自由とは責任がある。
近くの神社のディスプレイ
20日からいよいよ、フリーザムで心が大切な時代に入っていくわけですが。
「自由」という言葉を間違って捉えてしまう方が多いので、自分への戒めも込めて書こうと思います。
自由には責任が伴います。
自分がやったことに責任があると言う事ですね。
昨日もドラエネの時にクライアントさんと話したのですが。
クライアントさんがお子さんのことでちょっと心配なことがあると。
その子はお母さんが心配するようなことをわざわざする子だとは私は思いませんでしたが、やはり心配なのはわかります。
そんな時は魔法の言葉、
「あなたを信じている」と言えばいいんですよと伝えました。
それには根拠があります。
私の高校は校則が1つもなく制服もありませんでした。
完全にフリーダムな高校だったのです。
他校の人が卒アルを見て机の上に当たり前にみんな缶ジュースやペットボトルが乗っているのを見て「フリースクール?」と驚いていたくらい、授業の風景すら自由。
逆に、禁止なの?喉乾くやん!と驚きました(笑)
外見に関して一切何も言わない代わりに、いつも先生たちに言われたのです。
「この高校に校則がないのは、君たちが自分の頭で考えて、善悪を判断できると信じているからだ」
不思議なもので「信じている」と言われると、自分たちで善悪を判断して悪い事はできないな、と思ってしまうのです。
信頼を裏切らない、と。
校則がないとはいえ、遅刻したら当然遅刻1と出席簿に表記されるし、いつも遅刻していると注意は受けます。
つまり社会的ルールに反することをすれば教師に叱らられる。
遅刻はいわゆる社会的ルールに反するから叱られる。
教師たちは大人として当たり前のことをしているのです。
だけど、社会のルールに反しないことならば注意しません。
髪を染めている(脱色?)子もいたし、パーマをかけている子もいたし、服装は本当に自由で、個性的な服装やパンクな服の子もいだけれど,何も言われません。
楽しかったな(笑)
それより何より、まだ10代なのに大人に信じていると言われる喜び。
あれは大きな影響力がありました。
だから私は子供達には、
「君たちに社会のルールを、私のわかる範囲で教えてきた。そして君たちには自分の身を守る大切さも教えてきた。だから例えば友達とふざけて万引きするだとか、人を傷つけることや迷惑になることはしないと信じている」
と言い続けてきました。
その甲斐あってか?
それとも私が知らないだけなのか。
とても真面目にそれなりに生きてきてくれました^ ^
失敗もするけど、その時にどうすればよかったのか一緒に考えればいい。
大きな目で見守りながら信じること。
信じているよと言い続けていれば(一回くらいの時はそこまで響かないし、信じていると言いながら疑う行動を取っては逆効果です)いつかその言葉が彼らの中に浸透して,信じるに値する人間になってくれるのかな、と。
少なくとも私はそう信じています。
子どもだって神様の魂を分けてこの世に生まれてきた存在なのですから。
まだまだ魂の輝きは、汚れや諦めを身にまとってきた大人より強いですから(笑)
自分の行動もやっぱり、人に迷惑をかけない、傷つけない、その基準の中で自由に生きることを選びたいなあと。
例えば人様の家の壁に絵を描くのは人に迷惑をかけることですよね?
でも自分の家の壁なら描いていい。
でも、その時も家族の同意は必須です。
当たり前のことです。
自由な世界が始まったんだよ!
と家族の許可も取らずに壁に絵を描くなんて、三才時ですか?となりますよね(苦笑)
同意を得られず家族が愛想を尽かして出ていけと言われたら、出ていく覚悟を持って描くこと。
間違ってもこれは私の自由だ!とジャイアン的台詞を吐いたりしないこと(笑)
まあ、自由とはいえ、そこには共感力が必須である。自己中になるなってことです。
やりたいことはやってよし。
ただし全て自己責任だし、散らかしっぱなしで終わらず、パブリックな範囲に迷惑かけないこと。
当たり前だけど一応書いておきました。
自分も気をつけよう(笑)