地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

主の道【「聖骸布」を40年ぶりにテレビ公開 閲覧用アプリも登場】

2013-04-03 07:37:28 | 今日の御言葉




ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。


『ヨハネによる福音書』 / 1章 23節 新約聖書 新共同訳







★「聖骸布」を40年ぶりにテレビ公開 閲覧用アプリも登場


■CNN.co.jp 2013年4月1日 13時15分配信



(CNN) キリスト教徒がイエス・キリストの復活を祝う「復活祭」を翌日に控えた3月30日、キリストの処刑後に遺体を包んだとされる「トリノの聖骸布」がイタリアのテレビで公開された。

バチカン放送によると、聖骸布の映像を放送することは、前ローマ法王ベネディクト16世が退位直前に承認していた。1973年に当時の法王パウロ6世の要請で初めて映像が公開されて以来、初の機会となった。

トリノのヨハネ大聖堂に保管されている聖骸布は、長さ約4.3メートル、幅約1.1メートル。布に写った男性の体の跡は、傷を負ったキリストの姿と一致するといわれている。その真偽をめぐっては諸説があり、ローマ・カトリック教会も本物とは断言していない。

フランシスコ法王は映像とともに放送されたビデオ・メッセージで、「布の上に写った姿はわれわれの心に響く」と述べた。

映像公開に合わせ、iPhone(アイフォーン)やiPad(アイパッド)でトリノの聖骸布の高画質画像を閲覧できる公式アプリ「Shroud2.0」も発表された。聖骸布の歴史や宗教上の意味に関する情報も得ることができる。

研究者らはこれまで聖骸布のデジタル画像を入手できなかったが、アプリの登場により、なぞの解明が加速することも期待される。



▲聖ヨハネ大聖堂 (洗礼者ヨハネ大聖堂) イタリア トリノ
(Duomo di San Giovannni Battesta )

写真には著作権が存在する可能性があります。ご了承ください。



▲聖骸布 (せいがいふ)

聖骸布とは、十字架に磔にされたイエス・キリストの遺体を包んだとされる布のことで、拷問にかけられたのち磔にされた男性の全身像が横4.37m 縦1.11mのリネン布に写し出されている。
敬虔なキリスト教信者は、現在もこれをキリストその人の像だと信じており、ローマ法王もこれを信仰の対象とするコメントを出している。

この布は、1000年に渡って紛失したとされていたが、フランスのトロワ地方で14世紀半ばに発見され、その後はフランス貴族サヴォイア家の所有となる。ようやくトリノの地に安息を見いだしたのが1578年、現在はバチカンの監督下にトリノ市が厳重に保管している。



◆ルカによる福音書 / 3章 16節


そこで、ヨハネは皆に向かって言った。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。

わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」




立ち直り【弾圧の地に注がれた慈愛 ドロ神父】

2013-04-02 20:30:58 | 今日の御言葉

◆森礼子『神父ドロの冒険』

内容(Amazon「BOOK」データベースより)

安逸よりも冒険、栄達よりも理想の実現。殉教の志に燃えて渡来した若きフランス人神父は、到着と同時に浦上キリシタン弾圧を目のあたりにする。貧窮に喘ぐキリシタンの里の復興と福祉に、私財と半生を投じた果敢なる生涯。

森礼子[森禮子](もり れいこ 1928年7月7日 - )は小説家・劇作家。

1980年『モッキングバードのいる町』で第82回芥川賞受賞。






しかし、わたしはあなたのために、
信仰が無くならないように祈った。

だから、あなたは立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい。


『ルカによる福音書』 / 22章 32節 新約聖書 新共同訳





★探訪・ノスタルジア:/26 出津教会(長崎市)

■毎日新聞 2013年03月18日 大阪夕刊



 ◇弾圧の地に注がれた慈愛

 長崎市の中心街から北西へ約20キロ、角力(すもう)灘に面した同市外海(そとめ)地区は、約250年続いたキリスト教禁教の時代、隠れキリシタンが暮らす村だった。キリシタン弾圧を描いた遠藤周作の小説「沈黙」の舞台になった地でもある。小高い丘に白亜の教会が建っている。明治政府が禁教令を解いた後、フランス人のド・ロ神父が1882(明治15)年に建てた出津(しつ)教会。国の重要文化財で、世界遺産の暫定リストにも登録されている。

 ド・ロ神父は68年に28歳で来日。11年後にこの地域の主任司祭となり、私財を投じて教会を設計・建設した。

 レンガ積みだが、その上を白いしっくいで固め、瓦屋根が覆っているので和風建築のようにも見える。鐘楼がそびえているが、海風が強い地域のため、天井は低い。今でも地元の信者約600人の心のよりどころだ。先のローマ法王選挙で注目されたカトリックの枢機卿になったのは、日本人で過去5人しかいないが、うち2人が出津教会出身という。

 案内してくれたNPO長崎巡礼センターの松川隆治さん(72)によると、すべての隠れキリシタンが明治期に教会に復したわけではなかった。仏教徒を装いながら洗礼や儀式を行う秘密組織を作って信仰を守ってきた人々の中には、先祖をまつっている寺を今さら捨てられないと思う人がいた。維新から6年後に禁教令を解くまで弾圧を続けた明治政府への不信感も根強かった。そうした人たちは教会へ行かず、昔ながらの集落の組織を維持し信仰を続けた。

 「約30年前まで私もいわゆる隠れキリシタンでした」と松川さんが言う。組織の役職者が亡くなったり、高齢化して維持が難しくなり、集落の80軒あまりが話し合って、仏教に集団改宗したという。

 教会周辺には、マカロニやパン、そうめんを作っていた救助院、イワシ網を製造していた工場など、ド・ロ神父が私財で建設した村人の授産施設跡がある。外海地区は山が海に迫り、耕作地がほとんどない。貴族出身の神父は半農半漁の村のあまりの貧しさに衝撃を受け、「まずは日々の暮らしを安定させたい」と、親からもらった財産を村のために使った。マカロニやパンは船で長崎の外国人居留地に運んで現金に換えた。

 イワシ網工場跡は今、ド・ロ神父記念館となり、ゆかりの品々を展示している。印刷、農業、食品製造、医療、薬学、建築……と驚くほど幅広い専門知識を持っていたことが分かる。ある日は病の人に薬を調合し、ある日はド・ロ壁といわれる石灰を混ぜた土壁の作り方を教えた。村人は親しみを込め、「ド・ロさま」と呼んだ。


 展示品のオルガンは89年に神父がフランスから仕入れたものだ。シスターが現れて賛美歌を弾き始めた。

 神父は一度も帰国することなく、1914年に74歳で亡くなった。墓も外海の地にある。賛美歌の曲名をシスターに尋ねると、「『いつくしみ深き』です」。厳かで優しい調べ。ド・ロ神父の人生そのもののように聞こえた。




 ◇メモ

 出津教会がある出津文化村へはJR長崎駅からバスで約65分。教会の見学可能時間は8時半~17時(無料)。文化村にあるド・ロ神父記念館(電話0959・25・1081)の開館は9~17時。大人300円、小中高生100円。


◆テモテへの手紙一 / 5章 1-3節

老人を叱ってはなりません。

むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。


若い男は兄弟と思い、


年老いた婦人は母親と思い、
若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。

身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。


やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、
まず自分の家族を大切にし、
親に恩返しをすることを学ばせるべきです。

それは神に喜ばれることだからです。


良い香り【スラム…通いつめ十数年】

2013-04-01 21:29:14 | 今日の御言葉

救いの道をたどる者にとっても、
滅びの道をたどる者にとっても、

わたしたちはキリストによって

神に献げられる良い香りです。



『コリントの信徒への手紙二』 / 2章 15節 新約聖書 新共同訳





▲3月31日、バチカンのサンピエトロ広場で、
就任後初めて復活祭のミサに臨む
フランシスコ新ローマ教皇
(写真中央上)=AP




★新ローマ法王:清貧の原点はスラム…通いつめ十数年


■毎日新聞 2013年03月27日 12時14分(最終更新 03月27日 13時24分)


 他の枢機卿と一緒のバスに乗り、

ホテルの宿泊費を自ら支払うなど選出早々、

型破りの行動で注目を浴びる
フランシスコ新ローマ法王(76)。


そもそも、いかなる人物なのか。


出身地のアルゼンチンを訪れた。
【ブエノスアイレス國枝すみれ】



 新法王となったホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿はコンクラーベ(法王選挙会議)出席のためブエノスアイレスをたつ際、旅行かばんを手に「すぐ帰ってくるからね」と言い残した。自分が選ばれるとは思っていなかったのだ。仕事部屋のカギも携帯し、そのドアは閉まったままだ。

 大聖堂のすぐ横で他の神父たちと台所共有のアパートに暮らす。自室は一つでベッド、机、椅子、整理ダンスしかない。

ブエノスアイレス大司教区で6年間部下だったフェデリコ・ワルス氏(32)は「本当に質素な方。自動車も携帯電話も持たず、新聞も靴下も自分で買う。いただいた贈り物は全て貧しい人にあげる。
大好物のチョコレートぐらいは食べたかもしれませんが」と証言する。


 生家はブエノスアイレスの中産階級が住むフローレス地区に残る。4軒隣には11歳のころ「結婚したら赤い屋根の白い家に住もうね」とラブレターを書いた初恋の相手が今も暮らす。


 だが「貧しい者のための貧しい教会」を目指す法王の原点は、隣接するビジャソルダティ地区のスラム街にある。十数年間、電車と地下鉄を1時間乗り継ぎ、ふん尿の臭いが漂う道路を歩いて通い、ホームレスや不法外国移民の生活向上に尽力した。住民のスサナ・ビジャビセンシオさん(60)は「車で送るといっても断って歩いて帰られる。私の堅信式(入信の儀礼の一つ)も執り行ってくれた」と言う。97年に建てた礼拝堂の名称は「聖フランシスコ・アシス」。「必要なのは愛と平和だけ」と一切の所有を拒否した13世紀イタリア・アッシジの聖フランシスコにちなんだ。法王名にも選んだ聖人だ。ただし保守派として、貧困層のために武器を取る聖職者も出した「解放の神学」とは一線を画す。



 「枢機卿(カルデナル)」と呼ばれるのを嫌がる。あいさつは

「神父(パドレ)と呼んでくれ」で始まり、

「私のために祈ってください」
で結ぶ。

仲間の神父の誕生日には祝福の電話を入れ、南米で広く飲まれるマテ茶を信者と同じストローで回し飲みした。


 神父の性的虐待スキャンダル、バチカンの内紛……課題は山積している。小説「逆さの十字架」でカトリック教会の偽善を暴いた作家のマルコス・アギニス氏は「教会は大改革が必要なことを認識している」と言い、ベルゴリオ枢機卿が法王に選ばれたのは(1)欧州人でない(2)性的虐待問題が火を噴く北米大陸と無関係(3)アフリカの宗教と混在し過ぎたブラジルを除く(4)前法王と違って強いメッセージと存在感を出せる人物--との観点からと分析。


「人当たりは柔らかいが信念は強固。

同性愛者の教会婚は認めないが、シビルユニオンと呼ばれる一定の法的保護は認めるだろう。妊娠中絶反対の立場は維持する一方、離婚、避妊、神父の妻帯は許す可能性がある」と推測する。




▲新ローマ法王がかつて通ったブエノスアイレス南部ビジャソルダティ地区=國枝すみれ撮影



◆『使徒言行録』20章35節

受けるよりは与える方が幸いである。



わたしをあなたの
平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように。


わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ

自分を捨てて死に
永遠のいのちをいただくのですから…


(アッシジの聖フランシスコの言葉)