準提(じゅんてい)様は、別名:清浄如来と申します。
なぜなら、
この仏さまは釈迦如来の悟りの特徴である、
完全なるカルマの清浄を示したものでありシンボルなのです。
これによって、
私たちの不浄である=悪業、煩悩、霊障等を取り除いていただきます。
私たちの持つ不浄=汚れには、三種類あると言われます。
①前世から積んできたところの悪いカルマ。
②私たち凡夫が思うところの、むさぼりの心、瞋りの心、愚かな動物的心に基づいて発するところの悪い想念。
③霊的な障害。これは、先祖の成仏していない存在=不浄仏霊。
または、先祖や自分自身の不徳から受けるところの生霊や他人の恨み。
それらが障りとして、私たちの身に心に染み着きます。
それら一切を取り除いて、清浄なる体にしていただくのです。
不浄は凡夫を霊的高い世界に赴くことを不可能にします。
まず、浄まることが大事なんです。
そのお力を戴く存在を、「本尊」と申します。
聞いたことがあると思います。
それだけに尊い存在ですから、
奉ること供養することを行うのです。
最近のスピリチュアルの世界で、
五次元上昇とかよく言われていますね。
なんか、不思議なこれまでと全く違う世界がやってくるようなことを言われていますが、
仏教的世界観を理解するならば、
そして人が本来あるべき姿を理解するならば、
まったく不思議でも何でもない、当たり前のことが、
今後の未来に展開するだろうことが想定できるのです。
正しい人間観を理解すること、
人間の進むべき在り方、
それらが分かると、
人はどう変化すべきかが自ずとわかるのです。
すると、正しい価値観に目覚めるようになります。
ただ現実世界で生き抜くだけの考え方が、
正しくないんだということに気が付きます。
現実的世界だけで生きることが、
正しい人生を送ること、幸福を実現すること、にはならない。
そういうことに目覚めるのです。
本当の価値に目覚めるというか、
時代を超えた「永遠の価値」を掴むことになります。
その真実を与えてくださるのが、準提尊様なんですね。
そして、
この仏さまは人間界からおいでになられたのではないんです。
当たり前のことですが、
異次元世界から下生された仏様です。
大変なおぞましい人間の世界が、
今、繰り広げられているではないですか。
この救われない人間=愚かな存在を見て、
私たち人間を救うぞという、
大いなる慈悲の心をもって、
悲惨な人間たちを救うために降りてこられた。
すべての人間を救う!
そういう誓いの心をもって、おいでになられたのが、準提尊様です。
他にはおられません。
大変稀有な仏様です。
カルマの構造に就て一言。
カルマと一言で言うけれども、カルマの強制力は非常に強いんです。
慎重にすれば防げるというものではない。
師の言葉を言葉を借りれば、
歯車と歯車がガシッと噛み合ったように、
ぜったいに、
運命のとおりに実現させずにはおかない。
そういう力を、
カルマは持っているんだというわけです。
だから、
「運命なんて迷信だよ、己の努力と信念で、人生は切り開けるんだ!」
なんて、多くの人はうそぶくでしょう。
なんなら、どうなるか見ますか?
なんて言いたくなるのを、
ぐっと抑えて聞いてるわけですが。
私なども、相談に見えられた方が、
怪訝な顔をして、私の説明を聞く前に、
もう自分の問題のカルマを披露されていることを体験します。
ね、そうでしょう?なんて、説明に入ることになるわけですが。
それほどに、カルマの強制力は強力なんですね。
それは、問題の出来事には、まず当事者が自分一人だけではないということ。
トラブルには当事者としての相手がいるということです。
あたり前のことですが、
トラブルが起きるには、起きるまでに様々な条件が重なっていますね。
トラブルの起きた時点からさかのぼって見ると、
いくつもの条件がひきつづいているのがわかります。
だから、
トラブルは単独犯ではないんですね。
共犯なんです。
いろいろな人が関わって起きている。
それがわかると、自分だけが悪いんじゃない、
と思わず、叫びたくなるんじゃないかと思います。
いくつもの条件が重なって、
しかるべき時間に、しかるべき人の手によって引き起こされる。
それを仏教では、
「相依性」そして「縁起の法」と言います。
だから、問題は多くの人が関わって起きているので、
多くの人の想念も関わって来ます。
また、多くの人の脳にそれが記録されてしまいます。
それらが一つの問題に絡んでくるのですから、
その問題を解きほどくのは、
至難の業であろうと思います。
それらを解きほどくのは、なんというか、
ニルヴァーナに入ったお方である仏様に頼むしかないわけです。
ここに至って、とつぜん飛躍したような論理になってしまって、
読んでいる人は、驚いたかもしれません。
でも、
こう説明するしかないのです。
さとりを得られたお釈迦様には、
そのお力=カルマをほどく力を持っておられる。
だからこそ、仏様と申し上げるのです。
それがニルヴァーナに入られた仏様のお力だと。
人間を超えた存在。紙をも超えた存在。
だから、尊いのです。
カルマをほどく力を持つことが、どれだけ素晴らしいことであるか。
次には、
そのお話をさせていただこうかと予定しております。
(つづく)
タンハーを生じさせる元は、マイナスのカルマです。
自分自身が前世より行い積み重ねてきたところのカルマです。
これが来世に再生させるところの原動力となって、
「私」という存在を、連続的に生まれさせているのです。
最近考えるのは、
人がこの世に生まれる理由についてです。
前世において、
納得のいかない出来事があったのは理解できるんです。
なぜなんだ?という理不尽な想いで、
私は前の世を去った。
そして、その想いは、納得のいかない思いををもって
次に何とかしたいと生まれ変わってきた。
あるいは、
振られた女にもう一度会いたいと思ったのか、
それとも、
ひどい目に遭わせたあいつに仕返しをしようと思ったのか。
どちらにしても同じことだ。
何とかカタをつけたいということなのだ。
その想いは、
もう一度生まれ変わってその想いを晴らしたいと。
その思いがあるかぎり、
「私」は何度も生まれかわる。
何度も生まれ変わるのがつづいて、
無限に生まれ変わり続けることになる。
なぜならば、
想いを満足させることは、ついにできないからなだのだ。
どんなに現実世界で成功を収めたとしても、
吾々は、心の底から満ち足りることは不可能なのだ。
満ち足りる心を知らないから。
満ち足りるためには、
すべてを知る尽くすこと。
現実世界において追い求めることが、
空しいと思い知ること。
それしかほかに方法はないと私は考える。
話を元に戻そう。
私たちが生まれ変割るのは、
自らの方に理由があるからではない。
他からの理由であることがすべてだと思う。
私たちは生まれ変わろうと意思すると同時に、
生まれ変わらされているのだ。
私が迷惑をかけた存在から、ひどい目に遭わせた者から、
生まれ変わって、報いを受けるという要請を受けて、
私たちは生まれ変わっている。
そう考えるべきなのだ。
そう考えなければ、
なぜこんなにも理由のわからない苦しみに遭うのか。
報いを受けて、
次の人生を清々とものにするために、
私たちはこの人生で苦しみを受けている。
そう考えるべきなのだ。
そう考えると納得がいく。
つまり、清算である。
過去の借金問題を清算するために、私はこの世に生まれてきた。
そうでなければ、
私はもっと快き人生を楽しんでもよいと思う。
(つづく)
(つづき)
タンハーが元にあって、そのタンハーを解消することで、
私たちの人生が改善されるんだと。
それが前回までの説明でした。
では、
「タンハー」とは何ぞや?という疑問が出てくると思うのです。
あなたが発した質問ならば、良い質問だとお答えするでしょう。
大事な質問です。
タンハーが人生を生かす原動力ならば、
そのタンハーを動かすのはなんぞやという疑問が生じるでしょう。
その前に、
仏教ではこれまで、
タンハーを生じるのは「無明」であるとされてきました。
「無明」ゆえに、人は輪廻を繰り返し、
悪いカルマを積み重ねてくるのだと説明されてきました。
さあ、そうでしょうか?
学者は頭の中で理屈を考えます。
机の上で文献を元に理論を立て、説を進めます。
ところが、
「先天運」に関しては、大半の人が追及した経験がありません。
「運気」そのものを追求した人が、そうはいないのですね。
ですから、自分の頭で考えることにしましょう。
それでも、
中には我が偉大なる師のように、
深く深く研究を進められた方もおられます。
我が師はご自分で、特異体質だったと言われことがありますね。
ごちゃごちゃ言うのはそこまでにして、
結論として、タンハーを作るのは己の悪い行為です。
どういう行為かと言うと、
人に迷惑をかけたり、泣かしたり、苦しませたり、悲しませたり、
そういう相手に何らかのマイナスの行為を与えることで、
人からマイナスのエネルギーを受ける。
それが悪いカルマとなります。
私たちは常日頃、自覚なしに行っておりますよ。
そういう未熟な行為を。
それは私たちの心が、「むさぼりの心」「怒りの心」「動物的な愚かな心」
大きく分けると、
そういう心を元にして、私たちは日々生きているからです。
まず、
そんな未熟な心に、私たちは支配されていることを認識することです。
そういう人間を、仏教では「凡夫」と言います。
その三つの心を持っていない人は、「聖者」と呼ばれます。
大変ですね。
私たちは、自分をまともだと思っているでしょう。
さらに言うならば、ほかのトラブルを起こす人を見ては、
比較して、自分を立派な人間なんだと思っている。
ほとんどの人がそう自惚れていると思います。
自己は自分自身をそう考えて生きているのですから。
自分を未熟でなんと愚かで、他人よりも劣っているのかと考えたならば、
私たちは一日も、この社会で生きていくことはできないでしょう。
それを「煩悩」と呼びます。
その「煩悩」を持っているがゆえに、
私たち凡夫人間は人からマイナスの心を受け取ります。
また、動物虐待というのも、動物からのマイナスの心w受け取ります。
それらがみんな行った人に帰ってくる。
そして、
マイナスのカルマとなって、わが身に帰るのです。
我が命を維持するために、動物を殺すなんてことももちろんダメです。
それらを一言で「不徳」というのです。
自分が未熟な考えを持っていたり、浅慮のために、
良い行動をとれなかったりして、
私たちは良い行動をとれない。
結果的に、
それらが私たちに不徳という果実を実らせるのですね。
だから、戒(いましめ)の行いとして、
やってはいけないことの重要性を自覚することです。
次に、
もう一つ、タンハーを生じさせることは、
その不徳を解消しなければいけないということです。
生じてしまった不徳に対して、
そのままにしておくのは、タンハーの解消にはならないのです。
タンハーwを解消すること。
これこそが、一番大切であり、一番困難なことなのです。
出来上がったものをどうやれば失くせるのか?
つまり、不徳を消す消しゴムです。
その消しゴムがないかということです。
それが釈迦の悟りのバイブレーションなんですね。
(つづく)