六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

カルマの構造

2019年04月07日 19時42分59秒 | 未来


カルマの構造に就て一言。
カルマと一言で言うけれども、カルマの強制力は非常に強いんです。
慎重にすれば防げるというものではない。

師の言葉を言葉を借りれば、
歯車と歯車がガシッと噛み合ったように、
ぜったいに、
運命のとおりに実現させずにはおかない。

そういう力を、
カルマは持っているんだというわけです。
だから、
「運命なんて迷信だよ、己の努力と信念で、人生は切り開けるんだ!」
なんて、多くの人はうそぶくでしょう。

なんなら、どうなるか見ますか?
なんて言いたくなるのを、
ぐっと抑えて聞いてるわけですが。

私なども、相談に見えられた方が、
怪訝な顔をして、私の説明を聞く前に、
もう自分の問題のカルマを披露されていることを体験します。

ね、そうでしょう?なんて、説明に入ることになるわけですが。
それほどに、カルマの強制力は強力なんですね。

それは、問題の出来事には、まず当事者が自分一人だけではないということ。
トラブルには当事者としての相手がいるということです。
あたり前のことですが、
トラブルが起きるには、起きるまでに様々な条件が重なっていますね。

トラブルの起きた時点からさかのぼって見ると、
いくつもの条件がひきつづいているのがわかります。
だから、
トラブルは単独犯ではないんですね。
共犯なんです。
いろいろな人が関わって起きている。

それがわかると、自分だけが悪いんじゃない、
と思わず、叫びたくなるんじゃないかと思います。
いくつもの条件が重なって、
しかるべき時間に、しかるべき人の手によって引き起こされる。

それを仏教では、
「相依性」そして「縁起の法」と言います。

だから、問題は多くの人が関わって起きているので、
多くの人の想念も関わって来ます。
また、多くの人の脳にそれが記録されてしまいます。

それらが一つの問題に絡んでくるのですから、
その問題を解きほどくのは、
至難の業であろうと思います。

それらを解きほどくのは、なんというか、
ニルヴァーナに入ったお方である仏様に頼むしかないわけです。

ここに至って、とつぜん飛躍したような論理になってしまって、
読んでいる人は、驚いたかもしれません。
でも、
こう説明するしかないのです。
さとりを得られたお釈迦様には、
そのお力=カルマをほどく力を持っておられる。

だからこそ、仏様と申し上げるのです。
それがニルヴァーナに入られた仏様のお力だと。
人間を超えた存在。紙をも超えた存在。
だから、尊いのです。
カルマをほどく力を持つことが、どれだけ素晴らしいことであるか。

次には、
そのお話をさせていただこうかと予定しております。

  (つづく)
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準提尊の功徳(Ⅲ)

2019年04月07日 19時12分01秒 | 未来


タンハーを生じさせる元は、マイナスのカルマです。
自分自身が前世より行い積み重ねてきたところのカルマです。
これが来世に再生させるところの原動力となって、
「私」という存在を、連続的に生まれさせているのです。

最近考えるのは、
人がこの世に生まれる理由についてです。

前世において、
納得のいかない出来事があったのは理解できるんです。
なぜなんだ?という理不尽な想いで、
私は前の世を去った。

そして、その想いは、納得のいかない思いををもって
次に何とかしたいと生まれ変わってきた。
あるいは、
振られた女にもう一度会いたいと思ったのか、
それとも、
ひどい目に遭わせたあいつに仕返しをしようと思ったのか。

どちらにしても同じことだ。
何とかカタをつけたいということなのだ。
その想いは、
もう一度生まれ変わってその想いを晴らしたいと。

その思いがあるかぎり、
「私」は何度も生まれかわる。
何度も生まれ変わるのがつづいて、
無限に生まれ変わり続けることになる。
なぜならば、
想いを満足させることは、ついにできないからなだのだ。

どんなに現実世界で成功を収めたとしても、
吾々は、心の底から満ち足りることは不可能なのだ。
満ち足りる心を知らないから。

満ち足りるためには、
すべてを知る尽くすこと。
現実世界において追い求めることが、
空しいと思い知ること。
それしかほかに方法はないと私は考える。

話を元に戻そう。
私たちが生まれ変割るのは、
自らの方に理由があるからではない。
他からの理由であることがすべてだと思う。

私たちは生まれ変わろうと意思すると同時に、
生まれ変わらされているのだ。
私が迷惑をかけた存在から、ひどい目に遭わせた者から、
生まれ変わって、報いを受けるという要請を受けて、
私たちは生まれ変わっている。

そう考えるべきなのだ。
そう考えなければ、
なぜこんなにも理由のわからない苦しみに遭うのか。

報いを受けて、
次の人生を清々とものにするために、
私たちはこの人生で苦しみを受けている。
そう考えるべきなのだ。

そう考えると納得がいく。
つまり、清算である。
過去の借金問題を清算するために、私はこの世に生まれてきた。
そうでなければ、
私はもっと快き人生を楽しんでもよいと思う。

(つづく)
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