花の香り
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意識が覚醒するにつれ、ぼんやりと空気に色がついているように見えていたものが、だんだん形になるのがわかった。
それは色とりどりの花だった。
大きく息を吸い込んだことで、香りを多量に含んだ粒子が頭の奥まで届いた。
やっと私の意識は私に戻ってきてくれた。
そんな気がして目を開いた。
「目が覚めたのね? ルルウ」
深緑の目を大きく開いて、女性が嬉しそうに私の顔を覗き込む。
ルルウ。
水の国で生きていた時の私の名前。
でも。
覚醒しながら記憶を取り戻していく。
水の国はつい先ほど海に沈んだはず。
そのあと、そうだ。
私は光の船に吸い上げられて大きな三角形の建造物が出来上がっていくのをみていた。
ここは、光の船の中なの?
「驚いたわ。ギリシャからいらしたカルディア様をひとめ見た途端、突然倒れてしまうのだから。
カルディア様も、とても心配して下さっていたわよ」
私は目の前の女性のことも、そのカルディアという人物が誰なのかも、そしてここがどこなのかも見当もつかなかった。
よく見回すとそこは土壁に花の絵が描かれている大きな部屋で、私はベッドに横たわっている。大きな桶に蓮の花が生けられていて、そこからいい匂いがしていた。
窓が見当たらず,明かりは水晶の発する光ではなく、煌々と灯した松明だった。
かなり原始的な方法だ。
状況が把握できず無言でいる私を心配して、その女性は体調のことをあれこれ聞いた。
「おなかにいる子供は無事だから安心して」
おなかにいる子供?
私はいつの間に妊娠したのだろう。
流石にそんな記憶がないことはあり得ない。
しかし、どこから何をどう尋ねていいのかさえわからない。
私が覚えている最後の記憶は、光の中でたくさんの仲間たちと共にいて、優しい声が導くままに一瞬だけ目を閉じたこと。
現状を確かめなくては。
私はベッドに半身だけ起き上がり、自分の掌を見た。
大きくて長い指。褐色の肌。そして両腕には、蒼や緑の石をちりばめたブレスレットをはめている。
薄く透ける生地でできた長くてゆったりしたドレスを着ており、胸元は大きく開いている。
おなかのあたりが、たしかに少しふっくらとしていた。
今私の目の前で、一体何が起きているのだろう。
先ほどまでの体験と今目の前で起きていること、どちらが現実なのか判断付かぬまま、その女性の声をじっと聞いていた。
「また寝ぼけているの?
あなたはいつもそうやって夢と現実をごちゃまぜにして私たちを困らせるのよね」
ああ、それは水の国にいた時もよく言われていた。この場所に生きていたらしい私も、性格はそう変わらないのか。
「この前も、祈りの森に光のかたまりが飛んでいるという噂を聞いて、あれはピラミッドを作っているグループで、あの光の正体は魂の学校だなんて言いだすから、村の人たちの前で大恥をかいたわ」
「ピラミッド? 」
思わず反応する。
「ピラミッドとは、あの大きな三角の建造物のこと? 」
「いやだわ、寝ぼけてるのね。ほかに何があるというの。大昔からあそこにどん!とあるじゃない。忘れたの? 」
女性は呆れた顔をしていた。
「ではピラミッドは既に完成しているのね」
女性は眉間に皺を寄せ、
「ルルウ、姉をからかうのはいい加減にして、年上は敬うものよ」
ときつい口調になる。
あ、この人は私の姉なんだとやっと把握する。
「完成しているも何も、私たちが生まれる前から、あのばかでかい建造物は存在していたじゃない!」
ということは、あの光の船で見た時から少し未来にきたということか。
そういえばあの声は、「時空を超えて」と言っていた。
時空、つまり、時間と空間を超えて移動したということ。
私は少しずつ現状を把握し始める。
「確かにね、あの建物は何もかもは不思議よ。古の人たちがどうやってあのように大きな建造物を作ることができたのか、学者たちもわからないというわ。
それに、霧がたちこめるあの森の中心に近づこうとした人は、道に迷い幻覚を見たりして、結局たどり着くことが出来なかったとか、霧が晴れたとき、そこに忽然とあの建造物は現れたなんて伝説は残っているけれど」
姉のその説明で、ピラミッドについて謎が多いことを知る。
それはそうでしょう。だってあの建物は…
「でもね、いくら謎が多いとは言っても、あなたが力説していた、道具を使うことなく人と石の力を合わせて念じることで石を浮かせて建造したなどという夢物語は、あり得ないことよ」
思わずはっとする。
それはあの船の中で教えられていたこと。それはついさきほどの出来事だったのに。ここで生きていた私はそれを知っていたというのか。
ああ、そもそも、ここで生きていた私って誰なの?
私はさっきまで水の国で生きていた意識のままなのに。
ここで生きていた私の意識はどこに行ってしまったの?
息が苦しくなるのを感じる。
あの声の説明は難しい上、中身が足りなすぎて、わからないことが多すぎる。
「たしかにあれほど大きい建物をどのように作り上げたのかは謎よ。いろんな人がたくさんの仮説を考えていたわ。
でもあなたの子供じみた石と力を合わせて作ったなどと言う幼稚な発想は人に笑われてしまうのよ。お願いだからもう2度と人前であの話をしないでね」
今目の前で起きているこの出来事は夢なのだろうか。
それとも水の国で生きていたことの方が夢だったのだろうか。
うまく息ができない。
部屋中いたるところに飾られた鮮やかな花々の色と匂い。手首に巻かれたブレスレットの石の重み。
腹部のちょうど真ん中で、小さくぴくぴく痙攣する感覚。それは明らかに「私とは違う意思を持った何か」が、私の身体の中で勝手に動いている感覚。
これらを現実ではないと否定することなど、今の私には出来なかった。
ではやはり、先ほどまで私が見ていたことが夢なのか?
だけど、あの悲しみと絶望の中で見た美しい夕陽、光の船と優しい声、スパークしたふたつの魂と溢れる光の粒子と飛びたつ鳥。
夢と現実の境界線が、目の前で曖昧になっていく。何を信じたらいいのかそのよりどころを失った恐怖で、私は何も言えなくなってしまった。
「気が付かれましたか? 」
声がした方を見ると、磨かれたベージュの壁の前に、人影があった。
大きな花籠を携えた女性と背の高いひとりの男性が立っていた。
「カルディア様、ご心配おかけして誠に申し訳ございません」
私の姉と名乗る女性は、うやうやしくお辞儀をし、女性から大きな花籠を受け取った。
「私のことを見るなり突然倒れてしまわれたので、脅かしてしまったのかと心配になりましたよ」
そう言うとカルディアは楽しそうに笑った。
お付きの女性も、静かに微笑んでいる。
「はるばるギリシャからカルディア様がいらして、失われた叡智のお話をしてくださると楽しみにしていたのに。
妹がこのようなことになり、お話を聞けずにとても残念でした。またいつかお話を聞く機会があると嬉しいのですが・・』
「イリスそしてルルウ。私の話など、そう珍しいものではないのですよ。もし何か知りたいことがあるのでしたら、いつでも尋ねていらして下さい。
しばらくはこの村の長のお屋敷に滞在させていただくことになっておりますから」
「カルディア様、私たちの名前をご存知でいらしたのですね」
「先ほど村の長より教わりました。
虹と風を感じさせる美しい姉妹だと伺っております」
「まあ」
イリスは嬉しそうに頬に手を当て、先ほど私に夢物語を話すなと告げていたときとは違う穏やかな笑顔でカルディアを見詰めていた。
虹という言葉に反応する。
『虹が、光が、鳥が導く方向に、あなたの進む道はあります。もし道に迷ったら、それを思い出してください』
虹が導いてくれる。
姉の名はイリス。虹のことだ。
カルディアと名乗るその男性は、私より年上で、イリスよりは若く感じられた。
肌も髪も、透けるほど白く輝いている。
私はこの方と、以前どこかで会った、そんな感覚が喉の奥から、ふつふつと湧き上がっていた。
その時、心の中に直接響く声がした。
『あなたは覚えているのですね?』
目の前のその男性の顔に見覚えはなかったが、私の心は確信していた。
この人はかつて水の国で、師と呼ばれていた男性だと。
2002.5.9発行のメルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝』より
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