こんばんは。
本日も疲れに疲れて、だるだるモード全開中の豊田です。
どうもご飯食べるとアカン。
まあ、なんとなくブログ更新したい気分なので今日も書こうと思います。
今は母親の家のパソコンで書いています。
なんか夏が来るからか、黒い覆いみたいなのを必死でかけている母親をさっき見ました。
ブツブツ呟きながら、まだ、外で何かをしている。
ヒンヤリした微かな風が窓から入ってくる。
昨日よりも薄暗い、外の光が気分を暗くさせてくる。
時計が相変わらずガガガガガガガガガガガガと変な秒針の刻み方をしている(笑)
さて、今日は、2時半ごろに起きてボケーっとスマホを弄ってました。
で、時間があるから久しぶりに座禅でもしようと思い立ち、いつもなら、やっぱり面倒とやめるのに、なぜか座りました。
45分。
いつ以来か思い出せないくらいなので、まあ、スイッチ入るのに、相当時間かかりました。
終わる少し前くらいに深くなったので多少のすっきり感。
左右の体のバランスが、めちゃめちゃ悪いんだよねー僕。
前からだけど、全然意識してないから忘れてたww
で、座禅を終えてからコーヒー飲んで読書もしましたよ。
嫁様がいてくれた頃の習慣wwwwww
まあ、あの頃は、嫁様や息子ちゃんや、友達、知人の絡みがあっても、やってたのに、それが無くなったら逆にしなくなったのは不思議。
今の方が自由があるはすなのにね。
煙草吸いながら、のんびり読書とか、まあ、至福の時間でした。
心の奥底の深みに触れるような時間を日常に入れておくのは大切なことだろうね。
それから母親の家で父親も含めて食事。
大相撲がやってて、それを楽しんでいる父親、幸せそうだなあ。
大事故で死ぬ寸前までいってたから、こういうの見ると、ホントよかったなあと思う。
と、こういうこと書いてたら、隣の部屋から、寝ている父親の咳き込む声がするwwwwww
人間を見る時に、両親を大切にしている人は、本当の善人の徴であると言われている。
これは、まあ、僕も反省しないとですなw
迷惑しか、かけていないという、この人生。
まあ、まあ、なんとか、いい感じになれるように、頑張るしかありません。
で、ご飯食べてからフェイスブックに、潜在意識の沈黙の話ポイの書いて、勝手に自己満足してから、こちらで更新しておるわけでございます。
昨日YouTubeで真言宗だったかのお坊さんが全国托鉢行した話を視聴して、結構、よかった。
南無阿弥陀仏という、そこに、仏があるわけではなく、その対象によって、自己の心の側に、仏が現成してくる。
つまりこれは、いまここに、いる、その、いまここが実物としての仏なのではなく、その行いを通して、自己の心の側に生まれてくる変性。
つまり透き通る、その、自由こそが仏なのである。
主体が、対象とひとつであるときに、対象も主体も、なくなるのだが、しかし、そこに体験は、きちんとあるのである。
それを言葉で説明するのは非常に難しい。
たとえば、僕がよく、最近感じた、円鏡の世界の淵に、五感による潜在世界があり、その黒の中の光を見る。
という超絶マニアックな認識にしても、その認識も、また、それは問題ではないのだ。
ただ、それが、そう現れて見えているだけである。
そこから、起点を作って、あーだこーだ始めると、またしても光は消える。
つまり、どのようなものがイメージとして浮かんできても、対象は、関係が無いのだ。
その南無阿弥陀仏や、光明がもたらす、こちら側。
つまり己の側の消失具合が、仏の慈悲とか、愛とか、祈りとか、様々な宗教体験の肝なのである。
だから、これこれという、具体が大切なのではない。
庭の柏の樹。
そこに仏がいるわけではないのだ。
それを見ている己。
その己のありようが、疑いの中からポンと連れ出される。
その己を奪うこと。
それこそが仏道の本懐であるということを実地の効果として実現したのがそれである。
だからして、賊機ありという言葉を付け加えた人の、理解の幅の凄さが際立つのだろう。
つまるところ、悟りなどというものはないのだwwwwwww
この事実の中で、常に、新たな世界を生きている、その空白の自己の側が、悟ったのだ。
具体的に、これが悟りなどと指示されるものなど、何もないのである。
過激に言えば、只管打坐も悪人正機も、本来的に言えば、価値などないのである爆笑
その、行為自体には何もなく、それがもたらしたもの、つまり、己こそが悟りそのものなのだ。
だから日常、この日常で、どのようであるかだけが大切なのである。
どのようにあるというのは優れているとか劣っているとかいう価値判断の話ではない。
根本にある慈悲の雨に、つながっているかだけなのである。
何が起こっても、それは、この仏の中からははみだしはしない。
絶対に!
て、ことで仕事行ってきますwwwwwww
またね!
本日も疲れに疲れて、だるだるモード全開中の豊田です。
どうもご飯食べるとアカン。
まあ、なんとなくブログ更新したい気分なので今日も書こうと思います。
今は母親の家のパソコンで書いています。
なんか夏が来るからか、黒い覆いみたいなのを必死でかけている母親をさっき見ました。
ブツブツ呟きながら、まだ、外で何かをしている。
ヒンヤリした微かな風が窓から入ってくる。
昨日よりも薄暗い、外の光が気分を暗くさせてくる。
時計が相変わらずガガガガガガガガガガガガと変な秒針の刻み方をしている(笑)
さて、今日は、2時半ごろに起きてボケーっとスマホを弄ってました。
で、時間があるから久しぶりに座禅でもしようと思い立ち、いつもなら、やっぱり面倒とやめるのに、なぜか座りました。
45分。
いつ以来か思い出せないくらいなので、まあ、スイッチ入るのに、相当時間かかりました。
終わる少し前くらいに深くなったので多少のすっきり感。
左右の体のバランスが、めちゃめちゃ悪いんだよねー僕。
前からだけど、全然意識してないから忘れてたww
で、座禅を終えてからコーヒー飲んで読書もしましたよ。
嫁様がいてくれた頃の習慣wwwwww
まあ、あの頃は、嫁様や息子ちゃんや、友達、知人の絡みがあっても、やってたのに、それが無くなったら逆にしなくなったのは不思議。
今の方が自由があるはすなのにね。
煙草吸いながら、のんびり読書とか、まあ、至福の時間でした。
心の奥底の深みに触れるような時間を日常に入れておくのは大切なことだろうね。
それから母親の家で父親も含めて食事。
大相撲がやってて、それを楽しんでいる父親、幸せそうだなあ。
大事故で死ぬ寸前までいってたから、こういうの見ると、ホントよかったなあと思う。
と、こういうこと書いてたら、隣の部屋から、寝ている父親の咳き込む声がするwwwwww
人間を見る時に、両親を大切にしている人は、本当の善人の徴であると言われている。
これは、まあ、僕も反省しないとですなw
迷惑しか、かけていないという、この人生。
まあ、まあ、なんとか、いい感じになれるように、頑張るしかありません。
で、ご飯食べてからフェイスブックに、潜在意識の沈黙の話ポイの書いて、勝手に自己満足してから、こちらで更新しておるわけでございます。
昨日YouTubeで真言宗だったかのお坊さんが全国托鉢行した話を視聴して、結構、よかった。
南無阿弥陀仏という、そこに、仏があるわけではなく、その対象によって、自己の心の側に、仏が現成してくる。
つまりこれは、いまここに、いる、その、いまここが実物としての仏なのではなく、その行いを通して、自己の心の側に生まれてくる変性。
つまり透き通る、その、自由こそが仏なのである。
主体が、対象とひとつであるときに、対象も主体も、なくなるのだが、しかし、そこに体験は、きちんとあるのである。
それを言葉で説明するのは非常に難しい。
たとえば、僕がよく、最近感じた、円鏡の世界の淵に、五感による潜在世界があり、その黒の中の光を見る。
という超絶マニアックな認識にしても、その認識も、また、それは問題ではないのだ。
ただ、それが、そう現れて見えているだけである。
そこから、起点を作って、あーだこーだ始めると、またしても光は消える。
つまり、どのようなものがイメージとして浮かんできても、対象は、関係が無いのだ。
その南無阿弥陀仏や、光明がもたらす、こちら側。
つまり己の側の消失具合が、仏の慈悲とか、愛とか、祈りとか、様々な宗教体験の肝なのである。
だから、これこれという、具体が大切なのではない。
庭の柏の樹。
そこに仏がいるわけではないのだ。
それを見ている己。
その己のありようが、疑いの中からポンと連れ出される。
その己を奪うこと。
それこそが仏道の本懐であるということを実地の効果として実現したのがそれである。
だからして、賊機ありという言葉を付け加えた人の、理解の幅の凄さが際立つのだろう。
つまるところ、悟りなどというものはないのだwwwwwww
この事実の中で、常に、新たな世界を生きている、その空白の自己の側が、悟ったのだ。
具体的に、これが悟りなどと指示されるものなど、何もないのである。
過激に言えば、只管打坐も悪人正機も、本来的に言えば、価値などないのである爆笑
その、行為自体には何もなく、それがもたらしたもの、つまり、己こそが悟りそのものなのだ。
だから日常、この日常で、どのようであるかだけが大切なのである。
どのようにあるというのは優れているとか劣っているとかいう価値判断の話ではない。
根本にある慈悲の雨に、つながっているかだけなのである。
何が起こっても、それは、この仏の中からははみだしはしない。
絶対に!
て、ことで仕事行ってきますwwwwwww
またね!