カルマの構造に就て一言。
カルマと一言で言うけれども、カルマの強制力は非常に強いんです。
慎重にすれば防げるというものではない。
師の言葉を言葉を借りれば、
歯車と歯車がガシッと噛み合ったように、
ぜったいに、
運命のとおりに実現させずにはおかない。
そういう力を、
カルマは持っているんだというわけです。
だから、
「運命なんて迷信だよ、己の努力と信念で、人生は切り開けるんだ!」
なんて、多くの人はうそぶくでしょう。
なんなら、どうなるか見ますか?
なんて言いたくなるのを、
ぐっと抑えて聞いてるわけですが。
私なども、相談に見えられた方が、
怪訝な顔をして、私の説明を聞く前に、
もう自分の問題のカルマを披露されていることを体験します。
ね、そうでしょう?なんて、説明に入ることになるわけですが。
それほどに、カルマの強制力は強力なんですね。
それは、問題の出来事には、まず当事者が自分一人だけではないということ。
トラブルには当事者としての相手がいるということです。
あたり前のことですが、
トラブルが起きるには、起きるまでに様々な条件が重なっていますね。
トラブルの起きた時点からさかのぼって見ると、
いくつもの条件がひきつづいているのがわかります。
だから、
トラブルは単独犯ではないんですね。
共犯なんです。
いろいろな人が関わって起きている。
それがわかると、自分だけが悪いんじゃない、
と思わず、叫びたくなるんじゃないかと思います。
いくつもの条件が重なって、
しかるべき時間に、しかるべき人の手によって引き起こされる。
それを仏教では、
「相依性」そして「縁起の法」と言います。
だから、問題は多くの人が関わって起きているので、
多くの人の想念も関わって来ます。
また、多くの人の脳にそれが記録されてしまいます。
それらが一つの問題に絡んでくるのですから、
その問題を解きほどくのは、
至難の業であろうと思います。
それらを解きほどくのは、なんというか、
ニルヴァーナに入ったお方である仏様に頼むしかないわけです。
ここに至って、とつぜん飛躍したような論理になってしまって、
読んでいる人は、驚いたかもしれません。
でも、
こう説明するしかないのです。
さとりを得られたお釈迦様には、
そのお力=カルマをほどく力を持っておられる。
だからこそ、仏様と申し上げるのです。
それがニルヴァーナに入られた仏様のお力だと。
人間を超えた存在。紙をも超えた存在。
だから、尊いのです。
カルマをほどく力を持つことが、どれだけ素晴らしいことであるか。
次には、
そのお話をさせていただこうかと予定しております。
(つづく)