった田中塊堂(1896―1976)は紹介している。
それには、1字を70~80字ぐらいずつ習っている。「覺」や「壽」の字を見ると、欧陽詢の筆法を学んだことがわかるという。例えば、「覺」の下の見の最後のハネ上げるところ、頭が比較的大きいことや、「壽」の結体、横画の長いところなどに、いちじるしくその特徴が見られると解説している。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、144頁~145頁)

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写経入門

写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について


中国で楷書の典型的なものは初唐の欧陽詢、虞世南のものがよいとされる。田中塊堂はあえて、その一時代前の智永の「真草千字文」を推している。
智永は、書聖王羲之七世の孫で、陳から隋にかけて生存し、呉興の永欣寺に住して、書名が高かった。智永千字文の楷書は遒麗(しゅうれい)秀潤で、豊かな肉があって、見るからに温か味が感じられる。
そして、中国では、隋・唐の7世紀初め頃に楷書の典型ができた。唐の貞観元年には弘文館内で、文武職事五品以上の者は書道を学んでもよいと令が出て、その時の教授の任に当たったのが、欧陽詢と虞世南であった。
虞世南の書は平静温雅で、欧陽詢の書は峻厳端正で、共に初唐における楷書の典型を造り上げた人である。ことに欧陽詢は理想を強く表現し、力感と安定感を具備した建築性の形態を確立したので、古来これを欧法といって、楷書の極則と評された。
この欧・虞の筆法が混然一致して精彩ある唐の写経体はできあがった。日本の天平時代は、この写経体で風靡(ふうび)されている。
そして、このように解説して、田中塊堂は、お薦めの写経体として、次のように述べている。「写経の基礎となる大字の手本には欧・虞の先駆をなす智永の千字文を推し、進んで実際の写経には、虞・欧の混合体である唐代の写経体をお薦めするわけであります。」と。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、128頁~130頁、135頁~136頁)

結構法と欧陽詢、顔真卿の書


画を組み合わせて文字ができあがるのだが、その組み立て方には約束がある。それを結構法といっている。譬えていえば、建築のようなものである。
縦画には、背法と向法がある。例えば、「國」という字を見ると、左右に2本の縦画がある。これは向法、背法のどちらを使ったらよいかというのに、どちらでもよい。つまりどちらも筆法にかなっており、どちらが好きかということになる。
歴史的に見れば、初唐の欧陽詢は背法の結構法で、中唐の顔真卿は向法の結構法で、この漢字を書いている。結構法は大切で、手本の字の見方、習い方の「こつ」はここにあるといわれる。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、151頁~153頁)

褚遂良について


褚遂良は銭塘(浙江省)の人である。
褚遂良は、虞世南、鐘繇(151-230、三国魏の政治家で、伝統的な書法をよくした)、王羲之を学んで、一家をなした。ある時、太宗が「虞世南の死後、書を論ずる者がない」といわれたので、魏徴が「褚遂良があります。王羲之の筆法を得ています」と答えたので、太宗は即日召して侍書にし、太宗の手許にある多数の王羲之の書の真偽を鑑別せしめたが、少しの誤りもなかったというエピソードがある。褚遂良は欧陽詢に重んじられ、宮廷に入り、王羲之の法書の鑑識にすぐれていた。
褚遂良58歳の書として「雁塔聖教序」がある。「雁塔聖教序」は陝西省西安市の慈恩寺大雁塔にはめこまれている聖教序碑である。玄奘三蔵が、652年、寺内に雁塔を建て、翌年、塔上の石室にこの「聖教序」の碑を立てた。これは褚遂良の代表的な楷書で、細身でありながら、大ぶりの悠然とした書風である。用筆超妙、点画はすべて躍動していうべからざる妙趣があるといわれる。その一方で、勅命で書いた関係か、文字のふところが小さく、筆が割合に暢達していないと評する書家もいる。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、56頁~59頁)


褚遂良は官僚としては、尚書右僕射(うぼくや)にいたったが、後に愛州刺史に左遷され、不遇のうちに、愛州(北ベトナム)で客死した。つまり、太宗の遺命を受けて、高宗の政を助けていたが、晩年、高宗が武氏昭儀(後の則天武后)を皇后に冊立しようとしたのに反対し、帝の怒りを買い、潭州都督に左遷され、657年、桂州都督、さらに愛州刺史に貶され、その翌年658年、同地において窮死した。だから、初唐の三大家のうちで、褚遂良だけは、ベトナムと無縁ではない人物である。
(角井博ほか『中国法書ガイド34 雁塔聖教序 唐 褚遂良』二玄社、1987年[2013年版]、10頁)

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雁塔聖教序 (中国法書ガイド)


ところで、俳人・加藤楸邨(しゅうそん、1905-1993)は、「雁塔聖教序」をその随筆の中で絶賛している。
その書は、のびのびとして、一つの流れとなった書美の世界が開かれてくるので、鬱屈を覚えるときに、机上にひろげてみていたという。心をのびやかにしてくれるというのである。つまり、虞世南や欧陽詢を見た目で改めて褚遂良に接すると、豊潤な味わいが満ちており、楸邨の鬱屈した思いを解きほぐしたという。一字一字の美しさは、ほとんど比類ない感じで恍惚とさせ、一つの流れの中にあり、抵抗を感じさせず、それでいて、一つ一つの文字は鞭のような撓(しな)いを感じさせ、悠容迫らぬもののなかに、精緻な用意がゆきとどいていることに惹きつけられたと述べている。
石川九楊も、この加藤楸邨の随筆内容に異論はなく、「離れ小島へ持参する一冊の本」は何かと問われたら、文句なしに「雁塔聖教序」という法帖を挙げると答えている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、178頁)。


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中国書史


清の翁方綱は、「米芾は褚遂良を学ぶこと久しいといっているが、それでこそよく晋法を窺うことができたのだ」と批評している。
褚遂良の書は「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」に見られるように、碑書でありながら、欧陽詢や虞世南の書とはちがって、微細な筆意をよくあらわしており、南朝人の技巧的に発達した書法を残しているといわれる。つまり欧・虞から南朝人の筆意を窺うことは難しいが、褚からならばそこへ遡る手がかりになる。
そして米芾の書には最後まで褚遂良の筆意が残っている。欧・虞・褚は楷書の完成者であるとされているが、その中で褚の書がもっとも前代の、ことに南朝の法を残していて、六朝へ通じやすいのは、あたかも蘇・黄・米がいずれも晋唐の書を学んで新意を出したが、古法をもっともよく伝えたのは米芾であるということになる。
(神田喜一郎ほか編『書道全集 第15巻』平凡社、1966年、26頁~27頁)

褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)


日展評議員で、奈良教育大学教授であった天石東村は、褚遂良の「雁塔聖教序」について次のように評している。
「外には筆力を露さず、内に巧さを蔵しています。その線は極度に圧縮され、細く張りつめており、快よいリズムで左右に伸びた線は、刻々とその姿をかえ、息の長い、緊張した味わい深い充実したものになっています。また、弾力性のある線質のはしばしにその巧みさを示しています。」と。
つまり緊張した味わい深い充実した線で、しかも弾力性のある線質に巧みさがあるという。概して、外には筆力を露さず、内に巧さを蔵していると、天石も「雁塔聖教序」を高く評価している。
(天石東村『書道入門』保育社、1985年、71頁)

褚遂良臨模本について


黄絹に書かれ、古くから褚遂良の臨模と伝えられている「蘭亭序」は、北宋の米芾の手に帰したことがあり、その跋がある。それには、
「右は唐の中書令河南公褚遂良字は登善の臨した晋の右将軍王羲之の蘭亭宴集序である。本朝の丞相王文恵公(王隨)の故物である。」とある。
そして米芾はこの蘭亭の書法を評して、次のように述べている。
「王の書を臨すと雖も全く是れ褚法である。(中略)永和の字に至ってはその雅韵を全うし、九・觴の字は備さにその真標を著わし、浪の字は書名に異るなく、由の字はますますその楷則を彰わす」とある。つまり褚臨が王羲之の書の雅韵、真標、楷則をよくあらわしているという。
ただ「浪字は書名に異るなし」というのは、浪の旁の良が、褚遂良の名を書すときの良の字と同じ書法であるという意味である。褚遂良の署名は、今日では「雁塔聖教序」に見られるのが一番確かなものであるらしく、その良字の第一画が隷書風にカギ形になっているところは、この蘭亭の良のそれと似ていると内藤乾吉は解説している。
また、褚遂良の「房玄齢碑」や「枯樹賦」には、一つの画から次の画へ筆をうつす時に、ことさらに遊絲を引いている文字が多く、それが褚遂良の書の一つの特徴であるとみられている。この「蘭亭序」の「和暢」の和字の禾偏や「萬殊」の萬字の草冠にも、それが認められることを内藤乾吉は指摘している。そして、この本が褚臨であることの一つの証拠になると考えている。
また、一般的に初唐人の筆意がこの本には認められるという。例えば、第4行の「峻」、第5行の「以」、第8行の「暢」、第9行の「觀」の各第一画の筆の入れ方、すなわち縦画を書く場合に、最初に入れた筆を少し右へ移して下す筆法は、褚遂良を含めて初唐人の筆法であるという。
なお、後に日本の斎藤董盦の有に帰し、博文堂が影印した際に、内藤乾吉の父である内藤湖南が跋を書いたという。
(神田喜一郎ほか『書道全集 第4巻』平凡社、1965年、158頁~159頁)

初唐の三大家の書について


初唐の三大家が書いた楷書の絶品は、それぞれ均衡の美に迫っている。三者三様の味わいがあるが、鈴木史楼はその違いについて、次のような比喩で説明している。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、ピラミッドの壮重な姿を連想させ、褚遂良の「雁塔聖教序」、とりわけ「有」という字の姿からはミロのヴィーナスの姿が浮かんでくるという。「有」の第一画の斜画は、しなやかでたおやかな曲線である。それでいて、力強い動的な均衡を見せている。そして虞世南の均衡は、欧陽詢と褚遂良の中間にあるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、140頁)


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書のたのしみかた (新潮選書)


楷書について


文字造形の基礎はやはり楷書であるといわれる。一般に漢字の場合は楷書からはじめられるのが普通である。
楷書の手本でも唐代の楷書は非常に端正なものである。唐代の楷書、例えば、欧陽詢、虞世南、褚遂良あたりのものはそうである。楷書の力の均衡を極度に発揮して、みごとな安定さを持った巧みさがある。書家の天石東村は、楷書の典型と称せられる唐代のものをまず学ぶべきであると薦めている。つりあいの美を文字の上に極度に発揮したものが唐代の楷書であるから。
一方、仮名の場合では、藤原行成の「和漢朗詠集」あたりが、唐代の楷書に匹敵するものといえるとする。
(天石東村『書道入門』保育社、1985年、117頁~119頁)

書家の榊莫山は、楷書について不満をもらしている。すなわち、
「そもそも書道の根幹は、楷書にある。およそ書法のレッスンは、まず楷書からはじまるほどだ。ところが、専門の書家ですら、惚れ惚れするような楷書のかける人は少ない。名だたる書の展覧会へでかけても、楷書の名作は、まず見あたらない。
楷書がなんとなく嬉しげにならぶのは、小学生の書道展だけである。誰もがいの一番に習ったはずの楷書が、大人になってみたらほとんどかけない――なんて、笑うに笑えぬ現実が、書の世界にひそんでいるのだ。」と榊莫山は記している。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、109頁~110頁)

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新装版 莫山書話


ダウン症の女流書家の金澤翔子の母である泰子は、世界で最も美しいと言われ、楷書のバイブルとされる「九成宮醴泉銘」を、中国まで見に行ったと述べている。そのとき「凄い」とは思ったが、涙は滲まなかったという。
ともあれ、翔子が20歳のときに個展を開いた際に、泰子は書で最も難しいと言われる「楷書」の世界に挑戦してみる気になったと記している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、55頁~57頁)。
書家の柳田泰山も述べているように、楷書は書法では無二と言われる厳しさが求められる世界であり、真剣な眼差しで究極の楷書を学んでいる翔子の姿勢に、人間の純粋性を見出せるかもしれない。それはまるで沼という現世に対し、蓮の如く、時を過ごしているかのごとくである。
また、翔子の「十如是」を鑑賞して、石原慎太郎は次のように記している。「「十如是」は、お釈迦様が説かれた法華経の中の大切な教えです。お釈迦様は、書道に楽しんで打ち込んでいる翔子さんのように、自分で生きる喜びを見出した人の人生が、一番幸せな人生だと言われているのです。」と
(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、60頁~61頁、72頁~73頁、76頁)

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愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年


初唐の三大家の書と筆について


書には、文房四宝、つまり筆、紙、墨、硯が欠かせない。日本語の筆の語源は、文手(ふみで)、ふむで、ふでとなまったものといわれているが、中国では毛筆の始まりについて、次のような話が伝えられている。
秦の始皇帝が万里の長城を築いている際、蒙恬(もうてん)という将軍が城壁にへばりついている羊毛を見て、これを取って枯れた枝の先へ束ねて作ったのが毛筆の始まりだという。このため、蒙恬のことを筆祖といい、その作り始めたという筆を湖筆(こっぴつ)といて名筆とされている。
「千字文」の中にも、「恬筆倫紙(てんぴつりんし)」、つまり「蒙恬の製筆、蔡倫の紙の発明」とあるように、中国では筆は蒙恬が発明したものとみなされた
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、154頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、239頁)

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吉丸竹軒 三体千字文

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三體千字文 【新版】


ところで、毛筆の材料には、羊以外にも、馬、鹿、兎、狸、山馬(やまうま)、猫、てん、いたち、鼠のひげが用いられた。右軍将軍だったので王右軍ともいわれた書聖王羲之は、好んで鼠のひげを用いたといわれ、また欧陽詢の子欧陽通(とう)は、狸の毛を多く用いたという。筆の形質からみると、真(楷書)は雀頭(じゃくとう)、行(行書)は鶏爪(けいそう)、仮名は柳葉(りゅうよう)といわれ、それぞれ形を表した名称である。
筆の質には剛毛、兼毫、羊毛とがあるが、初唐の三大家でいえば、欧陽詢=欧法は剛毛、虞世南=虞法は兼毫、褚遂良=褚法は羊毛が向いているといわれる。つまり、筆との関係でいえば、欧陽詢の字を臨書して字をまねて書く時には、この人の字は線が力強いので、硬い筆でなければ書けないといわれる。逆に褚遂良の字を書く時には、柔らかい筆でなければ、うまく情趣がでない。虞世南の温和な字には、兼毫(剛毛と羊毛の中間)が一番むいているという。つまり、筆というものは、「弘法筆を選ばず」ではなくて、「選ばなければならない」というのが正しいそうである。
(大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社、1987年、28頁、268頁~269頁)

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人生を彩る書道―世に悪筆者はいない


≪書道の歴史概観 その4≫

2021-02-13 17:50:34 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その4≫
(2021年2月13日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 六朝代から初唐代への時代は、中国書道の歴史(中国書史)において、転換期である。この時期の書の歴史はどのように捉えられるのだろうか。この点に焦点をしぼって、概説してみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・唐の太宗と書
・唐の太宗と書家たち






六朝代から初唐代への転移の構造について


六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになると石川九楊はいう。
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、285頁~286頁)

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書と文字は面白い (新潮文庫)

中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書[ママ])
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている
石川の「書からみた中国史の時代区分への一考察」によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分されると石川は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、102頁)

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中国書史


書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成すると石川は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、98頁~100頁、196頁、403頁)。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、99頁)。


二折法から三折法へ


このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったものと石川は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、98頁~100頁)。
「永字八法」の起源については、後漢代に蔡邕(さいよう)が創定したと言われるが、唐代あたりまで下ると考えるのが順当であろうと石川九楊は考えている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、263頁)。
以下、この石川の持論を中心に中国書史について考察してみたい。


唐の太宗と書


唐の太宗は唐王朝300年の礎を築いた英主である。その貞観の治といわれる治世には名臣がその左右に雲集するといった壮観を現出した。その結果唐代初期の文化は新鮮な光彩を放つようになった。この時期、花が咲き揃ったように、書の名手が輩出した。欧陽詢(557-641)、虞世南(558-638)、褚遂良(596-658)はこの時代の王朝の重臣であると同時に、書の名手であった。これら唐初の三大家は、揃いもそろって楷書に傑作を残している。六朝の乱離を収攬した新興王朝にふさわしい清新さが、爽やかな楷書という姿をかりて息づいているといわれる。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、虞世南の「孔子廟堂碑」(626年)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)がある。つまり六朝の混乱を治めて建てられた王朝が唐であるように、六朝書法の多様性を統一したのが初唐の書法であるといわれる。ただ、初唐は楷書の黄金時代を迎えたが、隋王朝が滅んだ時(618年)、隋王朝に仕えていた欧陽詢と虞世南はすでに60歳であったし、褚遂良は22歳になっていた。ことに欧陽詢と虞世南の30歳から60歳までは隋王朝で過ごしていた。
(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、36頁、鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、44頁)

【青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社はこちらから】

書の実相―中国書道史話

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史


さて、唐の太宗は、書を愛好し、歴代帝王中でも、第一の能書家といわれた。この唐の太宗の書としては「晋祠銘」(646年)がよく知られている。これは太宗が唐叔虞(とうしゅくぐ)を祭った祠に行幸した時、親ら文を撰び、それを碑に書いたものである。行書の碑刻としては最古のものといわれている。中国の天子の書としては第一等のもので、鷹揚さと品格をもっていると評される。北魏の書のように大きな規模があり、和潤な所もあってよいとされる。
文化を愛する太宗は書道が好きで、中でも史上最高の名手である王羲之の書に心酔していた。有名な「蘭亭序」入手の経緯については逸話が生まれるくらいで、太宗の王羲之への執心を物語っている。王羲之の書を広く天下から集め、苦心に苦心を重ねて、ようやく入手した「蘭亭序」は太宗の死とともに、昭陵に葬らしめたほどである。
また太宗自身、この王羲之の法に則った見事な作品である「温泉銘」(648年)を残している。
ところで、官吏登用試験である科挙の課目にも書を加えて有能の書家を重く用いたこともあって、書道の黄金時代を現出した。先の初唐の三大家がそうである。科挙では、楷書が正しく美しく書けなければ合格できなかった。だから、文字の外見は整った。しかし、その一方で、性情雅致は次第に失われ、その書写も機械的観念的になったとも評される。科挙の制は書を普及発達させる上には大きな力があったが、芸術的発展の上での影響については疑問視する書家もいる。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)

さて、唐の太宗の書として、「温泉銘」がよく知られている。この書は、全体を通じて、起筆して力を抜くだけの二折法の「トン・スー」の筆蝕に主律されていると石川九楊はいう。古法、アルカイック書法は、その二折法と同時に、「転折の不在の傾向」をもつとみる。
たとえば、「口」字の画数を考えてみればよい。この「口」字の画数が三画であると数えられるのは、横筆部と縦筆部が連続的に一画で書かれるべきものであるという古法(アルカイック)時代の名残りであると石川はいう。三折法が成立し、三折法に基づいて書かれるなら、「口」字は四画と数えられるべきものである。しかし、二折法は転折部を露わにせず、横筆から縦筆にまたがる一画がいっきに書かれようとし、結字的にはいわゆる向勢をもたらすことが多く(その典型例としては、鐘繇筆と伝えられる「薦季直表(せんきちょくひょう)」を想定できる)、率意の二折書法と相まってふくよかで穏やかな、アルカイックな姿を見せると石川は解説している
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、187頁)。

また、唐太宗の「晋祠銘」の飛白体の題額には、イスラム文字の影響が見られるとも言われ、また「大秦景教流行中国碑」(781年)などには下部にイスラム文字が刻されており、当時の大国際都市・長安の姿を彷彿とさせる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、174頁)。

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中国書史

唐の太宗と書家たち


唐の太宗は、貞観元年(627)、中央政府の文官武官の子弟を弘文館に集めて、もう70歳という虞世南と欧陽詢に書法の教授を開始させた。若い褚遂良は館長に任じられ、カリキュラムの作成に励んだ。
太宗は王羲之の書へ心酔し、その書を勅命により手もとに集めたが、貞観13年(639)、勅命を下して集めた王羲之の書を分類整理した。3000点にも及ぶ王羲之の書を類別し、真偽の鑑定をしたのが、編集長の褚遂良であった。その結果、楷書50点が8巻、行書240点が40巻、草書2000点が80巻にまとめられたという。
編集された王羲之の書は、弘文館の子弟に、習字の手本として与えられた。巻末には、太宗の筆になる「勅」の一字を大きくおいて、その下に「臣・褚遂良校シテ失無シ」と奥付た。この奥付けのある法帖は館本とよばれて、書的権威の象徴とされた。
ともあれ、虞世南は638年に、欧陽詢は641年にこの世を去ったので、二人なきあと、褚遂良はひとり書の第一人者としてたたねばならなかった。
(榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]、56頁~57頁)

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書の歴史―中国と日本 (1970年)


さて、このようにして、虞世南、欧陽詢、褚遂良が華やかに楷書の名作を残しながら、その楷法はまたたくうちに、影を潜めてしまう。それはなぜだろうか。この興味ある問題について、榊莫山は次のように推察している。
初唐の名家が生みだした楷法は、太宗と弘文館をぬきにして、つまり唐王朝のバックアップを背景にしなければ考えることができないという点に注目している。すなわち、唐王朝という偉大な組織の中にあってはじめて楷法の爛熟と名家の誕生がもたらされたと考えている。そして、彼ら王朝人の自我の自覚が感受性の解放となって、絢爛とした黄金期を迎えたというよりも、初唐の三大家は、王朝のシステムにどのように迎合し、いかにして有能な書の指導者として立つかという、きわめて普遍的な意志の信奉者であったとして理解できるのではないかと主張している。彼らの書をみたとき、そのことがよりはっきりとうなづけるという。
その姿態は王朝貴族の趣味ともいうべき、一種の冷徹さにおおわれて、人間的なにおいが息をひそめているのではないかとみる。その厳格な様式を通過するのは、結構の斉正さと筆法の精緻さからもたらされるつめたい気韻であっても、人間の精神の豊かさや官能の表象は決して顔を出さず、非情の様式であると榊は評している(榊、1970年[1995年版]、57頁~58頁)。

この唐初と、日本の明治初年の書道事情について、書家の青山杉雨は面白いことを述べている。すなわち、
「このような唐初の書道事情を見ていると、私はいつも日本の明治初年の書道事情を思い浮べます。江戸末期―いわゆる御家流という堕落しきった幕府のご用文字の氾濫を、見事に払拭して新鮮な官用文字として登場したのが、巻菱湖(まきりょうこ)や中沢雪城(なかざわせつじょう)などの書いた、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書です。まさに明治政府が志向する新時代を象徴するかの如き感じを、当時の人々はこの楷書に発見したことでしょう。歴史の循環がこんな所にも現われていることに、私はいつも深い興味を感じております。」(青山、1982年、37頁~38頁)。
つまり中国の六朝から唐初へという時代と、日本の江戸末期から明治初年という時代は、政治的には、混乱期から統一期へと収攬した時代であったが、書道事情から見た場合、唐初に三大家の楷書の傑作が出たように、日本の明治初年、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書を巻菱湖や中沢雪城が書いたということである。いわゆる御家流という江戸末期の堕落した幕府のご用文字を払拭して、新鮮な官用文字の端正な楷書が登場したという。それはまさに明治政府が志向する新時代を象徴するかのような事であったという
(青山、1982年、36頁~38頁、44頁。榊、1970年[1995年版]、55頁。鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)