六枚目のコイン

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不惑

2019年05月05日 19時59分35秒 | つぶやき
つい最近、

「不惑」という言葉が心に浮かびました。

ああ、俺も六十にして迷わなくなったなあ!

なんて、思ったのでした。



ところが、

「不惑」って、四十歳を意味する言葉だそうですね。

あれ?と拍子抜けしてしまいました。



なんだ、「不惑」って40歳を意味するのか?

俺は六十歳を過ぎて体験したんだぞ。

そう、少々憤慨気味に思ったものですが、

しかし、

さすが孔子ですね、

四十歳で迷わなくなったというのですから。



念のために、論語の文句を載せてみましょう。



“吾、(わたし)は15歳にして学問を志した。30歳にして独立した。

40歳にして迷わなくなった。50歳にして天命を知った。

60歳にして人の言葉に耳を傾けられるようになった。

70歳にして心のままにふるまっても道を踏み外すことがなくなった。”



だいたい、

そんな意味のことを孔子は弟子に向かって言ったと言われています。

私も孔子の言葉が味わえる年齢になったのかと、

人生を感慨深く感じれるように思ったのですが。



やはり、そこは孔子、私とはものが違う。

ですが、

独白している内容を見てみるとそうでもない。

15歳にして志すというのは、昔の人ならば半ば当たり前。

30歳にして独立するというのは、

今ならばIT企業などで社長業をしていてもおかしくない。



40歳にして不惑というのは、これは少し考えてもいいように思うんですね。

やはり、

自分の道を見つけることが一番大事なんでしょうね。

己の生きる道を見つけることが大事なんだなあと思います。

そして、

その方向性を見誤らないこと。

そうすると、

他の「天命を知る」、「耳に順ふ」とか「矩を超えず」とか、

その条件がクリアできるように思うのです。



ちなみに、

私は独立したのは18歳で決めた生き方があありました。

ですが、

それは心から決めた自分の人生ではなかった。

改めて、こうしたいと思ったのは30歳でした。

これは同じですねえ。



「天命」は24歳の時に認識しましたからね。

知ったというよりも、ふっと浮かんだというのが自然です。

また、

天命を知ったのは、

これも同じような感じで37歳のときでしょうか。

これを不惑と言えるのかどうか?

60歳にして耳に順うというのは、本当です。



私もやっと我を張らずに、

人の言葉に素直に傾けられるようになった、かな?

自分自身を客観的に見れるようになったかと思える。



一度自分を捨ててみる、あるいは滅多めったにやられてみる。

もう問答無用で、一方的にやられてしまう。

もう、自我をめちゃくちゃに否定されたことがありました。



そういう体験があって、

自分自身を謙虚に見ることができるようになったように思いますね。

そして、

一度自分自身の人生をあきらめるように、

放ってみたら、

自分を冷静に見れるようになったのかも?



そこから、

私は再度人生を考えて、

自分自身がなすべき果たすべきことを考え直したわけです。

そうすれば、

忘れていた「天命」=「使命」を思いだしたんです。

普通ならば、

これで終わってしまうところを、私は再出発できた。





60歳すぎて、普通のパターンならばもう隠居でしょうね。

それが、それで終われなかった。

なぜって、私は何にも成し遂げていなかったんだから。

何にも実現していなかった。



これでは、人生を終えることができないじゃないですか。

くそ、なんで俺はこんな人生を送らなきゃならないんだ。

もう自分の人生を嘆くよりほかないのですが、

そんな弱音を吐いたってしようがないんだから。





そこから、

遭いあがることにしたわけです。

晩年運とは、60歳を過ぎてからの運気だと思い知らされた。

うかつだった、これが晩年運だとは・・・。



そこで、「不惑」まさにそうですね。

人生の目標ができたわけです。

それまで、人間っていろいろと迷いますよね。

なるほど、

人間って俗人ですから、いろいろと煩悩のために迷うものですよ。

人生諦めきれないんでしょうね、欲に目がくらんで迷う。



これが一番いけないんです。

どこかでがけっぷちに立たされる体験が必要なんです。

そして、

いろいろと迷いに迷って、踏みだせない不断な面を断ち切ること。



これが大事だと思うんです。

これができないと、

どんどん時間は過ぎさっていく。

そして、臨終の間際に後悔が残っていく。



こうなると、

その人生は「後悔」の一文字になってしまうわけです。

どこかでけじめをつけないといけない。



つまり、人生をあきらめてひとつのことに目標を決める。

自己の甘い部分、もっといい目を見たいとか。

そんなことに目を向けない。

そのほかは求めないという一点に目標をつける。



そうすると、

「矩を超えない」という状態になれるのです。

欲がないから他のタブーに触れる必要がなくなるのです。



つまり、

一途に生きる!

こういうことだと思うのです。

それが私たちの人生を最高に、

そして、

ピュアに、充実して、後悔のない、最高の人生を送る秘訣ではないか。

そう思うのです。



孔子が言った「不惑」から、

こんなことを思ってみたりしました。



ありがとう!
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