地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

一杯の水【バングラデシュで雨水ビジネス  貧困層対象に支援するドクター・スカイウォーター】

2013-05-01 16:03:41 | Weblog

はっきり言っておく。
キリストの弟子だという理由で、
あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、
必ずその報いを受ける。


『マルコによる福音書』 / 9章 41節 新約聖書 新共同訳


みずは つかめません

みずは すくうのです
指をぴったりつけて


そっと大切に


みずの こころも

ひとの こころも



『水のこころ』 高田敏子
(1914年9月16日 - 1989年5月28日)




■雨水を貯めるビッグジャーと呼ぶ壺を説明する村瀬氏。
上からチェーンをつたって雨水が入るが、蚊やゴミが入らないようフィルターがついている=バングラデシュ・モレルガンジ(同氏提供)



■バングラデシュで雨水ビジネス 
貧困層対象に支援するドクター・スカイウォーター

◆SankeiBiz 2013/4/15 09:53


雨水を貯めるビッグジャーと呼ぶ壺を説明する村瀬氏。上からチェーンをつたって雨水が入るが、蚊やゴミが入らないようフィルターがついている=バングラデシュ・モレルガンジ(同氏提供)

 「バングラデシュの雨水は東京の水道水よりも不純物が少なく、純水に近い。十分に飲み水と料理に使うことができます」

 そう話すのは、30年以上にわたり雨水を研究し、近くバングラデシュで雨水利用システムの会社を立ち上げる「天水(あまみず)研究所」社長の村瀬誠氏だ。水ビジネス関係者の間では「ドクター・スカイウォーター」として知られる。



■BOPとは? (上図)


 ◆BOPが対象

 「初期雨水を避けて貯(た)めれば、有機物がないため、菌は繁殖せず、水も腐らない。蚊が入らないようにすれば、ボウフラも湧くことはありません」と村瀬氏。

 2000年にバングラデシュを初めて訪れて以来、同地の水事情の悪さを解消するため、自ら立ち上げたNGO(非政府組織)を通じ、雨水利用システムの普及に取り組んできた。NGOでは現地の人々の生活を支えるほどの金を稼ぐことができず、システムの普及に限界がある。そこで、BOP(人口ピラミッドの下に位置する人々、年間3000ドル=約28万円未満で暮らしている貧困層)を対象とするビジネスとして取り組むことにした。国際協力機構(JICA)のBOPビジネス連携推進プロジェクトの一つとして事業可能性調査を進めてきた。

 もともとバングラデシュでは、他の国際NGOが雨水タンクを無料で供与していたが、管理維持する仕組みがなく、1、2年で使われなくなっていた。

 それを現地の人々が管理し、運用する仕組みを作った。まず、タイ東北部で使われていた漆喰(しっくい)製の大きな壺(つぼ)作りをバングラデシュの左官職人に学ばせ、技術を持ち帰らせた。

 壺は高さが約1.2メートル、直径が約1.8メートルで、新しい会社では設置代を含め1つ6000タカ(約7000円)程度で売る予定だ。現地の所得水準では高いが、分割で買えるため、従来の水くみ費用などを考えると、2年程度でもとがとれる金額だ。

 新会社「スカイウォーター・バングラデシュ」は3年後に黒字を目指す。


 「雨水は無料でも、管理には金がかかる。BOPビジネスとすることで、長く続けられる仕組みを手頃な価格で実現できる。また現地の人がもうかるとわかれば、自分たちで仕組みを広げていくようになる」(村瀬氏)

 ◆費用かけず長く

 もともと村瀬氏は、大学で薬学を学び、東京都墨田区の職員となった。保健所での勤務当時、墨田区が洪水に見舞われた際、防疫や消毒指導にあたったのがきっかけで、雨水をいかにコントロールするかについて研究を始めた。その後、雨水利用に行き着いた。
 「バングラデシュでは池の水を『雨の水』と呼び、降る雨を『空の水』と呼んでいます。大事に取っておいて友人が来たときに振る舞うのが『空の水』。だから、私も天水と書いてアマミズと呼ぶようにしました」
 国連の統計では、世界中で安全な水を手に入れることができない人は11億人に上る。

 日本も、最近は自治体が水道システムの輸出に力を入れ始めている。逆浸透膜を使った海水の淡水化など多額の費用がかかる仕組みは、どこの国でもできるわけではない。大規模な水プラントを作り、そこからパイプを引いて水を配り、確実に料金を徴収するシステムを導入できる国はアジアでは少ない。

 「いかに費用をかけず、長く行えるかが重要です。天水プロジェクトは、雨の多いアジアにあったシステムだと思う」と村瀬氏。

 昨年、静岡の御殿場に転居し、手に入れた住宅を改造、18トンの雨水を貯められる貯水槽を設置した。これでほとんどの生活水をまかなっている。「妻も私も雨が降るのが楽しみです。直接取った雨水で入れる紅茶の味は格別ですから」。確かに、御殿場の雨水はおいしかった。

(編集委員 宮野弘之)


■バングラディッシュ位置図(資料画像)


◆マタイによる福音書 / 3章 16節

イエスは洗礼を受けると、
すぐ水の中から上がられた。

そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように
御自分の上に降って来るのを御覧になった。

呻き【爆破事件で注目されるチェチェン問題】

2013-05-01 08:23:40 | 今日の御言葉

主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し/
その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし/

おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。

『哀歌』 / 2章 5節 旧約聖書 新共同訳


神様は親子の関係に基づいて
人間を創造されました。
親子の関係は宿命的なものであり、
そこには理由も条件も介在しません。
あくまでも無条件です。



◆ロシア大統領ウラジーミル・プーチンの式典用の肖像写真を
若者が運んでいる。
チェチェン共和国の首都グロズヌイで2009年撮影。

Photograph by Mikhail Galustov, laif/Redux



■爆破事件で注目されるチェチェン問題

◆ナショナルジオグラフィック ニュース 2013年4月22日


Anna Kordunsky
for National Geographic News
April 22, 2013



 アメリカ、ボストンの現地時間4月19日午後8時45分(日本時間20日午前9時45分)ごろ、マラソン会場で起きた爆破事件の容疑者ジョハル・ツァルナエフ(Dzhokhar Tsarnaev, 19)の身柄が拘束された。共犯が疑われる兄のタメルラン・ツァルナエフ(Tamerlan Tsarnaev, 26)は、19日未明に警察官との銃撃戦で死亡。報道によると、2人はアメリカに移住してきたチェチェン人で、ダゲスタンやキルギスでの居住経験もあるという。


 現時点で、チェチェンのテロ組織と結び付く証拠はない。しかし、兄弟の出自の報道により、ロシアのコーカサス地方に再び注目が集まっている。

 カスピ海と黒海に挟まれた同地域は、グルジア、アゼルバイジャン、チェチェン、ダゲスタン、チェルケスなど多数の民族や言語、文化が複雑に入り組む。19世紀にロシアに制圧されたが、民族主義が根強く残り、国家統治上の急所とも言われている。

 国境の根拠も曖昧で、19世紀初頭に同地域を視察したフランス外交官ジャック・フランソワ・ガンバ(Jacques-Francois Gamba)は、「政治的に決められた国境か、武力衝突による線引きか皆目見当が付かない。あるいは、単に言語や特徴の違いで自然に分かれているのだろうか」と書き残している。

◆永遠のアウトサイダー

 中でもチェチェン人とダゲスタンの人々(アヴァール、ダルギン、クムイク、レズギンなど複数の民族で構成)は、その暴力的な反逆性で名高い。コーカサス制圧をもくろむロシアの軍事行動が続いた1817年から1863年まで、両国の戦士は反ロシア勢力指導者イマーム・シャミール指揮の下、数十年にわたるゲリラ戦を展開した。

 この壮絶な戦いの課程で、コーカサスの多くのチェチェン人が戦死。1840年代に推定100万人だった人口が、1861年には約14万人まで減少したという。

 チェチェンとダゲスタンのイスラム系市民に対するロシア当局の警戒は、その後も約1世紀にわたり続いた。そして疑念は第2次世界大戦中に最高潮に達する。「独立運動を警戒したスターリンにより、チェチェン人はシベリアやカザフスタンへ強制移住させられた」と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン国際センターで、ロシアとコーカサス地方を研究するウィリアム・ポメランツ(William Pomeranz)氏は説明する。

 移住先への連行途中で、人口の推定25~50%が死亡したという。1956年の名誉回復により、その翌年には祖国帰還が許可されたが、ソビエト連邦の中では依然「部外者」であり続けた。

◆ソ連の崩壊

 1991年のソ連崩壊を受け、チェチェンの民族主義が再燃。大々的に独立を宣言したため、ロシア当局の弾圧が始まり、1994年に第1次チェチェン紛争に突入。1996年に終結したものの、首都グロズヌイが廃墟と化し、多くの民間人が死亡した。

 1996年には停戦協定が結ばれたが、事態の鎮静化を図れず、チェチェンは政治的混乱に陥った。1999年には第2次チェチェン紛争が勃発、翌年ロシア軍が首都グロズヌイを再び制圧するまで続いた。

◆摩擦は続く

 ロシア政府は治安部隊や復興資金を投入し、チェチェン全体で支配権を徐々に強めてきた。

 しかし、水面下では緊張状態が続き、散発的に大規模な事件が発生。2004年、北オセチア共和国ベスラン市のベスラン第一中学校で起きた武装集団による占拠事件では、子どもを中心に300人以上の命がテロの犠牲となった。

 ほかにも、2002年のモスクワ劇場占拠事件では人質129人、2010年3月のモスクワ地下鉄爆破テロでは約40人が死亡している。いずれも、チェチェンや北コーカサスの過激派武装勢力が関与している。

 少数のチェチェン民族と圧倒的多数で支配権を握るロシア民族の間では、数々の事件の記憶が不信感を生み出している。「ロシアは民族的に多様な国だが、チェチェンなど独立意識の高い地域も残っている」と、アメリカにあるコロンビア大学ハリマン研究所の教授で、ロシア・ユーラシアを研究しているリンカーン・ミッチェル(Lincoln Mitchell)氏は話す。

 ボストン爆破事件の容疑者ツァルナエフ兄弟は、2002~2003年にかけて家族でアメリカに移住した。幼少期にチェチェンで過ごした期間や、北コーカサスとの結び付きは依然として不明だ。

 2人の出身はチェチェンだが、育ったのはキルギスという。AP通信の報道によると、短期間だがダゲスタンで暮らした経験もあり、父親は今も同国で暮らしている。

Photograph by Mikhail Galustov, laif/Redux






◆ヨブ記 / 23章 2節

今日も、わたしは苦しみ嘆き/
呻きのために、わたしの手は重い。