♦️879『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1992~2018)

2018-04-02 20:36:33 | Weblog

879『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1992~2018)

 朝鮮半島は、朝鮮戦争での休戦ラインを挟んで北と南とで対峙する様になって以来、同じ朝鮮民族同士で軍事的ににらみあってきている。朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」という)は、南の大韓民国(「韓国」という)に長距離砲の軍門を並べでいる。南の方も、北に向かっての戦争に備えている。そして韓国軍の後には、在韓米軍が控えている。米韓は、自分達が取り組んでいるのは北の脅威に対抗しての共同防衛の陣を敷いているのだという。
 1992年、南北の間で非核化宣言がなされる。「核兵器の製造、保有、使用は行わない」とするもので、北朝鮮側のキム・イルソン主席が積極的役割を果たす。翌1993年、北朝鮮はNPT(核不拡散条約)からの脱退の意思を明らかにし、国連の安全保障理事会(「安保理」と通称)では、NPTへの復帰を要請する。1994年には、アメリカと北朝鮮の間で、核兵器開発の凍結と原子力発電所・軽水炉の提供についての合意が成ったものの、その後に話は破綻になってしまった。1998年には、北朝鮮が長距離弾道ミサイルのテポドンを発射した。
 北朝鮮に対する安保理による制裁決議の採択は度々にわたる。その理由とされる北朝鮮の軍事行動はだんだんと高度化していく。2000年には、アメリカのクリントン大統領が予定していた北朝鮮への訪問を諦める。2002年には、アメリカのブッシュ大統領が、北朝鮮などを「悪の枢軸」と発言する。2003年、北朝鮮がNPTからの脱退を再度宣言したことで、米朝の協議か暗礁に乗り上げた形になると、北朝鮮のさらなる軍事行動をくいとめるべく6か国(中国が議長で米韓日ロが参加)による協議が開始となる。
 2005年、北朝鮮が「自営のための核兵器製造」を表明する。これに対し、6か国協議による共同声明が出される、その中で核兵器の放棄と北朝鮮の不侵略で求める。同年、6か国協議がまとまり、北朝鮮のキム・ジョンイル総書記が「すべての核兵器と検討計画を放棄する」ことを表明する。
 2006年7月、北朝鮮は弾道ミサイル7発を撃ち、10月には1回目の核実験を行う。これを受けて国連安保理が動く。加盟国に北朝鮮への大型兵器や贅沢品の輸出禁止を求めることを決める。これが、安保理による北朝鮮への最初の制裁措置に踏み切った時であった。2009年6月、安保理において北朝鮮への制裁の拡大を打ち出す。具体的には、すべての武器の禁輸、制裁履行の監視強化の決定が行われた。こちらの制裁の原因となったのは、2006年10月の1回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定0.8キロ・トン、ちなみに広島に投下された原爆の規模は同15キロ・トン)、2009年5月の2回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定3~4キロ・トン)などであった。
 2012年4月には、国連安保理において、北朝鮮の核・ミサイル開発への議長声明が出される。2013年1月、ミサイル発射に関与した4個人6団体の資産凍結が行われる。制裁の原因となったのは、2012年12月には、弾道ミサイル・テポドン2改良型が発射された。そして2013年2月に北朝鮮が3回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6~7キロ・トン)を行うと、国連の安保理は、3月にこれの制裁として核ミサイル関連貨物の検査を義務化する。この年、北朝鮮のキム・ジョンオン委員長は、「経済建設と核開発を同時に進める」との並進路線を表明する。
 2016年3月、北朝鮮からの鉱物資源の禁輸・制限措置が決定される。この制裁の原因となったのは、同年年1月の4回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6キロ・トン)と弾道ミサイルの発射であった。続いての9月には、北朝鮮による5回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定10キロ・トン)があった。2016年11月、これらに反応した国連安保理が、それまで民生用に限り認めてきた北朝鮮からの石炭輸出に上限を設定する。
 2017年2月12日、北朝鮮は新型中距離ミサイル「北極星2」を発射する。3月6日、中距離「スカッドER」4発が発射される。5月14日、中距離「火星12」を発射した。21日には「北極星2」を発射、29日にもミサイルを発射する。6月、ミサイル開発に関与した14個人4団体の資産を凍結する。こちらは、5月に2回目の弾道ミサイルの連続発射があったことへの制裁措置となっている。
 さらに、7月4日と28日に大陸間弾道ミサイル(ICBM、「火星14」)発射がある。これに対し、8月の国連安保理で石炭や鉄鉱石それに海産物の同国からの輸出を例外なく禁止する措置(禁輸)を発表する。新規の北朝鮮労働者の受け入れ禁止も決めたのだといわれる。この場では、米国などが当初求めた軍事目的の石油の取引制限を主張したのであったが、これに穏健派の中国とロシアが反対したため、同決議には盛り込まれたなかった。
 8月21日からは、米韓による共同軍事演習「乙支(ウルチ)フリーダム・ガーディアン」が始まった。この軍事演習においては、グアム島にいる米軍のB1戦略爆撃機が参加することも含まれるという。8月26日、短距離弾道ミサイル3発が発射される。続いて29日、弾道ミサイルが発射され、日本上空を通過し太平洋上に落ちた。グアム島のアメリカ軍基地に届く飛距離をねらっての発射だとみられる。
 これに対し、国連安保理の議長名で北朝鮮を非難する決議を出す。アメリカや日本が北朝鮮に対し石油禁輸も含めた最大限の対抗措置をとるよう働きかけ、中国とロシアは北朝鮮を挑発している米韓軍事演習の中止も求める。9月3日には、北朝鮮は6回目の核実験(TNT火薬換算の規模は日本政府の推定で70キロ・トンとも)を行い、これを「水爆」だと主張する。
 2018年に入ってからは、中国も入っての北朝鮮へのかつてない厳しい経済制裁が続く。そんな中、情勢を大きく変える動きがあった。北朝鮮のキム・ションオン委員長が、これまでの経緯から一転、韓国とアメリカへ向け、事態打開のための首脳会談を呼びかけたのだ。3月末には、彼は中国を急遽訪問し、交渉での後押しを頼んだとみられる。4月27日には、南北の首脳会談が予定されている。
 さてもさても、21世紀に入ってからは、この両者の力関係に大いなる変化が認められる。その一つは、北朝鮮の核武装化がひとまず成功した、とみられることだ。大陸間弾道ミサイル(ICBM:intercontinental ballistic missile)の開発がかなり進んだことになっている。これには、隣国のロシアが開発をひとまず完了したとの確認情報を入れているところだ。
 今ひとつは、アメリカはアメリカ本土を攻撃できる兵器を認めたくない。一方、これを機に米軍と韓国軍との戦闘能力の一体化が進みつつある。こうなると、互いの非難合戦が果てしなく続くことになろう。互いにか、どちらかからか、この動きをとめないと事態はエスカレートしていくばかりであろうにと、世界の世論がこれを心配するのは当然のことだ。双方とも、このまま一触即発の事態となることを望んでいる訳はではあるまい。その先にあるのは戦争でしかない。そして戦争というものは、偶発的に起きることがあることから、互いの自制が求められる。
 国際的な核兵器の拡散が進む中、21世紀に入っての国対国での局地戦の特徴は、核兵器の使用が絡んでくることであろう。これには、通常兵器で武装した勢力が、原発など原子力施設の攻撃を計画する場合を含む。朝鮮半島の有事とて、その例外ではない。ちなみに、北朝鮮の核兵器の保有能力については、韓国側の現状認識として、例えば次の紹介記事がある。
 「韓国国防白書(2016年版)によれば、北朝鮮は兵器用プルトニウムを50キロ以上保有。北朝鮮の技術力があれば、プルトニウム4~6キロで核兵器1個を製造可能だとされる。高濃度ウラン型と合わせ、20年までに計50個の核弾頭を保有するとの指摘もある。化学兵器や生物兵器も保有する。」(朝日新聞、2017年4月16日付け)
 ついては、自国領土に飛来してくるICBMを撃墜できるかどうかであるが、現段階で確実なことは何も言えないという。迎撃をとる場合の技術面で最も難しいのは、当該弾道ミサイルの終末局面(ターミナルフェイズ・大気圏再突入から着弾期)なのだという。音速の20倍からの速度でほぼ垂直に落下してくる核弾頭を迎撃ミサイルでもって撃ち落とす実験を、アメリカ度々行っているという。とはいうものの、成功率は公式報道されているほどには、そう高くないのではないか。しかも、演習では、某かの情報が前もって知れている上、単独弾頭に対応して行うものであり、いわば「模擬実験」のようなものである。それなので、これまでの迎撃システム・技術が、実戦で発射される場合の核弾頭の迎撃にどれほど役立つかは技術的に未知数であると言わねばならないだろう。
 これらから、今回の和平進展への転換が行われれば、政治的にも、軍事的にも、それから北朝鮮の経済困窮についても、何らかの改善が期待されるのである。

(続く)

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♦️174『自然と人間の歴史・世界篇』キリスト教学における利子の肯定

2018-04-02 09:42:44 | Weblog

174『自然と人間の歴史・世界篇』キリスト教学における利子の肯定

 アンジェラ・オルランディ(フィレンツェ大学准教授)によると、「利子が公認されるのは1745年のローマ教皇ベネディクト14世による回勅(かいちょく)の後」(NHKテレビ放送番組「欲望の経済史」2018年1月31日放送による)だという。彼女が示した当時のフィレンツェでの史料などの中には、つぎのような文言のものがあるといわれる。
 「5%を超える金利を禁じる。違反した場合、元金が没収され制裁金が科される。」
 次には、宗教書からこれを紐解いてみよう。旧約聖書の「律法」の中においては、利息についての規定が、さしあたり3か所見つかったので、紹介しよう。
 「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。」(出エジプト記22章24節)
 「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。」((レビ記25章35~37節)
 「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。」(申命記23章20~21節)
 それでは、新約聖書では金銭貸借については、どのように書かれているのであろうか。イエス・キリストの言葉から、二つを紹介しておこう。
 「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」(ルカによる福音書6章34節)
これにあるのは、貸した金(カネ)に見返りを求めるなという戒めであって、キリスト教徒たるもの、利子を取るというよこしまな欲望に身を任せるなというもの。
 それでも、世の中の商取引習慣そのものを無視することはできにくかったものとみえ、こんな下りもある。
 預かった一タラントをそのまま返そうとした僕に対して主人は、「わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。」(マタイによる福音書の「タラントのたとえ」)
 それから時代は大きく下っての16世紀、宗教改革が起こって、キリスト教学に世の中の現実に目を向けることになっていく。新教徒たらんととするカルヴァンは、フランス国王が新教を禁止し始めたため、スイスのバーゼルという町に逃げ、そこで『キリスト教綱要』(初版1536、最終版1560)という本を著す。
 「もし、われわれが天を自分の祖国であると信じるならば、自分の富を、突然の移住によってわれわれから失うようなところにとどめておくよりも、むしろ天に移しておくべきである。しかし、どうすればそれを移せるであろうか。それには貧しい人々の窮乏にほどこせばよい。主はこの人たちにほどこされたものを、御自身に捧げられたものとみなしたもう。(マタイ25:40)」(『キリスト教綱要』3篇18章6)
 「われわれが隣人愛の義務にもとづいて、兄弟たちのために役立てるすべてのものは、主の御手に託せられる。」「主は忠実な保管者として、いつの日にかおびただしい利子をそえて、われわれにそれを返したもう。」(前掲)
 この彼の示した宗教上の新地平は、フランスやオランダ、それからイギリスなどの商工業者の間に急速に広まっていった。

(続く)

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♦️170『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンスの周辺(ブリューゲルとベラスケス)

2018-04-02 09:22:47 | Weblog

170『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンスの周辺(ブリューゲルとベラスケス)

 ピーテル・ブリューゲル(1525-40年頃~1569)は、ブラバント公国(現在のオランダ)の画家。同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多いとのこと。1555年からは祖国で版画の下絵画家として活躍していく。同じ頃すでに伝説の巨匠であったヒエロニムス・ボス風の幻想や奇怪的な作品を制作していく。1563年にブリュッセルへ移住してからは、画風に独自の発展がある。題材としては、聖書の世界や農民の生活、風景などが多くなる。
 代表作の一つに「バベルの塔」があり、旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔のことであろうか。あるいは、紀元前6世紀のバビロンのマルドゥク神殿に築かれたエ・テメン・アン・キのジッグラト(聖塔)の遺跡と関連づけた説もあるようだ。いずれにしても、尋常の沙汰ではない。天に届く塔を建設しようとする人間の激情なり、愚かさを表現したかったのであろうか。二つ目には、ゴルゴダの丘に向かわされる「十字架を担うキリスト」がある。ところが、肝心の主役は画面の中では、眼を皿のようにしないとなかなか見つからない。124×170センチメートルの画面の中に、ゆうに200人はいそうな人並みの中で、一体どこに主題があるのやらと勘ぐってみたくもなる。それでいて、興味が尽きないのは、民衆の顔や格好に表情なり意味ある動きが感じられるからにほかならない。
 もう一つの流れとしての農民画だが、最晩年の1568年のものに「農民の踊り」と「農民の婚宴」がある。そこには平和で陽気な農村風景が描かれている。これを、当時の成人の農民の寿命は大体30代であったというのを重ねると、人々は懸命に生きていたのだと伝わる。農村社会の変化を描くことでも、巧みであった。
 宗教改革の波は確実に押し寄せてきていたらしく、当時の農村は聖書に引きづられる世の中でもあったのかもしれない。ちなみに、1568年には、ネーデルラントにおいて、カルヴァン派がスペインに対して反乱を起こした。これを契機にネーデルラントは、新教・カルヴァン派を中心とした北部諸州(現在のオランダ)とカトリック信徒を中心とした南部諸州(現在のベルギー)に分裂していくことになる。
 これと相当に異なる、どちらかというと、体制側に組み入れられての、「大画家」としての人生を歩んだのが、ティエゴ・ベラスケス(1599~1660)である。かれは、絶対王政期のスペイ南部のセビーリャに生まれる。幼い頃から絵に親しみ、統治の有力画家フランチェスコ・バチェーコに弟子入り、17歳には独立、その娘と結婚を果たす。最初「ボデゴン」(食物や飲み物とともに下層の暮らしを描いた絵)で名をなした。ドラマチックというのではなく、ありふれた題材を選んでいたのではないか。
 その中でも、才能を認められものに、1619年作の「東方三博士の礼拝」と1620年の「セヴィーリャの水売り」(油彩画)が名高い。前者では、マリアとキリストの二人が描かれているが、20歳の作者が家族や親戚の中からモデルを選んだと伝わる。これだと権威が感じられないかわりに、親しみが増す。当時のカトリックがプロテスタントの偶像崇拝反対に対し、厳格さを感じさせない宗教がを暗に求めていたゆえなのであろうか。それはともかく、その二人の隣にいるヨセフや博士たちは、どこにでもいるような柔らかな表情にして、これまた薄暗がりの中に浮き上がっている。光と影とのコントラストの手法は、すでに始まっているようだ。
 また後者では、その前景にあるのが大きな壷で、その表面には水のしずくが生々しい。人物について、道端で水を売っている老人には、特別の意味がこめられているのではないか。貧しい老人なのに、なぜか気高い人物のように描かれている点でも、もはや老練の境地にいたった筆遣いというところか。
 23歳の若さで国王フェルペ4世の宮廷画家となり、故郷セビーリャからマドリードに活動の拠点を移す。「フェルペ4世の肖像」には、王のぎらりとした眼差しにその性格を浮き彫りにさせている。この王の庇護は絶対的なものとなり、本人は得意の絶頂への道を上っていくのであった。その間、22歳年上のルーベンスとも親交を結び、大いに刺激を受けるなど、交友も盛んになる。後の印象派の草分けとされるエドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだのには、明暗の中の人々があたかも生きているかのごとく、その息遣いさえ感じられる。
 1629年から31年にかけて、1回目のイタリア旅行を行う。ルネッサンスの巨匠たち、とくにティッツィアーノやヴェロネーゼ、ティントレットといった人たちから影響を受けたといわれる。イタリアから帰国して数年後に、ベラスケスの最高傑作のひとつといわれている「ブレダの開城」を描く。これは、どんな依頼によって描かれたのかはともかくとして、オランダ側がスペイン側に開城の印しに、城の鍵を渡しているのだというのだが。宮廷にいる人々の肖像画などには自身も登場させたりしているらしく、自己の才能というものに大いに自負するところが大きかったのではないだろうか。

(続く)

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