4月も半ばになり、
いよいよ春も本格的になりました。
好いもんです、春は。
気持ちがいいですね。
そんなことで、大学でも入学式が行われたようです。
そんなときに、
東大入学式で、名誉教授である上野千鶴子女史が祝辞を読み上げたのだが、
その内容が入学式の内容にそぐわないという理由(?)で、
大きな反響を呼び起こしたという。
テレビでのスピーチを聞くかぎり、
私としてはありのままに受け止めてみました。
ただ、
気になったのは、上野教授が性差別の権威?であるために、
男女の性差別について話をされたということ。
そして、その話の後半に、
自分たちが合格したのは、周囲のいろいろな支援を受けて、
そして合格してきたのだと。
その合格のおかげを、自分たちの利益のためだけに使うのではなく、
社会的被差別たちに対する援助という形で、
使うようにしてもらいたいという内容になっていた。
上野教授が男女の性差別問題から、
普遍的な問題として、報われない人々のために力を使ってほしいという話に結んでいた。
そのメッセージに対して、
東大二年生の受けたインタビューの内容に、
私はドライだなあという印象を受けた。
やっぱり、
受験生は競争社会の中で生き抜いて、そして合格を勝ち取ったわけですから、
他者に対する無関心さがあるんだなと、そう思ったんです。
しかし、上野教授が述べられたように、
自己の利益のためにのみ(例:組織内における昇進、金銭欲を満たす等)
働くような人であるならば、
これから卒業して、
日本の国を動かす官僚になっていくような人が、
他者に対する愛情をもたなくて、どうするのか?
若者が自分の可能性を求めて、生命力を燃やすのは当然ですよね。
しかし、
弱者とか恵まれない者に対する優しさとか愛情とか持てない人は、
箸にも棒にも引っかからない、
一片の魅力もない人間になってしまう。
言い尽くされた古い言葉ですが、
やっぱり人間は人さまの役に立ててこそ、価値があるというものです。
人を救う、お役に立つための仕事であること。
そこを忘れてはいけないと思うのですね。
どんな仕事に就こうとも、
人さまのまたは社会の役に立てない者に、価値はないと思いますね。
人を助けてこそ、私たちは生きる価値があるのではないかな。
利己的な人に人間的な魅力なんて少し感じられない。
そうなったら、その人はもうおしまいですよ。
つまらない人間だと思われたら、そこでオシマイだな。
そんな人間にはなってはいけないと、
つくづく、このごろ思うようになったんですね。
こんなこと言うのも、老人のたわごとでしょうかねえ。