高野山は弘法大師が真言密教の根本道場として、
国の平和を祈り、国民に安らかな生活への道を伝えて、
併せて末従の修禅観法のため、又、自らの入定の地として
崇高な目的を持って弘仁7年(816)に創設され
金剛峰寺
豊臣秀吉が亡き母の菩提の為建立、
文久3年(1863)に再建されたのが現在に建物で
真言宗4千ヶ寺の総本山とされるという事です。
先ず金剛峰寺で一礼してから始まり お経を唱えた後
金剛峰寺の中を拝観させて頂きました。
一室 一室の説明文と襖絵の見事さに見入る事しばしば、
古い歴史のものを
何ともいえない時空にいるような・・・ゆっくり拝見させて頂き、
お茶の接待も頂きました。
仏前に 斜めのきれいな切り口で長めの大根を中心に
左右に少し短いさつまいもと人参が
きれいに立てて並べてお供えしてありました。
新鮮な野菜を仏様の供物で、
高野山独特の祀り方だそうです。
そういえば 遍照光院にも同じようにして祀ってありました。
お茶と美味しいお菓子の接待を頂いて
奥の院へと
高野山の町並みの あちこちの土産品店の店先には
歓迎板に ○○観光ご一行様、☆☆観光ご一行様と 10枚以上?
並んでいるお店もありました。
観光バスも多いのですね。
高野山の町並み、お遍路さんと観光客の多いにビックリしました。
「すごいねー」
人をこれほど引き付ける
弘法大師様は やはり只のお方ではないですね。
奥の院へは近道もあるようですが 折角の事
一の橋から奥の院までは2キロほどありますが 私達は ゆっくり 奥の院へ向かいました。
奥の院までの参道には
歴史で有名な たくさんの戦国武将の墓が敵味方仲良くならんでいます。
一基 一基 お名前を見て
織田信長の墓 豊臣秀吉の墓 尾張徳川家 武田信玄 上杉謙信・・・。
「は~」「へ~」「あの人も・・・」「この人も・・・」
○に十の字の島津家の墓もありました。
お墓見学、 武将探しみたいになってしまいました。
弘法大師のそばで安らかにとそれぞれ家臣の計らいだったんでしょうかね。
苔むした石碑に歴史が偲ばれます。
御廟橋を渡って 御廟所へ
先祖供養にこられているの方がほとんどでしょうか?
ここも たくさんの人 人 人 です。
奥の院の御廟で お参りして 裏の方へ行ってお参りして
地下に 灯篭の灯かりの中に弘法大師のかすかに見えるお姿があります。
入定された場所でしょうか?
弘法大師御詠歌
有難や高野の山の岩陰に 大師はいまだ在しますなる
生は長崎、居は広島 と申します。
お蔭をもちまして 二人仲良く
無事、四国八十八ヶ所巡り出来ましたと、感謝のお経をあげさせて頂いて、
結願のご報告と御礼をここで申し上げさせて頂きました。
弘法大師が入定されたと思われる場所でお経を唱える事が出来るなんて
なんと有難い事でしょう。
生きている事 生かして頂いている事
周りに すべてに感謝です ありがとうございました。
= 明日へ=
国の平和を祈り、国民に安らかな生活への道を伝えて、
併せて末従の修禅観法のため、又、自らの入定の地として
崇高な目的を持って弘仁7年(816)に創設され
金剛峰寺
豊臣秀吉が亡き母の菩提の為建立、
文久3年(1863)に再建されたのが現在に建物で
真言宗4千ヶ寺の総本山とされるという事です。
先ず金剛峰寺で一礼してから始まり お経を唱えた後
金剛峰寺の中を拝観させて頂きました。
一室 一室の説明文と襖絵の見事さに見入る事しばしば、
古い歴史のものを
何ともいえない時空にいるような・・・ゆっくり拝見させて頂き、
お茶の接待も頂きました。
仏前に 斜めのきれいな切り口で長めの大根を中心に
左右に少し短いさつまいもと人参が
きれいに立てて並べてお供えしてありました。
新鮮な野菜を仏様の供物で、
高野山独特の祀り方だそうです。
そういえば 遍照光院にも同じようにして祀ってありました。
お茶と美味しいお菓子の接待を頂いて
奥の院へと
高野山の町並みの あちこちの土産品店の店先には
歓迎板に ○○観光ご一行様、☆☆観光ご一行様と 10枚以上?
並んでいるお店もありました。
観光バスも多いのですね。
高野山の町並み、お遍路さんと観光客の多いにビックリしました。
「すごいねー」
人をこれほど引き付ける
弘法大師様は やはり只のお方ではないですね。
奥の院へは近道もあるようですが 折角の事
一の橋から奥の院までは2キロほどありますが 私達は ゆっくり 奥の院へ向かいました。
奥の院までの参道には
歴史で有名な たくさんの戦国武将の墓が敵味方仲良くならんでいます。
一基 一基 お名前を見て
織田信長の墓 豊臣秀吉の墓 尾張徳川家 武田信玄 上杉謙信・・・。
「は~」「へ~」「あの人も・・・」「この人も・・・」
○に十の字の島津家の墓もありました。
お墓見学、 武将探しみたいになってしまいました。
弘法大師のそばで安らかにとそれぞれ家臣の計らいだったんでしょうかね。
苔むした石碑に歴史が偲ばれます。
御廟橋を渡って 御廟所へ
先祖供養にこられているの方がほとんどでしょうか?
ここも たくさんの人 人 人 です。
奥の院の御廟で お参りして 裏の方へ行ってお参りして
地下に 灯篭の灯かりの中に弘法大師のかすかに見えるお姿があります。
入定された場所でしょうか?
弘法大師御詠歌
有難や高野の山の岩陰に 大師はいまだ在しますなる
生は長崎、居は広島 と申します。
お蔭をもちまして 二人仲良く
無事、四国八十八ヶ所巡り出来ましたと、感謝のお経をあげさせて頂いて、
結願のご報告と御礼をここで申し上げさせて頂きました。
弘法大師が入定されたと思われる場所でお経を唱える事が出来るなんて
なんと有難い事でしょう。
生きている事 生かして頂いている事
周りに すべてに感謝です ありがとうございました。
= 明日へ=