夜空の天を仰ぐように、
運命の星が配置された宿命盤を眺めるとき、
これが「運命」というものの動きと結果なのか。
密教占星学の深さに、深い感動と理解に、心から驚く。
もう一度、
『密教占星術Ⅰ』を読んでみたい。
92頁の『仏陀の法の源泉』という章に、
こういうことが書いていある。
「そのために、彼は、バラモンの運命学を学んで、
(というのは、バラモンの運命論・人生論は、彼らの運命に対する洞察、
すなわち、彼らの運命学の上に立って成立しているからである。)
バラモンの説く運命論・人生論が、誤っておらぬことを知ったわけで、
その上に立って、因縁解脱の理論と方法論が展開されることになったと
見るべきである。
仏陀は、バラモンに伝わるヴェーダやウパニシャッド、
またバラモンの僧侶・神官たちから、運命学を学び、
さらに彼自身の知識を加えてより完全なものとした高度の運命学を、
⦅法⦆として弟子たちに伝えた。
この伝統を引くものが、前にのべた『密教占星学』である。
この『密教占星学』は、仏教の教理を成立させる上で、
非常に重要な役目を為すもので、
仏教教義に欠くことのできないものである。
この密教占星学の実践部門である密教占星法、
あるいは密教占星術によって、実際に人間の運命を透視してみて、
はじめて、
人間生命の三世にわたる輪廻が、はっきり実証されるのである。
その上に立ってこそ、
そこからの解脱がなっとくできるわけである。
ところが、現在の仏教は、この最も重要な部分を切り捨ててしまって、
結論だけである経典をもって、仏教であるとしている。
どうして、そういうことになったのか?
(生命の運命理論を実証する『密教占星学』)は、秘密仏教の深い扉の奥に秘められたまま、
いつしか埋没してしまったのである。
私(桐山靖雄師)は、インドの古代密教の中に、それを発見し、
苦心してそれを解いた。
体得すると同時に、
私は難解な哲学的部分は別として、
少なくとも、人間の宿命・業・輪廻などの動きをはっきり実証できる実践部門、
すなわち「占星法」だけは、わかりやすく整理して、
世にひろく伝える必要があると感じた。
それはただ一人、これを体得した私の義務であると感じた。
今、私がそれをなさない限り、
再び、この貴重なこの上ない仏教運命学は、神秘の闇の中に埋没してしまうであろう。
そう決心して、
私は公開の筆をとることにしたのである。」
そう本の公開を説明されている。
誰も密教占星学(術)が、
仏陀の開かれた仏法の源泉であることを知らない。
師の説かれる密教占星(学)術が、迷信であるとでっちあげる者は多い。
宗教は大本の教えという意味である。
自己の人生を変えようと志す者が、初めに考えることが宗教である。
そして、
運命を前にして、凝然と立ちすくむ者に、
どうすれば、苦しみにのたうち回る自己の人生を変えていくことが可能か?
それを考えた賢聖たちがいた。
それがキリストである、モハメッドであり、
過去の偉大なる聖者たちである。
その中でも、もっとも偉大なる霊性開顕の聖者が、
仏陀・釈迦であるのだろう。
彼は幾重にも織りなし繰り返す、過去の人生を見渡して、
人間の性というものを見た。
そして悟った。
そこから、人の存在を成り立たせている業に目を向け、
業からの解脱を解かれた。
それが『成仏法』であり、『因縁解脱の法』である。
私たちは普通、
自己の人生が楽しいものだと考えるかもしれない。
あるいは、生きていくために、
そんなこと考えたこともないと思うかもしれない。
だが、
人生をほぼ歩んでしまった初老にとっては、
人生というものの意味を、
苦々しい経験とともに、振り返るものだ。
これが人生というものなのか。
深い嘆息とともに、
納得せざるを得ない思いと、後悔しか残らない我が人生に、
諦観だけが許される時間を、そこに味わうのかもしれない。
これまでの修行が徒労に終わるような、
弱気な自分がいる。
これはむずかしいなあと。
運命を変えるなんて、とてもじゃない。
こんなことを考える奴は、人間じゃない、化け物だよ。
そう思うこともあった。
だが、
生まれ変われた自分がそこにはいた。
そして、
もう一度立ち上がることを、私は決意する。
私は一人ではない、孤独ではない。
私を励まし、救いの手を差し伸べてくれる存在たちがいる。
それを私は確信して、
必ず『阿那含』に到達することを誓願する。
そして、
私は今、阿那含向であることを自覚する。
残りの我が人生を、解脱の法に賭けていきたい。