Je vis ma vie 〜ありがとうの気持ちがあふれる社会へ〜

マーケティングの本質は「ありがとうの気持ち」の探求だと考えます。こちらで社会にありがとうの種をまく活動や想いを綴ります。

どうしたら「友だち」になれるのかしら?

2017-08-27 | 子どもと学び
おはようございます。対話のアトリエ桑原です。

昨日、13名の子どもたちと
「こども哲学」をしてきました。
今日は、あえて何をしたかではなく
私の心の中を開示したいなと思います。



いつもは4〜6名との対話で
小学生が混ざって9名までは経験がありましたが

グロースリンクかちどきさんとの
コラボイベントでしたので、少しでも多くの方に
体験していただきたくて設定した
未就学児13名
は、かなりチャレンジングな人数です。

そこで、オブザーバーとして
心の友であるインターン仲間のシホさん
サポートしてもらいました。


信頼できる仲間の存在が
どれだけ私を支えてくれているか…
私のファシリテーションを
クロコとなって支えつつ、楽しんでくれたこと

子どもたちとの関係を築く前に
シホさんとのほっこりとした絆を感じていたら

子どもたちとの対話の中から
初めて会った子とはまだ「友だち」じゃない…
という言葉が出てきました。



「友だち」って何なのでしょうか?

いつから「友だち」になれるのでしょうか?

どうしたら「友だち」なれるのでしょうか?

私が友だちだと思っていても、
相手が友だちと思わないこともあるのでは?



こんな問いを考える時間になりました。



私は、
「楽しい時間」を共有することで
探求の共同体を築けるだろう…
という仮説の下
「楽しい時間」
を提供することだけを軸に計画してきました。



「楽しい時間」を共有したら
友だちって思えないかな?
途中から、そんなことを考えていました。



絵を描く時間には、
3つしかない鉛筆削りの取り合い
が勃発しました。

私がうっかり出してしまったから
「削りたい」
に夢中になる男の子が数名…



他の子が使いたいと言っても
「イヤだ‼︎」と独占したがる子…

使いたい!と、取り上げようとする子

どんなことがあっても手放さずに独占し続ける子

取り上げられて、悔しそうに涙を浮かべる子

取り上げられた友だちの悲しそうな顔を見て
取り繕うかのようにたくさん話しかけている子



私には、それぞれが
友だちと順番に使うこと
自分が使いたいという想いの狭間で
葛藤しているように見えました。

自我の芽生えから
脱自己中心性に向かう真っ只中
の子どもたちの様子は
とても愛おしいものでした。



子どもたちは、共に過ごす時間の中で
様々なことを感じて育っています。

数分後には、何事もなかったかのように
楽しそうに戯れていました。

なんて素敵な光景かしら…



終了時間はあっという間にやってきました。

「友だちになれて嬉しかった」
「笑いたい気持ち!」

そんな気持ちを共有しながら
お家に帰って家族とも共有してね!
と終了しました。




終了後、鉛筆削り事件の主役たちが
「またな!」
とカッコよく言ってくれました。


キュン‼︎



口々に「楽しかった」
と語る子どもたちと
友だちが形成される時を共に過ごせたこと
最高の時間でした。


もちろん、「友だちにはなっていないよ!」
と思っている子もいると思いますが…

それもまた、尊重したいと思います。