こんばんは。
だらけにだらけた気分満載の豊田です。
本日は夜勤ですがブログを更新したくなったので書いています。
母親の家でご飯を貰う前ですね。
テレビでNHKのニュースが流れていて、父親は見ないで何か台所の机に向かっている。
母親も何やらやっているが、分からない。
「箸で食べリン」と言っているので、食事しているのだろう。
天上の扇風機が回っている。
僕は風に当たるのが大好きなので、パソコンのうしろで扇風機を回して当たっている。
夕陽が窓の向こうからこちらへ当たっている。
気分も体も疲れた感じで、やる気が無い。
シーンと止まると、なにか、それでも安心感のようなものが漂うのが不思議である。
というわけで相変わらずの生活なわけですが、以前の更新から何をしてましたかね。
だいたい生活でやることは変わらず、仕事して友達の付き合いして、一人になれば倒れている笑
禅とか念仏とか密教とか、ノンデュアリティとか自己変革とかの本を読む。
それでアレコレ考えてみたりインターネットでいろいろ見たり書いたりして、反応を見たりする。
この金曜日は知人と四日市へ。
以前からの約束だったのだが、なかなか出かけられなかったので無理をしてでも行く。
まあ外に出れば様々な人がいて新鮮である。
土曜日には、千鶴さんと悠聖に会いに勢和多気へ。
三重こどもの城で、遊んできたのだが、帰りに悠聖がぐずったので怒ってしまうという事件。
いかんいかん。
家へ送ってバイバイするときに大泣きしたので胸が痛む。
得意のバックブリッジでないてたw
あれ、赤ちゃんのころから、あの泣き方だよなあ。
そして日曜日、昨日は、バーベキューですね。
まあ、まったりのんびりおいしいお肉とお酒で、相手してくれる人たちもいて満足。
しかしまあ、よくぞ、これほどに次から次へと予定がやってくるもんだw
特に僕は何も企画しないと言うのに、ずっと、この状態は続いているのである。
まあ楽しいからいいか。
で、今日は疲れて一日中寝転んでました。
ここまで書いたところでカレーを食べて満腹になったけど、仕事の時間が近づいてきて嫌になるww
さて宗教のことですが、ここのところは飛躍的進化があったのだけど、上手く説明できません。
なんか、この、ここ、つまり現実が、あるにはあるが、まあ過ぎ去って実体もなく、言ったら確実にあるわけではないということ。
そう感じてたら、胸の反対側の背中の方の重みが消えました。
で、そこから妄想へ赴かないようにすると、この苦しみのようなものはなくなります。
まあしかし、無くなるからといって現実は、そのまんまで何も変わらないので問題は問題としてあります。
その問題が脳内の心配や焦り、楽しみ苦しみ、そんなものに返還される前にカットしてる感じ。
なかなか上手くいってます。
もうひとつは現実世界が丸鏡に映っているみたいな認識が、また来ましたね。
で、そこから離れて、心の動きを止めていると、まあふわっと光に消えていくような感覚を持つ。
これはこれで一つの方向なのかもしれない。
んー。
あとはですね。
あればあるだけという有名なやつですが、これは過ぎ去るに任せる感じになりました。
つまり目の前というものは風があれば風が過ぎるし、音があれば音が過ぎていくのだが、そこにはまれば自分が抜ける。
で、その風自体も、通り過ぎていく。
しかし、また新しいものが、様々に現れては消えていく。
種別をわけずに、とにかく、なにかの印象が、内面外面どちらにもやってきては通り過ぎていくのだ。
で、自分は、そこに何を残すわけでもない。
ただ、それは、来ては去っていくのだから、そのまんまにしておくしかないのである。
無とか有とか、そのようなもの、認識も、いまここも、何も要らないが、苦があれば消していく。
苦は、首の後ろくらいから、あーだこーだ言ってる、そのものが顔を出さなければないwwwwww
その認識者が対象に消える時、その対象は過ぎ去り、認識者も消える。
そしてまた新しい対象が現れ、認識者は消えている。
そして、何らかの記憶が、内面をみだしはじめたら、止める、止める。
とにかく止めるのだ。
で、悟りも何も、この心のさっぱりだけがあれば、それでいいのではないだろうか。
うん。
そうに違いない。
わたしの内面に何もなくなったとき、外界の変化の前にある、なにもないそこが、対象としても認識されるように思うが、まあ、そういうのも、イランと言えばいらんのだろう。
とにかく新しい変化があるのだが、これを言葉にできるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。
南無南無w
だらけにだらけた気分満載の豊田です。
本日は夜勤ですがブログを更新したくなったので書いています。
母親の家でご飯を貰う前ですね。
テレビでNHKのニュースが流れていて、父親は見ないで何か台所の机に向かっている。
母親も何やらやっているが、分からない。
「箸で食べリン」と言っているので、食事しているのだろう。
天上の扇風機が回っている。
僕は風に当たるのが大好きなので、パソコンのうしろで扇風機を回して当たっている。
夕陽が窓の向こうからこちらへ当たっている。
気分も体も疲れた感じで、やる気が無い。
シーンと止まると、なにか、それでも安心感のようなものが漂うのが不思議である。
というわけで相変わらずの生活なわけですが、以前の更新から何をしてましたかね。
だいたい生活でやることは変わらず、仕事して友達の付き合いして、一人になれば倒れている笑
禅とか念仏とか密教とか、ノンデュアリティとか自己変革とかの本を読む。
それでアレコレ考えてみたりインターネットでいろいろ見たり書いたりして、反応を見たりする。
この金曜日は知人と四日市へ。
以前からの約束だったのだが、なかなか出かけられなかったので無理をしてでも行く。
まあ外に出れば様々な人がいて新鮮である。
土曜日には、千鶴さんと悠聖に会いに勢和多気へ。
三重こどもの城で、遊んできたのだが、帰りに悠聖がぐずったので怒ってしまうという事件。
いかんいかん。
家へ送ってバイバイするときに大泣きしたので胸が痛む。
得意のバックブリッジでないてたw
あれ、赤ちゃんのころから、あの泣き方だよなあ。
そして日曜日、昨日は、バーベキューですね。
まあ、まったりのんびりおいしいお肉とお酒で、相手してくれる人たちもいて満足。
しかしまあ、よくぞ、これほどに次から次へと予定がやってくるもんだw
特に僕は何も企画しないと言うのに、ずっと、この状態は続いているのである。
まあ楽しいからいいか。
で、今日は疲れて一日中寝転んでました。
ここまで書いたところでカレーを食べて満腹になったけど、仕事の時間が近づいてきて嫌になるww
さて宗教のことですが、ここのところは飛躍的進化があったのだけど、上手く説明できません。
なんか、この、ここ、つまり現実が、あるにはあるが、まあ過ぎ去って実体もなく、言ったら確実にあるわけではないということ。
そう感じてたら、胸の反対側の背中の方の重みが消えました。
で、そこから妄想へ赴かないようにすると、この苦しみのようなものはなくなります。
まあしかし、無くなるからといって現実は、そのまんまで何も変わらないので問題は問題としてあります。
その問題が脳内の心配や焦り、楽しみ苦しみ、そんなものに返還される前にカットしてる感じ。
なかなか上手くいってます。
もうひとつは現実世界が丸鏡に映っているみたいな認識が、また来ましたね。
で、そこから離れて、心の動きを止めていると、まあふわっと光に消えていくような感覚を持つ。
これはこれで一つの方向なのかもしれない。
んー。
あとはですね。
あればあるだけという有名なやつですが、これは過ぎ去るに任せる感じになりました。
つまり目の前というものは風があれば風が過ぎるし、音があれば音が過ぎていくのだが、そこにはまれば自分が抜ける。
で、その風自体も、通り過ぎていく。
しかし、また新しいものが、様々に現れては消えていく。
種別をわけずに、とにかく、なにかの印象が、内面外面どちらにもやってきては通り過ぎていくのだ。
で、自分は、そこに何を残すわけでもない。
ただ、それは、来ては去っていくのだから、そのまんまにしておくしかないのである。
無とか有とか、そのようなもの、認識も、いまここも、何も要らないが、苦があれば消していく。
苦は、首の後ろくらいから、あーだこーだ言ってる、そのものが顔を出さなければないwwwwww
その認識者が対象に消える時、その対象は過ぎ去り、認識者も消える。
そしてまた新しい対象が現れ、認識者は消えている。
そして、何らかの記憶が、内面をみだしはじめたら、止める、止める。
とにかく止めるのだ。
で、悟りも何も、この心のさっぱりだけがあれば、それでいいのではないだろうか。
うん。
そうに違いない。
わたしの内面に何もなくなったとき、外界の変化の前にある、なにもないそこが、対象としても認識されるように思うが、まあ、そういうのも、イランと言えばいらんのだろう。
とにかく新しい変化があるのだが、これを言葉にできるようになるには、しばらく時間がかかりそうだ。
南無南無w